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深夜六時 2

「以上で、自分の実践報告を終わります」


 軽い拍手を受けながら、ふーっと一息つく。事前に準備していたものを発表だけとはいえ、やり切るまでは身体が強張る。


「何かご意見やご質問等はありますか?」

 

 手元にあった資料を机でとんと整え、グループにいる三名の先生方をぐるりと見渡す。普段の授業(それでも夜通し考えたものだが)を発表しただけだが、中堅研修は同じ年代の先生方から意見をもらえる貴重な機会だ。できれば有意義なディスカッションがしたい。


「では、いいですか?」


 森永先生が手を挙げる。今日集められたグループの中で、とても面白い発表をしてくれた先生だ。この先生から助言をいただけるのは非常にありがたい。


「まずは海野先生、発表ありがとうございました。とても緻密な授業で勉強になりました。知的な内容で、子どもたちから出る意見も、とても五年生から出る意見とは思えないほど考えられたものでした。自分にはとても真似できない授業だと思わされました」


 他の二名の先生方もうんうんと頷く。同年代の先生方から貰える意見は、年上の先生みたいに上からではなく、年下の先生みたいに突き放してこないから素直に喜べる。


「いえいえ、とんでもないです」


 と言いながら、伸びようとする鼻の下を必死に縮める。


「一つ気になったことがあるんですが、よろしいですか?」


「もちろんです。なんでしょう」


 研修室は暖かく、暖房がよくきいていた。十二月の外気に合わせてエアコンの温度を設定しているのだと思うが、少し暑く、もう少し涼しくしたくなる温度ではある。


「子どもたちの表情はどうでしたか?」


 予想外の質問に、緩んでいた鼻の下が一気に縮こまる。子どもたちの表情———。それが授業の何と関係あるのだろう。


「資料にあるアンケートでは、『この授業の内容を理解できたか?』という質問に対しては『とてもよく理解できた』と答えた児童さんが百パーセントなんですけど、『楽しい授業でしたか?』とう質問に対しては、『どちらかといえば楽しかった』と答えた児童さんが六十パーセントなんですよ」


 今回の研修では、自分の考えた授業、児童がその授業を受けた感想のアンケート、その授業の様子を録画した動画の三つを提示する予定だった。この研修のさらに半年前に同じような研修があり、アンケートの内容はその際にこの四人で決めたものだ。子どもたちが主体的に学ぶようになるためにはどんな授業をすればいいのか。アンケートは、『とても楽しかった』『どちらかといえば楽しかった』『どちらかといえば楽しくなかった』『楽しくなかった』の四段階で評価することになっていた。


「ええ、そうですね。でも半分以上は『どちらかといえば楽しい』と答えてくれていますよ。『とても楽しかった』を選んでいる児童もいますし」


「アンケートの結果はもちろん大事なんだけど、鵜呑みにするのは怖いんじゃないかなぁ」


 どるん、と血液が一瞬逆流する。言いたいことが伝わってこない会話は、こちらも探り探りになってあまり気持ちよくない。


「何が言いたいんでしょう」


「まず子どもって、気つかってアンケートに答えていると思う。自分は基本、項目を一つ下げて受け取る方がいいと思ってアンケートを見てます」


「子どもたちは、本当は楽しくなかったと?」


 研修室の温度が一度、上がった気がした。


「子どもがっていうか先生がかなぁ」


 先生が、授業を、楽しむ。言葉を噛み砕いて飲み込んでみたが、上手く消化できない。


「そう、海野先生がです。子どもたちは活発に意見交換をしていたし、先生の教え方も興味をそそるような言い方でした。この授業で覚えなければならないことは何なのかしっかり分かったし、児童に知識もついたと思います。でも、今日の授業から子どもたちが楽しんで学習に取り組んでくれるかといったらそうはならない気がして」


 正直に言ってくれているんだろうが、正直すぎる意見は悪口に聞こえて仕方がない。


「面白い授業だったし、子どもたちもよく動いていたけど、授業に台本やシナリオがあったみたいで、AIが授業をしているように見えました。前回の研修で立てた自分たちの目標は『子どもたちが主体的に学ぶようになるためにはどんな授業をすればいいのか』でしたよね? だから自分たちが探さなければならないのは、楽しい授業を考えるのではなく、子どもたちが楽しみながら学習に向き合ってくれる方法な気がするんです」


