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毒殺された悪役令嬢は過去に戻り、今度は全員の破滅を設計する  作者: スナハコ
第5章

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43.前世の謎

 神殿の文書庫は、時間から切り離された場所だった。


 天井の高い石造りの部屋に、木の書架が整然と並んでいる。窓はない。壁に据えられた燭台の火だけが、黄色い光を落としていた。炎が揺れるたびに、書架の影が床を這うように動く。


 埃の匂い。古い紙の匂い。蝋が燃える匂い。ここにあるのは、人ではなく記録だった。


「お探しのものはこちらでございます」


 老いた文書管理人が、書架の奥から一冊の帳簿を引き出した。革装丁の表紙に「封印区域管理記録」と銀の箔押しがある。


 王城地下の封印区域は、もとは神殿が管理する聖域だった。王城の建て増しで頭上に宮殿が乗ったが、管理の権限と記録は神殿に留められている。だからこの帳簿はここにある。


「今春、封印区域で異常が記録された日の頁を」


 クラウスが言った。管理人は一つ頷いた。


「今春——ああ、あの日ですか」


「覚えていらっしゃる?」


「忘れようがございませんとも。あの日は地下から尋常でない魔力反応がございましてな。文書庫のこの部屋まで、棚が揺れましたのです」



      *



 管理人が帳簿を開いた。日付の列を指が辿っていく。


 該当のページ。今春——春の終わり。


 日付を確認した瞬間、エレノーラの指先から血の気が引いた。


(この日は——前世でわたくしが死んだ日だ)


 正確には、前世で毒殺され、今の自分が目覚めた——その日。


 帳簿の記録は簡潔だった。


「『封印区域において異常な魔力反応を検出。地下より強い光が確認される。持続時間——約三分間』」


「異常の原因は特定されましたか」


 クラウスの声は完璧に冷静だった。他人の仕事を確認する上官の声。


「いいえ。翌朝に確認いたしましたが、封印そのものは無事でした。ただ——」


 管理人が帳簿のページをめくった。指が、一行の記述で止まる。


「入室記録に一つ、不審な点がございまして」


 エレノーラとクラウスが同時に帳簿を覗き込んだ。


 入室記録の欄。走り書きの、震えた筆跡。


 ——クラウス・フォン・ジークムント。


 時間が、止まった。


 水晶の時計台ではなく——エレノーラの中で。


 隣のクラウスを見た。銀縁の眼鏡の奥の紺色の瞳が、その名前をじっと見つめている。表情は動かない。けれど——動かなさすぎた。


「クラウス様。これは」


「私の名前です」


 静かな声だった。


「ですが、記憶にありません。この日、封印区域に降りた覚えは——少なくとも、今の私には」


 今の私には。


 その五文字が、胸を貫いた。



      *



「他の記録はありますか」


 クラウスの声は淡々としていた。けれどエレノーラは見ていた。帳簿を押さえる指の関節が白くなっていることを。


 管理人がもう一冊の帳簿を引き出した。


「こちらは魔力観測記録でございます。該当日——封印区域の魔力値が通常の十二倍にまで跳ね上がりました。持続時間は約三分間。そして」


 管理人の声が低くなった。


「聖遺物の内部の歯車が——『逆回転』したことが、観測機器に記録されております」


 逆回転。時を巻き戻す動き。


「三分間だけ——聖遺物が、動いた」


 エレノーラの声がかすれた。自分でも驚くほどに。


「わたくしが死んだ後に」


 その言葉が口を衝いて出た瞬間、管理人の老いた目がこちらを向いた。問いたげな目。けれど何も聞かなかった。文書管理人とは、聞かないことが仕事の人種だ。


「もう一つ」


 管理人が黄ばんだ報告書を取り出した。


「異常発動の翌朝の、封印管理官の所見でございます」


 報告書の文面を、クラウスが読み上げた。


「『封印室内に人の痕跡あり。台座の前に膝を突いた跡。右手の血痕が水晶表面に付着。起動の儀式に該当する姿勢と判断』」


「『入室記録の人物を宰相府に照会。通常通り執務中。本人に聴取するも、該当の記憶なしとの回答』」


 記憶なし。


「当時のクラウス様も、そう答えたのですか」


 エレノーラが管理人に問うた。


「左様でございます。封印に損傷はなく——それ以上の追及は行われませんでした」


 エレノーラは報告書から目を上げ、クラウスを見た。


(前世のクラウス様は——わたくしとは他人だった)


 一度も話したことがない。顔も知らなかった。宮廷の裏方にいた、名前すら意識したことのない人。


 その人が——わたくしが毒殺された日に、封印区域に降り、聖遺物の前に膝を突き、血を流した。


(なぜ?)


 条件の一つが、頭の中で反響した。「深い縁を持つ者」。


(他人のはずのわたくしのために——なぜ?)



