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聖女の最後の抵抗


昼の王都は、祈りのために整えられていた。


白布。

祭壇。

光を受けるために磨かれた石床。

聖堂前の広場には、人が多すぎた。


多すぎる人は、信じたい時と責めたい時で、立ち方が少しだけ違う。

今日の広場に集まった人間は、その両方の顔を持っていた。


信じたい。

でも、もし駄目なら誰かを責めたい。


そういう時の群衆は、静かだ。


ルミナは祭壇の前に立っていた。


白い法衣。

胸元の細い銀糸。

祈りのための手袋。

光を返すための髪飾り。


全部、正しい。

全部、ここに立つ聖女候補として相応しいものだった。


なのに、手のひらの真ん中だけが、光を通す前の重さを持っていた。


怖いからではない。

怖いと認めたら、この場に立つ理由が自分の中から崩れる。

だから違う名前をつけるしかない。


これは責任だ。

そう思うことにした。


聖堂の階段の下で、若い神官たちが最後の導線を確認している。

医師もいる。

補助の術者もいる。

担架まである。


奇跡の舞台に、最初から担架がある。


そのこと自体が、もう答えみたいだった。


「ルミナ様」


背後から声がした。


振り返る。

エミリアだった。

顔色が悪い。

けれど、笑おうとしている。

笑わないと立っていられない人間の口元だった。


「皆、見ています」


それは励ましではなかった。

事実だった。


階段の下。

広場。

窓。

周囲の建物の影。

全部に視線がある。


見ている。

待っている。

祈りが届く瞬間を。

あるいは、届かない瞬間を。


ルミナは小さく頷いた。


「ええ」


声は思っていたより普通だった。


「だから、やるの」


やるしかない。

ここで引けば、正義は昨日の時点で死んでいたことになる。

それだけは、まだ認めたくなかった。


---


最初に運ばれてきたのは、北区の若い護衛だった。


まだ若い。

肩幅はある。

だが今は、その肩が呼吸のたびに細かく上下している。


寝台に横たえられる。

布が敷かれる。

神官が下がる。

医師が頷く。


広場が静まり返る。


ルミナは一歩、前へ出た。


光を集める時、手の形には癖がある。

人によって違う。

ルミナは両手を少しだけ開き、指の間を狭くする。

それが一番、無駄なく光を通す。


白い光が落ちる。


細く。

まっすぐ。

昼の下でも分かるくらい澄んだ光だった。


ざわめきが少しだけ揺れる。

人は、見たことのある奇跡にすがる時、まず静かになる。


護衛の熱が引く。

浅い震えが収まる。

呼吸も一度だけ深くなる。


「おお……」


誰かが漏らした。


期待の声だった。

まだ何も終わっていないのに、もう届いたような顔をしている。


ルミナはそのまま光を重ねた。


もう一度。

さらにもう一度。


護衛の瞼が少しだけ動く。

指先も、さっきよりはましに見える。


だが。


分かる。


届いているのに、埋まっていない。


熱は引く。

震えも薄くなる。

でも、身体の奥で渇いている場所だけが、まるで別の穴みたいに残っている。


ルミナの喉が少しだけ詰まる。


やめるわけにはいかない。

ここで手を止めたら、今の沈黙が別の意味を持つ。


だから続ける。


「光よ」


小さく言う。


「どうか、届いて」


祈りの言葉だった。

だが半分は、自分に向けていた。


護衛の唇が少しだけ動く。


「……水」


その一語だけが、広場へ落ちた。


白い光の下で。

奇跡の真ん中で。

出てきたのがその言葉だった。


ざわめきが広がる。


小さい。

だが、一度生まれたざわめきはすぐに形を持つ。


「違うのか」

「まだ足りないだけだ」

「もっと光を」

「聖女様なら――」


ルミナは聞こえないふりをした。


聞いたら、手が止まる。


