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『日本の後宮・大奥に咲く花――虐げられた娘は将軍家光に見出され、私を嗤った女たちを見返していく』  作者: 御上常陸介寛浩


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第十四話 見上げるだけの娘では、なくなった

新しい持ち場の朝は、これまでの朝とは光の重さが違った。


 同じ江戸城の内、同じ大奥の廊下であるはずなのに、通る空気の質がほんの少しだけ変わる。

 磨かれた板のつや、障子越しに差す光のやわらかさ、置かれる花の選び方、香の立ち方――どれも露骨ではない。けれど、下の雑用まわりにいるときよりも、目に見えぬ「格」が一段上がっているのがわかる。


 その場所へ、今日からわたしは足を踏み入れる。


 帯を締めながら、胸の内では緊張と現実味の薄さがまだ拮抗していた。

 春日局さまに呼ばれ、言葉をいただき、配置を変えられた。

 それは昨日、確かに起きたことだ。

 なのに一夜明けると、まるで夢のようにも思えてくる。

 ただし、夢ではない証はすぐそこここにあった。

 雪江の視線。

 お絹の落ち着かない顔。

 そして、自分に割り当てられた朝の仕事の違い。


「今日はもう、下の控えからじゃないのね」

 雪江が髪を整えながら言った。

「ええ」

「変な感じ」

「わたしも」

 そう答えると、雪江は小さく鼻で笑った。

「変な感じですむのは今のうちよ。今日から、あなたの立つところも、見られ方も、全部変わる」

「……ええ」

「嬉しい?」

 不意の問いに、わたしは少しだけ考えた。

「嬉しい、だけではないです」

「でしょうね」

 雪江は頷く。

「でも、それでいいのよ。嬉しさだけで浮く娘は、すぐに足をすくわれるもの」


 その言葉を胸に入れたまま、わたしは新しい持ち場へ向かった。


 まず案内されたのは、春日局さま付きに近い上役女中――おまさどののもとだった。

 年は四十前後だろうか。華美ではないが、立ち姿に揺るぎがなく、目元の静けさに“人を動かす側”の気配がある。

 お峯どのが石なら、おまさどのは刃を鞘に納めたまま歩いているような人だった。


「あなたが志乃」

「はい」

「春日局さまから話は聞いています」

 その一言で、背筋がぴんと伸びる。

「花と香に目が利くそうね」

「少しだけでございます」

「少しだけ、は便利な言い方ね」

 おまさどのは表情を変えぬまま続けた。

「でも、こちらで欲しいのは“少しだけ”で済む愛らしさではなく、言われたことを違えぬ手と、見たことを散らかさずに置ける頭です」

「……はい」

「できる?」

「努めます」

「努めるのは皆そうよ。できるかどうかを見ます」


 それで話は終わりだった。

 冷たいわけではない。

 ただ、無駄がない。

 ここでは“やる気”や“健気さ”より先に、使えるかどうかが問われるのだと、すぐにわかった。


 午前の最初の仕事は、三つの控えの間の花と香の確認、その後におまさどのの指示で香具の並びを整えることだった。

 下の雑務のときと違い、ここでは“ただ間違えなければよい”では済まない。

 どの部屋に、どの順で、どう置かれているべきか。

 そのひとつひとつに意味がある。


「見て覚えるのは得意なのでしょう」

 おまさどのが香具を示しながら言う。

「なら、並びをそのまま写しなさい」

「はい」

「ただし、写すだけで満足しないこと。なぜこの順なのか、少しは考えなさい」

「はい」

「考えてもわからぬときは、勝手に足さない。訊くの」

「承知いたしました」


 わたしは頷き、香匙の向き、香炉の置き位置、灰の整え方を目に焼きつけた。

 春日局さまの近くへ置かれるものは、どれも主張しすぎない。

 だが地味ではない。

 静かに、しかしきちんと“整っている”ことが伝わる並びだった。


 花の見回りでも、それは同じだった。

 華やかな枝は少ない。

 けれど、どの花器も“そこにある意味”を持っている。

 目を奪うためではなく、そこにいる人の心を崩さぬために置かれているような花。


 わたしが細い葉の向きをほんの少しだけ直したとき、おまさどのが後ろから言った。

