表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

52/65

資産と権利


朝の借家は、昨日より少しだけ事務の顔をしていた。


火は落ち着いている。

帳簿は閉じている。

椅子は二つ。

遠い方は、まだ遠いままだ。


三日分の第一便が動き始めたからだろう。

悲鳴の熱が一度だけ引くと、人は次に数字の顔をし始める。


机の上には、昨日の封書が置かれていた。


もう白紙ではない。

書かれた順番。

書かれた不足。

そして、書かせた条件。


紙は一度書かれると、人の顔よりよほど長く本音を残す。


カイルが窓辺で腕を組んでいた。


「今日も来るな」


「来るわ」


私は答えた。


「昨日は時間を買いに来た。今日は、その時間の代金を払う番よ」


カイルが小さく鼻を鳴らす。


「高くつくな」


「当然でしょう」


私は封書を開き、昨日の頁を一枚だけめくった。


安全。

自由。

再断罪禁止。

監視禁止。

第一便。

三日。


そこまでは、もう取った。


今日の話は違う。

生き延びる条件ではない。

勝った者が、二度と奪われないための権利の話だ。


持ち出せなかったものがまだある。

工房器具。

薬学書。

そして、母の調合記録。


あれがなければ、今の帳簿の半分は書けなかった。

私の薬学の原点は、全部あの記録の中にある。


「何から行く」


カイルが訊く。


「資産、名義、通行、関税、外貨」


私は言った。


「順番は?」


「痛い順」


それがいちばん効く。


---


昼前、今度は三人で来た。


アルベルト。

ルーカス。

それと、初めて見る年嵩の男。


痩せている。

背筋だけは妙にまっすぐだ。

王城の人間というより、書類の人間の顔だった。


「法務です」


ルーカスが短く紹介した。


私は頷くだけにした。


呼び方に意味はない。

今日ここへ来た時点で、その男の役目は一つだ。

飲みたくない条件を、法の形へ直すこと。


「座って」


私は言った。


アルベルトはまた、遠い方へ座る。

法務官は一瞬だけ近い椅子を見て、結局立ったままだった。

賢い。

ここで勝手に座る人間は、たいてい話が遅い。


「第一便は届いた」


アルベルトが先に言う。


「指定どおりだ」


「知ってるわ」


私は答えた。


「だから、次へ進める」


昨日と同じ話はしない。

その確認だけで、部屋の空気が少しだけ乾く。


「今日は何だ」


アルベルトが訊く。


「権利よ」


私は封書の新しい頁を前へ出した。


「昨日は、私を縛らないための話だった。今日は違う。私が持つものを、王国が勝手に触れないための話」


法務官の目が、そこで初めて少しだけ細くなる。


聞き慣れたのだろう。

この手の要求を、王都の貴族同士なら何度も。


でも今日は違う。

王国の外で。

王国の側が買う立場で。

追放した相手から突きつけられている。


「まず、資産返還」


私は言った。


「アルヴェイン家で凍結された私名義の金。工房器具。母の調合記録。持ち出せなかった薬学書。全部」


法務官がすぐに口を開く。


「家財と家の記録は、公爵家の管理下に――」


「違う」


私は遮った。


「公爵家のものと、私のものを分けるところから始めなさい」


その一言で、男の声が止まる。


止まる方がいい。

止まらない法務官は、だいたい話を無駄に長くする。


「商会名義の承認。国境外商会としての登録。王都側からの一方的凍結禁止」


間を置かずに続ける。


法務官が今度は前例を持ち出す。


「国外商会の権利を王国が保証した前例は、こちらの記録には――」


「作ればいいわ」


私は言った。


「前例がないなら、今日が一件目になるだけ」


カイルが壁際で、ほんの少しだけ口元を動かした。

笑ったのではない。

痛いところへ入った時の顔だ。


「関税の固定。気分で変えない。王都が苦しいからといって、後から上げない」


