第61話「王国最強」
東側は、南側とは違う意味で地獄だった。
道の真ん中で馬車がひっくり返り、露店は潰れ、石畳には血と瘴気の臭いが混ざっている。
逃げ遅れた人間を追うように、魔人化した者たちが暴れていた。
「下がれ! 近づくな!」
若いハンターが叫びながら剣を振るう。
だが、剣は魔人の腕に弾かれた。
「っ……!」
次の瞬間、別の魔人が横から飛びかかる。
避けきれない。
そう思った瞬間。
一閃。
魔人の腕が落ちた。
遅れて、首が落ちる。
若いハンターの前に、レオルドが立っていた。
「レオルド様……!」
「民の避難誘導をお願いします」
落ち着いた声だった。
「あと、あなた達もこの辺りから離れたほうがいいです」
「え……?」
若いハンターが目を瞬かせる。
レオルドは前を見たまま、短く続けた。
「巻き込むかもしれません」
その意味を理解する前に、魔人が三体まとめて飛びかかってきた。
レオルドは一歩前へ出る。
剣閃が一つ、走った。
それだけだった。
三体の身体が、ほとんど同時に崩れる。
首が落ちる。
腕が落ちる。
膝から折れる。
遅れて、黒ずんだ肉がヘドロのように崩れ始めた。
「な――」
近くで見ていたハンターの一人が、呆けた声を漏らす。
速すぎた。
レオルドはもう次へ向かっている。
右から来た魔人の喉を裂く。
返す刃で背後の一体を斬る。
振り向きざま、残った一体の顔面を蹴り飛ばして壁へ叩きつける。
「増やされる前に減らせば、増えません」
「いや、そうなんだけど……!」
思わず若いハンターがツッコむ。
だが、その言葉の直後、東側の魔人は目に見えて数を減らしていた。
レオルドは振り返らない。
「早く」
短い一言。
それで十分だった。
ハンターたちは我に返り、一斉に民の避難誘導へ走り出す。
その時だった。
屋根の上から、乾いた笑い声が落ちた。
「へえ」
軽い声。
「化け物みてえなやつがいるじゃねえか」
レオルドが目だけを上げる。
屋根の上にいたのは、細身の男だった。
ぼさついた髪。
黒い外套。
両手には細い双剣。
口元には、獣みたいな笑み。
「俺は蛇架第五席、《双牙》ガルス」
男は双剣をくるりと回した。
「本当ならよ、もう少し増やしてから遊ぶつもりだったんだが――」
言いながら、ガルスが指を弾いた。
屋根の上から、黒い針が数本飛ぶ。
狙いはレオルドではない。
避難誘導をしていたハンターと、その後ろにいる市民。
「っ!」
若いハンターが気づいた時には、もう遅い。
針が届く。
その寸前。
レオルドの剣が、空を撫でた。
キン、キン、キン。
全ての針が、石畳に落ちる。
ガルスの笑みが、少しだけ深くなった。
「へえ。見えてんのかよ」
次の瞬間、ガルスが屋根から飛び降りた。
落下と同時に、双剣が踊る。
右。
左。
喉。
腹。
足。
速い。
若いハンターたちでは、目で追うことすら難しい。
「おいおい……あいつ、速すぎるだろ……!」
だが、レオルドは一歩も下がらない。
一本を受ける。
もう一本を剣の腹で逸らす。
返す刃で、ガルスの外套だけを裂く。
「ちっ!」
ガルスが笑いながら後ろへ跳ぶ。
「いいねえ。やっぱ強えな」
レオルドは淡々と言った。
「避難の邪魔です」
「言うじゃねえか」
ガルスの双剣が、さらに速くなる。
今度は直線じゃない。
身体を沈め、跳ね、滑り、視界の外から斬り込んでくる。
一撃目を誘い。
二撃目を隠し。
三撃目で仕留める。
普通のハンターなら、初手で首が飛んでいた。
それでも――
レオルドは崩れない。
「……」
剣を下げる。
半歩ずらす。
肩を引く。
最小限の動きで、全てを避ける。
そして一振り。
ギィン!!
ガルスの右の剣が、根元から折れた。
「なっ――」
さらに踏み込む。
残る左の剣も、次の一撃で真ん中から砕けた。
折れた刃が石畳を跳ねる。
レオルドは淡々と言った。
「貴方の剣が折れたということは、私の剣の方がよい剣だったということです」
「そういう問題かよ!?」
ガルスが叫ぶ。
その顔には、もう余裕なんてなかった。
レオルドは無言のまま一歩詰める。
それだけで、ガルスの背筋に冷たいものが走る。
死ぬ。
本能がそう告げる。
ガルスは懐から針を抜いた。
投げる。
速い。
角度もいやらしい。
だがレオルドは、それすら剣で払った。
一本。
二本。
三本。
全部落ちる。
「嘘だろ、おい……」
レオルドは短く言った。
「これで終わりです」
その一言が、何より重かった。
ガルスが一歩下がる。
レオルドの剣が、真っ直ぐ喉元へ走った。
その瞬間だった。
横から一本の槍が滑り込んだ。
ギィン――ッ!!
