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砂は、風の音を覚えている。
朝になれば東から吹く風が砂丘を撫で、昼には熱を抱き、夜には冷たい月明かりを映す。
私は毎日、その砂の上を歩く。
足跡は残らない。
残っても、すぐ風が消してしまう。
この場所には、それでいい。
誰も来ない。
誰も帰らない。
ここは《刻の海》。
世界中の命が最後に辿り着く場所。
正確には、命そのものではない。
命の終わりに生まれる砂が、ここへ集まる。
世界中の人には、一人につき一本の木がある。
それは生まれた瞬間に芽吹き、誰にも切れず、誰にも植え替えられない。
遠く離れていても、その木は持ち主の命と結ばれている。
病めば枝は痩せる。
喜べば花をつける。
恋をすれば葉が色づくとも言われている。
そして、人が死ぬ瞬間。
木は音もなく枯れ、幹は崩れ、葉も枝も根も、すべて白い砂へと変わる。
その砂は風に乗り、世界の果てへ運ばれる。
ここへ。
刻の海へ。
だから私は、この海を歩く。
砂を均し、流れを整え、風道を作り、砂丘を守る。
砂はただの砂ではない。
誰かが笑った証。
誰かが泣いた証。
誰かが誰かを愛した証。
だから踏み荒らしてはいけない。
だから、この場所は禁じられている。
世界で最も神聖な場所だから。
私は、その管理人。
名前は、ない。
必要がなかったからだ。
昔からここにいて、昔から砂を守ってきた老人は、私をただ「あなた」と呼んだ。
老人は十年前に死んだ。
その日、空には見たこともないほど多くの白い砂が舞った。
老人にも木があったのだ、と私はそのとき初めて知った。
それからは私一人。
朝も昼も夜も。
砂を守り続けている。
海の外へ出てはいけない。
禁足地へ足を踏み入れてはならない。
そう教えられてきた。
外には欲がある。
争いがある。
人は海を穢す。
だから門は閉ざされている。
私は、それを疑ったことがなかった。
あの日までは。
◽️
最初に見つけたのは、足跡だった。
風が消しきれずに残した、新しい足跡。
人間のもの。
私は立ち止まる。
ありえない。
何百年も、この海へ人は入っていないはず。
足跡はふらつきながら続いていた。
砂丘を越え、枯れた石柱を抜け、祈りの丘へ向かっている。
足跡を辿った先、
丘の向こうで、一人の少女が倒れていた。
金茶色の髪は砂まみれで、服はところどころ裂けている。
肩で息をしながら、私を見る。
その瞳は、空と同じ薄青だった。
晴れた日の砂で曇った空の色。
「……あなた、誰?」
少女がかすれた声で問うた。
◽️
少女は「エマ」と名乗り、私の名前を聞いた。
名前はない、と答えると、少女はおかしな顔をした後、何かを飲み込むようにして頷いた。
少女は周囲を見回した。
見渡す限り、白い砂丘。
風が砂をさらい、波のような紋様を描いている。
「……ここ、どこなの?」
私は少し考えてから答えた。
「刻の海。」
少女は目を丸くした。
「海?」
「そう。」
「……どこが?」
私は首を傾げる。
「どこが、とは?」
「だって、水なんてどこにもないじゃない。」
私は少女の言葉を理解できなかった。
「……みず?」
今度は少女が固まる番だった。
「え?」
「みず、とは何だ?」
少女は何か冗談を聞いたような顔をした。
けれど私が真顔のままだと気づくと、その表情が少しずつ消えていく。
「……あなた、本気で言ってる?」
「何をだ?」
少女は言葉を探すように口を開き、閉じた。
やがて砂をひとつかみして、指の隙間からさらさらと落とす。
「あなた、この砂を海だと思ってたの?」
「違うのか?」
「違うわ。」
即答だった。
「海は、水でできてる。」
私はその言葉を頭の中で繰り返した。
海は、水でできている。
意味が分からない。
海とは、この果てしなく広がる砂のことだ。
波とは風が砂丘を動かすこと。
潮とは砂の流れ。
昔からそう教えられてきた。
「……では、水とは何だ?」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、少し笑う。
困ったような笑顔だった。
「説明するの、難しいなぁ。」
彼女は空を見上げた。
「雨は知ってる?」
「雨?」
「空から降る水。」
私はゆっくり首を振る。
「空から降るのは、砂だよ。」
少女は絶句した。
私は彼女の反応の理由が分からない。
だから今度は私が尋ねる。
「……外の世界では、空から砂は降らないのか?」
少女はゆっくりと首を横に振った。
「降らない。」
「一度も?」
「一度も。」
風が吹く。
白い砂が二人の間を流れていく。
少女はその砂を見つめ、小さく呟いた。
「……ここ、本当に世界のどこなの。」
私は答えられなかった。
ここは世界の果て。
刻の海。
それ以外の世界を、私は知らない。




