43.前世の謎
神殿の文書庫は、時間から切り離された場所だった。
天井の高い石造りの部屋に、木の書架が整然と並んでいる。窓はない。壁に据えられた燭台の火だけが、黄色い光を落としていた。炎が揺れるたびに、書架の影が床を這うように動く。
埃の匂い。古い紙の匂い。蝋が燃える匂い。ここにあるのは、人ではなく記録だった。
「お探しのものはこちらでございます」
老いた文書管理人が、書架の奥から一冊の帳簿を引き出した。革装丁の表紙に「封印区域管理記録」と銀の箔押しがある。
王城地下の封印区域は、もとは神殿が管理する聖域だった。王城の建て増しで頭上に宮殿が乗ったが、管理の権限と記録は神殿に留められている。だからこの帳簿はここにある。
「今春、封印区域で異常が記録された日の頁を」
クラウスが言った。管理人は一つ頷いた。
「今春——ああ、あの日ですか」
「覚えていらっしゃる?」
「忘れようがございませんとも。あの日は地下から尋常でない魔力反応がございましてな。文書庫のこの部屋まで、棚が揺れましたのです」
*
管理人が帳簿を開いた。日付の列を指が辿っていく。
該当のページ。今春——春の終わり。
日付を確認した瞬間、エレノーラの指先から血の気が引いた。
(この日は——前世でわたくしが死んだ日だ)
正確には、前世で毒殺され、今の自分が目覚めた——その日。
帳簿の記録は簡潔だった。
「『封印区域において異常な魔力反応を検出。地下より強い光が確認される。持続時間——約三分間』」
「異常の原因は特定されましたか」
クラウスの声は完璧に冷静だった。他人の仕事を確認する上官の声。
「いいえ。翌朝に確認いたしましたが、封印そのものは無事でした。ただ——」
管理人が帳簿のページをめくった。指が、一行の記述で止まる。
「入室記録に一つ、不審な点がございまして」
エレノーラとクラウスが同時に帳簿を覗き込んだ。
入室記録の欄。走り書きの、震えた筆跡。
——クラウス・フォン・ジークムント。
時間が、止まった。
水晶の時計台ではなく——エレノーラの中で。
隣のクラウスを見た。銀縁の眼鏡の奥の紺色の瞳が、その名前をじっと見つめている。表情は動かない。けれど——動かなさすぎた。
「クラウス様。これは」
「私の名前です」
静かな声だった。
「ですが、記憶にありません。この日、封印区域に降りた覚えは——少なくとも、今の私には」
今の私には。
その五文字が、胸を貫いた。
*
「他の記録はありますか」
クラウスの声は淡々としていた。けれどエレノーラは見ていた。帳簿を押さえる指の関節が白くなっていることを。
管理人がもう一冊の帳簿を引き出した。
「こちらは魔力観測記録でございます。該当日——封印区域の魔力値が通常の十二倍にまで跳ね上がりました。持続時間は約三分間。そして」
管理人の声が低くなった。
「聖遺物の内部の歯車が——『逆回転』したことが、観測機器に記録されております」
逆回転。時を巻き戻す動き。
「三分間だけ——聖遺物が、動いた」
エレノーラの声がかすれた。自分でも驚くほどに。
「わたくしが死んだ後に」
その言葉が口を衝いて出た瞬間、管理人の老いた目がこちらを向いた。問いたげな目。けれど何も聞かなかった。文書管理人とは、聞かないことが仕事の人種だ。
「もう一つ」
管理人が黄ばんだ報告書を取り出した。
「異常発動の翌朝の、封印管理官の所見でございます」
報告書の文面を、クラウスが読み上げた。
「『封印室内に人の痕跡あり。台座の前に膝を突いた跡。右手の血痕が水晶表面に付着。起動の儀式に該当する姿勢と判断』」
「『入室記録の人物を宰相府に照会。通常通り執務中。本人に聴取するも、該当の記憶なしとの回答』」
記憶なし。
「当時のクラウス様も、そう答えたのですか」
エレノーラが管理人に問うた。
「左様でございます。封印に損傷はなく——それ以上の追及は行われませんでした」
エレノーラは報告書から目を上げ、クラウスを見た。
(前世のクラウス様は——わたくしとは他人だった)
一度も話したことがない。顔も知らなかった。宮廷の裏方にいた、名前すら意識したことのない人。
その人が——わたくしが毒殺された日に、封印区域に降り、聖遺物の前に膝を突き、血を流した。
(なぜ?)
条件の一つが、頭の中で反響した。「深い縁を持つ者」。
(他人のはずのわたくしのために——なぜ?)