重い金属音が、東側の通りに響く。
レオルドの剣が、初めて止まった。
「……」
レオルドの目が、わずかに細くなる。
ガルスは息を呑んだまま、固まっていた。
その前に、音もなく一人の男が割って入っていた。
長身。
黒い外套。
無駄のない体躯。
感情の抜け落ちたような顔。
手にしているのは、長い槍。
その穂先が、レオルドの剣を寸分違わず受け止めている。
ただ立っているだけで、さっきまでの空気がごっそり入れ替わった。
「下がれ、ガルス」
低い声。
ガルスはようやく息を吐く。
「……助かったぜ、グラム」
槍の男は視線すら向けない。
「お前では、あいつには勝てない」
その一言に、ガルスの顔が引きつった。
だが、言い返せない。
実際、その通りだったからだ。
レオルドが一歩引く。
槍の男も同じだけ引いた。
わずかな間合い。
だが、それだけで十分だった。
もう、さっきまでとは違う。
騎士たちも、ハンターたちも、それを肌で感じていた。
槍の男が静かに名乗る。
「蛇架第二席、《穿槍》グラム」
飾りもない。
無駄もない。
だが、それで十分だった。
グラムはレオルドから目を逸らさないまま、ガルスに告げた。
「あいつは王国最強の男。レオルド・フォン・アルヴェイン」
ガルスの喉がひくりと鳴る。
グラムは構わず続ける。
「絶対に手を出すなと言われていただろうが」
ガルスが顔をしかめる。
「は? 所詮は人間――」
「あいつは、まだ闘気も魔法も一切使っていない」
グラムの声は低い。
「この意味が分かるな」
ガルスの顔から、さらに血の気が引いた。
「……冗談だろ」
「冗談でここには来ない」
その時、通りの奥から騎士の叫びが飛んだ。
「東通りの避難、完了しました!」
「残っていた民も全員退避済みです!」
その報告を聞いた瞬間、レオルドの周囲の空気が変わった。
足元に風が巻く。
外套の裾が揺れ、石畳の砂がふっと舞い上がる。
ガルスの顔が強張った。
「おい、待て……!」
逃げる。
そう判断した瞬間には、もう遅かった。
レオルドの姿が掻き消えた。
次の瞬間には、退こうとしたガルスの前に立っている。
「な――」
剣が走る。
咄嗟に身を捻ったガルスの脇腹を、深く裂いた。
「がっ――!」
血を撒きながら、ガルスの身体が石畳へ叩きつけられる。
立ち上がろうとしても、脚に力が入らない。
呼吸するたびに、脇腹から熱い痛みが走る。
レオルドは剣先を向けたまま告げた。
「これで、あなたは動けません」
感情の薄い声だった。
「ギルドで、誰かに尋問してもらいます」
ガルスは歯を食いしばる。
「ふ……ざけんな……」
だが、もう動けない。
グラムの目が、わずかに細くなる。
「……噂にたがわぬ強さだな」
レオルドは剣先をガルスへ向けたまま、グラムを見た。
「次はあなたです」
グラムは槍を静かに寝かせる。
「望むところだ」
次の瞬間、両者が同時に踏み込んだ。
速い。
今度は、周囲の誰にも完全には見えなかった。
剣と槍が、夜気を裂く。
レオルドが斬る。
グラムが受け流す。
返しの穂先が喉を狙う。
レオルドは身体を半歩ずらし、そのまま肘で槍の柄を打つ。
グラムは片手を滑らせて間合いを殺し、逆側から石突きを叩き込む。
鈍い音。
レオルドが、初めて後ろへ半歩下がった。
「おお……」
誰かが、思わず声を漏らす。
止まった。
あのレオルドが、真正面から押し返された。
グラムの無表情な顔が、そのまま告げている。
――ここから先は、さっきまでとは違う、と。
石畳に倒れたまま、ガルスが息を荒くしながら笑った。
「……なんなんだよ。あいつ、本当に人間かよ……」
レオルドは答えず、剣を構え直す。
グラムも、槍を構え直した。
静かに。
深く。
殺意ではなく、役目のように。
レオルドが言った。
「ここから先へは行かせません」
グラムが短く返す。
「ならば、越える」
夜の東通りから、音が消えた。
倒れた露店も、瘴気を吐く死骸も、息を呑むハンターたちも。
その中心で、剣と槍だけがゆっくりと噛み合う。
次の一撃からは、誰にも割って入れない。




