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監査:公爵家が動く


朝の公爵家は、音が揃っていた。


扉の開く音。

靴音の間隔。

紙をめくる速さ。

銀盆が置かれる位置。


揃いすぎた朝は、だいたい誰かが怒っている。


アルヴェイン公爵家の正面玄関には、黒い箱が三つ並んでいた。

革張りの帳簿箱だ。金具だけが冷たく光っている。箱は重い。重い箱は、たいてい人を軽くするために来る。


門番がいつもより背筋を伸ばしていた。

侍女たちの声は低い。

廊下ですれ違う使用人は、全員が道の端に寄る。


家の空気が、もう家族のものではなかった。


エドモンド・アルヴェイン公爵は、朝食の席に着く前から不機嫌だった。


不機嫌な人間には種類がある。

声が大きくなる人間。

物を投げる人間。

黙る人間。


彼は最後の種類だった。


長い食卓の上には、温かいパンがある。卵もある。スープもある。

だが湯気だけが働いていて、誰も食べるために座っていない。


執事のバーナードが一歩下がった位置で立っていた。

灰色の髪。薄い唇。表情の少ない顔。家の柱というより、家の癖みたいな男だった。


「財務院からです」


バーナードが封書を差し出す。


エドモンドはそれを受け取らなかった。

すでに中身を知っている人間の顔だったからだ。


「読む必要はない」


低い声だった。


「要請ではない。確認だ」


食卓の端にいた家令補佐が、ほんの僅かに顔をこわばらせた。


確認。

その言い方は便利だ。

断れない話を、礼儀正しく見せられる。


「違法薬の流通に伴い、各上級貴族家の資材帳簿、出納記録、使用人の出入り、地下保管庫の管理記録を照合する――でしたか」


バーナードが静かに補った。


誰も返事をしなかった。


今、王都で一番高く売れるものは沈黙だ。

間違ったことを言わないためではない。

余計なことを認めないために。


「地下保管庫まで?」


家令補佐が絞るように言った。


エドモンドはようやくそちらを見た。


「“まで”ではない。“から”だ」


それで家令補佐は黙った。


疑われているのは、金の流れだけではない。

物の置き場所だ。

出入りの癖だ。

家の中で、誰が何を自由に動かせたかだ。


帳簿は嘘をつける。

だが保管庫の鍵穴は、嘘が下手だ。


エドモンドはナプキンを持ち上げなかった。


「使用人の動線を絞れ。外部業者の出入りは一旦止めろ。子女の買い物も、しばらく帳簿を通す」


“子女”。


複数で言う時、たいてい狙われているのは一人だ。


「学園への送迎も見直しますか」


バーナードが問う。


「見直す」


短い返答だった。


「今は、余計な噂を家の外へ持ち出されたくない」


噂。


それも便利な言葉だった。

証拠がない時にだけ、大きな顔ができる。


---


私が呼ばれたのは、朝食のあとだった。


家族の食卓ではない。

父の執務室だった。


食卓で叱る人間は感情で動く。

執務室で呼ぶ人間は、順番で切る。


扉の前に立った瞬間、匂いで分かった。

紙。蝋。乾いたインク。

あと、見慣れない靴底の泥。


監査人はもう家の中を歩いている。


「入りなさい」


父の声がした。


入る。


窓は半分だけ開いていた。

朝の光が床の一部だけを白くしている。机は広い。広い机は、座っている人間を正しく見せる。父はそれをよく知っていた。


バーナードが脇に立っている。

机の上には帳簿が三冊。封書が二通。私の小遣い帳が一冊。そこだけが少し薄い。


父は最初から私を見なかった。


帳簿を閉じてから、ようやく顔を上げる。


「座れ」


座った。


椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きかった。


「外は騒がしい」


父が言う。


「知っているだろう」


「ええ」


「学園もだ」


「ええ」


父はそこで一度黙った。


黙って、机の端を指で軽く叩いた。

考えをまとめるというより、苛立ちの置き場を探している手だった。


「今、王都では違法薬の件で貴族家が順に見られている。うちも例外ではない」