法務官が口を開きかけた。


だが今度は、最後まで言い切れなかった。

「それは……」のまま、声が途中で止まる。

法律を持ち出す力も、前例を引く力も、もう一段ずつ落ちている。


「最後に、外貨の自由」


今度はアルベルトの目が動いた。


「王国通貨だけで払わせない。外貨も、金貨も、物納も、こちらが選ぶ」


「そこまで要るか」


彼が初めてそう言った。


私は少しだけ首を傾ける。


「要るわ」


短く答える。


「あなたの国が揺れた時、紙幣の価値まで一緒に落ちたら困るもの」


部屋が静かになる。


それは、誰もが分かっている現実だった。

今はまだ言葉にしていないだけで。


法務官が低く言う。


「……そこまで認めれば、王国は完全に買う側へ落ちます」


「そうよ」


私は答えた。


「国が私を追い出した。なら国が買い戻すのよ」


火が小さく鳴る。


その言葉だけで、部屋の高さが決まった。


アルベルトは顔を動かさなかった。

でも、喉だけが一度だけ動いた。


法務官は違った。

今度こそ、はっきり顔色が変わる。


「そんな条件、飲めるはずがない」


その一言は、法ではなかった。

感情だった。


だから、ようやく本音が出たのだと分かる。


「飲む」


答えたのはアルベルトだった。


短い。

短いが、部屋のどこより重い声だった。


法務官が振り返る。


「殿下――」


「飲む」


二度目は、もっと低かった。


「国が生きるためだ」


それで終わりだった。


貴族の誇り。

法の前例。

王家の面目。

そういうものを全部知った上で、それでも切ると決めた声だった。


少なくとも、昨日よりは話が通る男に見えた。


---


午後、話はもっと細かい場所へ降りた。


返還する資産の目録。

工房器具の所在。

差し押さえを外す手順。

王都側の承認印。

隣国側の登記補助。

国境倉の通行権。


数字。

印。

保管場所。

立会人。


こういう話になると、感情は急に邪魔になる。

だから私は好きだ。


「母の記録は、写しではなく原本」


私が言う。


法務官が顔を上げる。


「原本まで?」


「写しは、あとで抜ける」


短く言う。


「私は抜けない紙しか信用しないの」


それを聞いて、アルベルトがほんの少しだけ目を伏せた。


過去に抜かれた経験が、あの反応を作っている。

そう見えた。


「それと」


法務官が初めて、自分から口を挟んだ。


「原本を返す以上、王都側にも記録の空白が残ります」


「残しなさい」


私はすぐに答えた。


「空白ごと、あなたたちの失策として」


男はそこで口をつぐむ。


嫌なのだろう。

返還すること以上に、抜けた痕が残ることの方が。


「爵位は」


ルーカスが低く訊く。


私は少しだけ考えるふりをした。


考えなくても半分は決まっている。

でも、即答すると、欲しかったように見える。


「返上しない」


私は言った。


法務官の眉が跳ねる。


「追放された身で?」


「追放されたからよ」


私は彼を見た。


「王国が一方的に切ったものを、そのまま“なかったこと”にさせない。残しておく。傷として」


そこは大事だった。


戻るためではない。

王国に都合よく、最初から存在しなかったみたいに処理させないためだ。


「ただし」


私は続ける。


「王都での権利行使はしない。名だけ置く。名だけ置いて、そっちの恥にしなさい」


法務官が言葉を失う。


切った事実を、王国の側へ残すために持つ。

そういう持ち方をされるのが、いちばん嫌なのだろう。


「……記す」


法務官が低く言う。


その声は、さっきより老けていた。


---


夕方、ようやく話が終わりかけた頃、扉が叩かれた。


全員が少しだけ顔を上げる。


カイルが開ける。


外にいたのは若い使者だった。

息が浅い。

走ってきたのだろう。


「殿下」


使者はアルベルトだけを見た。


「王都より急報です」


