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何も考えられない。
ただ、怖かった。
ただひたすら、その圧倒的な雰囲気にのまれていた…。
―――絶対的な、畏怖…。
何か…人間を遥かに超えたものに対する――畏怖。
その一方、美しいと思っていた。
何が美しいのかもわからないまま…。
その人物が男か女かすらわからないのに…美しいと、思った。
人影はそんな遼介の様子など、気にもとめない。
遼介はゆっくりと、横たわる人間に視線を移した。
服装からすると、どこにでもいそうなサラリーマンのようだ。顔は見えない。
「砕牙」
人影が静かに告げると、獣のうなり声が遼介の脇をすり抜けた。
遼介が度肝を抜かれている間に、大きな虎が、倒れ伏す男に近寄った。
驚愕に息をのむ遼介の視線の先で、虎が大きく口を開ける。
思わず遼介は、ギュッと目をつぶった。
あたりは静まりかえっている。
物音ひとつ、聞こえない。
恐る恐る、遼介はまぶたを持ち上げた。
ピクリとも動かない男。
だが…そんなことよりも、男の頭から一滴の血も流れていないのは何故か…。
傷さえも、見当たらない。
先ほどのできごとは幻だったのか…。
確かに、自分は見たはずだが…。
よく確認しようと、男に歩み寄りかけた遼介は、ギクッと体をこわばらせ、飛びすさる。
自分のすぐそばに、あの大きな獣がいることに気付いたからだ。何度見直しても、その姿は虎…。
虎が首をめぐらし、遼介をその視界に入れた。
「…………ッ…!!」
二・三歩後ろへよろめいた遼介は、虎の眼光の鋭さに足腰から力が抜け、しりもちをついた。
遼介をさめた目で一瞥すると、虎は傍らの人影を見上げた。
人影は、悠々と虎の口から球状のものを受け取り、その皮毛の感触を楽しむように、背を撫でる。虎は、軽くその人物の足に体をすり寄せた。
目を丸くしてその様子を凝視する遼介など全く気にせず、人影は掌の球状の物体を見つめる。
ゆっくり指を広げると、鈍い光を弱々しく放ちながら、ふわりと掌から浮き上がる。
「在るべき処へ…」
人影がつぶやき、虎が見すえる。
ふわふわと掌の上、一〇センチほどのところで揺れていた玉が、ピタリと空中で静止した。
雨雲のような鉛色の気体がその玉を覆う。
いや、球体自体が輪郭をあいまいにしているのだ。
徐々に徐々に気体に変わってゆき、薄れ、霞の如く漂い――…霧散した。
見届けた虎は、刃のような眼光でチラッと遼介を見やってから、人影を見上げ、小さなうなり声を漏らす。
それからダイナミックに巨体をひるがえし……。
―――消えた。
あまりにも非日常的なことの連続で、遼介の思考は半ば麻痺していた。
ゆっくりと人影が振り返る。その視線が、ようやく遼介に向けられた。
ただ、静かにたたずんでいるだけの人物。
存在感が、違った。
まとう空気が、違った。
自分に降り注がれる視線。
感じずにはいられぬ――畏怖の、念…。
見上げることさえ…ためらわれる。
「お休み。いい…夢を……」
静かな囁き。穏やかにつむがれる言葉に、遼介は心を奪われた。
誘われるようにまぶたが重くなり…遼介の意識は遠のいていった…。
どこかで猫の鳴き声がした気がした。




