聖女の光が足りない
昼前、聖堂の回廊は足音で埋まっていた。
静かではない。
だが、騒いでいるとも少し違う。
人は本当に怖いものの前では、大声を出すより先に足を速める。
ルミナは白い柱のあいだを歩いていた。
昨日まで卒業式の花が飾られていた廊下だ。
花はまだ残っている。
残っているのに、もう誰も見ていない。
神官が二人、前を急ぐ。
後ろにも三人。
そのさらに向こうで、別の使者が別の名を呼んでいる。
「北区、侯爵邸」
「南区、神官を追加で」
「聖女様、こちらへ」
呼ばれ方が、もう祝福の時のものではなかった。
奇跡を待つ人間の声は、いつも少しだけ子どもに戻る。
今の廊下には、そういう声ばかりが混じっている。
「何人目ですか」
ルミナが訊くと、年若い神官が一瞬だけ言葉を失った。
「……今日だけで、七件です」
七件。
その数字は、少ないようでいて、少なくない。
少なくないのに、まだ“偶然”と言い張れるぎりぎりの数でもある。
「症状は」
「魔力欠乏に近いと。渇き、震え、脱力、焦燥……ですが、原因が」
神官はそこで口をつぐんだ。
原因が分からない。
それが今の王都で一番広がっている病気だった。
ルミナは足を止めなかった。
止めると、今度は考える。
考え始めると、昨日まで積み上げてきた正義の順番に、少しずつ綻びが入る。
「先に重い方へ」
短く言う。
神官が頷く。
「侯爵家です」
「そう」
それだけ答えた。
重い方。
軽い方。
人命より先に、影響の広い方から回る。
嫌な順番だ。
嫌だと思う。思うのに、今はその順番を否定できない。
否定できない自分が、少しだけ嫌だった。
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侯爵邸の寝室は、香の匂いが濃すぎた。
花。
薬草。
焚香。
聖油。
全部を重ねると、たいてい部屋は“人が死にかけている匂い”に近づく。
寝台の上に、バルデン侯がいた。
昨日の茶会の熱をまだ残している顔だった。
頬は赤い。
だが目の下だけが妙に落ちている。
生きている人間の顔なのに、何か一つだけ中から抜けている顔だった。
医師が下がる。
神官も下がる。
皆が、最後の札を出すようにルミナを見る。
聖女の光。
その呼び方は便利だ。
便利だから、人はよく過信する。
「侯爵」
ルミナが声をかける。
バルデン侯の瞼が、ゆっくりと動いた。
「あ……」
声が掠れる。
掠れているのに、喉の渇きだけが先に分かる。
「光を……」
よくある言葉だった。
だが今の一語は、救いを求めるというより、何か別の不足を埋めるような響きをしていた。
ルミナは寝台の脇に手を置いた。
白い光が、細く落ちる。
熱を引く。
浅い震えが収まる。
息が少し整う。
皮膚のざらつきも、ほんのわずかに和らぐ。
部屋の中で、誰かが小さく息をついた。
効いているように見えたからだ。
だがルミナには分かった。
埋まっていない。
光は届く。
傷にも、熱にも、乱れた魔力にも。
だが今、侯爵の内側に開いている空白は、光が届く前提の形をしていなかった。
穴ではない。
欠損でもない。
もっと嫌なものだ。
あるはずのものが、最初からそこにある前提で回っていた身体が、急にそれを失った時の空っぽ。
「……どうです」
医師が訊く。
ルミナはすぐに答えられなかった。
侯爵の震えは少し引いた。
だが喉の奥だけは、まだ何かを探している。
「一時的には整います」
ようやく言う。
「でも、戻りません」
「戻らない?」
医師の顔が強張る。
「呪いではないと?」
「分かりません」
ルミナは首を横に振った。
分からない。
でも、違うことだけは分かる。
聖女の光は、正しいものの側にある。
少なくとも、そう教えられてきた。
では今、この部屋にある“欠け”は何だ。
「もう一度」
侯爵が小さく言う。
目を開けたまま、ルミナの手を見る。
「もう一度……」
その言い方に、ルミナの背筋へ冷たいものが走った。
光を求めているのではない。
足りないものを、光で誤魔化そうとしている。
それが一番嫌だった。
「侯爵」
ルミナは静かに言った。
「何を、常用していましたか」
部屋の空気が止まる。
侍従が顔を上げる。
医師が目を逸らす。
婦人が唇を噛む。
誰も答えない。
答えないまま、全員がその問いの意味だけを知っている顔をする。
バルデン侯は笑わなかった。
笑えなかったのだろう。
喉が乾きすぎている。
「……水を」
また、同じ一語だけが落ちた。
違う。
その人が欲しいのは、水じゃない。
ルミナは手を引いた。
光が細く消える。
「聖女様?」
医師が戸惑う。
ルミナは寝台から一歩だけ下がった。
「これは、光だけでは戻りません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
戻らない。
聖女の光でも。
祝福でも。
祈りでも。
なら、今この王都で止まり始めているものは、善悪や呪いの話ではない。
もっと冷たくて、もっと広い、構造の話だ。
その理解が、昨日までの正義の熱を少しだけ濁らせた。
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午後、王城の執務室は窓を閉めていた。
外は晴れている。
なのに閉めている。
良くない報せが入る日は、空気の入れ替えさえ遅くなる。
アルベルトは机の前に立っていた。
座っていない。
紙が増える日は、よく立っている。
立っていないと、自分の重さで椅子へ沈みそうになるからだ。
机の上の列が、昨日より一本増えていた。
封鎖報告。
押収記録。
体調異変。
神官照会。
護衛遅延。