*
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
エレノーラは管理人に向き直った。
「当時のクラウス様——クラウス・フォン・ジークムント殿について、何かご存じのことは」
管理人が目を細めた。記憶を辿るように。
「直接の面識はございませんでしたが——思い当たることが一つ」
老人の声が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あの日以前の三ヶ月間に、この文書庫を複数回訪れた方がおります。同じくクラウス・フォン・ジークムント殿。聖遺物に関する古文書を閲覧なさっていました」
「複数回、とは」
「計七回でございます」
七回。
「最初の閲覧日は——王妃殿下主催の春の大茶会の、三日後でございました」
春の大茶会。前世でエレノーラの転落が始まった日。
七回。業務命令ではなく、個人の意志で。宰相府から聖遺物の調査を命じた記録は存在しない。
(前世のクラウス様は——調べていた。聖遺物の使い方を。あの日から)
パズルの欠片が、音もなく嵌まっていく。
前世のクラウスは、表舞台に出なかった。エレノーラの婚約破棄にも聖女の策略にも、直接は関わらなかった。けれど——陰から見ていた。手を伸ばしても制度の壁に阻まれ、届かぬまま、エレノーラが追い詰められていくのを。
そして最後の手段として——聖遺物に辿り着いた。
「もっとも」
管理人が付け加えた。
「古い注釈に、こうもございます。『深い縁とは相互の親交に限らず、長く見守り、その者の運命を己が選択で引き受ける覚悟を含む』と」
エレノーラの目が熱くなった。
(知らなかった。前世のわたくしは、この人のことを何も知らなかった)
すれ違うことさえなかった。名前も、顔も。
なのにこの人は——わたくしの死を見届けて、自分の全てを賭けた。
*
「エレノーラ嬢」
クラウスが口を開いた。低い声。その底に、微かな揺れがあった。
「仮にこの記録が正しいのであれば——前世の私は、あなたを救うために聖遺物を起動した。そういうことになります」
「ええ」
声が震えた。抑えきれなかった。
「前世のあなたは——知らないところで、わたくしを見ていてくれた」
言葉が詰まった。涙が目の縁まで上がってきた。けれど堪えた。まだ、聞かなければならないことがある。
「代償は」
管理人が目を伏せた。
「代償について記された文書の多くは失われております。ただ——神殿に口伝が一つ。『時計の心臓を起動した者は、巻き戻された時間の中で、存在の一部を失う』と」
「存在の一部」
「断片的な口伝ゆえ確かなことは申せませんが——最も多く語られているのは、記憶でございます。起動者は巻き戻される前の記憶を全て失い、自分が起動したことすら忘れると」
沈黙が落ちた。
エレノーラはクラウスを見た。この人は記憶がないと言った。封印区域に降りたことも、聖遺物を起動したことも。
代償だったのだ。
前世のクラウスはエレノーラを救うために記憶を失った。自分がなぜそうしたか。誰のためにそうしたか。それすらも。
「——誰かが、わたくしを救おうとしてくれた」
エレノーラの声が震えた。
「前の人生で。たった一人だけ」
クラウスは黙っていた。長い沈黙の後、眼鏡の奥の瞳が瞬いた。
「……そう、ですか」
静かな三文字だった。けれどその中に——驚きと、戸惑いと、名前のつかない何かが同居していた。
「前世の私は——あなたを、知っていたのですね」
「ええ。きっと」
「記憶はありません。けれど——」
クラウスの右手がゆっくりと持ち上がり——エレノーラの頬に触れた。
あの夜、バルコニーで涙を拭った指と同じ手。
「覚えていないのに、あなたの傍にいることが——自然だと、感じている」
エレノーラの涙が、一筋だけ頬を伝った。
(二度も。この人は二度も、わたくしの傍に——)
管理人が、音を立てずに席を外した。
*
「クラウス様」
「はい」
「前世の記憶がなくても——あなたはあなたですわ」
「ええ。そうかもしれません」
「かもしれない、ではありません」
泣きながらの声だった。けれど強かった。
クラウスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「あなたにそう言われると、そうなのだろうと思えてしまう。困った話です」
「困ってください」
「ええ。喜んで」
文書庫を出ると、回廊に午後の光が差し込んでいた。
隣にクラウスがいる。それだけで充分だった。
けれど——管理人の言葉が、胸の奥に引っかかっていた。「存在の一部を失う」。記憶は「最も多く語られている」もの。最も多い、ということは——それ以外の可能性がある。
「クラウス様」
足を止めた。
「管理人殿が言葉を切った瞬間の表情を、わたくしは見ていましたわ。存在の一部を失う——その最も重い形は、何ですか」
クラウスも足を止めた。回廊の光が、銀灰色の髪に落ちている。
「……記憶の喪失は、最も軽い代償だそうです」
声が低くなった。
「最も重い場合——起動者の記憶と人格が完全に消え、同じ体のまま別人として目覚める。起動以前の自分は二度と戻らない。ただし神器と封印に直結した記録だけは、巻き戻しの外に残ると」
(この人が——この人でなくなる?)
体は残る。けれど中身が消える。
「今の段階では推測です。結論を急ぐべきではありません」
正論だった。けれどエレノーラは見ていた。クラウスの右手——記録に血痕を残したのと同じ利き手が——無意識に、握りしめられていることを。
「代償が何であれ——わたくしはあなたを失いません。二度と」
クラウスが振り返った。紺色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「——あなたは本当に、計画外のことばかり言う」
「計画通りの言葉では、伝わらないこともありますわ」
「ええ。それは——よく、知っています」
二人は歩き出した。並んで、同じ速度で。
その背後で——王城の地下深く、水晶の時計台が微かに脈打っていた。止まった針の奥で、光が一つ、強く瞬いた。
まるで何かを、思い出したかのように。




