34 海底へ(海溝の底2:ディートリッヒ)
■海妖精ディートリッヒの視点
海上から何千メートルと潜った、深い深いテラメディウス海の底の、さらに尖鋭な海溝の底。
私とシスティーナは、世界で最も深い場所ではないか、と思われる場所に来た。
光る海の近くだ。
そこは海溝の底とは思えぬような、美しい光景に包まれていた。
身の引き締まる、涼やかな藍色の空間。
粒の小さい、白い砂の海底。
美しく雄々しい、峻険な断崖。
そしてそれらを照らしだす、夜明けの直前のような、光。
その光の元は、そそり立ち挟み来るような断崖と断崖の遥か先からやって来る。光の線が、青く煙る海溝の彼方より、射し込まれるのだ。
藍色の世界には一メートルくらいの大型の魚たちが群れをなして泳ぐ。不可思議な進化を遂げた深海魚ではなく、ごくごく普通の海にいるような大型の魚だ。
そんな海溝の底。
我々の目の前に、石碑と見まごう楕円形の巨大な岩の塊があった。一枚の岩盤と言っても過言ではない巨大な塊があった。
亀の腹甲だ。
なんという光景だろうか。にわかには信じられず、目を疑う光景だ。高さが優に二十メートルは越える巨大な亀の甲羅が、頭側を白い砂の海底に深々と突き刺した状態で、逆立ちしているかのごとくそびえ立っていたのだ。
なぜ頭側が下だと分かるのかと言えば、甲羅の天辺から鋭利なトゲと水掻きの付いた太く長い尾がダラリと垂れ下がっていたからだ。
亀竜の骸だ。
巨大だ。ただただ巨大だ。黒光りする鋭利な爪だけで、私の身長よりも大きい。その爪の生える指も腕も、竜や爬虫類独特の岩石のごとき皮膚で覆われ、本当に血の通う生命体なのかと疑ってしまう。
そんな巨大で、強靭な海の魔物を。
弱肉強食の無慈悲なこの海で頂点に君臨していたであろう双頭の亀竜を。
あの男は、葬ったのだ。
神殿騎士という、龍のような男が。
だが……。
龍は……。
あの男は……。
その亀竜の……下に……。
私は……恐ろしくて隣の娘を見ることが出来なかった。
私がここまで運んできた森妖精の美しい娘を……。
龍が生きていると信じ、ここまでやって来た森妖精を……。
誰よりも龍を愛し、残りの千年余りの寿命を、龍への想い、龍からの想いで生きていくであろう長命の妖精の娘を……。
彼女が今、どんな表情をしているのか……。
怖くて見ることができない……。
龍は、恐らくあの甲羅の下にいる……。
数十トンはあると思われる亀竜の下に……。
こんな海溝の底で……どうやって助け出せば……。
誰かに助けを求めることもできん……。
私は恐ろしくて横を見ることができない。
彼女の心に、どれほどの感情の濁流が渦巻いているのか……。
その時……。
「うふふ……ふふ……ふふふふっ」
耳元で、少女が笑っていた。私は……恐る恐る……隣の娘を見た。
「うふふ……ふふ……ふふふふっ」
森妖精の娘は……ただただ……笑っていた……。
満ち足りた笑みで……。
幸せに包まれた笑みで……。
亀竜の骸を指差して、私に笑みを向ける……なんと美しい妖艶な笑みであろうか……。
壊れた……。
現実から逃避した笑みだった。
「しっかりしろシスティーナ!」
「うふふふふ……だって……だって……うふふふふ」
「しっかりしろ!」 私はまた彼女を正気に戻すため、立ち泳ぎしながら彼女の頬を叩いた! バッチーン! 「しっかりしろ!」
「あいたっ! 痛いっ!」
「現実を受け入れろ!」
バチンッ! バチンッ! と何度も彼女の頬を叩く!
「痛いっ! 痛いっ! 待っ!」
「しっかりっ! しろっ!」 バッチン! バッチン!
「わたっ! 正気っ!」
「現実をっ! 見ろっ!」 バッチン! バッチン!
「痛ッ! 痛ッ! ストッ! 待っ!」
「目をっ! 覚ませっ!」 バッチン! バッチン!
「痛ッ! 痛ッ! 待っ! 誤かっ!」
「目をっ! 覚ます! まで! 叩く! のを! 止めない!」
バッチン! バッチン! と十数発叩いていたその時だった!
サンッ!
突然、涼やかな音とともに黄金色の花火が藍色の世界に華開いた! あれ!?
「あれっ!? あれっ!?」
この光は! 龍が何度も見せた聖魔法の光!
あれ!?
その時、頬が丸顔の幼女のように赤く膨らんだシスティーナが、泣きながら訴えた。
「うわあああん! 生きてるの〜! コックリは生きてるのぉ〜! うわあああぁぁん!」
おねだりを聞いてもらえない幼女が泣いているようで、メチャクチャ可愛い!
…………嬉し泣きだよな!