---


二人目は、南区の商会補佐だった。


三人目は、神官寮の若い司祭。

四人目は、貴族街の侍女。


順番に運ばれる。

順番に光を受ける。

順番に、熱と震えだけが少し引く。


そして、順番に同じ空白が残る。


「どうして……」


誰に向けたものでもなく、ルミナは小さく漏らしていた。


医師が顔を上げる。

神官も。

群衆も。


その一言は危ない。

聖女が分からないと言った瞬間、奇跡は半分死ぬ。


ルミナは唇を噛んだ。


まだ終わっていない。

終わっていないはずだ。


「次を」


短く言う。


だが、運ばれてきた五人目は寝台に乗る前から泣いていた。


年嵩の女だった。

泣いているのに、涙より先に喉を押さえている。


「お願いです」


寝台へ横たえられる前に、女は言った。


「本物を……」


広場が静まる。


その静けさは、祈りの静けさではなかった。

聞いてはいけないものを聞いた時の静けさだった。


ルミナは何も言えなかった。


本物。


その一語が出た瞬間、今まで「病」「呪い」「浄化不能」で包んでいたものの下にある現実が、広場へ顔を出してしまう。


医師が慌てて口を挟む。


「錯乱です!」


だが遅い。

群衆は一度見えたものを、簡単には元の白へ戻さない。


「本物って何だ」

「やっぱり赤じゃないのか」

「じゃあ聖女様は何を浄化してるんだ」

「効いてないじゃないか」


声が少しずつ増える。

声量ではない。

数だ。


ルミナは手を上げた。


「静かに」


声を張る。

でも、それは前のようには広場を止めなかった。


一度、疑いの顔をした群衆は、もう祈りだけでは整列しない。


「まだ終わっていません」


言う。

それも正しい。

まだ本当に終わってはいない。


でも、その言葉に寄ってくる視線の熱は、もう信仰ではなかった。


結果を出せ。

今ここで。

すぐに。


そういう熱だ。


---


壇上の端で、アルベルトはそれを見ていた。


止めなかった。

止められなかったのではない。

昨日、自分で「やらせろ」と決めたのだ。

なら最後まで見届けるしかない。


見届ける。

その言葉は綺麗だ。

だが実際には、誰かが壊れるのを止めずに立っていることとよく似ている。


ルーカスが一歩だけ寄る。


「殿下」


「言うな」


アルベルトは低く返した。


今ここで止めれば、聖女は未遂のまま残る。

未遂の希望は、あとで何度でも祈り直される。

終わらせるなら、今日ここで折るしかない。


そう決めたのは自分だ。


だから見ている。


ルミナはまだ光を重ねていた。

一人ずつ。

少しずつ。

でも、埋まらない穴だけは残り続ける。


その様子を見ていて、アルベルトはふと気づく。


あれは治療ではない。

速度を落としているだけだ。


胸の奥が嫌な形で冷えた。

同じだ。


聖女の光まで、同じ場所へ落ちる。

祈りも、奇跡も、結局は配分の中へ吸い込まれる。


ルミナの正義は、今、広場の上で実務へ変わりかけている。

しかも、もっと悪い形で。


---


「もう一度!」


誰かが叫んだ。


群衆の声だった。


「もっと強く!」

「聖女様なら出来る!」

「救ってくれよ!」

「何のための聖女なんだ!」


ルミナはその全部を真正面から浴びていた。


髪飾りがまだ光を返していた。

整っているのに、中に立っている自分だけが、少しずつずれていく。


「光よ――」


もう一度、手を上げる。


今度は強く。

前より多く。

少し無理に近い量で。


光が広がる。

広場に白が満ちる。


一瞬だけ、皆が息を止める。


そして。


何も変わらない。


倒れていた女は、やはり喉を押さえたままだった。

護衛も、司祭も、汗の薄れた顔で息をしているだけだ。

立ち上がらない。

戻らない。

埋まらない。


静寂が落ちる。


今度こそ、本物の静寂だった。


その静寂は短い。

