第26話「避難と現実」
街が動き出したのは、避難指示が出たからじゃない。
結界が壊れたからだ。
結界が砕けた瞬間から、選択肢なんて無くなった。
誰もが分かっている。
このままここにいれば、次は自分が食われる。
荷車に布団を積む。
子供を荷の上に座らせる。
老人を支える。
泣きながら名前を呼ぶ声と、怒鳴りながら道を作る声が混じる。
逃げる。
逃げるしかない。
だが――逃げられる者ばかりじゃない。
馬車を持つ富裕層は、夜のうちに消えていた。
積んでいたのは食料じゃない。家具や酒樽だ。
生き延びるためじゃない。生活を捨てないために逃げた連中だ。
ハンターの中にも似たような者はいる。
街に根を張っていない者。
稼いだら出ていくつもりだった者。
戦う理由がない者。
彼らは口にしないだけで、同じことを思っている。
――どうせ無理だ。
残った者たちは、諦めの上に立っていた。
それでも立っていた。
立つしかなかったからだ。
*
避難の列を動かしているのは、ハンターたちだった。
昼は斥候が先行して道を確認する。
夜は交代で周囲を警戒し、魔物の接近を止める。
荷車の速度に合わせて列を整え、遅れる者を拾い、転ぶ者を起こす。
それは“戦い”じゃない。
ただ、生き残るための作業だ。
列の後方に、簡易の担架があった。
揺れるたびに、布がきしむ。
その上にいるのは――ユウヤ。
包帯だらけで、目を閉じたまま動かない。
呼吸だけが、かろうじて「生きている」と告げている。
ガイは何度もその担架を振り返った。
(あの人が……)
頭の中で、昨夜の光景が何度もよみがえる。
森の奥の死体の山。
砕けた斧の欠片。
倒れたジェネラル。
――あんなものを、一人で。
なのに今は、指一本動かせない。
担架の横にはシエラがつき、移動中も回復の光を絶やさない。
ミーナは顔色を失ったまま歩いている。
魔力を絞り切ったのが誰の目にも分かった。
シエラは唇を噛み、何度も同じ動作を繰り返す。
「お願い……せめて、目を……」
その言葉はもう、祈りだった。
回復魔法は万能じゃない。
命を繋げても、意識は戻らないことがある。
それでも――ギルド長は、ユウヤを諦めていなかった。
ギルド長の目は、担架を見てから、住民の列を見て、また担架に戻る。
言葉にしなくても分かる。
(あの人が起きるか起きないかで、生存率が変わる)
ユウヤがいれば、ゼロじゃなくなる。
そんな、残酷な計算だ。
*
斥候が戻ってきたのは、移動を始めて間もなくのことだった。
馬の蹄が土を叩く。
泥だらけの男が、馬上から叫んだ。
「来ています!」
その一言で、列の空気が凍った。
ギルド長が前へ出る。
「……規模は?」
斥候は喉を鳴らしてから、絞り出すように答えた。
「前回の第一陣が、およそ五百」
「次は――二千はいます」
誰かが笑った。
笑うしかない笑いだ。
二千。
しかも数だけじゃない。
「キングがいる」
「ジェネラルも複数」
「メイジ、ナイト、ホブゴブリン……」
量も質も、桁が違う。
そして、進軍速度が早い。
「恐らく……明後日には追いつかれます」
明後日。
あと二日。
荷車の列が、二日でどこまで行ける?
子供が、老人が、怪我人が――二日でどこまで逃げ切れる?
