第03話 - すなわち、提案の意味
旅は、目的地から始まらない。
最初に決まるのは、
どこへ行くかではなく、どこへ行かないかだ。
大きな街は、多くの選択肢を与える。
同時に、選ばなかった理由を問い続ける。
一方、修道院は静かだ。
そこでは、止まること自体が罪にならない。
この話は、
若い遍歴職人が「仕事」を選ぶ物語ではない。
自分の速度を選ぶ物語だ。
そしてそれは、
誰かに導かれながらも、
最後は自分の言葉で確かめるしかない判断だった。
最初の宿を出て、数日が経った。
俺は相変わらず、
旅慣れたエルサの後ろを歩いている。
歩く速さ。
休む間合い。
水を汲む場所。
どれも、
「知っている人間の選び方」だった。
俺は、まだ慣れない。
足の疲れ方も、
背負い袋の重さも、
毎日、微妙に違う。
「……ないわー」
思わず漏れる。
エルサは振り返らない。
だが、
歩幅が、ほんの少しだけ緩む。
それで十分だった。
修道院へ行くべきだ――
その話は、
すでに一度、彼女の口から出ている。
だから俺は、
すぐには何も言わなかった。
考える時間が必要だった。
ケルン。
大きな街。
仕事はある。
情報も多い。
だが同時に、
ギルド、登録、紹介状、
そして「順番」。
「……すなわち」
木陰で腰を下ろしたとき、
俺はようやく口を開いた。
「エルサ」
彼女がこちらを見る。
「この前の話だけど」
「修道院に行った方がいい、
ってやつ」
エルサは、否定も肯定もせず、
ただ待つ。
俺は続けた。
「最初は、
逃げ道みたいに聞こえた」
「街に行かない理由を、
探してるだけなんじゃないか、
って」
正直な感想だった。
エルサは、
それでも口を挟まない。
だから俺は、
考えたことを、そのまま言う。
「でも、数日歩いてみて」
「ケルンに行くってのは」
「仕事を探す前に、
自分を登録することなんだな、
って思った」
エルサの視線が、
少しだけ鋭くなる。
俺は続ける。
「修道院は違う」
「必要な分だけ、
働けばいい」
「出来ない日は、
出来ないで済む」
一拍。
「……今の俺には、
その方が合ってる」
エルサが、静かに頷いた。
「なるほど」
その言葉は、
確認だった。
「修道院を勧めたのは」
エルサが、ゆっくり言う。
「自由だからではありません」
俺は眉を上げる。
「違うのか?」
「はい」
「止まれるからです」
その一言に、
俺は黙った。
エルサは続ける。
「街では、
止まる理由を説明しなければならない」
「修道院では、
止まること自体が
受け入れられます」
俺は、息を吐いた。
「……なるほど」
それは、
俺が言う番だった。
「すなわち」
「俺は、
止まりながら考えたい」
エルサは、
ほんのわずかに微笑んだ。
「だからこそ」
「谷の修道院です」
彼女が指差した先には、
まだ見えないが、
水と森の気配があった。
俺は立ち上がり、
荷を背負い直す。
「……ないわー」
「最初から、
そのつもりだっただろ」
エルサは答えない。
ただ、
歩き出した。
俺はその後ろを追いながら、
思う。
――これは、
彼女の提案だ。
だが同時に、
今は、俺の判断でもある。
その感覚があれば、
十分だった。
◆◆◆
森の道は、次第に下り坂になっていた。
街道の音は遠ざかり、代わりに、かすかな水の響きが混じり始める。
「谷に入れば、しばらくは外から来る者も少ないでしょう」
「それで?」
エルサは一歩先を歩きながら、続けた。
「修道院は、あなたの腕を試す場所ではありません。
ただ——使う場所です」
その言葉に、テオドールは思わず足を止めた。
「使う、か」
「ええ。良ければ使われ、悪ければ使われない。
それだけです」
評価も、称賛も、交渉もない。
ただ、必要かどうか。
遍歴の中で、テオドールが最も信じてきた基準だった。
「……分かった」
彼はそう言って、森の道へ向き直った。
しばらく歩くと、木々の間から、谷が見え始める。
低く、深い。
底を流れる川は一本ではなく、段をつくりながら落ち、また集まっている。
その水音は、荒々しくはないが、途切れることがなかった。
「もうすぐです」
エルサが言った。
谷の底、川の傍らに、石造りの屋根が見える。
高い塔も、飾りもない。
ただ、流れに沿って置かれた建物が、そこにある。
テオドールは、その配置を見ただけで理解した。
——水を、使う場所だ。
祈りのためではなく、仕事のために選ばれた土地。
そして、その仕事が祈りから切り離されていない場所。
「……なるほどな」
彼は、そう呟いた。
ケルンは、まだ遠い。
だが、この谷は、これからしばらくの間、彼らの居場所になる。