「なぜそこを直したの」

「障子からの光に葉脈が立ちすぎておりましたので」

「それがいけないの?」

「……いけない、というより、目がそちらへ寄りすぎるかと」

「ふうん」

 おまさどのは数拍だけ花器を見た。

「そのままでよろしい」

「ありがとうございます」

「礼はまだ早いわ。次でしくじれば帳消しです」


 言葉は厳しい。

 だが、直したこと自体を咎められなかった。

 それだけで、胸の内に小さな安堵が灯る。


 午前のうちだけで、わたしはこれまでの何日分にも匹敵するほど頭を使った。

 ただ掃除をする、ただ運ぶ、ではない。

 誰の前に出る部屋か。

 そこで求められる静けさはどの程度か。

 香は花に勝つべきか、寄り添うべきか。

 その場その場の“ちょうどよさ”を見つけなければならない。


 けれど不思議と、つらいばかりではなかった。


 見て、考え、それがその場へきちんと収まる。

 その感覚は、雑用部屋で傷みかけた花を整えたときの延長にありながら、もっと深い手応えを伴っていた。

 自分の目が、ただ身を守るためだけでなく、場を整える役にも立つ。

 そのことが少し嬉しかった。


 その一方で、視線は明らかに増えていた。


 廊下で顔を合わせる侍女たちの会釈は、以前より丁寧になった者もいれば、逆に笑みの薄くなった者もいる。

 露骨に悪意を向けてくる者は少ない。

 だが、それは歓迎されているという意味ではなかった。

 “どう扱うべきか見定めている”目。

 その目にさらされること自体が、これまでとは違う位置へ移った証だった。


 昼前、南寄りの廊下で綾姫さまと行き合った。


 相手はいつも通り美しかった。

 いや、今日はいっそう“そう見せている”と言ったほうが近い。

 薄い紅の小袖に、柔らかな香。

 立ち居振る舞いのひとつひとつが、見る者の目にどう映るかを知り尽くしている。


「志乃さん」

「はい」

 わたしはすぐに膝を折る。

「新しいお役目、いかが?」

「まだ、学ぶことばかりにございます」

「そう」

 綾姫さまは微笑む。

「でも、春日局さまのお近くへ置かれるのですもの。皆、ずいぶん驚いているわ」

「わたくし自身も、驚いております」

「まあ、正直ね」


 その声音はやわらかい。

 けれど、周りの侍女たちの気配は少しだけ冷えている。


「下の雑用にいた娘が、急にそちらへ移るのですもの」

 綾姫さまは続けた。

「見上げるだけだった場所が、少し近くなった気がしていらっしゃるのではなくて?」

 胸の内が、ちくりと痛む。

 それは意地の悪い言い方だったが、まったく外れているわけでもなかった。

 たしかに、これまでただ遠くから見るしかなかった場所へ、今日のわたしは足を踏み入れている。


「そのようなことを思うほど、わたくしはまだ物を存じません」

 そう答えると、綾姫さまはしばらくわたしの顔を見た。

「……そう。なら、よろしいの」

 笑みは崩さない。

「高いところほど、足元の冷たさを忘れてはいけませんわ」

「肝に銘じます」

「ええ、そうなさい」


 そのまま綾姫さまは去っていった。

 侍女たちの裾が揺れ、残り香が薄く漂う。


 わたしは頭を下げたまま、胸の内を静かに整えた。

 以前のように、ただ刺されて終わるだけではなかった。

 綾姫さまの言葉の意味を受け止めた上で、自分の足を崩さずに返せた。

 それは本当に小さな違いだ。

 けれど、その小ささこそが大事なのだと、今は少しわかる。


 昼の休憩で雪江と顔を合わせると、彼女は膳を前にしたまま言った。

「どう?」

「難しい」

「でしょうね」

「でも、前よりは……」

 言いかけて、少しだけ迷う。

「前よりは、見えるものが増えました」

 雪江が片眉を上げる。

「たとえば?」

「同じ花でも、どこへ置かれるかで見え方が違うこと」

「それは前から言ってたじゃない」

「ええ。でも、前は“見ているだけ”でした」

「今は?」

「今は、“そこへ置く側”の目線も少しだけ、わかる気がします」

 雪江はしばらく黙って、それからふっと笑った。

「なるほど。たしかに変わったわね」

「悪いほうに?」

「逆よ」

 彼女は箸を置いた。

