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偽造と毒混入:市場崩壊の危機


朝の学園は、妙に声が低かった。


低いのに、よく広がる声だった。

石造りの廊下は、秘密話に向いている。真正面から言えないことほど、壁に跳ねて遠くまで行く。


赤の噂だった。


最初は一人が倒れたというだけの話だった。

次は二人になった。

三人目からは、もう“話”ではなく“空気”になる。


「ねえ、聞いた? 昨日、南区で」


「赤でしょ」


「違うわ。本物じゃなかったって」


「本物でも危ないのに?」


「死んだって……」


最後の一言だけが、少しだけ速く廊下を走った。


人は“倒れた”より“死んだ”の方を先に覚える。

真実かどうかは、そのあとでいい。


エリシアはその声の中を歩いた。


視線が刺さる。

いつものことだった。

違うのは、今日の視線が“悪役令嬢だから”だけではないことだ。皆、今は誰かを悪者にしたい。そうしないと、自分が口にしたものや、羨んだものや、密かに欲しがったものまで汚れるからだ。


ルミナが階段の踊り場にいた。


朝の光がよく入る場所だった。白い制服の縁が柔らかく光っている。周囲には取り巻きがいる。彼女たちは皆、怒っている顔をしていた。怒りは正義に見えやすい。正義に見える顔は、人を集める。


