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第06話 - 好きにしろ、数を数える側になる日

人が増えれば、空気は変わる。


足音が重なり、咳が重なり、

水の跳ねる音が長く残る。


同じ石壁の中でも、

昨日と今日では、息の重さが違う。


革は触れれば答える。

場所もまた、沈黙しない。


整えられていないものは、

やがて、どこかを止める。


止まるのは、ほんの一瞬でも。


それは確かに、重い。

朝の石灰槽は、まだ光を持たない。


白濁した水面が、ゆっくりと揺れている。

桶の縁が軋み、皮が沈む。


新しく入れられた奴隷たちは、動きが荒い。

攪拌の棒が水面を叩き、石灰が跳ねる。


タリクは黙って見ていた。


濃度は変わっていない。

温度も、昨日と大差はない。


だが。


引き上げられた一枚の皮が、わずかに違う。


繊維の締まりが不均一だ。

端だけが、妙に硬い。


彼は皮の縁を指で曲げる。

反り返りが強い。


「……攪拌が浅い」

小さく呟く。


だがそのとき、隣でサフィアが同じ皮を持ち上げた。


彼女は指先で、端をなぞる。

中央と端を、交互に押す。


「タリク」

声は低い。

「この皮、端だけ急いで乾いたようです」


「乾燥はまだだ」


「ええ」

彼女はうなずく。

「ですが、触れた感じが違います。

 中央は柔らかく、端は沈黙の後のように固い様な…」


タリクは彼女を見る。


沈黙の後。

祈りの終わりに残る、あの張り詰めた感触。

彼はもう一度、縁を曲げる。


確かに硬い。

だが石灰濃度は一定のはずだ。


「槽の位置か」

彼は周囲を見る。


新入りが攪拌を担当している。

棒は中央をかき回すが、端までは届いていない。


沈殿した石灰が、縁に溜まっている。


サフィアが言う。

「この様な場合は、どうするのが正しいのでしょうか」


断定ではない。

問いだ。


「私は、端から中央へ混ぜる方が良いと思いますが」


タリクは一瞬黙る。

端から中央。


沈殿は縁に溜まる。

攪拌が浅ければ、濃度勾配ができる。


理屈は合う。

「……すなわち、攪拌の順序を変える」


彼は棒を取り、ゆっくりと縁をなぞるように動かす。

水面が円を描く。

沈殿が崩れ、白濁が均一になる。


新入りが戸惑っている。

タリクは短く言う。

「端から回せ」


それだけ。

反発はない。

皆、疲れている。


数刻後。

引き上げた皮の縁を曲げる。

反りは弱い。


中央との差も小さい。

サフィアが静かにうなずく。

「戻りが揃っています」


タリクは皮を光にかざす。

確かに、繊維の締まりが均一だ。

彼は彼女を見る。


「俺は濃度を見ていた」

声は低い。

「お前は、革を見ていた」


サフィアは目を伏せる。


「革は正直です」

修道女のように言う。

「隠せません」


そのとき、背後で足音が止まった。

ハーリドだ。

腕を組み、二人の作業を見ている。


目は細い。

だが、怒りはない。

しばらく沈黙。


「作業は止まっていないな」


「はい」

タリクは答える。

「攪拌の順序を整えただけです」


