case.17「宿泊研修」
暦は皐月。
夏の匂いが微かに混じり始めた風が、学園の木々を揺らしている。
アリーナでの決闘や路地裏での異常事態以降、表立った事件は鳴りを潜め、平穏な日常が継続していた。
刃ケ丘異能高等学校、一年A組。
朝のホームルーム。
「明日から宿泊研修。忘れ物がないように」
教壇に立つ担任から、事務的な通達が下された。
「先生~お気に入りの枕持って行っても良いですか? 枕変わると眠れな~い」
大空蒼が机に突っ伏したまま、大きな欠伸と共に口を開く。
教室の空気が一瞬だけ呆れに染まった。
当然のように、担任は「ダメだ」と一蹴する。
教室の片隅では、灰塚こころと火乃宮朱美が完全に復帰し、それぞれの席についていた。
こころは首を深く垂れ、机の木目を見つめ続けている。
その対照として、朱美は不快感を隠そうともせず、あからさまな舌打ちを鳴らした。
色波樹は、こころが再び登校してきた事実に安堵の息を吐いていた。
『魔』で暴走したけど……特効薬が利いたようで良かった。
かつて、魔によって理性を融解させられた者を救う術は存在しなかった。
しかし現在では、聖獣の系譜を引くという少年の再生因子から生成された特効薬により、その治療が確立されている。樹はその情報を脳内で反芻し、最悪の事態が回避されたことを確認する。
「先生!」
「なんだ? 強矢」
強矢翠柳が、背筋を伸ばして勢いよく右手を挙げた。
「武器の帯刀は可能でしょうか?」
「許可する」
翠柳は「ありがとうございます」と力強く答え、深く頭を下げた。
学園内や日常生活において、異能の行使や武器の携帯は原則として禁じられている。
決闘などの特別な許可が下りた場合のみ、例外として認められる。
翠柳の異能は身体能力の強化。素手での戦闘も可能だが、火力の底上げとして刀を補助的に運用している。そのため、この場での確認は彼にとって必須の手順であった。
生徒たちが次々と質問を投げかける中、佐倉真白は周囲の喧騒を完全に遮断し、ただ黒板の文字を無機質な瞳で追い続けていた。
「一つ屋根の下で過ごすんやで?」
黒川玄が顔の前で両手を組み、極めて静かな、だが通る声で呟いた。
その言葉の意味を処理するため、教室内がほんの数秒だけ沈黙に包まれる。
「まあああああってぇ!?」
静寂を物理的に破壊したのは紺野爪戯だった。
彼は椅子を後方へ弾き飛ばし、勢いよく立ち上がる。
「先生! ダメです!」
「何が?」
突然の抗議に、担任が眉をひそめる。
「良いですか? 男女は当然別れると思いますよ? でもですね? 必ずしも男女とは限らないんですよ?」
爪戯は自らの机を両手で叩き、額に冷や汗を浮かべながら熱弁を振るう。
「なんの話をしている」
担任の顔に困惑の色が浮かんだ。
「思春期」
「流石に……ね?」
「ないない」
クラスメイトたちから、冷ややかな視線と呆れ声が一斉に放たれる。
「分からないのが世の中ってもんでしょ!?」
爪戯の叫びは、誰の心にも届くことなく虚しく響き渡った。
六大路辛は一連の騒動を環境音として処理し、手元のしおりの文字情報のみを抽出していた。
「何も起こらなければ良いな」
「それフラグ!」
玄の軽い呟きに、爪戯が即座に突っ込みを入れた。
そして当日。
宿泊研修の地、風ヶ森の隣に位置する神ヶ山。そこはⅩⅢが直接管理する領域であった。
一年生を乗せたバスが、山の麓でエンジンを停止する。
A組とB組は、それぞれ異なる登山口へと誘導された。
バスから降りた生徒たちが、指定された区画へ整列する。
「今からこの山を登ってもらう」
引率の教師から、端的な指示が下された。
「え? 山を?」
「やだー」
「登るだけ?」
生徒たちの間から、不満と疑問の声が漏れ出す。
「目の前の山は、ⅩⅢの管理している山だ。使役用・実験用に用意した魔物が住んでいる」
その一言が、場の空気を完全に凍結させた。
ざわめきは消え失せ、生徒たちが一斉に息を呑む。
「隣りの風ヶ森なら大人しい魔物なんだがな」
教師は口角をわずかに上げたが、その冗談に同調する者は誰一人としていなかった。
「山の頂上で待つ。誰一人欠けることなく登り切ってみせよ」
突きつけられた条件は極めてシンプル。
クラス全員での頂上到達。ただそれだけである。
「B組とは別のスタート地点、か」
玄が周囲の地形を観察しながら口を開いた。
「妨害に関しての説明がなかったってことは──……」
爪戯が肩をすくめ、視線を険しくする。
「血の気が多いのが居たからな。可能性はある」
辛は前方の樹海を冷たく見据え、予測されるリスクを言語化した。
「そんな卑怯な!」
翠柳が憤りの声を上げる。
「敗者側は一時的に異能制限を受け、ⅩⅢによる監査が入る……ってももう期間過ぎてるか」
樹が辛を鋭く睨みつけながら言った。
入学直後、辛はB組の浅黄ゴウから決闘を申し込まれ、これを制圧している。
敗北したゴウには異能制限が課されたが、その期間はすでに終了していた。復讐としての介入が予測される。
「全部倒せばいいじゃない」
朱美が自身の髪を払い、傲慢なほどの自信を見せつける。
「お前は大人しくしてろ」
「何よ!!」
樹の制止に、朱美が即座に牙を剥く。
「はあ……寝ていたい」
「……」
蒼と真白は、周囲の諍いから完全に意識を切り離していた。
こころは変わらず、地面に視線を固定している。
「行くぞ。立ち往生していては日が暮れる」
「あっ、待って!」
無益な会話を切り捨て、辛が先陣を切って山道へと足を踏み入れた。爪戯が慌ててその後を追う。
「一応注意して行こ~」
玄がクラス全体へ声をかけながら、軽い足取りで続く。
「待て! なぜお前が仕切る!」
樹が辛の背中へ吠え、苛立ちを隠すことなく駆け出した。
朱美もまた、鋭い舌打ちを残して歩みを進める。
残された生徒たちも、渋々といった様子で彼らの後を追う。
こうして、魔物が潜む神ヶ山でのサバイバル研修が、幕を開けた。




