表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

64/66

最後の手紙


朝の裏工房は、昨日までより少しだけ静かだった。


静かといっても、何も起きていないわけじゃない。

ダレスの呼吸はまだ重い。だが、昨夜の底を打つような重さとは違う。

レトは目を開けたまま、黙って天井を見ている。考えている目だ。

サナは起きていて、背筋を自分で保っている。

ノアはもう自分で器を持てる。指の震えは残るが、水面が揺れない程度まで戻った。


四人とも、戻る側にいる。


その違いは、朝の呼吸の音で分かった。


蝋燭は短くなっていた。

昼の光に押されて、炎はほとんど見えない。

でも、まだ消さない。

消せるのは、ここが臨時でなくなってからでいい。


私は記録紙をめくった。


ダレス――重、継続。

レト――中、会話刺激有効。

サナ――軽、帰宅可。

ノア――軽、短時間観察で可。


そこへ、新しい一枚を足す。


布札運用、初日。


白。

黄。

赤。


布の長さ。

結びやすさ。

ほどきやすさ。

汗で色が沈まないか。


薬ではない。

処方でもない。

でも、今はこういうものの方が先に人を分ける。


---


「それ、向こうで回り始めてる」


裏口から入ってきたカイルが言った。


片手に布束を持っている。

白い細布。薄い麻。赤は古い祭礼布を裂いたらしい。端だけが少しだけ派手だった。黄は染める時間がないから、乾燥薬草の染みがついた淡い布で代用している。


「市場は?」


私が訊く。


「白が増えた」


カイルは布束を机に置いた。


「自分で来るやつが増えた。倒れる前にな」

「赤はまだ少ねぇ。でも、ゼロじゃねぇ」


私は頷いた。


ゼロではない。

ゼロになるなら、こんな手順は最初から要らない。


「聖堂は」


「ベルノが切ってる」


カイルは短く答えた。


「顔は最悪だったけど、順番は守らせてた」

「リオも動いてる」


表では、商会の音がしている。

荷札。包み紙。値段を言う声。

それに混じって、今日は布を裂く音もしていた。


言葉が歩いた。

次は、色が歩く。


---


昼前、サナに白札を外した。


手首に巻いていた白い布を解く。

サナの手首は細い。布の跡が少しだけ赤く残っていた。


「気をつけてね」


私は言った。


「水は少しずつ。眠くなったら、座ったまま目を開けて」


サナは頷いた。

頷き方がしっかりしていた。


「ありがとうございます」


小さく言って、表へ出ていった。

戸が閉まる。

裏工房の人間が一人減った。


減ったのは、良いことだ。

手順が機能した証拠だ。


ノアの母親は昼少し前に来た。

昨日と同じ買い物籠を提げている。今日は中身が入っていた。


「元気そうだね」


ノアの顔を見て、母親が言った。

声が昨日より柔らかい。


ノアは少し照れた顔をした。

それができるなら、もう心配は要らない。


「白い水は止めて」


私はノアではなく、母親に言った。


「飲ませないで。眠そうでも、寝かせないで」


母親は一度だけ力強く頷いた。


「分かってる」


その声には、昨日の「今なら間に合うのね」の続きがあった。


二人が出ていく。

裏工房の人間がまた一人減った。


ダレスとレトだけが残る。

蝋燭の炎が、少しだけ揺れた。


---


それから少しして、ベルノが来た。


今日は昨日より服が整っている。

整っているが、疲れていないわけではない。

目の下が暗い。頬の肉が少し削れて見える。


リオも一緒だった。

昨日より目の位置が違う。床ではなく、人を見ている。


「南棟は回り始めました」


リオが言う。


「白札は手前で戻して、黄は別に座らせて、赤だけ奥へ」

「まだ混乱はあります。でも、昨日よりずっと」


そこで言葉を切る。

報告は、そこがちょうどよかった。


ベルノが紙を一枚差し出した。


「昨日の夜から今朝までの記録です」


受け取る。

聖堂側の字で、白札、黄札、赤札の人数が並んでいる。

まだ粗い。だが、数字として読める形にはなっていた。


「白が多いわね」


私は言った。


「気づいた人間が増えたからです」


ベルノが答える。

声は乾いていた。


「ただ」


ベルノの指が、紙の下の方を叩く。


「赤札のうち、二名は昨夜の時点ですでに深く沈んでいました」

「朝までかかって、ようやく浅い方へ戻りましたが……まだ重い」


リオの顔がわずかに強張る。


「薬が必要ね」


私は言った。


「ええ」


ベルノが答える。


「手順だけでは、ここから先は届かない」


その言葉は、昨日までのベルノなら出なかっただろう。


「ルミナは」


私は訊いた。

ルミナ。南棟の前任の薬務担当。静穏水の処方量を最初に決めた人間だ。


ベルノは少しだけ黙った。


「南棟の奥で働いています」


短かった。


「表には出していません」

「今は、出せないでしょう」


私は頷いた。

それで十分だった。


「王太子は」


今度はリオが答えた。


「西棟の配給線と、北側の治安整理へ」

「昨夜も戻っていません」


それも、たぶん本当なのだろう。

アルベルトは今、眠るより先に並べることがある立場だ。


私は記録紙を閉じた。


「分かったわ」


---


そう言った時だった。


表の方で、戸を叩く音がした。


一度。

間を置いて、もう一度。


強くない。急いでもいない。

でも、ただの客ではない叩き方だった。


私は表へ出た。


戸の前に立っていたのは、顔を見せないように外套の襟を立てた使者だった。

名乗らなかった。

封を一つ差し出して、受け取ったのを確認すると、何も言わずに背を向けた。

足音が遠ざかる。振り返らない。


名乗る必要のない届け方だった。

