case.57「灯が戻る」
夏休みの期間中。
文月の中旬、刃ケ丘異能高等学校の敷地内には熱気が鬱屈と淀んでいた。
期末の筆記試験において規定のスコアを下回った生徒には、強制的な補習が義務付けられている。
一年A組の教室に拘束されているのは、強矢翠柳、紅桔梗志紀、蘇芳レイヴンの三人。
火乃宮朱美から三馬鹿という不名誉な称号を与えられた面々だった。
「あーあちー。ってか、だりー」
レイヴンが椅子の背もたれに体重を預け、白みを帯びた天井を仰ぎ見る。
「冷房もっとガンガンに効かせて欲しいよな」
前の席で机に突っ伏したまま、志紀が力なく同意する。
室内の空調は正常に稼働しているが、窓ガラス越しに照りつける太陽の熱量が、彼らの体感温度を底上げしていた。
「真白さん……」
窓際の席では、翠柳が頬杖を突いたまま虚空へ視線を固定している。
彼の脳内は、佐倉真白の残像によって完全に占拠されていた。
気怠い休憩時間が終わり、教室の扉が開かれる。
教壇に立った担任の口から、予想外の通達が下された。
「そうだ、補習の再開の前に……蘇芳と紅桔梗、お前たちに特別対策部としての任務が下りた。終了後指定の場所に向かうように」
学園内に組織された、擬似的なⅩⅢとも言える治安維持部隊。特別対策部、通称十三部。
その構成員であるレイヴンと志紀の端末に、本部からの電子音が届く。
液晶画面には、指定座標と任務の概要が暗号化されて表示されていた。
「「まじか……全然夏休みを満喫できない!」」
二人の声が、寸分違わず重なった。
深い溜息が教室の空気に溶ける中、翠柳だけは窓の外から視線を外すことなく沈黙を保っていた。
補習の全課程が終了し、翠柳は一人で帰路につく。
残されたレイヴンと志紀は、指定された座標へ向かって歩みを進めていた。
太陽は未だ高い位置にあり、アスファルトから立ち昇る陽炎が視界を歪ませる。
「あー外は暑すぎる」
レイヴンが首筋に滲んだ汗を拭い、気怠げに歩幅を刻む。
「しかもこの後任務……」
志紀の唇からも、重い愚痴がこぼれ落ちた。
目的地の港には、潮と重油の入り混じった独特の空気が漂っていた。
防波堤で波が砕け散り、連なる倉庫群の鉄扉を鈍い音で叩く。
その不規則なノイズの隙間を縫うように、どこからか風鈴の澄んだ音が響いていた。
彼らに下されたのは、街で観測された『異能反応の調査任務』。
「紅桔梗。例の反応、此処で間違いないのか?」
レイヴンが歩みを止め、連なる倉庫の薄暗い通路の奥を睨み据えた。
海面で乱反射する太陽光が、網膜を鋭く突き刺す。
「観測班からの報告では此処。『異能の痕跡』がある」
志紀が手元の端末を操作し、観測データを照合する。
液晶の中央で、赤いマーカーが心音のように脈打っていた。
大気中に残留した『記憶粒子』が、局所的に再燃を始めている座標。
「灯が戻るって……?」
レイヴンが任務の詳細テキストを読み上げ、眉根を寄せる。
物理法則に反したその現象名が、彼の思考にノイズを走らせていた。
「あれ!」
志紀が鋭い声を発し、通路の奥を指差す。
古びたガソリン灯。
その周囲の空間だけが、明確な異常を孕んでいた。
炎が燃え上がるのではない。消えた炎が、時間を逆行するように灰から熱を奪い返し、再び形を構築していく。
揺らめく光の軌跡が、明らかに過去へと逆流していた。
「何? どういうこと!?」
未知の事象を前に、レイヴンが警戒の声を上げる。
志紀の目にも、その原理は理解できない。
レイヴンが即座に異能を励起させ、掌の中に白刃を顕現させた。
実体化した剣が空気を押し退けた瞬間、周囲の空間が僅かに歪む。
低い破裂音が鳴り、港を吹き抜けていた潮風が唐突に凪いだ。
「行こう」
志紀が短く促し、二人は通路の最奥へと足を踏み入れる。
逆流する灯火の光が、二人の影を不規則に壁へ焼き付けていた。
時間軸の境界が、この空間だけで曖昧に溶け落ちている。
最奥のコンクリート壁の前に、『それ』は存在した。
人間の輪郭。
しかし、生命の放つ熱量は一切感知できない。
全身に炎を纏いながらも、その姿は氷像のように静まり返っている。
燃え尽きることを許されず、空間に縛り付けられた事象の『残響』。
「あれが人だった……?」
「だった、だね」
志紀の低い確認に、レイヴンが静かに相槌を打つ。
志紀は、本部から支給された特殊な鞘を上段に構えた。
