第4話 皇女殿下、花嫁の涙を晴らす!
見事な名乗りだった。
その声には、皇宮の儀仗騎士にも負けない威厳があった。
ただし、肩には薄桃色の布が一枚、引っかかったままだった。
リゼは、そちらを見ないことにした。
今は、せっかく格好がついているのだから。
「こ、皇女殿下……!」
商人がその場に膝をついた。
通りの人々も、次々と頭を下げる。
ミナは驚きのあまり、声も出せないでいた。
「お、お忍びとは存じ上げず……! どうか、ご無礼をお許しください!」
リゼは剣を下げた。
「私の顔を知らなかったことは、どうでもいいわ」
男が顔を上げる。
「問題なのは、あなたがこの娘から店を奪い、望まない結婚を強いようとしたことでしょう?」
「し、しかし、借金が……!」
「借金は、正しい記録に基づいて調べさせます。あなたが貸したお金まで、なかったことにするつもりはないわ」
リゼは契約書を掲げた。
「でも、契約書を偽造していたなら、それは別の罪よ」
商人の額から汗が滴った。
「ミナの返済記録と、あなたの帳簿を照らし合わせる必要があるわね。利息の計算も、契約そのものも」
男は何も言えなかった。
リゼは通りに集まった人々へ向き直った。
「どなたか、衛兵を呼んでいただける?」
何人もの手が上がった。
そのうちの一人が、詰所へ向かって駆け出していった。
◇
しばらくして、衛兵たちが到着した。
商人と用心棒は事情を聞かれるため、詰所へ連れていかれた。
契約書は押収され、仕立て屋組合と市の記録係による調査が始まることになった。
ミナの借金が実際にいくら残っているのかは、まだ分からない。
だが、強引に進められていた婚礼は取りやめとなり、調査が終わるまで店を差し押さえることも禁じられた。
仕立て屋の前には、ようやく穏やかな空気が戻ってきていた。
「皇女殿下……本当に、ありがとうございます」
ミナが深く頭を下げた。
「まだ、お礼を言うには早いわ。借金の問題は、これからきちんと調べなくては」
「はい。でも……」
ミナは目元を拭った。
「自分の人生を、自分で決めてもいいんだって、そう思えただけで……」
リゼは微笑んだ。
「もちろんよ。あなたの人生ですもの」
店先の白い婚礼衣装が、風に揺れた。
リゼはそのドレスへ目を向けた。
「綺麗な刺繍ね。あなたが作ったの?」
「はい。来月、ご結婚されるお客様のために」
「まあ。それは楽しみね」
ミナは少し照れた。
「花嫁さんが、幸せになれますようにって。一針ずつ、願いを込めて作ったんです」
リゼはドレスへ近づいた。
胸元の銀糸は、花の模様を描いていた。
裾に向かうほど花は小さくなり、まるで風に舞っているように見える。
「とても素敵だわ」
リゼが言うと、ミナは嬉しそうに笑った。
「いつか、殿下のお衣装も仕立ててみたいです」
「私の?」
「はい。きっと、お似合いになると思います」
リゼは少し考えた。
皇女の衣装は、皇宮の専属仕立て師が作っている。
けれど、この娘の腕もなかなかのものだった。
「そうね。今度、普段着をお願いしようかしら」
「ほ、本当ですか!」
ミナの顔が明るくなった。
その横で、セドリックが白い婚礼衣装を見つめていた。
「殿下にも、きっとお似合いでございます」
リゼは振り向いた。
「……これが?」
「はい」
セドリックは真顔でうなずいた。
「殿下はお美しい方ですから」
リゼは、一瞬だけ言葉に詰まった。
そんなことを、どうしてこの男は平然と言えるのだろう。
顔がよくて、声もよくて、騎士としての礼儀作法にも通じている。
それなのに、財布は二つとも忘れるし、剣を抜く前に布に埋もれる。
実に不思議な男である。
「……そう。ありがとう」
リゼが答えると、セドリックは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、ミナまで頬を染めている。
リゼは小さく咳払いをした。
「でも、婚礼衣装はまだ早いわ」
「左様でございますか」
「ええ。まずは、あなたの普段着から作ってもらいましょう」
セドリックが首をかしげた。
「私の、でございますか?」
「外套の留め具を、指に挟まないようにしていただくの」
ミナが吹き出した。
セドリックは耳まで赤くなった。
◇
仕立て屋をあとにした二人は、ようやく本来の目的地へたどり着いた。
西通りの小さな菓子屋だった。
店先では、丸い焼き型が炭火にかけられている。
店主が生地を流し込み、刻んだ木の実を散らす。
そこへ蜂蜜をたっぷりとかけると、甘い香りが通りに広がった。
リゼは思わず足を速めた。
「二つ、お願い」
「はいよ。焼きたてだよ」
店主は二つの菓子を紙に包んだ。
リゼは財布を取り出し、銅貨を置く。