点ではない。
まだ線とも呼べない。
だが、線になりたがっている散り方だった。
扉が開く。
ルーカスではなかった。
ルミナだった。
白い礼装ではない。
今日は神官服に近い白だ。
同じ白なのに、昨日より少しだけ疲れて見える。
疲れているからではない。
自分の正しさが、どこに届かないかを見てしまった人間の白さだった。
アルベルトが目を上げる。
「どうだった」
短い問いだった。
ルミナはすぐには答えなかった。
少しだけ、呼吸を整える。
整えないと、言葉が“聖女の答え”ではなく“見たままの答え”に寄りすぎるからだろう。
「一時的には鎮まります」
ようやく言う。
「でも、戻りません」
部屋が静かになる。
アルベルトは動かなかった。
だが、喉だけが一度動いた。
「原因は」
「光では埋まりません」
ルミナは続ける。
「傷でも、毒でも、呪いでもない。……もっと、習慣に近いものです」
習慣。
便利な言葉だった。
依存を、まだ道徳へ寄せて呼べる言葉でもある。
ルーカスが横で低く言う。
「上流です」
その一語だけで、部屋の中の視線が一度だけ交わる。
上流。
護衛。
財務。
神官。
物流。
全部がまだ、紙の上の点だ。
点なのに、胸の奥ではもう別の名前を持ち始めている。
《グレン》。
あの女は、国境の外へ出た。
出た瞬間に、上流の身体が先に乾き始めた。
偶然だ。
そう言えばまだ通る。
通るはずなのに、今は誰もその言葉を先に口にしない。
アルベルトが低く言った。
「……他は」
ルーカスが紙を一枚差し出す。
「南区で護衛交代が三件遅延。聖堂への緊急照会が十一件。高位貴族の邸宅で神官の奪い合いが始まっています」
ルミナの目がわずかに揺れた。
奪い合い。
その言葉は、正義より市場に似ている。
「光は足りないのか」
アルベルトが訊く。
ルミナは答えなかった。
答えられなかったのではない。
足りないと認めると、自分が支えていたものの一部まで崩れると分かっている顔だった。
だが、沈黙がいちばんよく答える時もある。
ルーカスが机へもう一枚置く。
「配送も止まり始めています。まだ部分的ですが」
そこまで聞いて、アルベルトはようやく椅子へ座った。
重かったのだろう。
紙ではなく、自分の中で偶然と言い張っていたものが。
「……偶然ではないのか」
誰に向けた言葉でもなかった。
ルミナは目を伏せる。
ルーカスは何も言わない。
誰も答えない。
答えないから、返事だけが部屋の中に長く残る。
偶然ではない。
そう言ってしまえば、卒業式の断罪そのものが、急に別の顔を持ち始める。
アルベルトは机の端を強く押さえた。
冷たい木だ。
冷たいのに、手のひらだけが熱い。
「記録を集めろ」
低い声だった。
「一本で決めるな。……だが、もう偶然の顔だけはするな」
ルーカスが頷く。
「承知しました」
ルミナはその言葉を聞いたまま、しばらく動かなかった。
正義が、今ここで別の場所へ渡ろうとしている。
聖女の光が届かない隙間へ、もっと冷たい種類の手が入ろうとしている。
それが怖かった。
怖いのに、止める言葉が見つからない。
「ルミナ」
アルベルトが初めて名を呼ぶ。
彼女は顔を上げた。
「今日、見たものを全部書け」
王太子の命令だった。
でも、その底には別の焦りもある。
理解したい。
理解しないと、もう自分の立つ場所まで揺れる。
ルミナは小さく頷いた。
「……はい」
それだけだった。
それ以上、聖女らしい言葉は出なかった。
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夕方、向こうの町の空は少しだけ低かった。
国境を越えた先の借家は、古い染色工房を半分潰して使っている。
水場が近い。
窓は狭い。
壁は厚い。
住むには少し暗い。
でも、始めるにはちょうどいい。
私は机の上の紙を見ていた。
確認札から抜かれた一枚。
短い報せ。
北区上流、一件。
聖堂照会増。
護衛交代遅れ。
まだ一本目。
でも、十分だった。
カイルが窓辺に立っている。
「どうだ」
訊かれたので、私は紙を畳んだ。
「始まったわ」
「速ぇな」
「上は、止まるのが早いの」
そう言うと、カイルは少しだけ笑った。
笑ったが、愉快そうではない。
「喜べねぇ顔してんぞ」
「喜ぶ話じゃないもの」
私は椅子から立ち上がった。
遠くで鐘が鳴る。
知らない町の鐘だ。
知らないのに、音だけは同じように人の時間を切る。
「次は」
カイルが言う。
私は窓の外を見た。
低い空。
狭い路地。
向こうの市場。
まだこちらは静かだ。
「次は、偶然じゃなくなる」
小さく言う。
一本目は偶然で逃げられる。
二本目から、人は祈る。
三本目で、ようやく誰かが構造を見る。
王都はいま、まだ二本目の手前だ。
だから一番遅く、そして一番大きく壊れる。
「王太子は?」
カイルが訊く。
「まだ偶然へ逃げるでしょうね」
「じゃあ、もう少し持つか」
「ええ」
私は頷いた。
「でも、光が足りないと分かったなら、もう前と同じ正義ではいられない」
それで十分だった。
私は机の端へ指を置いた。
木は冷たい。
それで少しだけ安心する。
国境は越えた。
供給は切れた。
最初の崩れは出た。
ここから先は、国の方が自分で壊れる。
「始まったわね」
今度は、少しだけはっきり言った。
部屋の空気は静かだった。
けれど、その静けさは前夜のものではない。
一つ目の音を聞いたあとの静けさだった。
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メーター:資金 国家級/疑念 揺らぎ→認識前夜/執着 決定的/支配 亀裂→連鎖