 つまり、伝えなければならないのは知識ではなく、勉強の仕方や姿勢を身に付けさせることが大切ということですか? と、一人の先生が補足する。そうそう、と森永先生が頷く。


「でも、知識をつけることも大事ですよね。森永先生のクラスの子どもたちは確かに自ら進んで学習に向かっていましたが、知識が身についたかと言われれば怪しいですよ?」


 研修室の気温がさらに上がった気がした。額から汗が、一粒流れる。


「もちろん知識は大事ですよ。我々が『ゆとり世代』と言われてしまうのは、その知識が足りないからです。でも、今は多様化も進んで、一つのことを学習し続けても、学校で習ったことが社会に直結するかどうか怪しいもんです。自分たちが新人だったころもそうですけど、大学では習わなかったことが、教職の場にはごろごろあったと思うんですよ。知識ももちろん大事なんですけど、それとおなじくらい学ぶ姿勢も大事だと思うんです。大人になって新しいことを身に付けなければならないときに、テスト勉強のときみたいに『あぁ、詰め込まないと』と思うんじゃなくて、新しいポケモンが出てきたときみたく、『何このポケモン、面白そう。タイプなんだろう』と知りたくなる姿勢の方が大事だと思うんですよ。」


 部屋の気温がどんどん上がる。誰かが寒いと言ってエアコンの温度を上げたに違いない。


「———そうだとしても、先生が楽しそうかどうかは関係ないはずです」


 暑い。汗がどんどん流れる。


「海野先生はそれでいいんですか?」


 森永先生が静かに話す。この人は一見すると熱血な人物に見えるが、話せば話すほど、冷静な部分が見えてくる。


「教師と子ども。そのどちらもが満足する授業が一番よくないですか? 海野先生はそれで救われているのですか?」


 自分が、救われているか、どうか。


 自分は、誰かを救う立場だったはず。無垢な子どもに知識を。立場が弱い中山に手段を。目的と手段をセットで教わらない全国の中山を救うために立ち上がった、誰かを救うために立ち上がった人間のはず。


 なぜ教師が楽しんで授業をしなければならない。教師はただ粛々と、指導要領に乗っ取って知識・技能、思考・判断・表現、態度を評価していけばいいはず。将来使うかもしれない知識を、しっかりと子どもたちに身に付けさせていくべきだ。自分の授業で子どもたちは、活発に活動することができた。アンケートの結果も、本心で書いている可能性も全然ある。楽しい授業をしていれば、勉強は楽しいとなってくれるはず。


 そのために教育書を読み込んでいる自分は間違っていないはずだ。


 面白い授業だったし、子どもたちもよく動いていたけど、授業に台本やシナリオがあったみたいで、AIが授業をしているように見えました。


 夜通し子どもたちのことを思って授業が、子どもたちのためになっていないわけがない。


 断じて、断じてそんなわけは。


「子どもたちの顔、思い出せますか?」


 暑い、暑い、暑い。だめだ。この後、絶対温度を下げてもらおう。


「森永先生は———」


 ———思い出せるのですか? と問う前にグループワーク終了のアナウンスが流れる。聞きそびれたと思ったが、森永先生は自信をもって覚えていると答える気もした。


「すみません。少し熱くなってしまって」


 大人なので、会釈をして話し合いを締める。いえいえこちらこそ、と森永先生も会釈する。


「それにしても暑くないですか? エアコン効きすぎですね。自分、エアコン温度下げてきますね」


「そうですか? さっきから温度変わってないと思いますよ」


 森永先生を含める三人の先生方は汗一つかいていなかった。


 自分だけが暑いと感じているわけがない。


 断じてない、そんな、わけが、ない。



*****



 進め、進め、進め。速く、綿密に、あらゆる方向に。どこに助けを必要としている人材が眠っているかわからないぞ。助けるのだろう、変えるのだろう。我々はまだまだ戦えるぞ。お前も、まだ戦えるだろう?