届けばいい。

届いた後は、存在を消す。


---


応接机の上へ置いた封は、思っていたより地味だった。


王家の紋はある。

でも、金は使っていない。

封蝋も深い赤ではなく、くすんだ色だ。

見せるための封ではない。

届けばいい封だ。


その端に、小さく一行だけ添えてある。


――最後の手紙


私はその文字を見た。


「開けるか」


カイルが言う。


「開けるわ」


私は答えた。


「でも今じゃない」


ベルノとリオが、わずかに視線を上げる。


「どうしてです」


リオが思わず訊いた。


私は封から目を離さずに言う。


「今開けたら、ただの感情になるもの」


ベルノは何も言わなかった。

その沈黙のまま、一度だけ小さく顎を引いた。


「午後の記録を先に」


私は机の横へ封を置いた。

見えないところにはしまわない。

見えるところへ置く。

でも、手元には置かない。


「白札の戻り時間と、赤札の沈降深度」

「先にそっちを揃える」


カイルが小さく息を吐く。


「お前、そういうとこほんと徹底してるよな」


紙を引いた。

手は動かす。


---


午後は、数字の方が先に進んだ。


白札は市場で戻る率が高い。

黄札は座らせる場所が足りなくなる。

赤札は、深く沈んだ者と、戻りかけの者で明らかに脈が違う。


教授も戻ってきた。

足音で分かる。急がない。でも寄り道もしていない。


工房に入るなり、応接机の封を一瞥した。


「王太子の手紙だろう」


最初に言ったのがそれだった。


「ええ」


私は答えた。


「なら、読まない方がよかったかもしれない」


私は顔を上げた。


「どうして」


教授は少しだけ肩を竦めた。


「贖罪は時々、受け取る側の足を止める」


正しい。

だから先に数字を見ている。


「分かってるわ」


私は短く答えた。


教授はそれ以上は言わなかった。

その代わり、赤札の記録を黙って机へ足した。


カイルは市場へもう一度出て、戻ってきて、今度は何も言わずに壁際へ座った。

疲れているのだろう。

でも、目は閉じない。


ベルノとリオは夕方前に聖堂へ戻った。

戻る前、ベルノが一度だけ封を見た。

それから私を見た。


「……最後、ですか」


「そう書いてあるわ」


ベルノは少しだけ口元を動かした。


「終わるといいですね」


それだけ言って、出ていった。


---


日が落ちてから、ようやく封を開けた。


工房ではなく、応接机で。

裏工房ではない。商会の奥でもない。

中途半端な場所だ。

だからちょうどよかった。


カイルは少し離れた場所にいた。

見ないようにしている。

でも、封蝋をナイフで割った時、カイルの指が一瞬だけ膝の上で止まった。


封蝋が割れる音は小さい。

拍子抜けするほど小さい。


中の紙は二枚だった。

契約書ではない。更新書でもない。

本当に、ただの手紙だ。


私は一枚目を開いた。


字は整っている。

前からそういう字を書く人だった。

自分が崩れている時ほど、字だけは整える人だ。


読む。


長くはなかった。


謝罪。

感謝。

自由を縛らないと誓うこと。

二度と私の人生に名をつけないという約束。


たったそれだけだった。


最後の一行だけ、少しだけ長かった。


『赦しはいらない。ただ、君が自由であることが、私の贖罪だ。』


私はそこを、もう一度読んだ。


もう一枚は、実務だった。

王国側の供給契約の現状報告が短く記されているだけだ。

数字と日付と、経路の変更点。

個人的な願いも、会いたいも、戻ってほしいも、一文字もない。


そこだけは、少しだけ見直した。


「どうだ」


カイルが訊く。

声は低い。こちらを見ないまま訊いている。


私は紙を畳んだ。


「赦しを求めてない」


「なら、まだましだな」


「ええ」


その返しがちょうどよかった。


「燃やすか」


カイルが言う。


私はしばらく黙った。


蝋燭の火はまだある。

でも、燃やしたところで、なかったことにはならない。

残したところで、戻るわけでもない。


「残すわ」


やがて私は言った。


カイルが少しだけ意外そうな顔をする。

壁から背を離して、初めてこちらを見た。


「意外だな」


「契約書とは別の箱に入れるだけよ」


私は答えた。


「感情は契約できないもの」


その言葉は、思っていたより静かに出た。


カイルは何も言わなかった。

何も言わないまま、視線を外す。


私は手紙を折り直した。

丁寧に。

雑には扱わない。

でも、大事にも扱わない。


机の引き出しを開ける。

契約書の箱ではない。

記録紙の箱でもない。

そのどちらでもない、一番下の浅い箱。


そこへ入れる。


閉める。


手紙は残した。

関係は残さない。


---


夜、裏工房へ戻ると、ダレスは眠っていた。

呼吸が深い。肩が緩んでいる。

普通の眠りだ。


レトも静かだ。

サナはもう帰した。

ノアも、母親が迎えに来て連れて帰った。


蝋燭は、ようやく短くなっていた。


私はダレスの脈を一度だけ取った。

浅い方で打っている。指の下に、確かに届く。


それから火へ手を伸ばした。


ふっと消える。


裏工房が暗くなる。

ダレスの寝息が聞こえた。

レトの呼吸が聞こえた。

窓の外で、夜の虫が一匹だけ鳴いていた。


私は戸口で一度だけ立ち止まった。

振り返らず、そのまま戸を閉めた。


---


メーター:資金 通常販売の細り進行→緊急対応優先で維持/疑念 商会主導の対応が街に浸透→聖堂との協力体制が可視化/執着 距離固定→手紙による関係の形式的終結/支配 布札トリアージの運用開始→手順の街内運用化


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