ハーリドは槽を覗き込む。

水面は静かだ。


「無駄が減るなら、好きにしろ」

それだけ言い、去る。


許可ではない。

禁止でもない。


サフィアが小さく息を吐く。

「止められると思いました」


「効率が落ちていない」

タリクは皮を戻す。

「だから、止めない」


石灰槽の水面が、均一に揺れる。

新入りの手の動きも、少しだけ整っている。


革は、沈黙しない。

触れれば、答える。

サフィアが言う。

「変だと思ったら、聞いても良いのですね」


タリクはうなずく。

「工程は、問う者を拒まない」


彼女は静かに微笑む。

朝の光が、ようやく槽の縁を照らす。

白濁は、昨日より均一だった。


昼の熱は、石壁の内側にこもっていた。


新しく連れてこられた者たちは、まだ動きが荒い。

寝藁の束が増え、通路は狭くなった。

桶を抱えたまま、誰かの肩にぶつかる。


石床は乾ききらない。


排水の溝は浅く、灰と脂が溜まっている。

水を流せば、一度は引く。

だが、すぐに戻る。


タリクは桶を下ろし、床の勾配を目で追う。

わずかに逆流している。


「人数が増えただけだ」

低く言う。

「工程は変わっていない」


サフィアは寝藁の山を見た。


重なりが厚い。

湿りが抜けない。


「祈りの声が増えました」


「……祈り?」


「咳です」


遠くで、乾いた咳が重なる。

短い。

止まらない。


タリクは黙る。


水場へ向かうと、桶が三つ並んでいる。

順番を待つ者が立ち尽くす。


一人が洗い終える頃には、もう一人が押し出す。

水は濁る。


「洗浄が不十分になる」

タリクが言う。

「塩抜きも、手洗いも」


「床も」

サフィアが足元を示す。


石灰と水が混じり、薄い泥になる。

新入りの一人が滑りかける。


彼女は小さく眉を寄せた。

「寝る場所も、昨日より近いです」


藁と藁の間隔が狭い。

呼吸が混じる。


夜の熱は、抜けない。

タリクは壁際に手を当てる。

湿気がこもっている。


「換気が足りない」


「窓は小さいです」


「扉は夜に閉められる」


沈黙。


周囲では、誰かが小さく言い争っている。

水の順番だ。


サフィアはその声を聞きながら言う。

「動線が交差しています」


タリクが彼女を見る。

「動線?」


「水へ行く者と、戻る者が同じ道を通ります。

 桶を抱えた者と、空の者も」


確かに。


狭い通路に、往復が混ざる。

肩がぶつかり、足が止まる。


止まれば、列が詰まる。

タリクは床を見下ろす。

「無駄が増えている」


「ええ」

サフィアはうなずく。

「人数が増えただけで、祈りも、咳も、衝突も増えます」


彼女は続ける。

「このままでは、革も遅れます」


作業効率が落ちる。

それはハーリドにとって損だ。

タリクは壁の陰に積まれた藁を見る。


湿り。

圧迫。

空気の滞留。


「棚を作れば、二段にできる」


「上と下で風が通ります」


「排水溝を深くする」


「水場を一方通行に」

二人の声は低い。


命令ではない。

確認だ。


サフィアが静かに言う。

「この様な場合、何から整えるのが正しいのでしょうか」


挿絵(By みてみん)