 薄明りの朝日に照らされた教育書たちがしゃべり始める。鼓膜を引っかかれ、こめかみが刺されたように痛い。


 進め、進め、進め。


 時刻はもうすぐ六時を刻もうとしている。彼が上ると同時に明里も目を覚ます。そうなると、教師として動ける時間が終わる。旦那が、父親が自動でインストールされ始める。時間切れだ。今宵は、教師としてはここまでしか進めない。


 速く、綿密に、あらゆる方向に。


 今夜も貫徹した。少しずつ休憩を挟みながら、集中力を絶やさないようにした。自分の授業のことも考えた。研究主任として学校のことも考えた。SNSへの投稿も行った。教師の世界の隅っこまで手を伸ばしたさ。


 どこに助けを必要としている人材が眠っているかわからないぞ。


 分かっている。だからこそ時間をかけた。自分以外のこともした。顔も知らない誰かに向けての投稿もしたんだ。だからこそ———。


 助けるのだろう、変えるのだろう。我々はまだまだ戦えるぞ。


 そうさ、その通りさ。自分になら出来ると思った。教師としての力をつけることができたからこそ、ただただ教壇に立つだけではなく、何かもっと人とは違うことをしなければならないと思った。それは間違ってなかったんだと思う。だからこそ———。


 お前も、まだ戦えるだろう?


 やれる、やれるさ。身体は若くはないが、体力はある。二徹は無理でも、一日貫徹したくらいでは体調は崩さない。今まで身に付けた知識を捨てて、全く新しいことを身に付けることもやぶさかではない。身体も探求心も、まだまだ枯れちゃいない。だからこそ———。


 ———だからこそ、拭いきれない想いがある。


 俺は、いつまで続ければいい? 完璧とは、どこにある?


 教育の成果はすぐには出ない。教えたことが子どもたちの中で本当に理解されるのは、教育としての価値が身につくのは何十年も経ってからだ。教師という職が、そもそもマラソンゲームの要素をはらんでいることは承知しているつもりだ。


 しかし。俺は、俺がもう少し進んでいるという実感が欲しい。


 中堅研で出会った、同い年の彼。あんな風に楽しそうに教師をする先生を初めて見た。彼を見るまで、自分が楽しそうに授業をしているかどうかなんて考えもしなかった。教師には「やらなければならないこと」しかなく、「やってみたいこと」があっていいなんて思いもしなかった。そんな彼を見て、最初は何を言っているんだと鼻で笑った。


 しかし、あれから思うこともある。


 子どもは嫌でも先生を手本にして成長する。いい手本なら、その通りに。悪い手本なら、反面教師に。俺が受け持つクラスの子は、先生はすごいと言ってくれる。子どもたちにとって俺は、いい教師なのだろう。そこに嘘はないと思う。


 なら、楽しそうに授業をしない海野先生は、子どもたちにはどう映っているのだろう。子どもという鏡が、楽しそうに授業をしない海野先生から、勉強は楽しいものではなく、やらねばならないものという部分を写し取ってしまっていたら。


 習うことは分かりやすく。子どもたちに身近なもので説明し、とにかく活用できるように。そう思って授業を考えてきた。しかし、中堅研で出会った彼が言っていたように、授業とは知識を与え活用するだけではなく、気になったものを探求する姿勢を育てるものだということも、痛いほど理解できる。


 自分は、間違っていたのだろうか。だとしたら、今日までの夜はなんだったのだろうか。


 朝日が昇り、ダイニングテーブルを照らす。昨夜は少し早めにSNSに投げた投稿の、フォロワーの反応を確かめる。



とぅ先生 @to_sensei_edu 七時間前

いよいよ学期末ですね! 怒涛の一学期ももうすぐ終わり! 出張や校内研修、もしかしたらプールをやる学校もあるかもしれませんが、ここを踏ん張れば夏休みです! 子どもたち自身も気持ちよく夏休みに入れるよう、あと一週間を意味のあるものにしましょう。

【学期末に時間が余っているならやっておきたいこと八選】

・これまでの復習

・お楽しみ会

・みんなで記念撮影

・教室の大掃除(学校単位で取り組むところもあるかも!!

・席替え

・二学期の係や当番決め

・振り返り(学習面・生活面)

・二学期の目標を考える。

#教師全体でいい授業を #教材はみんなのもの #少しの工夫で明日を楽に

リポスト:3,182、いいね:1.9万

 


 いつも通りの反応。焦る。自分が一歩も進んでいないような気がするから。


 他の人の投稿も、念のため確認しておく。ハッシュタグを押すと、そのタグをつけられた投稿を確認することができる。大体同じ人しか投稿しないため目新しいものはないのだが、たまに掘り出し物のような技術もあるため、確認は欠かさない。


 その日は、いつもの面々とは違う人の投稿があった。



F・M @f_m_1024_edu 七時間前

みなさん、一学期お疲れ様でした。四〜七月は毎年のことながら忙しいですよね。夏休みもどうせ校内研修と出張ばかりだと思いますが、しっかり体を休めましょう。とりあえず明日! 何事もなく子どもたちを夏休みに送り出しましょう!