「こんなの、おかしいわ」


ルミナの声は高くない。

高くないから、逆に周りが耳を寄せる。


「違法な薬が人を傷つけてるのに、誰も止められないなんて。私たち、見ているだけでいいの?」


取り巻きの一人が言った。


「でも、犯人も分からないのに……」


「分からないなら、分かるようにしないと」


ルミナは真っ直ぐ前を見ていた。

その目は綺麗だった。綺麗な目で言われると、人は自分の考えより先に頷く。


「被害に遭った人の声を集めましょう。学園にも、貴族街にも、きっといる。放っておいた結果がこれなら、もう“個人の問題”じゃないわ」


誰かが小さく「そうね」と言った。

それが二つになり、三つになった。


空気はこうして作られる。

何かを証明したからではない。

皆が“そうであってほしい”方向へ、言葉を並べただけで。


エリシアは足を止めなかった。


ルミナがこちらに気づく。

一瞬だけ、視線が絡んだ。


責める目ではない。

哀れむ目に近い。


その方が、少しだけ質が悪い。


エリシアは軽く会釈だけして、そのまま通り過ぎた。

背後でまた声が続く。


「……もう黙っていられないわ」


黙っていられない。

便利な言葉だとエリシアは思った。

人はたいてい、その言葉で他人の口を塞ぐ。


---


廃礼拝堂の地下は、昼でも薄暗い。


上で人が祈らなくなってから長い。

長く使われない場所には、独特の乾きがある。木は痩せ、石は冷え、空気だけが居残る。誰にも見られない時間が積もった匂いだった。


机の上に、小さな硝子瓶が三本並んでいる。


一本は本物。

一本は偽物。

もう一本は、その中間に見せかけた雑な模造だ。


私は手袋をはめたまま、左端の瓶を傾けた。


赤が流れる。

遅すぎる。


次に中央の瓶。

こちらは光の返りが少し濁っている。

最後に右端。見た目だけなら、よく似ていた。


似ているだけだった。


瓶の口に鼻先を寄せる。

鉄錆に似た香りの奥に、妙な甘さが残っていた。甘いのに浅い。深くない匂いは、だいたい何かを隠すために後から足されたものだ。


「……雑」


小さく言った。


偽物は、本物を知らない人間には似て見える。

だが似せようとした跡は、必ずどこかに残る。


流れ方。

香りの残り方。

喉に触れたあとの遅れ。

肌に置いたときの冷え方。


本物は一つの効き方しかしない。

偽物は似せようとした分だけ、余計な音を立てる。


私は銀の匙で、ごく微量だけ掬った。

白い陶皿の上に一滴落とす。


赤は丸く座らない。

縁がわずかに歪んで、薄い黒を引いた。


毒と呼ぶほど強くはない。

強くないから余計に悪い。


死ぬ人間もいる。

死なない人間の方が多い。

だが死ななかった方は、次にもっと深く欲しがる。効かなかった分を取り返そうとして、量を上げるからだ。


粗悪品は市場を壊す。

偽物だからではない。

欲しがる人間の判断を壊すからだ。


カイルが壁際に立っていた。

黙って見ている。最近の彼は、私が瓶を見る時に口を挟まない。十九話の夜から、沈黙の位置だけは少しだけ良くなった。


「どうだ」


「死ぬわね」


短く言うと、カイルの喉が一度だけ動いた。


「……本物じゃない」


「ええ」


陶皿を光に傾ける。

薄い筋が見える。混ぜ方が荒い。均一に見せようとして、逆に癖が残っている。


「似せた“赤”は、必ず雑音を残す」


カイルが眉を寄せた。


「雑音?」


「効き方以外のものが出るの。匂い、残り方、濁り、反動の早さ。作れない人間ほど、そこを力で埋めようとする」


私は右端の瓶を布で包んだ。

割れないようにではない。

割れても、飛び散る場所を選ぶためだ。


「ヴォルク?」


「断定はしない」


「でも、あいつらの火だ」


「ええ」


私は紙を引き寄せた。

すでに書く内容は決まっていた。


偽物が出回った時、市場には二つの反応がある。

一つは恐怖。

もう一つは、もっと確かなものを欲しがる飢えだ。


そこに先に名前を与えた方が勝つ。


「分けるわ」


「何を」


「市場を」


ペン先が紙の上を走る。

一行。二行。余計な飾りは入れない。


本物を本物として流す。

それだけを宣言する文だ。


だが実際にやるのは宣言ではない。

線引きだ。


封緘。

純度。

残り香の癖。

そして、見る人間が見れば分かる小さな印。


表向きは安全管理。

実際には支配の更新だった。


「ガルムに回す。今日から、印のない品は“赤”を名乗らせない」


カイルが低く舌打ちした。


「余計に《グレン》が神様になるぞ」


「救える方が、先に神格化されるものよ」


「救うつもりでやるのか」


私は顔を上げた。


「市場を壊されたくないだけ」


その返事に、カイルは苦く笑った。

苦い顔をする時、この男はだいたい半分納得している。


「印って、どこまで付ける」


「見る目のある人間だけが分かる程度でいい。大勢に分かる印は、すぐ真似される」


「でも、それで回るのか」


「回すのは客じゃないもの」


私は紙から顔を上げずに言った。


「見るのは末端の買い手じゃない。中継ぎと保管役だけで十分。入口で弾ければ、街の奥まで偽物は流れない」


カイルは少しだけ目を細めた。

そこまで想定していたのか、という顔だった。


「買った側まで切るのは?」


「一人ずつ事情を聞いていたら、その日のうちに市場が死ぬわ」


ペン先を止める。


「だから先に線を引くの。救済は、そのあとでいい」


カイルは何も言わなかった。

言い返さない時は、だいたい納得している。


「でも、捜査側も拾うぞ」


「拾わせる」


私がそう言うと、カイルは黙った。


拾わせる。

そこに驚くほど、彼はもう若くない。


「本物の線を引けば、捜査はそこへ寄る。寄れば、偽物を流した側ともぶつかる」


「ヴォルクと王城を擦らせるってことか」


「少しだけね」


完全にぶつける必要はない。

追う方向を似せるだけでいい。

同じ獲物を嗅いでいると分かれば、人は勝手に焦る。


私は書き終えた紙を折った。


印のない赤は、明日から偽物として扱う。

流した者も、買った者も、次の配分から外す。


たったそれだけの文だ。


「きついな」


「きつくなければ効かないわ」


「末端は困るぞ」


「困るから従うの」


カイルは何も言わなかった。


言葉の代わりに、外套の内ポケットから小さな革袋を出した。中には封緘用の蝋と金具が入っている。私の机の上に置く。置き方が前より丁寧だった。壊れるものを雑に扱うと、後で自分に返ると覚えた人間の手つきだ。


