うちにおる
「ノブくん、すごく怒ってたな。ほとんど口きいてくれなくなった」
「姉ちゃんっ子だから、あの子」
私の冷たい声に、イッくんはどうにもならない現状を悟ったのか、項垂れた。
ばあちゃんや母さんと違って、ノッブはまだ正しいことを優先できる年なのだ。割り切れるのは大人なのだと思う。私ももう少し上手に割り切れると思ってたけど、難しい。
優しかったイッくん。子どもが出来るまでは、めちゃくちゃ優しい人だと信じていた。怒らないし、嫌なことがあっても困ったように笑う人。お父さんがいない私は、男らしい男の人が苦手で、この人と結婚したんだよな。一緒にいても緊張しない。それが長所だったのに、今は短所に見える。
ばあちゃんが言ってた、長短あるけんなが身に染みる。
「なあ、イッくん。私な、別にイッくんのことが嫌いになったんじゃないんよ」
「うん」
「でもな、このままあっちに帰ったら、多分嫌いになる。今、めちゃくちゃしんどい」
「うん」
ちゃんと状況さえ整えば、話を聞いてくれる。私もイッくんの事なんて全然考えてなかったけど、本当に忙しかったのかも。いや、だからといって許せないけど。
「じゃけん、今は帰らん」
「……うん」
ちょっと考えてから、イッくんは頷いた。また、沈黙が落ちる。
「ここは、星がきれいだな」
空を見上げて、ぽつりとイッくんが言った。私たちが住んでいたアパートからは、こんなに星が見えたりはしなかった。イッくんもそれに気づいたのだろう。
「空は狭いんだけどね」
「ほんとだ。おもったより山が高い」
「剣山って2千メートル近くあるけんね。それに近い高さの山が集まってる」
「道理で、平家の落人伝説があるわけだ」
「私も大阪からこっちに落ちてこようかな」
冗談で言ったのに、イッくんがまた「ごめん」と萎んだ声を出した。
参った、ちょっとくらい困ればいいと思っていたけれど、イッくんはめちゃくちゃ困っている。絶対ザマアミロって思えると信じていたのに、私はそうは思ってない。人って難しいものだ。
イッくんにはいいお父さんになってほしいし、私もいいお母さんになりたい。でもそれって、漠然としていて、何が「いい」なのか具体的じゃない。
雑誌に取り上げられるような育児。今持て囃されてる、怒らない育児。のびのび育てるとか、幼児期からの英才教育。布おむつに、完全母乳。赤子にスマホは見せるな、のすぐ隣に、赤ちゃんにおすすめの泣き止ませるアプリ。
メグがあまりに寝ないものだから、音楽とか映像とか、試してみようと思っては思いとどまってしまう。何がいいの、情報が溢れすぎてて選べない。それを仕事で疲れてるイッくんに相談もできなくて。
「こっちに帰ってきてから、育児ってもっとシンプルなんだよなって思った」
私はイッくんの方に向く。
「メグがして欲しいことって、すごくシンプルなんだよ。ご飯ほしい、遊んで、抱っこして、オムツ濡れた。それに手をかけてやれる大人が多いっていうのが、こっちに帰ってきてからすごく嬉しかった。誰かが疲れてたら誰かが代われるの」
いいお父さんお母さんなんて幻想だと思う。もし、そうなれるのなら、それはめちゃくちゃ強靭な精神力を持った人間か、そうじゃなかったら環境。
「元気が出るまでこっちにいたい。じゃないと、メグがかわいそうだよ。精神が限界って泣いてる私に授乳されるなんて、マジで無理。そうなったら私、もうイッくんと別れると思う」
「ノリちゃん……」
ごめんってイッくんが呟くように口にする。私が逆の立場でも、ひたすら謝る以外に出来ることがないから、謝り続けるだろうな。
そして、私もごめん、と心の中だけで言う。
これまでの6か月をなかったことにして、今すぐイッくんを許すのは無理だ。
だから、ごめん。
もう、私たちは何も話をしなかった。あたりは静かで、水路の水音がシャラシャラと滑ってくるだけ。
結局何も解決していない。ばあちゃんに話してこい、といわれたけれど、まともな話し合いはできた気がしない。今後イッくんと私の関係がどうなっていくのか予想できなかった。このまま壊れてしまうかもしれないし、くっつけることができるかもしれない。それは私たちにだってわからないことだ。
でも、帰ってきてよかったと心の底から感じる。もうすぐ、メグがお腹が空いたって泣く。私がそれを嫌だと思わなくなったことが、一番の救いだった。
******
私が実家に帰ってから、2週間が過ぎた。
あれから、イッくんに泥を投げつけた田んぼには稲の苗が植えられて、少し大きくなった。
メグの夜泣きは回数が減ったが、今度は家中あちこち這い回るようになって、大人たちがそれを追いかけるのにあたふたしている。
ノッブはメグをガラガラで呼ぶのが好きで何度もそれを繰り返す。そのせいでメグのハイハイスピードが上がっているに違いない。
今メグは、ばあちゃんが用意した積み木で遊んでいる。いや、積み木を齧っている。歯が生えかけているから歯茎が痒いんだろう、と母さんが言った。せっかくの歯固めはお気に召さなかったのか、部屋の隅に投げ捨てられていた。ついでに、涎掛けも一緒に外されている。歯固めと涎掛けが、お互い大変ですなぁと苦笑いしているように見えた。
イッくんからは毎日メールがくる。メグの成長を気にする文面に『ノリちゃんは元気ですか』と付け加えてくる。私に関しては、毎日同じ文面なのは何とかならないの、イッくん。多分不器用なんだろうなぁ。
私はその日のメグの写真を撮って、メールを返信することにしている。まだ、帰る気にはなれなくって、私たちの間にはちょっと距離があるくらいの方が、今は上手くいくんじゃないだろうか。
メグにスマホのカメラを向けると、すごい速さで近づいてくる。それは何? と毎回興味津々で、カメラのレンズにしゃぶった指を近づけてくるものだから、私は笑ってしまう。
愛おしいはずの者を愛おしいと思える今が幸せだった。
「メグ、明後日お父さんが来るって。一緒に遊ぼうね」
ここまで読んでいただいてありがとうございました!
ノリちゃんの現実は続くんだよな、と考えるとまだ辛いことはあると思うんですが「うち」の強さに彼女は助けられるんだろうと思います。イッくんの事情は詳しく書かなかったのですが、もしかしたら彼は彼でしんどい思いをしていたのかもしれません。
昔は近所の人が一体になって子育てしていた、家族以外も家族のように見てくれていた。そんな時があると、私の祖母から聞きました。今は、子育てが人によっては孤独な時間になっている場合があります。時代や環境のせいではあるのですけれど、当事者たちはしんどいですね。
現在は公的機関やそれに準ずるところ、民間のボランティアでも手助けしてくれるところがあるので、しんどい思いをしている人が極限に達する前に助けを求められるように願っています。