      *



「一つ、お聞きしてもよろしいですか」


 エレノーラは管理人に向き直った。


「当時のクラウス様——クラウス・フォン・ジークムント殿について、何かご存じのことは」


 管理人が目を細めた。記憶を辿るように。


「直接の面識はございませんでしたが——思い当たることが一つ」


 老人の声が、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「あの日以前の三ヶ月間に、この文書庫を複数回訪れた方がおります。同じくクラウス・フォン・ジークムント殿。聖遺物に関する古文書を閲覧なさっていました」


「複数回、とは」


「計七回でございます」


 七回。


「最初の閲覧日は——王妃殿下主催の春の大茶会の、三日後でございました」


 春の大茶会。前世でエレノーラの転落が始まった日。


 七回。業務命令ではなく、個人の意志で。宰相府から聖遺物の調査を命じた記録は存在しない。


(前世のクラウス様は——調べていた。聖遺物の使い方を。あの日から)


 パズルの欠片が、音もなく嵌まっていく。


 前世のクラウスは、表舞台に出なかった。エレノーラの婚約破棄にも聖女の策略にも、直接は関わらなかった。けれど——陰から見ていた。手を伸ばしても制度の壁に阻まれ、届かぬまま、エレノーラが追い詰められていくのを。


 そして最後の手段として——聖遺物に辿り着いた。


「もっとも」


 管理人が付け加えた。


「古い注釈に、こうもございます。『深い縁とは相互の親交に限らず、長く見守り、その者の運命を己が選択で引き受ける覚悟を含む』と」


 エレノーラの目が熱くなった。


(知らなかった。前世のわたくしは、この人のことを何も知らなかった)


 すれ違うことさえなかった。名前も、顔も。


 なのにこの人は——わたくしの死を見届けて、自分の全てを賭けた。



      *



「エレノーラ嬢」


 クラウスが口を開いた。低い声。その底に、微かな揺れがあった。


「仮にこの記録が正しいのであれば——前世の私は、あなたを救うために聖遺物を起動した。そういうことになります」


「ええ」


 声が震えた。抑えきれなかった。


「前世のあなたは——知らないところで、わたくしを見ていてくれた」


 言葉が詰まった。涙が目の縁まで上がってきた。けれど堪えた。まだ、聞かなければならないことがある。


「代償は」


 管理人が目を伏せた。


「代償について記された文書の多くは失われております。ただ——神殿に口伝が一つ。『時計の心臓を起動した者は、巻き戻された時間の中で、存在の一部を失う』と」


「存在の一部」


「断片的な口伝ゆえ確かなことは申せませんが——最も多く語られているのは、記憶でございます。起動者は巻き戻される前の記憶を全て失い、自分が起動したことすら忘れると」


 沈黙が落ちた。


 エレノーラはクラウスを見た。この人は記憶がないと言った。封印区域に降りたことも、聖遺物を起動したことも。


 代償だったのだ。


 前世のクラウスはエレノーラを救うために記憶を失った。自分がなぜそうしたか。誰のためにそうしたか。それすらも。


「——誰かが、わたくしを救おうとしてくれた」


 エレノーラの声が震えた。


「前の人生で。たった一人だけ」


 クラウスは黙っていた。長い沈黙の後、眼鏡の奥の瞳が瞬いた。


「……そう、ですか」


 静かな三文字だった。けれどその中に——驚きと、戸惑いと、名前のつかない何かが同居していた。


「前世の私は——あなたを、知っていたのですね」


「ええ。きっと」


「記憶はありません。けれど——」


 クラウスの右手がゆっくりと持ち上がり——エレノーラの頬に触れた。


 あの夜、バルコニーで涙を拭った指と同じ手。


「覚えていないのに、あなたの傍にいることが——自然だと、感じている」


 エレノーラの涙が、一筋だけ頬を伝った。


(二度も。この人は二度も、わたくしの傍に——)


 管理人が、音を立てずに席を外した。



      *



「クラウス様」


「はい」


「前世の記憶がなくても——あなたはあなたですわ」


「ええ。そうかもしれません」


「かもしれない、ではありません」


 泣きながらの声だった。けれど強かった。


 クラウスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「あなたにそう言われると、そうなのだろうと思えてしまう。困った話です」


「困ってください」


「ええ。喜んで」


 文書庫を出ると、回廊に午後の光が差し込んでいた。


 隣にクラウスがいる。それだけで充分だった。


 けれど——管理人の言葉が、胸の奥に引っかかっていた。「存在の一部を失う」。記憶は「最も多く語られている」もの。最も多い、ということは——それ以外の可能性がある。


「クラウス様」


 足を止めた。


「管理人殿が言葉を切った瞬間の表情を、わたくしは見ていましたわ。存在の一部を失う——その最も重い形は、何ですか」


 クラウスも足を止めた。回廊の光が、銀灰色の髪に落ちている。


「……記憶の喪失は、最も軽い代償だそうです」


 声が低くなった。


「最も重い場合——起動者の記憶と人格が完全に消え、同じ体のまま別人として目覚める。起動以前の自分は二度と戻らない。ただし神器と封印に直結した記録だけは、巻き戻しの外に残ると」


(この人が——この人でなくなる?)


 体は残る。けれど中身が消える。


「今の段階では推測です。結論を急ぐべきではありません」


 正論だった。けれどエレノーラは見ていた。クラウスの右手——記録に血痕を残したのと同じ利き手が——無意識に、握りしめられていることを。


「代償が何であれ——わたくしはあなたを失いません。二度と」


 クラウスが振り返った。紺色の瞳が、一瞬だけ揺れた。


「——あなたは本当に、計画外のことばかり言う」


「計画通りの言葉では、伝わらないこともありますわ」


「ええ。それは——よく、知っています」


 二人は歩き出した。並んで、同じ速度で。


 その背後で——王城の地下深く、水晶の時計台が微かに脈打っていた。止まった針の奥で、光が一つ、強く瞬いた。


 まるで何かを、思い出したかのように。

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