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32.クラウスの過去

 夜の宰相府は、昼間とは別の顔を見せる。


 人の気配が消えた廊下に、燭台の灯りだけが揺れていた。エレノーラは書庫への通路を歩いている。大神殿の地下書庫に関する古い記録を探すためだった。


 書庫の扉が開いていた。


 中に灯りが見える。奥に人影を認めた。


「クラウス様?」


 書棚の間に、銀灰色の髪が見えた。クラウスが壁に背を預け、一冊の本を手にしていた。


「エレノーラ嬢。こんな時間に」


「同じ言葉をそのままお返ししますわ」


 近づいて気づいた。クラウスが手にしているのは公文書ではなかった。革装丁の古い手帳。表紙が擦れて、長い年月を感じさせる。


 クラウスの視線がその手帳に落ちたまま、動かなかった。


「——今日は、母の命日です」


 静かな声だった。感情を排した、いつもの声。だがその奥に、かすかな翳りがあった。



      *



 エレノーラは黙って近くの椅子を引き、腰を下ろした。聞いていい話なのかわからなかった。だが——立ち去ることも、できなかった。


「存じませんでした。差し出がましいことを——」


「構いません」


 クラウスが手帳を閉じた。革の表紙を指先で撫でる。


「母は、私が八つの時に亡くなりました」


「病で?」


「いいえ」


 一拍の間があった。


「政治的な——事故、と発表されました」


 事故。その言葉の裏にある意味を、エレノーラは理解していた。この宮廷で「事故」と呼ばれるものが、本当に事故であることは稀だ。


「父は当時、宰相に就任したばかりでした。改革を進めようとしていた。既得権を握る旧派閥にとって、父は邪魔だった」


 クラウスの声は淡々としていた。まるで他人の経歴を読み上げるように。


「父を直接害するのは困難だった。だから——周辺から崩しにかかった。母が狙われたのは、父への牽制です。馬車の事故に見せかけた襲撃でした」


(八つの——子供の時に)


 エレノーラの胸が軋んだ。八歳。母を失うには、あまりに幼い。


「父は犯人を突き止めました。旧派閥の中心人物を失脚させ、関与した者を全て排除した。政治的には完勝です」


「でも——お母様は、戻らなかった」


「ええ」


 短い肯定。その一語に、十六年分の沈黙が詰まっていた。


「葬儀の日、父は泣きませんでした。宰相として、弱みを見せるわけにはいかなかったのでしょう。私も——泣きませんでした」


「泣けなかった、のですか」


「泣かないと決めたのです」


 クラウスが壁から背を離し、書棚の間を歩いた。燭台の灯りが銀灰色の髪の上を滑る。


「泣いても母は戻らない。怒っても、悲しんでも、何も変わらない。ならば感情は不要だと——八歳の私は、そう結論づけました」


 足が止まった。エレノーラの方を向いたが、視線は合わなかった。眼鏡のレンズに炎の光が映り、紺色の瞳を隠している。


「感情は判断を鈍らせる。冷静であれば、正しい手を打てる。母を殺した者たちに勝てる。——そう信じてきました」



      *



 エレノーラは息を詰めていた。


 冷徹な宰相補佐官。感情を排し、論理だけで動く男。その仮面の裏に、こんな傷があったとは。


(この人も——仮面を被っていたのだ。わたくしと、同じように)


 エレノーラの仮面は令嬢の微笑み。クラウスの仮面は冷徹な無表情。どちらも、傷を隠すために被ったものだった。


「十六年間、それで正しかった」


 クラウスの声が続いた。


「感情を切り捨てた分だけ、仕事は完璧にこなせた。父の補佐を務め、宮廷の暗部を処理し、誰にも隙を見せなかった。——それで、良かったはずだった」


「今は?」


 気がついたら、聞いていた。


 クラウスの手が、止まった。


 長い沈黙が書庫に落ちた。古い紙とインクの匂いが、二人の間を漂っている。燭台の炎がちりちりと音を立てた。


「……今は、わからなくなった」


 低い声だった。


「あなたのせいで」


 エレノーラの心臓が、大きく跳ねた。


 責めの言葉ではなかった。怒りでもなかった。十六年間封じてきた感情の蓋が、少しだけ——ほんの少しだけずれた音だった。


「不要だと決めたものが、不要ではなかったのかもしれない。そう——思い始めている自分がいる」


 クラウスが眼鏡を外した。


 初めてだった。この人が眼鏡を外すのを見るのは。


 紺色の瞳が、燭台の灯りに照らされて剥き出しになっていた。何の遮蔽もなくエレノーラを見ている。


 その瞳は、揺れていた。


 戸惑い。困惑。そして——自分でも名前をつけられない、もっと深い何か。


(この人が、弱さを見せている。わたくしに)


 エレノーラの目頭が熱くなった。泣いてはいけない。今ここで泣いたら、この人はきっと蓋を閉じてしまう。二度と開けないかもしれない。


 だから——笑った。


 穏やかに。令嬢の仮面でも、強がりでもなく。ただ、この人の痛みを受け止めたいと思った、ありのままの微笑みで。


「クラウス様。感情は、判断を鈍らせるだけのものではありませんわ」


「……」


「怒りがあるから、理不尽に立ち向かえる。悲しみがあるから、他者の痛みがわかる。そして——」


 言葉を、飲み込んだ。


 「好き」という感情があるから、誰かのために強くなれる。そう言いかけて、止めた。今はまだ、その言葉は早い。


「——大切に思う心があるから、守りたいものが見えるのだと思います」


 クラウスは何も答えなかった。


 ただ——眼鏡をかけ直す手が、微かに震えていた。


 レンズの向こうに紺色の瞳が戻る。いつもの壁が再び立ち上がる。けれど、さっきまでとは何かが違う。壁の一部に、小さな罅が入ったような。


「……お母様の手帳。大切になさっているのですね」


「形見です。母の日記が——少しだけ残っている」


「いつか、読ませていただけますか」


 クラウスが一瞬、目を見開いた。すぐにいつもの表情に戻ったが、その一瞬に全てがあった。


「——考えておきます」


 断らなかった。それだけで、十分だった。


 エレノーラは立ち上がった。これ以上ここにいたら、自分の感情が制御できなくなる。


「夜も遅いですわ。そろそろ——」


「エレノーラ嬢」


 背中に、声がかかった。


 振り返る。


 書棚の間に立つクラウスの姿が、燭台の灯りに照らされていた。革装丁の手帳を胸元に仕舞いながら、いつもの無表情で——けれど、瞳の奥にだけ、微かな光を宿して。


「——ありがとうございます」


 その声は、今まで聞いたどの声とも違った。十六年間閉じていた扉の隙間から漏れた、小さな温もり。


 エレノーラの唇が、かすかに震えた。


「私のせい、ですか」


 呟くように繰り返した。


「……はい」


 答えは、短かった。


 それきり、二人とも口を開かなかった。


 燭台の炎が揺れている。古い書庫に、紙の匂いと沈黙が満ちていた。


 エレノーラは静かに踵を返した。廊下に出る。扉を閉める。


 そして——壁に背を預けて、両手で顔を覆った。


(ずるい。ずるいよ、クラウス——)


 仮面の下で、頬が熱かった。心臓が痛いほど鳴っている。


 泣きたいのか笑いたいのかもわからないまま、エレノーラはしばらくそこに立ち尽くしていた。

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