#少しの工夫で明日を楽に                     リポスト:0、いいね:2



 無意識のうちに、『いいね』を押していた。


 長らく考えたことがなかった、休むという感覚。これから始まる夏休みも同じような生活をすることを疑ってなかった。むしろ、早く帰ることができる分、明里と旭陽との時間をとりながら、教材研究や投稿に時間をかけられると両手をあげていたところだった。


 空いた時間はすべて、教育のために費やせると。


 全速力で前進し、全身全霊をかけて臨まなければ完璧になど到底到達しえないと思っていた。進めば進むほど、自分に足りないと思っていた『何か』。付け足せば付け足すほど、なぜか増した虚無感。テスト勉強をすればするほど、不安になっていくあれに近い。もしかしたら、自分になかった『何か』は、休息だったのだろうか。付け足すことをやめ、何が大切なのか見極めることだったのだろうか。


 朝日を浴びて輝く教育書たちを閉じ、本棚に戻す。躍起になって買い続けた教育書が並べられている本棚には、今まで読んできた小説たちも並べられている。ある程度のジャンル分けはされているが、教育書も小説も、買った順に並べてある。


 左上の小説———つまり最初に買った小説を手に取る。かぶっている埃の量が、どれだけその本を手に取ってこなかったかを物語っている。


 恩田陸さんの『夜のピクニック』。この本、なんで買ったんだっけかな。


 小説を開く。この本を手に取るまで内容はおろか、本のタイトルすら思い出すことはなかったというのに、開いた瞬間に読んでいた当時のことが一気に頭の中に溢れた。


 ここ、好きなんだよなぁ。そうそう、ここびっくりしたわぁ。この本から、小説好きになったなぁ。そうだ、二人で新しいことを始めようと言って読み始めたんだった。


 その時だった。


 小説の一番真ん中のページから、折りたたまれた原稿用紙が五枚、滑り落ちた。


 『まぼろし島の花々』。タイトルにはそう書かれてあった。『三年 海野あさひ』という字は、自分が想像していた旭陽の字より整っていた。


 原稿用紙に目を通す。読んでいくにつれ、紙が朝日に照らされ輝いていく。


 これが、三年生の国語の『たから島のぼうけん』という単元で書かれた物語だということはすぐに分かった。教科書に描かれている宝の地図を頼りに物語を紡ぐ単元で、起承転結で物語を創作しなければならない。子どもによって地図の目のつけ所が違い、同じところに目をつけてもまったく違う物語を紡ぐところが、教師も見ていて面白い単元だ。


 旭陽が書いた物語を読んで、正直驚いた。面白かった。


 白紙の図鑑を持った少年が、不思議な花々が咲き誇るまぼろし島を訪れる。動物と話すことができる少年は、島にいる動物たちと協力したり、時には対立したりしながら図鑑を埋めていく物語だった。


 つい最近小学校に入学したばかりで、ひらがなカタカナをようやく習得したばかりだと思っていた。ランドセルが背中より大きく、制服に着られている一年生だった旭陽が、小説を少しかじったことのある大人をうならせている。まだ布団の中で眠る旭陽の姿を見て感じた、背が高くなったという思った感覚。大人と子どもで流れる時間の感覚は違う。大人が何年もかけて行う成長を、子どもは数日で達成したりする。


 原稿用紙の一文字一文字を身体に取り込んでいくたび、自分は分かっていたと勘違いしていた旭陽の成長が、ようやく実感とともに身体の中で芽生えてくる。


 旭陽は、深夜の三時に生まれた。浅い春の入り口、余寒が奔る黎明の時だった。


 毎晩九時にアラームが仕掛けらたように起こっていた胎動が、その日はいつまで経っても起こらなかった。もともと生まれることに一抹の不安を抱える出産だったため、明里も自分も、すぐに最悪が頭をかすめた。どうしようと慌てる明里とは対象に、すぐに病院へ行こうという言葉が自分の口から出た。あの時すぐにそう言ってくれて嬉しかったと明里は語るが、落ち着いた様子を保たなければ、パニックを起こしそうだったのは自分の方だった。車で一時間かけて市内の病院へ向かい、光の速さで緊急手術が決まった。辺りが暗い待合室で三時間。生まれたてでも意外にも大人しかった旭陽と、手術で体力を使い果たした明里の顔を見るまで、貧乏ゆすりが止まることはなかった。不安だった。二人とも死んでしまったらどうしようと。結局帰宅したのは翌日の朝の六時。そのまま仕事に向かったが、職場の誰も休めとは言わなかった。逆に、子どもたちは「今日は先生がゆっくりできるように頑張ろう」と言って、一日の課題を精一杯こなしてくれた。