答えは、分かっているのに、考えたくなかった。
ギルド長は地図を広げ、歯を食いしばった。
グレンより大きく、ハンターの質も高いカナック。
魔術ギルドがあるランベル。
本隊がその二つの街を狙った。
つまりこれは単なる“増えた”じゃない。
――意図がある。
情報を持ち、軍を動かし、優先順位を付けている。
そんな真似を、ゴブリンが自発的にできるとは思えない。
(黒幕がいる)
そう考えると、結界破壊も説明がつく。
侵攻が失敗した。
だから結界を割って「次は本隊を寄越せ」と合図した。
嫌になるほど筋が通る。
そして最悪なのは――王都からの連絡がないことだった。
距離の問題か。
混乱で遅れているのか。
あるいは――見捨てられたのか。
誰かが呟いた。
「……国が動かなければ、終わる」
誰も否定できなかった。
ギルド長が、低く吐き捨てる。
「援軍が“来ない”前提で動く」
一拍置いて、指を地図の一点へ落とした。
「王都は目指さない」
「途中のパルマを目指す。あそこなら結界がある。壁もある」
さらに地図を指でなぞる。
「王都までの道を、この人数で進めば遅すぎる。子供も老人も、その前に潰れる」
「まずパルマで隊列を立て直す。治療も、補給も、休息も必要だ」
誰も「勝てる」とは言わない。
ただ「死ぬまでの順番を遅らせる」ための判断だ。
それでも――それしかなかった。
*
翌日、一行はパルマへ辿り着いた。
“到着”と言っていいのか分からない。
倒れずに門まで来られた。――それだけだ。
門は開いていた。
だが歓迎の声はない。
見張りの兵も少ない。
矢倉の上に立つ人影は、こちらを見る目が怯えている。
門をくぐった瞬間、ガイの胸の奥が冷たくなった。
街が――静かすぎる。
普段なら市場の声があるはずだ。
露店の匂いがあるはずだ。
子供の笑い声があるはずだ。
なのに、ない。
閉め切った窓。
板で打ち付けられた店。
荷車を引きずる音と、泣き声だけ。
「……ここも同じだ」
誰かが呟いた。
パルマの住民たちも、すでに半分以上が街を捨てた後だった。
馬車を持つ者。
荷をまとめられる者。
親戚を頼れる者。
そういう“逃げられる者”から消えている。
残っているのは、逃げられない者たちだ。
病人。怪我人。
荷車も馬も持たない者。
子供を連れた母親。
そして――それを最後まで見捨てられなかった極少数の人間。
グレンの列が街に入ると、パルマの住民が遠巻きに見た。
視線が集まる。だが近寄らない。
助けを求める目と、責める目が混ざっている。
聞こえるか聞こえないかの声が刺さった。
「……なんで、ここへ来た」
ギルド長は、門の内側で列を止めると、すぐ指示を飛ばした。
「住民は広場へ集めろ!」
「水と食料の確保!」
「怪我人は治療所へ! 動けない者を先に運べ!」
「斥候を出せ! 南西の道を見張れ!」
声が響いても、返事は弱い。
人が足りない。気力も足りない。
それでも動くしかない。
*
パルマのハンターギルドは、グレンより少し大きかった。
だが中に入った瞬間、全員が悟った。
――ここも同じだ。
依頼板の前に人だかりはない。
酒の匂いも薄い。
武器の手入れをする音だけが、乾いて響く。
残っているハンターは少数。
顔に疲労と諦めが張り付いている。
受付に立つギルド員が、ギルド長に頭を下げた。
「……来たんですね。グレン支部の方々」
「状況は?」
ギルド員は、一瞬目を逸らした。
「王都からの正式な返答は……こちらも、ありません」
「要請は出しました。返事も催促もしました」
「……ですが、返ってこない」
沈黙が落ちた。
“見捨てられた”という単語が、誰の喉にも引っかかる。
口にした瞬間、折れる。
だから誰も言わない。
パルマ側のハンターが苦笑した。
「……分かってます。もう、分かってるんですよ」
空気が、それを物語っていた。
*
担架は治療所へ運び込まれた。
ユウヤは、まだ目を覚まさない。
シエラが付き添い、回復の光を絶やさない。
そこへパルマの回復役たちも加わった。
「……この男が例の……」
「ジェネラルを二体……?」
「嘘でしょう……」
視線が集まる。
恐れと期待の視線。
ユウヤは、包帯の下で小さく息をしているだけだった。
回復役の一人が、シエラの手元を見て言った。
「……治るのは、治ります」
「でも、時間が必要です。焼けた肉も、傷んだ骨も……魔法で戻すには時間がかかる」
「怪我が治っても、意識が戻るとは……」
シエラが、噛み殺すように返す。
「……分かってます」
「分かってますけど……」
指先に光を灯す。
「やるしかないんです」
治療所の空気は、祈りと焦りで満ちた。
外ではギルド長が、地図の上で指を止めたまま動かない。
パルマには結界がある。
だから一瞬だけ、皆の呼吸は戻った。
――でも。
追撃は止まらない。
*
夕方。
斥候が戻った。
泥だらけで、顔色が灰色だった。
ギルド長が聞く。
「……どうだ」
斥候は、声が出ないまま首を振り――それから絞り出した。
「……早いです」
「予想より……早い」
「このままだと……“明日”には来ます」
誰かが膝から崩れた。
「……一日も休めないのかよ」
「ここまで逃げてきたのに……」
「パルマでも同じか……」
絶望が、広場の空気に沈む。
ガイは治療所の方角を見た。
ユウヤが眠っている場所。
光が揺れている場所。
(起きなかったら、詰みだ)
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
(……いや)
(“起きても”詰みかもしれない)
二千。
キング。
ジェネラル複数。
メイジ、ナイト、ホブ。
一人の力で覆せる数字じゃない。
でも――覆せなければ終わる。
結局、賭けるものは一つしかなかった。
治療所の中。
眠ったままの青年。
ユウヤ以外に縋れるものは、もうなかった。
そして皆、理解していた。
もう、逃げられない。
戦っても勝ち目はない。
――ゴブリン軍到着まで、残り一日。