滝の音が、森の奥からはっきりと聞こえ始め、
谷へ下る道は、最後に少しだけ緩やかになった。
足元の土は踏み固められ、獣道ではなく、人の通う道の手触りに変わる。苔のついた石が規則正しく並び、誰かが長い時間をかけて整えてきたことが分かった。
川のそばに近づくにつれ、匂いが変わる。
湿った土、水、そして――かすかに、革。
建物は思ったより低かった。
教会堂も回廊も、谷に埋め込まれるように建っており、遠くからは屋根しか見えない。装飾はほとんどなく、白い石壁も年月にくすんでいる。
エルサは歩みを止め、軽く頭を下げた。
「ここからは、聖バルトロメオの谷修道院の敷地です」
ほどなく、扉が開いた。
現れたのは、年配の修道女だった。背は低く、目は鋭いが、声は落ち着いている。
「お待ちしていました」
短い言葉だったが、それで十分だった。
簡単な挨拶を交わした後、エルサは用件を伝える。修道会の名、滞在の理由、そして同行者について。
修道女はテオドールを一瞥し、すぐに視線を外した。
「……こちらの方は」
「革職人です」
エルサが答える。
「修道会の仕事のために、しばらく力を借ります」
修道女は頷いた。
「承知しています。ただ――」
彼女は一歩下がり、門の内側を示した。
「ここは女子修道院です。
男性は中へ入れません」
言葉に棘はなかった。
それが規則であり、例外ではないというだけだ。
テオドールは肩をすくめる。
「だろうな」
「外に、職人用の宿舎があります」
修道女は谷の反対側、川を挟んだ場所を指した。
「作業場と同じ側です。
夜は鐘が鳴ります。それを合図に、こちらとは行き来を断ちます」
エルサは一度だけテオドールを見る。
「……私は、修道院に入ります」
「分かってる」
それ以上、言葉は要らなかった。
修道女は一度中へ戻り、すぐにもう一人を連れて現れた。
「ルドルフ」
呼ばれた少年は、慌てて一歩前に出た。
八つか、九つか。
白に近い金髪と、透き通るような青い目。痩せてはいるが、動きは軽く、手足には水仕事の跡が残っている。
「この方を、宿舎まで案内しなさい」
「はい!」
返事はやけに大きかった。
修道女はテオドールに向き直る。
「この子は、修道院付きの見習いです。
作業場と宿舎のことは一通り知っています」
そう言ってから、付け加えるように言った。
「……世話を焼くのが好きで」
少年は胸を張った。
「できるもん!」
テオドールは、思わず口の端を上げた。
「よろしくな」
「ルディでいいよ!」
少年――ルディは、すぐに踵を返した。
「こっち! こっちだよ!」
川沿いの小道を、ほとんど跳ねるように進んでいく。
宿舎は、修道院から少し離れた場所にあった。
石と木で組まれた簡素な建物だが、屋根はしっかりしており、川からも距離がある。
「ここね、職人の人が泊まるとこ」
ルディは扉を開けながら説明する。
「朝は鐘が鳴るでしょ。
そしたら、まず水! 水運ぶ!」
中は質素だったが、清潔だった。寝台が二つ、木箱が一つ、壁に掛けられた道具用の釘。
「ごはんはね、こっちの鐘のあと!」
ルディは窓の外を指す。
「でも、修道院の中では食べないよ。
ここに運んでくれるの」
「ふうん」
「夜はね、もう行っちゃだめ。
鐘が鳴ったら、絶対だめ!」
言いながら、少年は真剣な顔になる。
「だめなの。ほんとに」
「分かった」
テオドールは頷いた。
ルディは安心したように笑った。
「それでね、それでね!」
彼は次々と話す。
水はどこから汲むか
革を干す場所
触っていいものと、だめなもの
怒られるときに呼ばれる名前
「叱られるときだけ、ルドルフって呼ばれるんだ」
誇らしげでも、少し不満そうでもある。
テオドールは、黙って聞いていた。
この谷には、規則がある。
祈りと仕事が混ざらないための、細かくて、譲れない線引き。
そして、その線を一番よく知っているのは、この少年なのだろう。
「……世話になるな」
そう言うと、ルディは一瞬きょとんとした後、また胸を張った。
「うん! まかせて!」
川の音が、近くで鳴っている。
テオドールは、この場所での生活が、もう始まっていることを感じていた。
第三話で描かれたのは、
大きな決断ではない。
剣を抜くわけでも、
契約を交わすわけでもない。
ただ、
一度立ち止まる場所を選んだ
それだけだ。
だが、この選択は静かに重い。
なぜなら、
止まれる場所を選ぶということは、
自分が急がない理由を引き受けることだからだ。
エルサの提案は、道を示した。
テオドールの判断は、その道を自分のものにした。
修道院は、
答えを与える場所ではない。
問いを長く抱えることを
許してくれる場所だ。




