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34.父との和解

 朝食の席に、父がいた。


 それだけのことが、エレノーラの足を一瞬止めた。


 ハーゼンベルク公爵邸の小食堂。昨日、叔母カタリーナを断罪した翌朝。城から一時帰邸したエレノーラを待っていたのは、白いテーブルクロスの上に並ぶ湯気の立つ紅茶と、焼きたてのパン——そして、向かいの椅子に座る父の背中だった。


 窓から差し込む朝の光が、銀の食器を淡く照らしている。


(お父様が……朝食に?)


 記憶を探る。前世でも今世でも、父と二人で朝食をとった記憶は数えるほどしかない。ハーゼンベルク公爵は多忙な人間だった。早朝から執務室に籠もり、娘の顔を見るのは夕食の席がせいぜい。それも途中で中座することの方が多かった。


「エレノーラ」


 父が振り返った。


 五十歳の顔に、昨夜の疲労が滲んでいた。目の下に影がある。白髪交じりの髪は丁寧に整えられているが、いつもの威厳がどこか薄らいで見える。


「おはようございます、お父様」


 エレノーラは微笑んで席に着いた。令嬢の仮面。完璧な笑顔。マリアが紅茶を注ぎ、静かに部屋を出ていく。


 二人きりになった。


 沈黙が落ちた。


 パンを千切る音。紅茶のカップが皿に触れる音。それだけが、小食堂に響いている。


 父は何かを言いたそうにしていた。口を開いては閉じ、紅茶に手を伸ばしてはまた下ろす。娘に向けるべき言葉を探しているのだと、エレノーラにはわかった。


(不器用な人)


 昔からそうだった。母を早くに亡くしてからは特に。愛情の示し方を知らない人。政治と領地経営には長けていても、十七歳の娘にどう接していいかわからない人。


「エレノーラ」


 二度目に名前を呼ばれた時、父の声が少しだけ震えていた。


「はい」


「昨日の——お前の姿を、見ていた」


 エレノーラの手が止まった。


「廊下で、聞いていた。カタリーナに——義妹に、お前が全てを突きつけた時。扉の向こうで」


 父は紅茶のカップを見つめていた。自分の娘の目を見られないでいた。


「知らなかった。お前がそこまで——一人で、抱えていたことを」


 声が低くなっていく。威厳ある公爵の声ではなかった。ただの、父親の声だった。


「前の婚約の件も、聖女との確執も。王宮でお前が何をしていたのか、私は——」


 言葉が途切れた。


 父の大きな手が、テーブルの上で拳を作っていた。節くれだった指の関節が白くなるほど、強く握りしめている。


「私が、至らなかった」


 絞り出すような声だった。


「父親として。お前を守るべき人間として。何一つ——気づけなかった」


 エレノーラは黙って聞いていた。紅茶のカップを両手で包み、その温もりに指先の感覚を預けながら。


 父は不器用な人間だった。謝り方も知らない。娘にどう向き合えばいいかもわからない。今もテーブルの上の拳を見つめたまま、次の言葉を探しあぐねている。


(前世では——この言葉は、聞けなかった)


 前世のハーゼンベルク公爵は、娘の死を知った時にどうしたのだろう。エレノーラが毒で死んだ後、この不器用な父は——。


 考えないことにした。考えたら、仮面が剥がれる。


「お父様」


 穏やかに呼んだ。


 父が顔を上げた。赤みがかった目。昨夜、眠れなかったのだろう。


「もう過ぎたことです」


 微笑んだ。


 嘘だった。


 過ぎてなどいない。前世の冷たい床の上で、父の名前を呼んだことを覚えている。助けに来てくれると信じて。誰も来なかった。死の間際、最後に思い浮かんだのは——この不器用な父の顔だった。


 過ぎてなどいない。


 でも。


「わたくしは今、こうしてお父様と朝食をいただいています。それだけで、十分ですわ」


 優しい嘘。前世では言えなかった言葉。本当は胸の奥が震えている。嬉しくて仕方がない。父が謝ってくれたことが。娘の強さを認めてくれたことが。朝食の席で待っていてくれたことが。


 父は、長い間黙っていた。


 やがて——不器用に、ぎこちなく、口を開いた。


「お前の母に、似てきたな」


 それだけ言って、紅茶に口をつけた。手が微かに震えていた。


 エレノーラは何も言わなかった。パンを千切って口に運ぶ。いつもと同じ朝食の動作。いつもと同じ小食堂の景色。


 ただ——目の縁が、少しだけ赤かった。


 朝の光のせいだと言い訳ができる程度に。


 二人はそれ以上何も言わず、静かに朝食を終えた。交わした言葉は少ない。けれど、テーブルの上に置かれた父の手が——もう拳を握っていないことに、エレノーラは気づいていた。



      *



 城に戻ったのは昼前だった。


 回廊を歩いていると、向こうから見慣れた銀灰色の髪が近づいてきた。


「エレノーラ嬢。公爵邸から戻られましたか」


「ええ。父と少し、話を」


「——そうですか」


 クラウスは眼鏡を押し上げた。エレノーラの顔を一瞬見て、そして何も聞かなかった。


 代わりに、書類の束を差し出す。


「エステリア公国関連の報告書です。目を通していただきたい箇所に付箋を付けてあります」


「ありがとうございます」


 書類を受け取る。いつも通りのやり取り。いつも通りの距離感。


 エレノーラが回廊を歩き始めた時、クラウスは半歩遅れてその隣を歩いた。


 彼は何も聞かなかった。公爵邸で何があったのか。父と何を話したのか。


 ただ——横目で、エレノーラの目の縁がわずかに赤いことには、気づいていた。


 泣いてはいない。彼女は泣かない。それはクラウスが誰よりも知っている。


 けれど——泣かないことと、泣きたくないことは、違う。


(この人は、いつも一人で泣いてきたのだな)


 声には出さなかった。表情にも出さなかった。


 ただ、歩調を少しだけ緩めた。エレノーラが追いつきやすいように。半歩の距離が、ほんの少しだけ近くなった。


 回廊に午前の光が差し込んでいた。二人の影が石畳の上で、かすかに重なっていた。

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