第59話「毒牙」
横一列。
屋根の上に並んだ三人のヴァルトが、まったく同じ嫌な笑みを浮かべていた。
どれも同じ顔。
どれも同じ執事服。
どれも同じ短剣。
どれも同じように針を指に挟んでいる。
「……上等だよ」
俺は腰を落とした。
「まとめて相手してやる」
三人のヴァルトが、ぴたりと同じ角度で首を傾げた。
「それは楽しみですねえ」
次の瞬間、三人が同時に動く。
右。
左。
真ん中。
全部が同じ速度で踏み込み、全部が同じように短剣を振るってきた。
「っ!」
俺は真正面へ拳を突き出す。
真ん中の顔面を殴り抜く。
手応えがない。
「……は?」
反射で左へ蹴る。
それも空を切る。
だが次の瞬間、右から来た刃だけが確かな重みを持ってグローブへ当たった。
「っ……!」
鈍い衝撃が腕に走る。
俺はすぐに身を引いて距離を取った。
殴っても抜ける。
蹴っても抜ける。
なのに、短剣だけは本物みたいに飛んでくる。
「どうしました?」
三人が揃って笑う。
「もう息切れですか?」
「うるせえ」
吐き捨てながら、俺は通りの左右を見る。
まだ避難しきれていない。
路地へ逃げ込んだやつもいるが、足を止めて振り返っているやつもいる。
その向こうでは、さっき刺されて変異した魔人もどきの残骸が、黒赤いヘドロになって瘴気を上げていた。
ヴァルトはそこへちらりと視線を落として、愉快そうに笑う。
「やはり、外ればかりですねえ」
「人を玩具みてえに扱いやがって……!」
「玩具? 違いますよ。選別です」
その言葉と同時に、また針が飛んだ。
今度は二本。
「またかよ!」
俺は地面を蹴る。
一本を叩き落とす。
もう一本は、通りを横切ろうとした男の肩へ向かって一直線。
「ちっ!」
無理やり飛び込んで、グローブで弾いた。
針が石畳へ刺さり、小さく跳ねる。
その直後。
左から短剣。
「っ!」
避けきれない。
腕を引く。
深くは入らない。
だが、左腕の外側を細い刃がすっと持っていった。
「ぐっ……!」
熱い痛みが走る。
浅い。
それなのに、傷口の奥に嫌な熱が残った。
「どうしました? よそ見していていいんですか?」
「黙れ」
俺は吐き捨てる。
まだ動ける。
傷は浅い。
ただの切り傷なら問題ない。
――なのに、妙に気持ち悪い。
ヴァルトたちは、また横一列に並んだ。
「それにしても、面倒ですねえ。あなたが思ったより真面目で」
「真面目で悪かったな」
「ええ。とても」
その声が終わる前に、三人がまた同時に踏み込む。
右を殴る。
抜ける。
左へ蹴る。
空を切る。
その隙に、真ん中から短剣が走った。
「ちっ!」
今度はグローブで受ける。
鈍い衝撃。
やはり軽い。
重い一撃じゃない。
だが、異様に正確だ。
「本当にいやらしいな、てめえ!」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
また針。
今度は三本。
広く散らすように投げてきやがった。
「くそっ!」
一本は蹴り払う。
一本は腕で弾く。
残る一本が、路地へ逃げかけた老婆の背中を狙う。
俺は無理やり飛び込み、拳で叩き落とした。
「避難を急げ!! 広い通りに残るな!!」
怒鳴る。
ようやく人の流れが路地へ動き出す。
だが、それでも遅い。
ヴァルトは、その遅れを楽しんでいるみたいだった。
「大変ですねえ。一人で全部守るのは」
「だったら狙うんじゃねえよ!!」
叫んだ瞬間、左腕がじくりと熱を持った。
「……っ」
肩。
肘。
手首。
熱が、じわじわと内側を這っていく。
何だこれ。
左手を握る。
握れる。
だが、思ったより閉じるのが遅い。
「……は?」
一瞬だけだった。
だが、確かに違和感があった。
指が、半拍遅れた。
「どうしました?」
