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神宿り  作者:
第1章
3/103

2

 何も考えられない。

 ただ、怖かった。

 ただひたすら、その圧倒的な雰囲気にのまれていた…。


 ―――絶対的な、畏怖(いふ)…。


 何か…人間を遥かに超えたものに対する――畏怖。

 その一方、美しいと思っていた。

 何が美しいのかもわからないまま…。

 その人物が男か女かすらわからないのに…美しいと、思った。


 人影はそんな遼介の様子など、気にもとめない。

 遼介はゆっくりと、横たわる人間に視線を移した。

 服装からすると、どこにでもいそうなサラリーマンのようだ。顔は見えない。


砕牙さいが

 人影が静かに告げると、獣のうなり声が遼介の脇をすり抜けた。


 遼介が度肝を抜かれている間に、大きな虎が、倒れ伏す男に近寄った。

 驚愕(きょうがく)に息をのむ遼介の視線の先で、虎が大きく口を開ける。

 思わず遼介は、ギュッと目をつぶった。


 あたりは静まりかえっている。

 物音ひとつ、聞こえない。

 恐る恐る、遼介はまぶたを持ち上げた。


 ピクリとも動かない男。

 だが…そんなことよりも、男の頭から一滴の血も流れていないのは何故か…。

 傷さえも、見当たらない。

 先ほどのできごとは幻だったのか…。


 確かに、自分は見たはずだが…。

 よく確認しようと、男に歩み寄りかけた遼介は、ギクッと体をこわばらせ、飛びすさる。

 自分のすぐそばに、あの大きな獣がいることに気付いたからだ。何度見直しても、その姿は虎…。


 虎が首をめぐらし、遼介をその視界に入れた。

「…………ッ…!!」

 二・三歩後ろへよろめいた遼介は、虎の眼光の鋭さに足腰から力が抜け、しりもちをついた。


 遼介をさめた目で一瞥(いちべつ)すると、虎は傍らの人影を見上げた。

 人影は、悠々と虎の口から球状のものを受け取り、その皮毛の感触を楽しむように、背を撫でる。虎は、軽くその人物の足に体をすり寄せた。


 目を丸くしてその様子を凝視する遼介など全く気にせず、人影は掌の球状の物体を見つめる。

 ゆっくり指を広げると、鈍い光を弱々しく放ちながら、ふわりと掌から浮き上がる。


「在るべき(ところ)へ…」

 人影がつぶやき、虎が見すえる。

 ふわふわと掌の上、一〇センチほどのところで揺れていた玉が、ピタリと空中で静止した。


 雨雲のような鉛色の気体がその玉を覆う。

 いや、球体自体が輪郭をあいまいにしているのだ。

 徐々に徐々に気体に変わってゆき、薄れ、霞の如く漂い――…霧散した。


 見届けた虎は、刃のような眼光でチラッと遼介を見やってから、人影を見上げ、小さなうなり声を漏らす。


 それからダイナミックに巨体をひるがえし……。

 ―――消えた。


 あまりにも非日常的なことの連続で、遼介の思考は半ば麻痺していた。

 ゆっくりと人影が振り返る。その視線が、ようやく遼介に向けられた。

 ただ、静かにたたずんでいるだけの人物。

 存在感が、違った。

 まとう空気が、違った。

 自分に降り注がれる視線。

 感じずにはいられぬ――畏怖(いふ)の、念…。

 見上げることさえ…ためらわれる。

「お休み。いい…夢を……」

 静かな囁き。穏やかにつむがれる言葉に、遼介は心を奪われた。

 誘われるようにまぶたが重くなり…遼介の意識は遠のいていった…。

 どこかで猫の鳴き声がした気がした。


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