例外ではない。

それもまた、責任を薄く見せる言い方だった。


「当面、家の出納は絞る。お前の裁量で使える金も一度止める。学園以外の外出は申告制。馬車は家の名で出す。使用人を個別に動かすことも禁じる」


私は父の顔を見た。


怒っている。

だが、怒りの方向が私個人に向いているわけではない。

もっと嫌な種類の怒りだった。


家の体面を削るものに対する怒り。

誰であっても同じように切る怒り。


「地下保管庫も?」


訊くと、父の目が僅かに細くなった。


「関心があるのか」


「封じるなら、先に知っておいた方が無駄が少ないでしょう」


バーナードのまぶたが、ほんの少しだけ動いた。


父は私をしばらく見た。

値札でも読むみたいに。


「旧工房区画を含めて、鍵は家側で管理する」


やはり、と思った。


旧工房はもう使っていない。

けれど“使っていない”と“使えない”のあいだには、深い川がある。


使っていない場所は、戻れる。

使えない場所は、戻れない。


「学園と部屋以外で、お前が自由に出入りできる場所は当面ないと思え」


父の声は平坦だった。


平坦な宣告は、言い返しづらい。

感情ではなく決定だからだ。


「どうして、そこまで」


問いかけたのは反抗のためじゃない。

線の深さを測るためだ。


父は机の上の封書を指で押した。


「家の名は、噂だけでも傷になる」


そこまでは想定通りだった。


「そして今、お前には“傷つきやすい顔”がついている」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


父は続ける。


「学園の空気だ。王太子殿下との関係だ。聖女を中心にした騒ぎもある。お前に何かがあれば、それはすぐ“物語”になる」


物語。


父がその言葉を使うのは珍しかった。

珍しい言葉は、だいたい人づてだ。誰かがそう説明したのだろう。王城か。財務院か。あるいは、もっと手前の誰かか。


「私は何もしていません」


言うと、父は笑わなかった。


笑わない方が質が悪い。


「していないことと、使われないことは別だ」


執務室の空気が、一段だけ冷えた気がした。


父は私を庇わない。

疑ってもいない。

ただ、“使われうる駒”として固定しに来ている。


それで十分だった。


屋敷は、もう安全ではない。


「分かったら部屋へ戻れ」


父はそう言って、もう帳簿へ視線を落とした。


話は終わった。

叱責でもなければ、説得でもない。

封印に近い。


私は立ち上がった。


扉へ向かう直前、バーナードが一度だけ私を見た。


いつも通りの顔。

忠誠と冷たさが同じ形をしている顔。


「お嬢様」


呼び止められる。


振り向く。


「本日より、個人の引き出しと装飾品も目録を作ります。ご不便でしょうが、ご協力を」


不便。


今日いちばん小さく言われた言葉だった。

だから、いちばん正確でもあった。


「ええ」


それだけ返して、部屋を出た。


廊下の絨毯は厚い。

厚い絨毯の上を歩く時、人は自分の足音を聞けない。聞けないと、考えが速くなる。


屋敷はもう隠れ場所ではない。

保管庫も。

引き出しも。

侍女も。

馬車も。


残るのは、持って出られるものだけだ。


---


昼の学園では、もう話が回っていた。


話が早いのではない。

広がる準備ができていたのだ。


「アルヴェイン公爵家、監査が入ったんですって」


「違法薬の件?」


「まさか関係あるの?」


「でも、あの方……最近ずっと」


言葉は途中で途切れる。

途切れるのに、意味だけは届く。


私は廊下を歩いた。


視線の質が変わっていた。

昨日までの嫌悪ではない。

好奇でもない。

もっと柔らかくて、もっと重いもの。


同情だ。


同情は遅い。

遅いくせに、人の上に長く乗る。


「お気の毒に」


すれ違いざま、小さな声がした。


足は止めなかった。

止めると、その言葉に価値が出る。


階段の踊り場にルミナがいた。


今日も光の入る位置にいる。

あの子は、そういう場所に立つのが上手い。


「エリシア様」


声を掛けられる。


私はそちらを見た。