内部の刃を抜くことはない。強靭な質量を持つ鞘そのものが、今回の武器だった。
踏み込みと同時に、鞘が空気を両断する。
硬質な衝撃音が、倉庫の壁面を震わせた。
鞘の一撃が炎の輪郭を捉え、その構造を物理的に破壊する。
亀裂から溢れ出した淡い光が、潮風にさらわれて霧散していく。
「終わった?」
「いや、まだ残ってる」
レイヴンが剣の切先を下げず、気流の変化を読み取る。
空中に漂っていた炎の残滓が意思を持ったように集束し、志紀の足元へ這うように迫っていた。
レイヴンの腕が弾かれたように動く。
一閃。
刃の軌跡が白い閃光を生み、残滓の核を正確に貫いた。
短い破裂音の直後、空間を支配していた異常な圧力が完全に消失する。
ガソリン灯の逆流現象も止まり、元の静寂と潮の匂いだけが通路に取り残された。
志紀の肺から、深く長い呼気が漏れる。
「はーこういうよく分からない現象は苦手だねー」
レイヴンが剣を消失させ、軽く肩をすくめる。
「オレも」
志紀が同意を示す。二人は視線を交わし、僅かに口元を緩めた。
再び海からの風が吹き抜ける。
見上げた空は、すでに夕刻の朱に染まり始めていた。
「……灯が戻る、変な感じ」
志紀が歩き出しながら、足元に落ちた灰を一瞥して呟く。
「いったい、何が……」
レイヴンの声には、未だ拭いきれない警戒の色が滲んでいた。
志紀が無言で首を縦に振る。
二人の足音が、波のノイズに溶けて遠ざかっていく。
誰もいなくなった港の奥。
唐突に、風鈴の音が一度だけ鳴った。
その余韻は空気に溶けることなく、発生源へと巻き戻るように収束していく。
夜。
ⅩⅢ本部の報告室。
無数の波形データと監視映像のモニターが壁面を埋め尽くす空間。
無機質な照明の下で、藤原が報告書のファイルを静かに閉じた。
「ご苦労」
藤原の労いの言葉に、レイヴンと志紀は同時に姿勢を正し、頭を下げる。
顔を上げたレイヴンが、先陣を切って口を開いた。
「逆流するなんて聞いてことが無いんだけど?」
腕を組み、納得のいかない表情で藤原を見据える。
「いったい、何が起きて……?」
志紀もまた、事象の原理に対する純粋な疑問をぶつけた。
藤原は中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「調査中だ」
一切の感情を排した、短い解答。
巨大な情報網を持つⅩⅢにおいてさえ、現状では解析不能の領域にある事象。
志紀の眉間に深い皺が寄り、レイヴンの重心が僅かに前へと傾く。
重い沈黙が場を支配した後、藤原が静かに息を吐き、話題を切り替えた。
「夏休みはどうだ?」
冷徹な上官からの想定外の問いに、二人は戸惑いと共に視線を交わす。
「補習、補習、補習!」
レイヴンが大仰に肩を落として嘆く。
「葉月までは自由がなさそうです……」
志紀の口からも、深い溜息が漏れた。
「それもまた思い出だ。学生のうちは悔いのないよう全力で楽しめば良いさ」
藤原の口調は淡々としていたが、その言葉には確かな含意があった。
任務も、日常も、そのすべてを盤上の経験として消化しろという教唆。
「補習は楽しくない! です!」
レイヴンが数秒の演算の後、明確な否定の意思を示す。
敬語を取り繕ったその抗議に、志紀が堪えきれずに吹き出した。
「それもそうだな」
藤原の口角が、僅かに上がる。
「今日はもう休むと良い。現場の風にあたるのは、体力を削ぐ」
藤原が視線を端末のモニターへと戻し、退室を促す。
「明日も補習だし~?」
志紀がレイヴンの肩を小突く。
「それは言わない!」
レイヴンが両手で頭を抱える。
二人はもう一度頭を下げ、報告室を後にした。
自動ドアが閉まり、室内に再び電子音だけが残される。
壁際のモニターの片隅で、異常を知らせる波形が微かに揺らいだ。
同時に、何もない空間から風鈴の音が鳴る。
ガラスが触れ合う微かな音が空気を震わせ、そして逆流して消える。
藤原の視線が、黒く塗り潰された窓ガラスの向こう側を捉える。
「……また、か」
手元の端末に、新たな異常発生の通知が明滅している。
藤原は無言のままタブレットを操作し、次の手駒を配置するための通達処理を開始した。
外の世界では、生温い夜風が街を撫でている。
理を外れた現象が静かに広がり始める中、夏の一日が幕を下ろした。