その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。


また誰か倒れたか。

あるいは第一便が破られたか。


だが違った。


使者は喉を鳴らし、それから言った。


「聖女様が……明日、公開祈祷を行うと」


火が一つ、小さく鳴った。


私は何も言わなかった。


アルベルトの目だけが動く。

ルーカスは、すぐに目を閉じた。

法務官だけが、少し遅れて意味を理解した顔をする。


公開祈祷。


つまり、奇跡を見せるつもりなのだろう。

光で。

正義で。

信仰で。


遅い。

そして、悪い。


「止めますか」


ルーカスが低く問う。


アルベルトはすぐには答えなかった。


答えない。

答えないが、その沈黙の中にもう疲れが見える。


止めれば、聖女を折る。

止めなければ、失敗してもっと大きく折れる。


どちらにしても、もう綺麗には終わらない。


「……やらせろ」


ようやく言った。


「一度、終わらせた方がいい」


その声は、少しだけ古かった。


私はそこで初めて口を開く。


「賢明ね」


使者の顔がこちらへ向く。

一瞬だけ、何か言い返したそうな顔をした。

でも、ここがどこで、誰が交渉の席を握っているかを思い出したのだろう。黙った。


「今止めても、信じたい人は信じる」


私は言う。


「なら、失敗させた方が早い」


部屋が静まる。


法務官は完全に黙り込んでいた。

今日だけで、自分の知っている王国の高さが二度下がった顔だった。


「明日の話は明日」


私は紙へ視線を戻した。


「今日は続きをやるわ。まだ、関税の文言が甘いもの」


それで全員が、ようやく現実へ戻る。


祈祷は祈祷。

崩壊は崩壊。

契約は契約。


混ぜると、全部遅れる。


---


夜、最後の印が押された時には、火が少しだけ低くなっていた。


外の市場の音も、もう薄い。


資産返還。

商会承認。

通行権。

関税固定。

外貨自由。

爵位留置。


紙の束は薄い。

だが、その薄さの中に、王国の屈辱は十分入っていた。


アルベルトが立つ。


来た時より、少しだけ重く見えた。

疲れたからではない。

持ち帰るものの重さが増えたからだ。


「明日、王都で祈祷がある」


彼が言う。


「ええ」


「そのあと」


そこで一度だけ止まる。


「また来る」


私は頷いた。


「椅子は置いておくわ」


それだけでよかった。


アルベルトは何も言わなかった。

だが、その沈黙は前のものとは少し違った。


敗者の沈黙ではある。

でも、もう完全な他人の沈黙ではない。

三日と一束の紙を挟んで、こちらの順番を飲み込んだ人間の沈黙だった。


扉が閉まる。


カイルが長く息を吐く。


「あいつ、法務官の前で全部飲んだな」


「ええ」


私は答えた。


「あの法務官が王都に戻れば、条件は上にも伝わる」


「荒れるな」


「荒れるでしょうね」


それが次の話だ。


私は机の上の遠い椅子を見た。

まだ遠い。

でも、昨日よりはほんの少しだけ、この部屋に馴染んで見える。


それは、向こうが払った痛みの分だけ、場所が現実になったからだ。


外では、鐘の鳴らない夜が続いている。


明日は祈祷。

あの聖女が光を見せる。

届かなかった時、王都の信仰はもう一段下がる。

届いたとしても、構造は変わらない。


どちらにしても、次の値段はまた上がる。


私は新しい帳簿の次の頁を開いた。


公開祈祷後。

聖堂信用変動。

配分再計算。

第二便条件確定。


ペンを取り、四行を書き終えて、閉じた。


明日、王都であの光が最後の形を見せる。

その結果がどう転んでも、次の頁はもう決まっている。


---


メーター:資金 市場接続→権利固定前夜/疑念 履行確認→条件拡張/執着 三日後再交渉→再訪確定/支配 速度管理→購入側固定


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