「前のあなたは、上を見てるくせに、自分がそこへ関わると思ってなかった」

「……」

「でも今は、怖がりながらでも、そこへ触れてる」

 お絹も小さく頷く。

「し、志乃さん、少し顔つきが違います」

「顔つき?」

「はい。前より……その、うつむいていない、感じで」


 その言葉に、わたしは少しだけ驚いた。

 自分では意識していなかったからだ。

 でも言われてみれば、たしかにそうかもしれない。

 怖い。

 緊張もしている。

 それでも、以前のように“ただ見上げて圧されるだけ”ではなくなっている。


 午後、おまさどのの指示で、次の間の花器を一つ差し替えることになった。

 もともと置かれていた花が悪いわけではない。

 ただ、その日の客筋に合わせて、少しだけ空気を変える必要があるという。


「この部屋へは、今日は言葉の多い方が入ります」

 おまさどのは静かに言う。

「そういうときは、花まで賑やかにしてはいけない」

「はい」

「人の心は、放っておけば自分の声でいっぱいになるものです。だから周りは少し引いておくの」

「……はい」


 その考え方は、わたしにとって新しかった。

 花は美しく見せるためにあるだけではない。

 人の気分や、部屋の中の言葉の量にまで関わるのだ。


 わたしは指示された通り、白を基調にした花器へ差し替えた。

 青を引きすぎず、香も立ちすぎぬように。

 人の声が前へ出る部屋なら、花は一歩引いて支える。


「……悪くないわ」

 おまさどのが短く言った。

「ありがとうございます」

「まだ褒めてはいません」

「はい」

「でも、最初にしては崩していない。そこは見ています」


 それだけで、胸の中にじわりと温かいものが広がった。

 大げさな賞賛ではない。

 けれど、それで十分だった。


 わたしは今日、ただ“下から引き上げられた娘”として立っているのではない。

 自分の目と手で、少しずつ新しい持ち場の空気に触れ、その中で崩れずに立とうとしている。

 そのことが、ようやく自分の中でも現実の形を取り始めていた。


 夕刻近く、廊下の向こうに綾姫さまの姿が再び見えた。

 今回は声はかからなかった。

 ただ、綾姫さまは一瞬だけ立ち止まり、わたしを見た。


 その目は、以前のように“場違いな娘を見下す”だけの目ではなかった。

 値踏み。

 警戒。

 そして少しの苛立ち。

 そうしたものが重なっている。


 その視線を受けながら、わたしは深く頭を下げた。

 けれど、内側ではほんの少しだけ、別の感情が芽生えていた。


 もう、ただ見上げるだけの娘ではない。

 もちろん、綾姫さまの立つ高さには到底及ばない。

 けれど、同じ廊下に立ち、同じ空気の中で、それでも自分の役目を持って立っていられる。

 そのことは確かだった。


 夜、布団へ入るころには、身体も頭もくたくただった。

 けれど、疲れの底に沈んでいるのは、惨めさではなかった。


 新しい持ち場の緊張。

 増えた視線。

 綾姫さまの刺すような言葉。

 おまさどのの冷たい試し。

 それらはたしかに重い。

 でもその重さの中に、自分が立つための確かな床が少しずつできている。


 見上げるだけの娘では、なくなった。


 その思いが、胸の奥で静かに形を取っていた。


 まだ勝ったわけではない。

 ざまぁにはほど遠い。

 けれど、かつて自分を笑った女たちが、今はあからさまには笑えなくなっている。

 それだけでも、小さな変化だ。


 雪江が言った“正しい悔しさ”という言葉を思い出す。

 綾姫さまたちの冷えた視線もまた、たぶん同じ種類のものなのだろう。

 自分より下にいたはずの娘が、少しずつ別の場所へ手をかけ始めていることへの、面白くなさ。


 それを思うと、不思議と恐れだけではなく、静かな芯のようなものも湧いてきた。


 わたしは目を閉じ、胸の中でそっと自分に言い聞かせた。


 怖くてもいい。

 でも、もう俯くだけではいない。

 見て、覚えて、整えて、自分の立つ場所を少しずつ広げていく。


 その決意を抱いたまま、わたしは静かな夜の底へ沈んでいった。

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