ルミナの顔は困っているように見えた。

本当に困っているのか、困っている顔が正しいと知っているのか、その区別はもうつかない。


「おうちのことで……大丈夫ですか?」


丁寧な言葉だった。


丁寧な言葉は、たいてい相手を弱くしてから入ってくる。


「何のことかしら」


「その……今、色々、噂が」


彼女の後ろで取り巻きが息を潜めている。

見ている。聞いている。あとで言葉にするために。


私は少しだけ首を傾けた。


「噂で心配してくださるの?」


ルミナが言葉に詰まる。


ほんの一瞬だけだ。

だが、その一瞬で十分だった。


「優しいのね」


そう言って微笑むと、彼女はますます困った顔をした。


困らせるつもりはなかった。

ただ、私は知っている。


正義の顔より、優しさの顔の方が、人は残酷になれる。


私はそのまま通り過ぎた。


背中に視線が集まる。

今日は憎しみではない。

“可哀想な悪役令嬢”を見る目だった。


可哀想は、悪より長持ちする。

悪なら反撃できる。

可哀想は、相手が自分を上に置いたまま触ってくるからだ。


階段を下りながら、私はひとつだけ確信した。


ここでも、もう長くは持たない。


---


夜、部屋の鍵が閉まる音を聞いてから、私は机の引き出しを開けた。


昼に目録を取られた。

取られたからこそ、何が数えられていて、何がまだ数えられていないかが分かる。


数えられたものは遅い。

数えられていないものは速い。


一番奥の板を外す。

指先に木の粉がついた。乾いている。最近触っていない粉だった。


薄い箱が出てくる。


母の形見箱だ。


母の話を家の中でする人は、もうほとんどいない。

人は死者を忘れるのではない。家に都合の悪い温度から先に薄める。


箱を開ける。


青石の首飾り。

細い金の腕輪。

無記名の預かり証が三枚。

小さなルビーが二つ。

古い意匠の髪留め。

そして、使っていない印章指輪が一つ。


金属は冷たかった。

石はもっと冷たい。

冷たいものほど、売る時に顔色を変えない。


私は紙を一枚出した。


項目を書く。


首飾り、一。

腕輪、一対。

預かり証、三。

ルビー、二。

髪留め、一。

印章指輪、一。


そこでペン先が止まった。


母の指輪だけ、少し重い。

重いのは価値ではない。

指に乗せた時の温度だ。


売れば終わる。

残せば遅れる。


私は一度だけ息を吐いた。


遅れる方が高くつく。


指輪も書く。

文字は乱れなかった。


次に、換える先を書く。


王都金貨ではない。

名前の残る預けも使わない。

外貨。小粒の宝石。運びやすい銀。

帳簿に残りにくい形。


紙を半分に折る。


カイルへの合図だ。

短い方がいい。

長い文は、途中で人の手に触れた時に弱い。


売れるものから、外へ。

家の名が載る前に。

急ぐ。


書いてから、蝋を落とした。


小さな火が揺れる。

赤く溶けて、すぐ固まる。


私は箱を閉じなかった。


閉じると、まだここに置いておける気がするからだ。


窓の外は静かだった。

静かだが、屋敷のどこかでまだ紙をめくる音がしている。監査人の指は夜の方がよく働く。人の生活が止まったあとから、本当の数え上げが始まるからだ。


私は立ち上がり、箱を布で包んだ。


もう形見ではない。

資産だ。

逃がすための、重さだ。


扉の外で、見張りの足音が一度だけ止まった。

通り過ぎる。

止まっただけで、開けはしない。


まだ間に合う。


私は机の上の紙を見た。

並んだ品目の最後に、もう一つだけ書き足す。


未記録の予備銀器、換金。


公爵令嬢の部屋から、少しずつ家が抜けていく。


それでいいと思った。


家に守られる時間は終わった。

これから必要なのは、家の外で生きるための重さだけだ。


私は封書を持ち上げた。


決別は大きな音では来ない。

こういう時はたいてい、紙一枚の重さで始まる。


――屋敷の金を、屋敷の外へ逃がす。


---


メーター:資金 大→特大/疑念 極大/執着 特大/支配 特大


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