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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第二章 飯はまだか

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第五話 思考の沼

夕暮れ時のブルースター。本田さんは昼間の騒動とは打って変わって、穏やかに夕食を口に運んでいた。


食事を終えると、にこりと笑って「おいしかった」と片手を挙げ、ゆっくりと部屋へ戻っていった。


ふと、今日はもう大丈夫だろうか、「飯はまだか」と言ってまた出てくるだろうか…と考えながら、食後の配薬や下膳を進める。


あ、そうだ。帰る前に、ヒヤリハットの続きをしなくちゃ。



フロアが一段落したのを見届け、私は1階へ降りようと階段室の扉へ向かった。この扉もエレベーターと同じで、暗証コードを入力しないと開かない。


ピッポッパッと押して扉を開けると、窓のない階段室は真っ暗。中に入るとセンサーが反応して、パッと明かりがついた。


その瞬間──。


足元に人影がうずくまっている。


「どわーーーーーーっ!!!」


思わず変な声を上げてしまった。


「あ、権田さん。ごめんごめん」


前田さんだった。階段に腰掛け、パンを食べていた。


「……なんでこんな所で?」


「あ、今日、日勤で忙しくて昼メシ食べ損ねて。このあと事務仕事あるから、ちょっと今、食べておこうかな、と思って」


「真っ暗な階段で?」


「じっとしてたらセンサー切れちゃって。暗くなったけど、まあいいかな、と思って」


前田さんは、この状況に似合わない爽やかな笑顔で答えた。いや、それにしても、何もここで食べなくても…。


んーーーー、不可解。



「本田さん、落ち着きました?」


パンをかじりながら、しれっと前田さんが聞いてきた。私はつられて階段に腰を下ろし、そのまま返事をした。


「今はね。もう少ししたら、また“飯はまだか”が始まるかもだけど」


「まあ、繰り返しですよね。でも、今日みたいなのがまた起こらないといいですね」


「そうなのよ。ヒヤリハットを入力してる途中なんだけど、防止策をどう書こうか迷ってて。個人に合わせるべきか、誰にでも通用する形にするべきか」


「いつも真面目ですね、権田さんは」


真面目というより、考え始めると底なしに沈んでいくタイプなのだ。思考の沼に。


「今回は本田さんのケースに絞ったほうがいいと思いますよ。人によって性格も生活のパターンも違うから、対応も変わるはずです」


なるほど。


昼間、中西ヨシエさんが「食べてない」と言ったときは、パターンがわかっていたから、あとで部屋に食事を届けて丸く収まった。あれも、その人に合わせた対応だったな。


「じゃあ、そうする」


口にしてから、また気づく。それぞれの性格や生い立ち、経歴……すべてを把握するのは簡単なことじゃない。


ああ、また思考の沼に足を取られ始めている。



本田さんと私の父。雰囲気は似ているけれど、歩んできた人生はまったく違う。違って当たり前なのだ。


「前田さんのお父さんって、どんな人?」


唐突な質問に、一瞬だけ前田さんが目を瞬かせた。それから、あっさりと答える。


「んー、普通かな」


「普通って?」


「恐くもないし、頼りなくもないし」


それが今時の“普通”なのかもしれない。そう考えると、前田さんのお父さんは、私とそう年齢は変わらないだろう。だから本田さんや私の父のような、昭和の頑固一徹な父親像とは少し違うのだろうな。


そんな話をしていると、ふいに照明が落ちて暗闇が降りた。動かずにいたせいで、センサーが反応しなくなったのだ。


前田さんが立ち上がる。すぐに明かりが戻り、彼はまた同じ場所に腰を下ろした。



「お父さん、優しい?」


どんな答えを期待していたのか、自分でもよくわからないまま、ふいに問いかけてみた。


「あー、俺、初めての子だし。小さい頃は甘かったと思いますね。おもちゃも色々買ってくれたし」


「わー、いいなぁ」


素直に、羨ましいと思った。


「権田さんは、上にお兄さんかお姉さんいました?」


「私も長女で最初の子なんだけどね。全然買ってくれなかったのよ」


「女の子なら、父親は特に可愛がりそうなものですけどね。色々なんですね」


そう。 “普通”という言葉が合っているのかどうかはわからないけれど、普通ならそう思うだろう。



特に私は、両親が結婚して5年目にようやく生まれた子だった。人に話すと「さぞ可愛がられただろう」と言われることもあるけれど、そんなことはなかった。


おもちゃどころか、幼少期のメインイベントである七五三でさえ、私は着物を着せてもらえなかった。


「たった一度のためにそんな高いもの買ってどうする。いらんいらん」


もちろん、お金のこともあったのだろうけれど、父の場合はそれだけじゃない。慎ましく暮らしてきた父にとって、騒ぎ立てるほどのことではない──“浮かれるな、調子に乗るな”という気持ちがあったのだと思う。


いや、でも、子どもにとっては、特に女の子にとっては、人生でたった一度しかないからこそオシャレをして過ごしたい特別な日だ。一度しかないその日に、私はどうしても着物を着たかった。


母は、買うのは無理でもせめて貸衣装で、と思ってくれたようだった。当時は今ほど貸衣装も身近ではなかったけれど、母はなんとか私に着物を着せてやれないか、とあれこれ考えてくれた。


──結局、私や母の気持ちは父には届かず、着物は却下。代わりに着せられたのは紺色のワンピース。しかも、従姉妹のお姉ちゃんのお下がりだった。


今もアルバムに残る写真には、神社の七五三の式で、着物姿の女の子たちが並んで座る中、一番後ろの端で下を向いて座る紺色のワンピース姿の私が写っている。



ふっと、また照明が消えた。まるで、あの時の私の心境のように。

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