002 引退宣言(2度目)
2人が店内に戻ると、そこにはシェーンが待ち構えていた。
彼女の端正な顔は悲痛に歪んでおり、伴侶としての心配が在り在りと見えた。その様子にリーベは息を呑み、父の顔を覗き込んだ。その顔にはどう言い繕ったものかという思索の念が滲んでいた。
「……カンプフベアと戦ったんですか?」
「あ……ああ」
エルガーが目線を下げると、視界の中に収まろうとシェーンが歩み寄る。自然、上目遣いに語りかけることになった。
「『人手が足りないから』と助っ人に出たんですよね?」
静かな言葉には心配のみならず若干の憤りが感じられて、リーベは甚だしく気まずい心地でいた。それはエルガーも同じであり、長い沈黙の後「……悪い」と答えるより他になかった。
「でもカンプフベアをやれるヤツなんて俺以外には――」
「いつまでもあなたが助けてるからでしょう!」
頬を叩く代わりの一声は、水を打ったかのように静寂をもたらした。
「……あなたという英雄に縋ってばかりいるから、この街の冒険者は育たないんです! それに、エルガーさんだってもう若くないんですよ! これじゃあ……いつか……いつか破綻しますよ…………」
激しく言葉を連ねる中でシェーンは涙を滲ませていった。その様子が一層の罪悪感を覚えたエルガーはただ一言、深く、心より謝った。
「……すまねえ…………」
長いの沈黙の末、シェーンは声を絞り出す。
「約束してください……もう、絶対に冒険に出ないでください」
「それは……」
夫が誰よりも強く、誰よりも責任感が強いことをシェーンはよく知っている。故に怒りながらも胸を痛めていた。だが、これも全ては愛する夫の為なのだ。彼女はそう自分に言い聞かせ、追求する。
「お願いします……私は、あなたが傷つくのが怖いんです……!」
傍観するリーベは両者の気持ちを本人と同じように感じられた。想いの交錯するのを俯瞰しつつ、今回の冒険について考えていた。
あの商人の感謝の程から察するに、今回はよほど逼迫していたのだろう。これが仮にエルガー以外の人物が任務に就いていたならば、あの商人は助からなかったに違いない……そう悟った。それだけに彼女は、どちらにとも付かないで、ただ見守っていた。
「……わかった」
その声に妻子はハッとしてエルガーを見る。彼の鳶色の瞳には確かな覚悟と誠意が滲んでいて、それが妻を喜ばせた。
「……本当、ですか?」
その問い掛けに対し、彼は妻の目を見据え、強く頷いた。
「ああ。2度と冒険には出ない……約束する……!」
そう言うと彼は2階へ駆け上がり、愛用の双剣を抱えて下りて来た。
「何をしてるの⁉」
娘が問うと、彼は乱暴な口調で答える。
「そもそも武器があるからいけねえんだ! あとこれもだ!」
入り口脇に掛かっていた絵画、『断罪の時』を剥がすと小脇に抱え、ドアに飛びついた。
彼が自棄になっているのは明らかで、痛ましいとさえ言える。そんな父を見かね、リーベは「そこまでしないでもいいでしょ!」と宥めに掛かった。それから母からも何か言ってもらおうと振り向くも、彼女は固く口を噤んでいる。
「お母さん……」
対応に倦ねている間にもエルガーは外へ飛び出し、何かから逃げるように駆けていった。その方角には冒険者ギルドがある事をリーベは知っている。
「……お父さん」
娘としては喜ばしい出来事であったが、父が人生を賭けて取り組んできた活動をやめさせられてしまったのが可愛そうでならない。それは引退を訴えたシェーンも同様で、その場に座り込んですすり泣いていた。
程なくしてエルガーが戻ってきた……大勢の人々を伴って。
群衆を構成するのは冒険者だけでなく、濃紺色の制服を纏ったギルド職員や、関係のない一般人まで様々だ。彼らは揉み合いながら英雄の引退を引き留めようと、口々に叫んでいる。
「エルガーさん、辞めちまうってどういう事ですか!」
「辞めないでくれよ!」
彼らは『辞めないで』と口々に言っているが、実のところ、エルガーは3年前に引退しているのだ。だが『人手が足りない』あるいは『強力な魔物が出た』時にだけ助っ人をしていたのだ。そうして冒険者業をやめられずズルズルと引き摺った結果が今だ。
