第一話 「飯はまだか」
休憩時間中。あと10分ほどあるので、218号室に寄ることにした。
「キクちゃーん、また来たよー」
扉を開けると、静かな部屋に柔らかな日差しが差し込んでいた。半分開いたカーテンからの光の中で、滝川キクさんはベッドに静かに横になっていた。
92歳。小柄でやせた体は薄手の毛布にくるまれ、かすかに上下している。顔は柔らかく緩み、目じりに深いしわを寄せて、こちらに気づくとにっこりと笑った。言葉はほとんど出ないけれど、その笑顔は声よりも雄弁だった。
私は、つらいことや嬉しいことがあると、決まってここに来て話を聞いてもらう。
本来、利用者を「ちゃん」付けで呼ぶのはNG。でも、キクちゃんにだけは自然とそうなってしまう。気がつけば、友達のように、姉のように、母のように──。
このあいだの高山さんの事故のあとも、ここに来た。悲しさをこらえきれず、涙をにじませながら打ち明ける私の顔を、キクちゃんはただ真剣に見つめていた。いつもは微笑んでいるのに、その時だけは眉を寄せ、頷きながらじっと耳を傾けてくれた。
そして最後に私が「また頑張るよ」と言うと、ふわりと笑って大きく頷き、まるで背中を押すようにしてくれた。
ベッドのそばにかがみこみ、私は声をかける。
「今日はいい天気だよ。10月になって、空がちょっと高くなってきたって感じ。少しだけ秋だね」
キクちゃんはまたゆっくりと笑みを浮かべ、光の中でまぶしそうに目を細めた。その顔をもう一度確かめて、私は部屋をあとにした。
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「ちょっと。飯はまだか?」
廊下に出た途端、背後から低く響く声に振り返る。そこには本田武蔵さんが立っていた。
87歳にしては背が高く、姿勢もしゃんとしている。濃い眉の下から鋭い視線を向けていて、杖を片手にまっすぐこちらを見ていた。
時計は午後2時前。昼食はとっくに済んでいる。今日のメニューは酢豚。本田さんはいつものようにぺろりと平らげ、フロアで一息ついたあと、自室に戻ったはずだった。
「本田さん、お昼ごはん、召し上がりましたよ」
「いや、まだや。なんも出てこん。もうワシ、ずっと待っとるんや」
声は大きくはないけれど、胸にずしんと響く。部屋に戻ってしばらくすると、食べた記憶がふっと抜け落ちる。それでも本人にとっては“食べていない“という確信だけが残る。その真剣な表情を見るたび、胸にじわりと重いものが広がる。
「今日は酢豚でした。本田さん、きれいに召し上がりましたよ」
「そんなもん、知らん。ワシは食べとらん」
頑なな言葉。穏やかな口調なのに、芯は強い。本田さんは怒鳴らない。けれども譲らない。
そこへ久世ちゃんが通りかかった。彼女は少し首をかしげ、軽い調子で声をかける。
「本田さん、もうお腹すいたん?」
「ワシはまだ飯をもろてへん言うとるんや」
「そうなんや〜。今日は酢豚やったけどなあ。おいしかった?」
「……知らん」
久世ちゃんの言葉には悪意はないのはわかっている。でも、聞く側にとっては……ちょっと、ね。
私は短く息をついて、声をかける。
「本田さん、ちょっと確認しますから、お部屋で待っていていただけますか」
「そうか…頼むわ」
ゆっくりと背を向け、杖を突いて歩いていく後ろ姿。私は小さくため息をついた。また今日もか…。慣れているはずなのに、慣れきることはない。
食事の記憶って、こんなふうに曖昧になるのかもしれない──母もそうだった。
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あれは、ホスピスに入る前、病院に入院していた頃のこと。ある夜、母の携帯から突然電話がかかってきた。受話器の向こうで母は切迫した声を上げていた。
「美加ちゃん! お母さんもうダメ! ずっとごはん食べてないの!」
病室の蛍光灯の下で、母はどんな顔をしていたのだろう。私は慌てて応じる。
「そんなことないと思うよ。6時には食べてるはずだよ、きっと」
「ううん、もう1週間食べさせてもらってないの!」
あの頃の私は、母の認知機能がどれほど落ちていたのか気づいていなかった。でも、さすがに事実ではないとわかった。
「もう夜だから今日は寝てね。明日の朝、ちゃんと出してもらえるように私からも言っとくからね」
電話を切ったあと、母がこんな訴えをしてきたことを念のために病院にも知らせておこうと思い、病棟に電話した。すると、応対した看護師さんは淡々と「はいはい、わかりましたー」とだけ。その返事は私にはどこか冷たく感じられた。
けれどもあとになって気づいた。毎晩決まって夜7時になると、母は必ず同じ訴えをしてきたのだ。
それは母にとってのルーティンになっていた。そう思うと、あの看護師さんの素っ気ないように聞こえた返事も、今ではよく理解できる。
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夕食のあと、時計の針はゆっくりと進む。今日一日の出来事を思い返しながら帰り支度をする。
──本田さん、部屋から出てこないな。このまま穏やかだといいんだけどな。
今日も一日慌ただしかったけれど、こうして終わりに向かうと、胸の奥に今日の区切りがすっと収まる。
藍色の夕暮れをぼんやりと眺めながら、私はゆっくりと帰路についた。