――――――――――――
亀竜の腹甲に、矢印が刻まれている。
聖剣技で刻んだ傷のようだ。
その矢印の方向を見ると、百メートルくらい離れたところに岩場がある。その岩場の上に龍の胴鎧が置かれている。
ふむ、亀竜の突撃によってひしゃげて壊れたのを脱いだようだ。
なるほど、目印だな。
その岩場の後ろにいくと、断崖と岩場のわずかな狭間のスペースに、龍が横たわっていた。
「コックリ! 大丈夫だった!?」
「おぉー……あんまり大丈夫でも……え!? シスなんだその顔!? イテテテテッ!」 龍はシスティーナの顔を見た瞬間、ビクッとした。その動きで傷が痛んだのか脇腹を押さえて顔をしかめた。「ええ〜? 幼児返りした? メチャクチャ幼顔だけど……イテテテテ」
「すまん、私のせいだ!」
「ち、ちょっとその……手違いが……」
その説明で龍は理解したようだ。引きつった笑顔になった。
「ああ~……ゴメン生きてるよ俺……」
「すまん!」
「ゴメンって言わないで!」
腫れた頬で怒るシスティーナだが、やはり腫れた頬でも可愛い。本当に丸顔の幼女のようだ。
「ふふ、これはこれで可愛いけど、治してやるよ。おいで」
「お願い」
「ん……額にもタンコブないか? あれ、ディーもか?」
「「…………」」
本当にすまん!
「どれ……二人とも治してやっから……イテテテテッ!」
「だ、大丈夫!?」
「うう~ん呼吸するだけで痛い」
龍は亀竜との戦闘中、深手を負いながらも聖魔法で回復させながら、なんとか亀竜を倒したという。しかし、聖魔法で怪我を治したとはいえ痛みまでは取れないのだという。龍は顔をしかめながら左の脇腹をさすっている。
「どれどイテテ」
龍はヨロヨロと起き上がると、彼女と私の頭に触れた。次の瞬間 温かな光が龍の手から放たれ辺りを包み込む。
「ふおおっ!」
システィーナを見ると、瞬く間に彼女の頬と額の腫れが引いていく。おお腫れた顔だったのが嘘のようだ。元の美しく可愛らしい顔に戻ったぞ!
龍は手を離すと龍の手の光は消えたが、私とシスティーナには光が宿ったままだ。
そして徐々に光が体に吸い込まれるように消えていく。
ふむ、私は額を触るとタンコブがなくなっていた。我々の状態が元に戻ったことを確認した龍は、再び砂場に横たわった。
「ふう〜、一〜二時間で痛みは引くだろう、イテテテテ。俺もそれくらいで痛みが引くはず」
「ありがと、コックリ」
「恩に着る、龍よ」
「おぉー」
システィーナは痛そうに横たわる龍の傍に膝をついた。そして、恐る恐る龍の脇腹に手を添え静かにさすった。龍の大きな体に対して手が小さくて可愛い。龍は優しいまなざしで彼女のしたいようにさせている。
むう、この二人本当に一度も関係がないのか? 私には深い仲にしか見えんが。
「コックリ……」
「んー?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「んー……?」
「私が……光をつけたばっかりに……私を庇うために……コックリが……」
その時、龍は思い出したような笑顔を見せた。
「ああー! ああー! 俺もあの時のシスの気持ちが分かった!」
「え?」
「ほら大陸斜面前でさ。俺がシスに『 ゴメン 』って言った時。シスが『 謝って欲しくない! 』って言ったじゃん?」
「え、ああ……うん」
龍の突然の話題の転換に、システィーナはいぶかしげな表情だ。
「俺もだ……シスに謝って欲しくないな……」
「ええ? でも……」
そうだな、それでも彼女が申し訳ないという気持ちは消えないだろう。
ならば別の言葉にすればいい。
私は思いついた言葉を述べた。
「ふむ、システィーナよ。『 ありがとう 』でいいんじゃないか」
「「おお!」」
システィーナと龍が同時に声を上げた。
「それだよディー! それだよ、ありがとな」
「うん、そうだね! ディートリッヒありがとう。コックリありがとう」
「おぉー、ディーにはもう一つ感謝しているよ。シスを連れてきてくれて、ありがとな」
「うん、そうだよね! ディートリッヒ頑張って泳いでくれてありがとう!」
「ああ。まあ、最後が悪かったけどな、ははは」
「うふふ、それは忘れようよ」
それから我々は、お互いの痛みが引くまで小休憩することとした。私も泳ぎ疲れたのもあったし休めて助かるな。システィーナは龍の横に座りなおすと、龍の頭を自分の膝の上に乗せた。龍も当然のことのように彼女のなすがままにすると、やがて静かな寝息を立てはじめた。システィーナはその様子に微笑むと、龍の髪を一つまみしては捻り、一つまみしては捻り、目を細める。本当に、この二人は関係を持っていないんだよな?
そして二時間後。
再び我々は光る海へと、明るい光の方向へと向かったのだった。
まさか……。
光る海が、あのような場所だったとは……。
そしてまさか……。
結ばれないこの二人に、あのような結末があろうとは……。
次回はやっと、光る海到着です




