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毒殺された悪役令嬢は過去に戻り、今度は全員の破滅を設計する  作者: スナハコ
第5章

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44.代償

 再び地下に降りた。


 今度は封印室ではなく、その手前にある地下書室。魔道灯の青白い光が石壁を照らし、書架の列が暗闇の奥まで続いている。松明の揺らぎはない。冷たい、動かない光だった。


 昨日、神殿の文書庫で知ったこと。前世のクラウスが聖遺物を起動したこと。代償として記憶を失った――あるいは、もっと重いものを失った可能性があること。


 けれどまだ足りない。口伝と断片的な注釈だけでは、前世のクラウスが何を知り、何を覚悟して封印室に降りたのかが見えない。


「起動方法に関する記述は、封印管理の記録とは意図的に分けて保管されているようです」


 クラウスが書架の間を歩きながら言った。


「この地下書庫には、王家の紋章で封じられた文書が別に保管されていると、昨日の管理人が教えてくれました」


「それを最初に言ってくださいませ」


「状況が許せば、順を追って調べたかった。ですが――もう悠長にしている場合ではないでしょう」


 クラウスの声に、珍しく焦りに似た色があった。エレノーラはそれを見逃さなかったが、何も言わなかった。


      *


 書架の最奥。壁に埋め込まれた小さな棚に、古い筒が並んでいた。


 クラウスが一本を引き出す。封蝋が施されている――王家の紋章。だが蝋は割れていた。


「開封されています。割れ方から見て、それほど古くはない」


 エレノーラの心臓が速くなった。


(前世のクラウスが――開けた?)


 筒から羊皮紙が出てきた。他のどの文書よりも古い紙。端が焼け焦げ、文字の半分は掠れている。けれど――残った部分は読めた。


「題がある。『起動の条件と代償について』」


 エレノーラの息が止まった。封印室の古文書で欠損していた、あの――代償の記述。


「読み上げます」


 クラウスが掠れた文字を拾い始めた。魔道灯の光の下で、百年以上前の文字が浮かび上がる。


「『時の神器は、世界の時を巻き戻す力を有する。ただし起動には絶対の代償を要す。起動者は――巻き戻った世界において、その存在を喪失する』」


 存在を、喪失する。


 昨日の管理人が言葉を濁した部分の、全貌。


「続きがあります」


 クラウスの声は平坦だった。自分の前世について読み上げているとは思えないほどに。


「『起動者の記憶は抹消され、人格は巻き戻しの起点となる軸に還る。肉体は保たれるが、自己は失われる。巻き戻った世界にはその者が聖遺物を起動したという事実のみが封印記録として残る。起動者自身は――同じ器のまま、還った存在として目覚める』」


 声が途絶えた。


 地下書庫の冷気が、二人の間に沈殿していた。魔道灯の光が壁に落とす影が、微かに震えている。


 エレノーラは羊皮紙を見つめていた。文字が滲んでいる。――いや、文字ではない。自分の目が潤んでいるのだ。


      *


「……つまり」


 声を出すのに、力が要った。


「前世のあなたは――自分が消えることを知っていて、聖遺物を起動した」


「この封蝋を前世の私が破ったのだとすれば――ええ。代償を理解したうえで、起動したことになります」


 淡々とした声だった。他人の事例を分析する声。


 その時――筒の底から、細い紙片が一枚。


 滑り落ちた。


 クラウスが拾い上げる。羊皮紙ではない。新しい――といっても数ヶ月、数年前の紙に、整った硬い筆跡が短い行で並んでいた。


「……覚え書きです」


 クラウスの声の温度が、初めて変わった。


 読み上げた文面は――あまりに、簡潔だった。


「『春の大茶会以後、ハーゼンベルク嬢に対する告発は作為的』」



「『個別聴取の上申、却下』」


「『宰相府を通じた再上申、再却下。政治的介入の限界を確認』」


「『地下牢面会、不許可』」 


「『侍女を通じた接触を試みるも、聖女側に阻まれる』」


「『通常手段では間に合わぬ。最終手段を要す』」


 六行。


 几帳面で角の立った字だった。今のクラウスが書類の余白に走らせる筆跡と――同じだった。同じ癖、同じ筆跡、同じ角度。


 ペンを持つ手の癖は、魂が変わらない限り変わらないのだ。


「上申――、二度」


 エレノーラの声が掠れた。


「面会の申請。侍女を通じた接触。全て退けられて――」


「ええ」


「それでも諦めなかった」


「――ええ」


 クラウスの声に、初めて聞く音が混じった。驚き――ではない。前世の自分が残した記録を読んで、そこに自分を見つけた人間の、静かな戦慄。


「この覚え書きが事実なら――前世の私は、春の大茶会の後からあなたへの作為を追い続けていた」


 クラウスが覚え書きを指でなぞった。自分の筆跡と同じ字を。


「個別聴取を上申し、却下された。宰相府を通じて再上申し、再び退けられた。政治の内側からでは届かないと判断して――地下牢への面会を試み、それも不許可。侍女経由の接触は聖女に阻まれた」


