第2話 皇女殿下、花嫁の借金を知る
「今度は、何を視察するつもりだ?」
皇帝である父フリードリヒにそう尋ねられ、リゼは少し考えた。
「城下町の西通りです」
「何がある?」
「仕立て屋や花屋、それに菓子屋などがございます」
「……菓子屋か」
父皇の目が細くなった。
先日の市場での一件は、すでに皇宮中の噂になっている。
廃止された税を取り立てていた役人は捕らえられ、徴税所全体に調査の手が入った。リゼが見つけた不正は、思っていた以上に根が深かったらしい。
もっとも、皇宮で評判になっているのは、不正の発覚ばかりではなかった。
皇女が自ら剣を振るい、用心棒を倒したこと。
そのあとで、串焼きを二本平らげたこと。
そして護衛騎士が、名乗りを上げた直後に転んだこと。
最後の件については、できれば忘れてやってほしいとリゼは思っていた。
「リゼ。お前が民を思って行動したことは評価している」
「ありがとうございます」
「だが、皇女が自ら剣を抜く必要はないだろう」
「必要があったから抜いたのですわ」
「護衛は何をしていた?」
「一生懸命でした」
部屋の隅で直立していたセドリックが、わずかに胸を張った。
「ただ、少々間に合わなかっただけです」
「申し訳ございません、陛下!」
セドリックは勢いよく頭を下げた。
その拍子に、腰の剣が椅子の脚へ当たった。
がたん。
父皇は目を閉じた。
「……護衛を増やすべきかもしれんな」
「人数を増やせば、お忍びになりませんわ」
「一人でも十分とは思えんのだが」
「大丈夫です。私もおりますから」
父皇は、しばらく娘の顔を見つめた。
「本来は逆なのだぞ」
リゼはにっこり笑った。
父皇は深いため息をつき、書類へ目を戻した。
「昼の鐘までには戻れ。それから、今度こそ騒ぎを起こすな」
「もちろんですわ」
リゼは優雅に一礼した。
自分から騒ぎを起こしたことなど、一度もない。
ただ、行く先々で騒ぎに出くわすだけである。
◇
城下町の西通りは、布と花の店が多いことで知られている。
軒先には色とりどりの布が揺れ、石畳には花売りの籠からこぼれた小さな花びらが散っていた。染めたばかりの布の匂いと、焼きたてのパンの香りが、風に乗って流れてくる。
リゼは茶色の外套を羽織り、頭巾を目深にかぶっていた。
隣を歩くセドリックも、飾りのない上着に着替えている。
ただし、顔だけは相変わらずだった。
道行く娘たちが、彼を見ては振り返る。
「セドリック」
「はい、お嬢様」
「今日は財布を持ってきた?」
「もちろんでございます」
彼は誇らしげに、外套の内側を叩いた。
「念のため、二つ用意いたしました」
「二つも?」
「一つを忘れても、もう一つがございますので」
なるほど。
前回の反省は、確かに生かされているらしい。
「では、一つ見せてちょうだい」
「はっ」
セドリックが懐を探った。
右側。
左側。
上着の内側。
次第に、その整った顔が曇っていく。
「……どうしたの?」
「二つとも、同じ机の上に置いたようでございます」
リゼは立ち止まった。
「それでは意味がないでしょう」
「申し訳ございません!」
彼が深く頭を下げると、通りの向こうで花を売っていた娘が、うっとりした顔になった。
その娘にだけは、真実を知らせないでおこう。
リゼはそう決めて、再び歩き出した。
今日の目的地は、西通りで評判の菓子屋だった。
蜂蜜を練り込んだ焼き菓子が、たいそうおいしいらしい。
侍女たちの話では、午前中に売り切れてしまう日もあるという。
それは視察を急がねばなるまい。
リゼが足を速めた、そのときだった。
「お願いです! どうか、もう少しだけ待ってください!」
通りの向こうから、切羽詰まった声が聞こえた。
リゼの足が止まった。
声のした方には、一軒の仕立て屋があった。
店先には白い婚礼衣装が飾られている。胸元から裾まで、細かな銀糸の刺繍が施された美しいドレスだった。