『あなたという英雄に縋ってばかりいるから、この街の冒険者は育たないんです!』
シェーンはそう言っていたが、現状を見て、それを否定できる要素は何処にもなかった。
「お前ら……」
お父さんは自分を求める人々の声に胸が熱くなったが、ある一言によって一気に冷めた。
「アンタが辞めたら、誰がテルドルを護るんだよ!」
その言葉に追随する声が多数上がり、引き留めるはずが責任を問うような空気になっていった。そんな不健全な空気の渦中にいて、エルガーは憤り、拳を握り込んで叫んだ。
「お前らだ!」
叩き付けるような怒声に場は静まり返った。
厳かな静寂の中、彼は幾分落ち着いた声で、自分も含めた全員に言い聞かせる。
「俺に頼れば済むって考えがあるから、誰もカンプフベアに立ち向かおうとしないんだ。そのせいで対処が遅れて、危険に晒される人間が出てくるんだ。今回は特にそうだ……」
その言葉に冒険者は元より、集まった誰もが深く項垂れた。
エルガーを引き留めようとする現状が、何よりそれを物語っているからだ。
「……助言くらいはしてやる。だが、2度と冒険には出ない。俺は引退したんだ」
そう言い残してドアを閉じるとカウベルが虚しく鳴り響いた。
店の外では群衆が静かに散っていく中、シェーンは夫に駆け寄った。
「あなたっ!」
娘の前で憚ることなく抱きつくと、大きな胸に顔を埋める。彼もまた、大きな腕で妻を抱きしめると頭頂に鼻先を埋める。
「…………」
2人が出会ったのはあの絵画にもあったスタンピードの直前だったという。
以来、交際を重ねて結婚して……それから現在に至るまで、シェーンはずっと不安で居続けたのだ。ましてや夫は誰よりも危険な仕事をしていたワケだから、それも一入である。
母の繊細な心を思いやれば、今はそっとしておいてあげたいところだが、開店時間が迫っている。そんな中、リーベは提案する。
「……ねえ。今日くらい、お休みにしても良いんじゃない?」
尋ねるとシェーンは胸板から顔を話し、泣き腫らした目を指先で擦りながら首を横に振る。
「いいえ。仕事はするわ」
「でも……」
「それとこれとは、別だもの……」
彼女は夫の方へ向き直ると、高い位置にある顔に手を添え、つま先立ちになってキスをした。
唇を離すといつもの整然とした表情に戻り、厨房へ向かう足取りも凛としたものになった。
一方、エルガーは憑きものが落ちたような清々しい顔をしていた。
エルガーの引退宣言(2度目)は瞬く間に街中を巡り、事の真相を探ろうと、ディナータイムには客が大挙して押し寄せてきた。
狭い店内はすでに満員であり、店の外には長蛇の列ができている。普段はピークタイムでもこうはならないのにとリーベは「ひい~」と忙しい悲鳴を上げた。だが同時に、今回の出来事が如何に周囲の感心を集めているかを理解した。
だが、感心ばかりしていられない。
給仕として、少しでも回転率を上げて、客の待ち時間を減らさなくてはならないからだ。
「リーベちゃーん」
注文を告げるべく、客の一人が彼女を呼んだ。
「あ、はい! ただいまー!」
次の客の元へ急ごうとしたとき、ウワサ好きで有名なサラという中年女性に捕まる。
「リーベちゃん。エルガーさんが引退するってのは本当なんかい?」
過去の恩を思い出してお礼を言いに来てくれる人もいたけれど、大半は彼女のように、好奇心を満たす目的でやって来ていた。この日何度目かの問い掛けに辟易しつつ、失礼のないよう、丁重に答える。
「お父さんももう若くありませんので――」
「おや! アタシの見立てはあと15年はやれそうなのに!」
「はは……ありがとうございます。それでは――」
「引退は2度目だけど……そうさね。こうなったら2代目が必要なんじゃないかい?」
サラ婦人は期待の眼差しをリーベに向ける。すると食堂は静まりかえり、いくつもの視線が彼女に集まった。
リーベは周囲の期待には応えたいと思ったがしかし、戦いは男の領分だ。それに何より、彼女はこの食堂を継ぐ定めにあるのだ。間違ってもそんなことはないと、彼女は切に思った。
「まさか! お父さんには弟子が沢山いますので」