「制度の枠内で、できることを全てやった。全てやって――全て届かなかった」


「だから最後の手段として、聖遺物を」


「ええ。七回の文書庫訪問と、この覚え書き。辻褄が合います」


 声は冷静だった。いつもの分析の声。けれどエレノーラは見ていた――覚え書きを持つ手が、微かに震えていることを。


      *


(一度も、話したことがなかった)


 前世のエレノーラは、クラウス・フォン・ジークムントというな名前すら知らなかった。宮廷の裏方にいた、顔のない人。書類の向こう側にいた、声のない人。


 その人が――エレノーラの崩落を見ていた。


 大茶会で聖女に嵌められたことを知っていた。告発が作為的だと見抜いていた。助けようとした。何度も。何度も。


 全て退けられた。


 そして最後に――自分と言う人間が失われることと引き換えに、エレノーラの時間を巻き戻した。


「だから――死に戻りの朝から、あなたは『前世にいなかった人』だと思っていた」


 声が震えた。止められなかった。


「目覚めた時、前世の三年間で出会った全ての人を思い出した。その中に――あなたの名前はなかった」


「夜会で初めて声をかけられた時、思ったんです。この人は前世にはいなかった人だって」


「でも、違った」


 涙が、一滴だけ頬に。


「前世にもいた。ずっといた。わたくしの知らないところで、わたくしのために動いてくれていた」


 膝の上の拳が震えている。


(一人だと思っていた)


 前世で死んだ夜のことを思い出す。冷たい石の床。薄れていく意識。天井の紋様が滲んでいく。最後に思ったのは――誰も助けてくれなかった、ということだった。


 父は力を失っていた。侍女は買収されていた。婚約者は嘲笑い、聖女は涙の裏で笑っていた。


 誰も。


 でも――違った。


 一人の人がいた。名前も知らない、顔も知らない、声を聞いたこともない人が――全てを賭けてくれていた。自分という人間を捨ててまで。


      *


「クラウス様」


 声が震えるのを、もう止めなかった。


「あなたは――覚えていないのですよね」


「覚えていません」


 静かな声だった。


「古文書が正しければ、前世の記憶はない。あなたを過去に戻した記憶も、あなたの死を見た記憶も――全て消えています」


 魔道灯の光がクラウスの横顔を照らしていた。青白い光の中の銀灰色の髪。眼鏡のつるに落ちる影。その横顔を、前世のエレノーラは一度も見たことがなかった。


「でも――」


 クラウスの声が低くなった。今まで聞いたことのない声だった。


「今のあなたが泣いているなら――過去の私は、正しい選択をしたのでしょう」


 エレノーラの涙が止まらなかった。


「前世の私がどんな人間だったか、私には知る術がない。何を感じ、何を考え、封印室に降りたのか」


 クラウスの声は淡々としていた。事実を読み上げる声。けれどその底に――今まで聞いたことのない温度があった。


「ですが――同じ人間ですから」


 紺色の瞳が、まっすぐエレノーラを見た。


「今の私があなたに惹かれたように、前世の私もまた――あなたに何かを感じていたのだと思います。表舞台に出ることのなかった男が、最後に一つだけ、合理性の外にある選択をした」


 合理的な人。感情を不要なものとして封じてきた人。その人が――前世でも今世でも、同じ少女のために感情で動いた。


「あなたは二度、わたくしを救ってくれた」


 声にならなかった。唇が動いただけだった。


 前世で――自分と言う人間を失って。


 今世で――毒矢を身代わりに受けて。


 同じ魂。同じ人。記憶を失っても、白紙から始めても――同じ選択をする。


「――ええ。そのようです」


 クラウスの声が、冷たい地下書庫の中で、温かく響いた。


 魔道灯の光の中で、前世のクラウスの覚え書きが机の上に広げられていた。六行の、簡潔な記録。届かなかった手。退けられた上申。阻まれた接触。そして――最後の決断。


 前世のクラウスがこの筒の封蝋を割った時、何を思っただろう。代償の全貌を読み、自分が消えると知り――それでも羊皮紙を丸め直して、封印室へ向かった。


 その足取りを知ることは、もうできない。


 けれど――その選択の重みを、エレノーラは胸の奥で受け止めた。受け止めて、抱きしめた。


(もう一人じゃない。前世でも――本当は、一人じゃなかった)

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