私は小さく息を吐いた。


市場を守る。

そう見えるだろうと思った。


実際には違う。

守るために線を引くのではない。

線を引いた結果、守られる側が出るだけだ。


けれど、その違いはたいてい外から見えない。


外から見えないものほど、権力になる。


---


夕方の旧市街は、昼より人が多い。


人が多いのに、今日は誰もゆっくり歩いていなかった。

皆、急いでいるふりをしている。急いでいるふりをする人間は、だいたい誰かを避けている。


劇場跡の地下では、いつもの酒も出ていなかった。


代わりに、机の上に小さな木箱が一つ置かれていた。

中には三本の瓶が入っている。二本は押収品。一本は今しがた持ち込まれた死体の傍らから出たものだ。


ガルムは箱を見たまま、触らなかった。


「また倒れた」


部下が言う。

声が荒い。今朝から三度同じ報告をしている男の声だった。


「今度は貴族街だ。侍女が二人。護衛が一人。死んだのは侍女だけだが、噂はもう広がってる」


「噂で済めばいいな」


ヴォルクが机の端で言った。


その声に、何人かが目を逸らした。

もう誰も、彼をただの敵対派とは見ていない。


ガルムはようやく木箱の中の瓶を手に取った。

指先で傾ける。見ているだけでは分からない顔をしたが、それでも少しだけ眉が動いた。


そこへ使者が入ってきた。


走ってきたわけではない。

走っていないのに、息が速い。

本当に嫌な知らせを持つ人間は、歩いてきても呼吸だけ先に崩れる。


紙を差し出す。


ガルムは開いた。

読んだ。

今朝よりも早く、顔が固くなった。


「何て」


ヴォルクが訊く。


ガルムは紙を机の上に置いた。

誰かが覗き込む。

その一拍あとに、地下の空気がざわついた。


「印のない品は、明日から偽物扱いだとよ」


「ふざけるな」


声が飛んだ。

だが怒鳴った男は、すぐに黙った。

続けて怒鳴れば、自分の手元に印のない品があると白状するのと同じだからだ。


ガルムが低く言う。


「流した者も、買った者も、次の配分から外すそうだ」


その一言で、何人かの顔色が変わった。


売り手だけではない。

買い手も切る。


それは単なる偽造対策ではない。

今まで黙って見逃していた横流し、薄め、抱え込み、横槍、その全部を一度に踏むということだ。


ヴォルクが笑った。


昨日の笑いとは違った。

少しだけ乾いている。


「市場を守るつもりらしいな」


「守る?」


ガルムが紙を机に叩きつけた。


「違う。選別だ」


選別。


その言葉は嫌なほど正確だった。


本物を流すための線引きではない。

誰を“本物側”に残すかを決める線だ。


ヴォルクは紙を拾い、もう一度読んだ。

短い文だ。短いから、余計な希望が入らない。


「……やるな」


誰に向けた言葉か、はっきりしない言い方だった。

だが全員が分かった。


今この街で、偽物を止められるのは《グレン》だけだ。

止められるから、印も配分も、全部あちらの理屈になる。


「どうする」


幹部の一人が言った。

その声はもう、ガルムではなくヴォルクの方を向いていた。


ガルムがそれを聞いた。

聞いて、何も言えなかった。


沈黙は、座から落ちる音に似ている。


ヴォルクは紙を畳んだ。


「印を真似る」


誰かが息を呑む。


「できるのか」


「できるように見せる」


ヴォルクの目は笑っていなかった。


「本物の線を引かれたなら、その線を汚す。印が信用になるなら、信用ごと腐らせる」


ガルムが顔を上げる。


「それで被害が増えたら、どうなると思ってる」


「もう増えてる」


ヴォルクは平らに言った。


「増えてる被害の責任を、誰の名に乗せるかって話だろ」


地下が静かになる。


正しかった。

正しいからこそ、嫌だった。


市場を守ると言い出した方が、責任も背負う。

救済者は神格化される。

同じ速さで、失敗の引き受け先にもなる。


ヴォルクはそこで初めて、少しだけ口角を上げた。


「《グレン》が線を引くなら、こっちはその線の上に死体を置く」


誰も笑わなかった。

誰も止めもしなかった。


止めるには、もう遅い言い方だった。


---


夜の王城は、昼より白い。


灯りが多いからではない。

余計なものを削ってある場所ほど、夜に白く見える。石も、壁も、人の顔も。


アルベルトの机の上には、今日一日で集まった報告が積まれていた。


南区で一件。

旧市街で二件。

貴族街で三件。

偽物の赤。毒混入。死者一名、重症数名。未確認の被害はもっと多い。


侍従が一枚の紙を差し出した。


「闇市場の内部通達です。押さえました」


アルベルトが読む。

短い。

短いのに、妙に冷たい文だった。


印のない赤は偽物として扱う。

流した者も、買った者も、次の配分から外す。


アルベルトの指先が、その紙の縁で止まった。


「配分」


小さく繰り返す。


「はい。どうやら、市場を分けるつもりかと」


側近が答えた。


アルベルトはもう一枚の報告に視線を落とした。

そこには簡単な検分が書いてある。香り。色。沈殿。残留。どれも曖昧だ。曖昧だが、その曖昧さの中に共通点があった。


本物と偽物は違う。

違うなら、そこに作り手の癖がある。


昨日まで彼が追っていたのは、人だった。

学園周辺にいる誰か。

冷酷で、合理的で、完璧な誰か。


今日から増えたのは、人ではない。

線だ。


本物と偽物を分ける線。

それを引ける人間は限られる。


アルベルトは椅子に深く座り直した。


胸の奥にある感情の名前を、まだ付けたくなかった。

怒りにすると、少し足りない。

執着にすると、認めたくない。


だが紙の短さが、妙に好きだと思ってしまった自分には気づいていた。


無駄がない。

揺れもない。

助けると言わないくせに、結果として市場を救おうとしている。


そういう冷たさを、彼は知っている気がした。

会った回数は少ない。

だが思い出そうとすると、声より先に空気が浮かぶ。


「殿下」


側近が遠慮がちに呼んだ。


アルベルトは顔を上げた。


「……本物には、印があるのだな」


「そのようです」


「では、その印を追えばいい」


側近が少しだけ眉を動かす。


「追う、とは」


アルベルトは報告書を机の上に揃えた。

死者の紙。押収品の紙。内部通達の紙。検分の紙。


バラバラだったものが、一枚の上でやっと同じ方向を向く。


「これだけで証拠にはならない」


低く言ってから、アルベルトは紙の一枚を指先で叩いた。


「だが、方向は揃った」


侍従が息を呑む。


「印の形そのものではない。どこで見分け、誰に伝え、誰が守るのか。その線を追えば、作り手に届く」


アルベルトは立ち上がった。

窓の外は暗い。

暗いが、灯りの位置だけはよく見える。


《グレン》が市場を守るために引いた線は、同時に自分へ続く線にもなる。

そう思うと、奇妙に胸が熱くなった。


美しいと思った。

それが腹立たしかった。


アルベルトは机に手をついたまま、短く命じた。


「“本物の印”を追え」


部屋が静まる。


「そこに作り手がいる」


---


メーター:資金 特大/疑念 極大/執着 特大/支配 特大


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