会話を打ち切ると、今度は嗄れた声に呼び止められる。
「……リーベよ」
「はい?」
振り返った先には陰気な顔をした初老の男性がいた。
彼は右腕が無く、右の頬には深い裂傷痕があった。年齢を重ね、たるんだ目元は憂いを湛えているかのようで、深い眼孔に収まる瞳には生気が感じられない。
そんな彼は数時間まえまで絵画の飾られていた場所へ目を向ける。
「ディアンさん……」
「……ワシの描いた画は、捨ててしまったのかの?」
あの絵画『断罪の時』はこの老人――ディアンが描いたものだった。
「いえ。剣と一緒にギルドに預けてあるそうです」
あの絵は複製画などではなく、原画なのだ。
それ故、リーベもシェーンも、そしてエルガー自身もこの店よりも、ギルドに飾る方が相応しいと常々思っていた。だが、ディアンがエルガーにと描いたものであったため、ああして飾っていたのだ。
「……ええと…………」
リーベが困り果てて言い淀む一方、ディアンは声を零した。
「ワシの分まで、死ぬまで戦うと言っておったのにな……」
「ディアンさん…………」
彼は元々冒険者だったが、件の戦いで腕を失い、剣を捨てたのだという。
そんな彼が、自分の見たものをありのままに描いたのが『断罪の時』だ。この1枚をもって画家として名を上げた彼であるが、彼の描くも画の端々からは冒険者業への未練を強く感じられると評判だ。リーベ自身、目にするたびに、そんな感想を抱いたものだ。
「……ごめんなさい」
リーベは自然と、詫びを口にしていた。それでどうにかなるわけではないが、言わずにはいられなかった。
するとディアンはハッとして視線を下ろした。
「いや……すまんな。こんなジジイの愚痴に付き合わせちまって。いつものアレを頼む」
哀しげな声にその姿に、リーベの胸はチクリと痛んだのだった。
「ふう……」
波乱のディナータイムを凌いだリーベは息も絶え絶えに店内の清掃を終える。
彼女の華奢な体には疲労が募り、額に滲む汗を拭うことさえ億劫でいた。
そんな中、シェーンがリンゴジュースを出して娘を労う。
「お疲れ様。これ飲んだらお父さんを呼んできてちょうだい」
彼女は彼女で、明日の仕込みをするところだった。
「あ、わたしも手伝うよ」
「いいのよ。今日はすごい大変だったでしょう?」
「うん、まあ……じゃあ、お言葉に甘えて……」
リンゴジュースを口に含むと、その甘みが身に沁みた。
疲れた時は甘いものに限るなと、彼女はつくづく思った。
リンゴジュースを飲み終えたリーベは父を呼びに2階に上がる。
2階は住居になっていて、リーベの部屋と夫婦の部屋、そして今は亡き祖父の部屋と3部屋ある。だが、エルガーがいるのはこの更に上階の屋根裏部屋だ。
廊下の奥にある階段を上っていくと、リーベは父の悩ましげな声を聞いた。
「これは……いる。これは……いらないな」
開け放たれたドアの向こうには入り口に背を向け、魔物の素材を選別する父の姿があった。
あぐらを掻いて手元に集中する様は工作に励む少年のようで、リーベはなんだか可笑しく思えた。
屋根裏部屋には窓があり、風通しは良いはずだが、むしむししている。これが父の体温によるものなのだとしたら、相当に頭を使っているのだろうとリーベは思った。とは言え放っておくことは出来ず、彼女は呼び掛ける。
「お父さん、晩ご飯できてるよ?」
「あー、今行くー」
予想通りの生返事だった。リーベが呆れてため息をついたその時、エルガーは一際大きな声を上げた。
「お、これは!」
その声に好奇心を起こしたリーベは恐る恐ると屋根裏部屋に踏み込んだ。
エルガーには魔物の素材を収拾し、保管する悪癖があり、部屋中に悍ましい物体が散らかっている。中でも彼女が嫌いなのは、壁に掛けられたカンプフベアの毛皮にだった。
「うひいっ⁉」
昔、エルガーが斬り落としたこの右腕は、リーベの腹囲の2倍ほどの太さがあった。
怖じ気づいた彼女は慌てて視線を逸らした。その先では、父親が何かを光に透かしていた。
それはゴツゴツとした黄金色の物体であり、小市民であるリーベは声を上げずにはいられないかった。
「金っ!」
(金塊なんて初めて見た……!)