その前で、若い娘が男に頭を下げていた。
「待つのは今日までだと言ったはずだ」
男は立派な外套を着ていた。指には大きな宝石の指輪が三つもはまっている。
その後ろには、剣を下げた二人の用心棒。
娘は両手を握りしめていた。
「借りたお金は、必ずお返しします。ですから、結婚だけは……」
「借金を返せないなら、うちの甥の嫁になる。そういう約束だろう」
「そんな約束、していません!」
男が鼻で笑った。
「お前の父親が借りた金だ。娘が責任を取るのは当然だろう」
リゼは、しばらくその光景を眺めていた。
「……セドリック」
「はい、お嬢様」
「今日は、菓子屋へ行くだけの予定だったわね」
「左様でございます」
セドリックも、騒ぎの方を見た。
「予定が変わりそうね」
「……承知いたしました」
彼は真剣な顔でうなずいた。
そして、腰の剣を確認しようとして、外套の留め具に指を挟んだ。
「痛っ」
「まだ何も始まっていないわよ」
◇
「お話の途中、ごめんなさい」
リゼが声をかけると、男は不機嫌そうに振り返った。
「何だ、お前は」
「通りがかりの者です。少し、気になることがありまして」
リゼは娘へ目を向けた。
「あなた、お名前は?」
「……ミナと申します」
「ミナ。あなたは、その方の甥御さんと結婚したいの?」
「いいえ!」
答えは早かった。
男の顔が険しくなる。
リゼは構わず、もう一つ尋ねた。
「では、どうして結婚のお話になったのかしら?」
ミナは唇を噛んだ。
「父が病気になったとき、治療費を借りたんです。でも、父は助からなくて……。私が店を継いで、少しずつ返してきました」
店先の白い婚礼衣装が、風に揺れた。
「最初に借りたのは、銀貨三十枚です」
「返した分は?」
「二十五枚です」
「ほとんど返しているじゃない」
ミナの目に涙が浮かんだ。
「でも、利息がついて、今は九十枚だって……」
「九十枚?」
リゼは思わず聞き返した。
男が胸を張った。
「金を借りるとは、そういうことだ。返せないなら、別のもので払ってもらう」
「別のものというのは?」
「この店と、娘だ」
リゼは男の顔を見た。
なるほど。
ずいぶん欲張りな商人らしい。
「では、契約書を見せていただける?」
男の眉が動いた。
「なぜ?」
「どのようなお約束だったのか、確かめたいの」
「部外者が口を出すことではない!」
男はそう言ったが、周囲に人が集まり始めたことに気づいたらしい。
外套の内側から、折りたたまれた紙を取り出した。
「ほら、見ろ。ここに書いてある!」
リゼは差し出された紙を受け取った。
古い借用証書だった。
借りた金額は銀貨三十枚。
貸主の名前と、ミナの父親の名前。
そして末尾には、返済できない場合、店の所有権を譲り渡し、娘を貸主の指定する相手に嫁がせるという文言があった。
リゼは紙を見つめた。
「……変ね」
「何がだ!」
「この部分だけ、文字の間隔が違うわ」
紙の下の方に、細かな文字が詰め込まれていた。
まるで、あとから無理に書き足したように見える。
「契約書というものは、余白に書き足してよいものなの?」
「何を言う。最初から書いてあった!」
男が声を荒らげた。
リゼは紙の末尾へ目を落とした。
そこには、店の印が押されている。
二本の縫い針を交差させた、小さな印だった。
「ミナ。これは、あなたのお店の印?」
「はい」
ミナがうなずいた。
だが、次の瞬間、その顔が変わった。
「あれ……?」
「どうしたの?」
ミナは契約書を見つめた。
「この印……」
声が震えている。
「おかしいです」
男が苛立ったように腕を組んだ。
「何がおかしい!」
「この印は、父のものではありません!」
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