三人のヴァルトが、また同じ角度で首を傾げた。
「顔色が少し悪いですよ」
「……何した」
俺が低く言う。
三人は答えない。
ただ、揃って嫌な笑みを浮かべるだけだ。
「てめえ……」
左腕の熱が少しずつ増していく。
重い。
痛みより、鈍さの方が強い。
肩を上げる。
上がる。
だが、やはり少し遅い。
「ようやく、ですねえ」
ヴァルトの声が妙に耳に残る。
俺は振り向いた。
三人とも、同じ笑み。
同じ短剣。
「……毒か」
三人の口元が、深く吊り上がった。
「おや。意外と頭がいいんですねぇ」
「ふざけやがって……!」
左腕を軽く振る。
痺れる。
熱い。
重い。
「かなり強いものを塗っているんですよ。普通なら、もっとまともに動けません」
「性格終わってんな」
「光栄です」
腹立つくらい、涼しい顔だった。
腕は痺れてる。
肩まで熱い。
確かに効いてる。
だが、倒れるほどじゃない。
ヴァルトの目が、そこでわずかに細くなった。
「……おかしいですねえ。その程度で済むはずがない」
「知るか。とりあえず、てめえはぶん殴る!」
俺は踏み込む。
右。
左。
真ん中。
また三体同時に動く。
真ん中を殴る。
抜ける。
左を蹴る。
空を切る。
右へ拳を打つ。
それも抜ける。
「くそっ!!」
だが短剣は襲ってくる。
ガードを上げたつもりだったが、痺れで反応が遅れる。
「っ……!」
切っ先が左腕の上をもう一度浅く走る。
熱が増す。
「やはり効いていますねえ」
「黙れ!」
また針が飛ぶ。
今度は三本。
「くそっ!」
二本は叩き落とした。
だが、残る一本が通りの端にいた男の肩へ刺さる。
「う、あ……!」
「やめろ!!」
黒い筋が走る。
変質が始まる。
俺は駆け寄り、変異しきる前に顎を打ち抜いた。
起き上がる前に、さらに蹴りで沈める。
その間にも、ヴァルトはまた笑っている。
「ほら、間に合わない」
「黙れ!!」
俺は怒鳴る。
でも、その怒鳴り声の途中で、自分でも分かるくらい息が荒くなっていた。
身体が重い。
左腕だけじゃない。
肩の辺りまで、鈍い熱が這い上がっていく。
「っ……」
視界が一瞬だけぶれた。
その瞬間を、ヴァルトが見逃すはずもない。
三人同時に踏み込んでくる。
「くそっ!」
左から来た短剣を、今度は紙一重で避けきれなかった。
「ぐっ!」
浅い。
だが、左腕の上をまた斬られる。
熱が増す。
鈍さが深くなる。
指先まで、じわじわと痺れが降りてきた。
「ちぃっ……!」
膝が、ほんの少しだけ落ちた。
三人のヴァルトが、それを見て愉快そうに嗤う。
「いいですねえ。だいぶ、いい顔になってきました」
「何がだよ……」
「追い詰められた顔です」
気持ち悪い。
本当に。
俺は左腕をかばうようにしながら、ゆっくり拳を構え直した。
動かないわけじゃない。
まだ戦える。
まだ立てる。
でも、このまま長引けばまずい。
それだけは、はっきり分かった。
ヴァルトたちは横一列に並んだまま、同じ角度で短剣を構える。
「その毒でまだ立っているとは……本当に、興味深いですねぇ……」
「こっちは、全然面白くねえよ」
俺は歯を食いしばる。
左腕の痺れが、肘の辺りまでじわじわと上がってくる。
肩も重い。
でも、右は動く。
脚もまだ行ける。
だったら、前に出るしかない。
俺は左手を一度だけ握ろうとして――やめた。
指が遅い。
この腕は、もう補助にしか使えない。
右だけで構える。
「どれだけ短剣で切ってこようが、全部叩き落としてやる」
「できるなら、どうぞ」
夜風が吹く。
袖のないロングコートがひらつく。
チェーンがじゃらりと鳴る。
左腕の痺れが、少しずつ重さに変わっていく。
それでも、俺は一歩踏み出した。
三人のヴァルトが、同時に嫌な笑みを浮かべる。
夜の南通りに、また毒牙が走った。