短いが、落ちた瞬間に広場の意味を全部変える。


「……効いてない」


誰かが言った。


小さかった。

けれど、たぶん今日いちばんよく通った声だった。


「聖女でも無理なのかよ」

「じゃあ、誰が救うんだ」

「救えるって言ったじゃないか」

「こんなの、ただの光じゃないか」


ただの光。


ルミナの指先が、そこで初めてはっきり震えた。


違う、と言いたかった。

違わない、とも言えなかった。


光は落ちた。

熱も引いた。

震えも少しは収まった。


だから全部が嘘ではない。

でも、欲しかった形では、何一つ届いていない。


それが一番残酷だった。


広場の端で、一人の女が泣き崩れた。


「じゃあ、うちの人は……」


その一言で、群衆の空気がまた変わる。


責め先を見つけた時の空気だ。


「聖女様が救うんじゃなかったのか」

「祈れって言っただろ」

「待てって言っただろ!」

「その間に何人倒れたと思ってる!」


昨日までは「聖女様」だった。

今日はもう、「お前」に変わりかけている。


ルミナは一歩だけ下がった。


それだけで十分だった。

群衆はもう、その一歩を見逃さない。


逃げた。

迷った。

届いていないことを、自分でも知っている。


そういう意味が、一瞬で貼りつく。


「違う……」


小さく漏れる。


誰に向けたものでもない。

でも、その声は自分の耳にいちばんよく響いた。


違う。

私のせいじゃない。

もっと前から、もう壊れていた。


そう思う。

思うのに、今ここで立っているのは自分だ。

光を見せると約束したのも自分だ。


「ルミナ様」


エミリアが壇の脇から駆け寄ろうとする。


ルミナは首を振った。

来ないで、と言うかわりに。


来られたら、崩れる。

今はまだ、それだけは嫌だった。


だが、もう遅い。


「……私のせいじゃない」


気づけば、口から出ていた。


広場が静まる。


その静けさは一瞬だった。

一瞬で、もっと悪い形へ変わる。


「は?」

「今なんて?」

「自分で言ったのか?」

「じゃあ誰のせいなんだよ!」


ルミナは自分の口を、今度こそ本当に押さえた。

でも、出た言葉は戻らない。


---


アルベルトが、そこで初めて顔を歪めた。


見ていられない。

だが目を逸らす資格もない。

これもまた、自分がやらせた終わり方の一つだ。


ルーカスが低く言う。


「殿下、下がらせますか」


アルベルトは数秒だけ黙った。


そして言った。


「……終わった」


その声は静かだった。

静かだが、広場のどの罵声より重かった。


「下がらせろ」


---


夜、聖堂の奥の小部屋は、昼の広場よりずっと狭かった。


狭い部屋ほど、人は自分の声から逃げられない。


ルミナは椅子に座っていた。


白い法衣は脱いでいない。

脱げなかったのだろう。

脱いだら、本当に何かが終わる気がしたのかもしれない。


手は膝の上。

光を通したはずの手だけが、まだ鈍かった。


部屋の隅に置かれた洗面鉢の水は静かだった。

誰もそれを使わない。

顔を洗ってどうにかなる日では、もうなかった。


扉が開く音がした。

誰かが立っている。


ルミナは顔を上げなかった。


今は、誰の顔も見たくない。

見れば、自分がどんな目で見られているか分かってしまう。


もう一度、同じ言葉が喉まで来た。

でも今度は音にならなかった。


声にできない方が、本当のことに近い気がした。


そのまま、肩が落ちた。


泣かなかった。

泣く方がまだ綺麗だ。

今夜の崩れ方は、もっと鈍い。


白いものが、ただ白のまま重くなる。

そういう崩れ方だった。


---


メーター:資金 権利固定前夜→変動待ち/疑念 条件拡張→聖女失墜/執着 再訪確定→自壊亀裂/支配 購入側固定→正義無力化


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