 父親になる準備ができていなかったとしても、今日から正式に父親になる。強い覚悟を持たなければと思ってはいたが、内心何もかも不安だった。


 明里も、自分の両親も義理の両親も、自分のことを『パパ』と呼ぶようになった。そう呼ばれるたび、そう呼ばれるに値する存在にならなければと思った。自分には父親の素質がない、なんて言い訳にすらならなかった。海野先生として、旦那として、父親として、生きていかなければならないことは、とんでもないことだった。海野灯馬という人間のことは後回しにし、先生、旦那、父親に専心しなければ到底やり切れるものではなかった。父としての責務に疲れているようでは本当の父親ではないと自分を責めても、海野灯馬として生きる時間が欲しいという思いは拭えなかった。父親失格だと思った。


 ただ、そんな自分勝手な人間を、旭陽は一才の誕生日を境に『とぅちゃん』と呼ぶようになった。


 この子に誇れる父親にならなければ。その六年後、旭陽は小学生になった。父しても先生としても、もう一段階上に行かなければ旭陽の誇りにはなれないと思った。


 父親になる素質がある者が、父親になるのではない。子どもが産まれれば誰でも父親になる。子どもが、人を親にするのだ。それは明里と一緒になるときもそうだった。明里を幸せにできるものが明里の隣に座るのではない。座ったのなら自分がどんな人間でもパートナーを幸せにしなければならないのだ。


 旭陽の物語を、一つ一つ読み解いていく。記憶は、さらに遡っていく。


 最初の採用試験は、不合格だった。秋霖の衰えが全く見えない、教育実習一日目のことだった。


 合格するかしないかの二択。最悪の結果など容易に想像できたというのに、職員室の諸先生方の誰かが「今、結果を見よう」と言った。大学生だった自分に断る胆力があろうはずもなく、流れるままに借りていた校務用パソコンで合格発表のサイトを開いた。受験番号が、それまでも、それ以降も端正な連番で整列していたというのに、自分のところだけはまるでかじり取られたように穴が空いていた。その時は笑って「だめでしたー!たはー!」と言ったが、職員室の空気が良くなることはなかった。結果を見よう、なんて言ってくるということは、こうなった空気を吹き飛ばす必殺の一撃があるのかと思ったが、みな一様に咳払いをするのみだった。バツの悪そうな諸先生方が作り出す秋の湿気は、自分をよりカラカラと空回らせた。


 どう足掻いても、今年一年は正式な教師ではない。大学生というあまりに心が未熟なかつての自分には、受け止められない現実だった。


 それでも、子どもたちは自分のことを『先生』と呼んだ。そう呼ばれるたびに、「自分は本当の先生ではない」と心の中で自分を拒んだ。自分には教師としての素質がない。それでも教壇に立って、『先生』をしなければならなかった。とんでもない、と思った。重圧が、責任が、罪悪感が。大学生でも、教壇に立ってしまえば『先生』になってしまう。子どもたちの人生に、先生の偽物が何らかの爪痕を残してしまう。そいつが愚かなら、悪影響を与えることにだってなる。今教師になれないのなら、愚かでも、とにかく子どもたちに良き爪痕を。そのためにひた走らなければ。馬鹿みたいにそう思い込まなければ、重圧に、責任に、罪悪感に耐えることができなかった。


 ただ、そんな愚か者にも子どもたちは、「先生の授業楽しかった!」、「来年は先生が担任をして!」と笑いかけてくれた。


 この子たちに誇れる先生にならなければ。一年後、採用試験にはめでたく合格し、晴れて『先生』になった。しかし、肩書きが『先生』になっただけで、『先生』と呼ばれるほどの実力はどこにもなかった。