セドリックは隣で、申し訳なさそうにしていた。
「また殿下にお支払いいただくことになってしまいました」
「いいのよ。次は忘れないでちょうだい」
「はっ。必ずや!」
リゼは、そこまで力を込めなくてもいいのに、と思った。
菓子は、まだ温かかった。
薄い生地の中には蜂蜜を練り込んだ木の実が詰まり、噛むと甘い香りがふわりと広がる。
表面はさくりとしているのに、中は柔らかい。
「……おいしい!」
リゼは目を細めた。
これは、わざわざ西通りまで来た甲斐があった。
隣ではセドリックも、菓子を頬張っている。
今度は熱さに驚くこともなく、静かに味わっていた。
「あなたも、少しは学習するのね」
「先日の串焼きで学びました」
「よいことだわ」
リゼはもう一口食べた。
そのとき、セドリックが小さく咳払いをした。
「殿下」
「なあに?」
「先ほどは、お役に立てず……」
リゼは手を止めた。
「そんなことはないわ」
「ですが、私はまた失態を」
「ミナを守ろうとして、前に出たでしょう?」
セドリックが顔を上げた。
「それに、落ちてきた布のおかげで、あの男たちの動きが止まったわ」
「そ、それは……」
「立派なお手柄よ」
セドリックの顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
リゼは微笑んだ。
「ただし、次は布を落とさずに守れるといいわね」
彼の顔が、また少し曇った。
「……努力いたします」
リゼは笑いをこらえた。
それから、残りの菓子を口へ運んだ。
蜂蜜の甘さが、舌の上に広がる。
今日は、よい日だった。
仕立て屋の娘を助け、悪徳商人を捕らえ、焼き菓子まで食べられた。
これ以上、望むことはない。
そう思った、そのときだった。
ごおん。
遠くから鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
セドリックが、ぴたりと動きを止めた。
「……殿下」
リゼも、菓子を口元に持ったまま止まった。
「ええ」
「昼の鐘でございます」
「そうね」
しばらく、二人は見つめ合った。
先に口を開いたのは、セドリックだった。
「陛下には、何とご報告すれば……」
リゼは少し考えた。
「事実を言えばいいでしょう」
「『皇女殿下は菓子屋へ向かわれる途中、悪徳商人を捕らえ、用心棒を二人倒されました』と?」
「ええ」
「そのあとで、焼き菓子を召し上がったことも?」
「もちろん」
セドリックは困った顔になった。
「……前回と、あまり変わらないような」
リゼは、最後の一口を飲み込んだ。
確かに。
串焼きが焼き菓子に変わっただけ、と言われれば、そうかもしれない。
だが、今回は一つ、大きな違いがある。
「大丈夫よ、セドリック」
「はい?」
「今日は、あなたは転ばなかったでしょう?」
セドリックの顔がぱっと明るくなった。
「確かに!」
「父上にも、そう報告しましょう」
「ありがとうございます、殿下!」
彼は嬉しそうに一礼した。
そのとき、肩に残っていた薄桃色の布が、ふわりと落ちた。
布は風に乗り、通りを転がっていく。
「あっ」
セドリックが慌てて追いかけた。
リゼは菓子屋の前で立ち止まり、その後ろ姿を見送った。
美しい金髪が、陽光を受けて輝いている。
姿勢もよい。
走る姿も、なかなか様になっている。
ただし。
布を拾おうとして、石畳に片膝をついた。
今度は転んだのではなく、拾うために膝をついたのだろう。
少なくとも、そういうことにしておこう。
リゼは小さく笑った。
次の視察では、何を食べようか。
いや。
次こそは、何事もなく帰らなければ。
父皇との約束もある。
そう思いながら、リゼは西通りの向こうへ目を向けた。
ちょうどその先で、一軒の店から、香ばしい匂いが流れてきた。
焼きたての、薄い生地。
中には果物を煮詰めた蜜が入っているらしい。
店先には、何人もの客が並んでいる。
リゼの足が、少しだけ止まった。
「……セドリック」
「はい、殿下!」
薄桃色の布を抱えた騎士が、駆け戻ってくる。
「次は、あちらも視察しましょう」
セドリックは店を見た。
それから、皇宮の方を見た。
そして、昼の鐘を思い出したらしい。
「……本日は、お戻りになるのでは?」
リゼは微笑んだ。
「次のお出かけの話よ」
セドリックは、ほっと胸をなで下ろした。
「承知いたしました!」
リゼは満足して歩き出した。
次こそ、何事もなく菓子を食べて帰ろう。
それだけは、心に決めていた。
もっとも。
その決意が守られるかどうかは、また別の話である。
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