彼女の叫びに、エルガーはようやく娘の存在に気付く。
「リーベ⁉ ……見られちまったか」
元英雄らしからぬ動揺を見せながらも彼は金塊を陰に隠すが、娘に見つめられては観念するより他になかった。彼は被害を最小にするべく、声を忍ばせて言う。
「……秘密にできるか?」
神妙な問い掛けにリーベはゴクリと唾を飲み込んだ。
「う、うん……約束する」
エルガーはしばし娘の目を見つめた後、信頼できると踏んでそれを差し出した。
一方、ウキウキしながら受け取ったリーベは、その見かけ倒しな軽量さにため息をついた。
「金……じゃない。はあ……」
がっかりしつつも、その物体を観察する。
表面はゴツゴツとしていて、風を切るような形状をしている。裏側には剥離したような跡があり、これはまるで――
「うろこ……?」
「そうだ……俺がなんで英雄扱いされてるかは知ってるな?」
唐突な言葉に動揺しつつも答える。
「うん。20年前に冒険者たちの先頭に立って、魔物の軍勢を押し返したんだよね?」
「ああそうだ……その後、俺は師匠と、あと居合わせた魔法使いのジジイとの3人で事の真相を探りに行ったんだ」
「ごくり……」
「南のグラ・ジオール山の中腹に、何枚かの鱗と、あと……いや。とにかくそれはあった。あれから20年。ギルドが調査を進めているが、未だ何の魔物か知れないでいるんだ」
「ていう事はまだ……」
血の気が引いていくのを覚えた。
「まだヤツは死んでねえ。この世の何処かで生きながらえてるはずだ」
「そんな……」
恐ろしい事件を引き起こしたであろう魔物が生きている……いずれ、また何処かで誰かが危険に晒される日も来るのだろう。
それを思えば……なるほど。存在が秘匿されるワケだ。
「俺は決戦に備えて次の世代を育てる任務を――これは関係ねえな。とにかくやべえ魔物の鱗なんだ。分かってることと言えば、やつがドラゴンってくらいだ」
「へえ……」
冷や汗を拭っていると階下からシェーンの声が響いてくる。
「晩ご飯の用意ができてるから、下りていらっしゃい!」
「はーい!」
入り口の方へ声を返すと鱗を返却する。
「片付けは明日にして、今日は休も?」
「そうだな――うぐうっ⁉」
立ち上がり掛けたエルガーがその場に崩れた。
(まさか、ドラゴンの呪いが⁉)
「うぐ……脚が痺れた」
「なあんだ……」
彼女がホッと胸を撫で下ろしていると、父が恨みがましく言う。
「なんだとはなんだ! 俺はこんなに苦しんでるのに!」
「ふふ! つんつん!」
ふくらはぎを突っつくとエルガー悶え始めた。
「ぬおおっ! や、やめろおお!」
その反応にリーベは楽しくなり、何度も突っついた。しばらくそうしてじゃれ合っていると、シェーンが怒鳴るように呼び掛けてくる。
「冷めちゃうわよ! 早くいらっしゃい!」