 教師になる素質のある者が、教師になるのではない。教壇に立ってしまえば誰でも教師になる。子どもが、人を教師にするのだ。


 父親として相応しく、教師として相応しく。その最たる手段が、教師として光り輝くことだった。先生の授業は学校一だと児童に言ってもらえるように。SNSで有名な『とぅ先生』って僕のお父さんなんだと旭陽が自慢できるように。だけど、そうやって突っ走った結果、向き合っていたのは子どもではなく、教育書であり教材だった。それでもとにかく走った。何もかもできるように。どれだけでもできるように。とにかくとにかく付け足した。必要だと思うもの全てを。


 だから怖かった。振り返るのが怖かったんだ。寝る間も惜しんで教育書を睨み続けた夜が、教師としても父親としても間違っていたとしたら。毎夜途切れず世間に放り投げていた投稿が、何万人にただただ『いいね』と言われているだけの、無価値な紙切れなのだとしたら。


 完璧というゴールを目指して走っていたつもりが、前進も後退もせず、ただ明後日の方向に馬鹿みたいに走っていたのだとしたら。


 教育には、そもそもゴールなどないのかもしれない。


 完璧でないなら、先生をやる資格などない。手本にならなければならない存在が、完璧でないなら、それは先生ではない。そう思っていた。しかし、子どもたちはそんな完璧でない人間の授業を面白いと言った。完璧な授業かどうかの物差しは、大人ではなく子どもが握っている。結局、子どもが理解し、楽しかったと笑顔になる授業以上に完璧な授業はない。直視すべきは本ではなく、子ども。教師として、父として、完璧を求めるあまり、こんな簡単なことに今まで気づくことができなかった。気づかないふりをしていたんだ。教師として父親として、その両方を懸命に生きることが大変すぎて、本を眺めている方がはるかに楽だと無意識に判断し、それに甘んじていた。一生懸命授業を考えて、一生懸命家事育児をしていれば、それだけでいい教師、父親にだと判断してもらえるから。


 どれだけ授業を研究しても、畢竟、子どもを見なければ意味がない。どれだけ我が子に背中で語ろうと、畢竟、向き合わなければ意味がない。


 教師は教える者であると同時に、教わる者なのだ。父親とは育てる者でありながら、育てられる者なの

だ。


 完璧な者に人の前に立つ資格があるのではない。不完全な者が完璧を目指すその姿勢に、人前に立つ資格があるのだ。


 大人に何かを教えるのは、悉く子どもなのだ。


 その上で、子どもたちに大切な何かを教えるのは、すべからく大人でなければならないのだ。


 それを理解して初めて、人は教師と、父親と呼ばれるのかもしれない。


「それ、見つけられたんだ」


 明里が目を擦りながら、手の中にある原稿用紙を指差す。上げた左手の薬指が朝日に照らされ、きらんと光る。


「これ、いつからここにあったんだ?」


「三日前だよ。見つけるの早すぎて正直驚いてる。旭陽が『とぅちゃんは小説が好きだから、ここに入れておけば絶対に気づくから』って。その棚、何年も触ってないから参考書の方がいいって言ってもきかなくて」


 思い出した。


 明里に「小説を読み始めたいんだけど、どれを読めばいいのか分からない」と言われ、当時本屋大賞を獲っていた『夜のピクニック』を選んだんだ。恩田陸という名前を見て、男性であることを疑わないほど当時は恩田陸に無知だった。それでも、全く知らない本を二人で手に取るということは、二人でせーので新しい世界に踏み込んだようで、とても新鮮で、身体のどこかがむず痒かったがそれが嬉しかった。


「夏休み」


「ん?」


「夏休み、どこへ行こうか」


 旭陽の物語が書かれた原稿用紙が、朝の光を浴びて潤っていく。何度も何度も読み返した机の上の参考書が、登っていく朝日が作ったパソコンの影に隠れていく。その時ようやく、ちゃんと朝を迎えられたような気がした。


 明日は、家族でどこかへ行こう。家族で行くには最適だと思いながら、家族には提案しなかったスポットが、頭の中にたくさん蓄えられている。旭陽の勉強にもなるから、明里が身体を休められそうだから。そう思いながら蓄えたスポットがたくさんある。


「え、教材研究は? 二学期に学校訪問があるんでしょ?」


「あるけど、何とかなるよ。———今まで、ごめんな」


 明里は何も言わずに、いつも通りキッチンに向かった。明里の顔は見えなかった。見えなくていいと思った。


 明里が作る朝食の香りが、部屋の隅々まで行き届く。


 今日くらいは、家族とゆっくり過ごしてみよう。


 灯馬はパソコンの電源にゆっくり指を置いた。


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