タリクは少し考える。

「最初は、衝突だ」


「衝突?」


「人が止まると、全体が止まる」

彼は通路を指でなぞる。

「水場へ行く道と、戻る道を分ける」


「片側通行に」


「そうだ」


サフィアは小さくうなずく。

「無駄も減ります」


彼女は続ける。

「寝藁は、間を空けられませんか」


「数が足りない」


「積むしかないですか」


タリクは藁の束を持ち上げる。

下は湿っている。

「乾燥棚の下を使える」


「革の下ですか」


「夜だけなら」


サフィアは考える。

「革と人、どちらが優先ですか」


タリクは一瞬だけ笑う。

「資産は革だ」


「ええ」


「だが、革を作るのは人だ」


沈黙。


遠くで、ハーリドの声が響く。

作業の指示だ。

サフィアが言う。

「提案しても、止められませんか」


「効率が上がるなら、止めない」


「効率が下がれば」


「止められる」


彼女は視線を上げる。


「では、効率が上がる形で話します」


修道女の顔ではない。

現場の顔だ。

タリクはうなずく。

「すなわち、管理の負担を減らす」


サフィアは小さく息を吐く。

「倒れる者が増えれば、資産は減ります」


「その言葉で十分だ」


新入りの一人が、再び水場で揉める。

桶が倒れ、水が床に広がる。

泥が広がる。


サフィアはその様子を見つめる。

「もう、悪くなっています」


タリクも見る。

確かに。

工程は同じだ。

だが、環境が変われば、結果は変わる。


「……整える」

彼は低く言う。

「革だけでなく、空間も」


サフィアがうなずく。

「工程は、場所にもあるのですね」


石壁の中の空気は重い。

だが、二人の声は静かだった。

乱さずに整える。


それだけで、明日は違う。


◆◆◆


夕刻。


作業の合図が鳴り、石灰槽の水面が静まる。


新入りの一人が通路で足を滑らせた。

桶が倒れ、水が石床を走る。

三人が動き、二人が待つ。


止まる。

ほんのわずかな時間だが、確かに止まる。

ハーリドが振り向く。


「片付けろ」

短い声。


怒号はない。

だが、視線は鋭い。


タリクはその様子を見ていた。


止まった刻。

止まった手。

止まった革。


数えられない。

だが、確実に減る。


作業が落ち着いた頃、二人は炉のそばへ向かった。

ハーリドは帳面を閉じる。

「何だ」


「お願いがあります」

サフィアが一歩前に出る。。


ハーリドの目が上がる。

「何だ」


「場所の使い方を、少し変えたいのです」

サフィアの声は低い。


「通路を一方通行にします。

 水へ行く者は左、戻る者は右。

 桶がぶつかりません」


沈黙。


タリクが続ける。

「転倒が減れば、水の無駄も減ります。

 止まる刻も減ります」


「水は汲めばよい」


「汲む者の手が止まります」


「……革も止まる」


ハーリドが呟く。

「他には」


「排水溝を少し深くします。

 石はそのまま使えます」


「道具は」


「今あるもので足ります」

サフィアが言う。

「寝藁を二段にします。

 乾燥棚の下を、夜だけ借ります」


ハーリドの眉がわずかに動く。

「革に触れれば終わりだ」


「触れません」

タリクは即答する。


沈黙が落ちる。

炉の火が揺れる。


ハーリドは二人を見る。

「なぜそこまで整えたがる」


問いは静かだ。

サフィアは一瞬だけ言葉を探す。

「咳が増えています」


「咳では死なん」


「倒れれば、作業が止まります」

彼女は続ける。

「資産が減ります」


その言葉を口にした瞬間、

タリクの胸の奥がわずかに軋む。


資産。


人をそう呼ぶ声に、自分の声が混ざっている。

だが、他の言葉では通らない。

ハーリドの目が細くなる。

「証拠は」


「先ほど三刻、通路が止まりました」

タリクは事実だけを置く。

「三人が動き、二人が待ちました」


沈黙。


「金はかからぬな」


「はい」


「革は傷まぬな」


「傷めません」


長い間。


炉の火がぱちりと鳴る。


「……やってみろ」

二人は頭を下げる。


「三日だ。

 一枚でも革を駄目にすれば、戻す」


「はい」


ハーリドは帳面を開き直す。

「結果で示せ」


許可ではない。

試用だ。


二人は炉を離れる。

通路を歩きながら、サフィアが静かに言う。

「資産、と言いました」


「……ああ」


「私は、あの人たちを数にしました」


足音だけが響く。


タリクは答えない。

いつからだろう。

サフィアは“倒れる数”を数えている事に自分で気づく。


生き延びるために。

整えるために。

だが、言葉は冷たい。


サフィアが続ける。

「他の言葉では、通らなかったと思います」


「通らなければ、変えられない」

タリクは低く言う。

「変えなければ、もっと倒れる」


沈黙。

石壁の空気は重い。


「すなわち」

サフィアが言う。

「正しい言葉ではなく、通る言葉を選んだのですね」


タリクは小さく息を吐く。

「悪くない」


その言葉は、いつもより軽くない。


通路はまだ狭い。

寝藁は湿っている。

だが、明日から少し変わる。


棚をずらし、溝を掘り、道を分ける。

大きな改革ではない。

整えるだけだ。


遠くでハーリドが二人を見る。

止めはしない。

だが、忘れもしない。


三日。


結果が出なければ、元に戻る。

タリクは石壁に手を触れる。

工程は、場所にもある。


だが。


人を数として語るとき、

どこかが削れる。


それでも。


削れない部分がある限り、

整えるしかない。


三日間が、始まる。

革の繊維だけでなく、

人の動きや空気の流れにも、工程はある。


整えることは、支配に似ている。


数え、並べ、減らし、揃える。


それが誰のためかを問わなければ、

ただの管理になる。


だが、問うだけでは何も変わらない。


通る言葉を選ぶこと。

通る形で整えること。


削られるものがあると知りながら、

それでも削られない部分を守ること。


それが今、二人にできることだった。

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