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Cielhelina  作者: 仮定
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3/3

王都の休日

ワイルドボア討伐を終えた翌日。


今日は久しぶりの休日だった。


王都アルディオンへ来てから、初めて迎える、依頼のない一日。


     ◇


シェルエリナが目を覚ました時、部屋の中はまだ薄暗かった。


閉じた窓掛けの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。


「……リセ?」


眠気の残った声を出しながら、毛布の端から顔を覗かせる。


リゼリアはすでに起きていた。


鏡の前に立ち、胸元の留め具を整えている。


普段の彼女は、旅や戦闘の妨げにならない簡素な服を好む


今朝の服装は違った。


黒を基調とした長い衣には銀糸で細かな紋様が縫われ、肩から胸元にかけて重ねられた布地には、女神を象徴する意匠が施されている。


不思議なほど自然に見えた、これが普段の服装だと思えるように


シェルエリナは毛布の中からしばらく眺め、それから尋ねた。


「リセ、おめかしして今日はどこに行くの?」


「おめかしではありません」


留め具を確かめながら、リゼリアが鏡越しに答える。


「神官の正装です」


「正装?」


「ええ。王都に来てから、こちらで神官登録をしていなかったことを思い出したの」


「忘れてたの?」


「……忘れていたわ」


少しの沈黙のあと、リゼリアは認めた。


シェルエリナはぱちぱちと瞬きをする。


リゼリアが神官としての登録を忘れていた。


しっかりもののリゼリアが忘れていた、それがシェルエリナには愉快に思えた。


「今日行くの?」


「そのつもりよ」


「私もついていく!」


シェルエリナは毛布を勢いよく払いのけ、寝台の上に身体を起こした。


リゼリアが振り返る。


その視線が、シェルエリナの顔から肩へ、肩から身体へと静かに下りていった。


シェルエリナも、その視線を追う。


白い下着。


むき出しの腕と脚。


昨夜着ていたワンピースは、寝台の脇の床に落ちている。


「……あ」


リゼリアが、ゆっくりと息を吐く。


「もう、この子は……」


「ちがうの。昨日ちょっと暑くて」


「別に責めてはいません」


「ほんと?」


「ええ。一緒に来るなら、早く準備なさい」


「分かった!」


シェルエリナは寝台から飛び降りた。


床に落ちていたワンピースを拾い上げ、そのまま頭からかぶろうとする。


「それは昨日着たものでしょう」


「これでいいよ?」


「よくありません」


「でも、まだそんなに汚れてないよ」


「着替えなさい」


「はーい」


衣装箱へ向かうシェルエリナ、それを見てリゼリアはもう一度、小さくため息をつく。


鏡に映ったその口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。


     ◇


支度を終えた二人は、廊下を挟んだ向かいの部屋を訪ねた。


リゼリアが扉を三度叩く。


間を置かず、中から低い声が返ってきた。


「開いてるぞ」


扉を開けると、ガイアスは椅子に座り、片方の靴を履いているところだった。


ノクトは窓辺に立ち、外の様子を見ている。


「教会へ行ってくるわ」


リゼリアが告げると、ガイアスは靴紐を結ぶ手を止めた。


「教会?」


「神官登録よ。王都での手続きを忘れていたの」


「忘れるようなものなのか、それ」


「私もそう思う」


ノクトが窓辺から言った。


リゼリアは二人を見た。


「忘れていたものは仕方ないでしょう」


「リセ、朝からずっとこれ着てたんだよ」


シェルエリナが正装の袖を指さす。


「見りゃ分かる」


ガイアスは立ち上がり、リゼリアの姿を上から下まで確認した。


「ずいぶん重そうだな」


「実際、重いわ」


「着てく必要あるのか?」


「神殿へ神官登録に行く者が、冒険者用の略装では格好がつかないでしょう」


「俺なら気にしねえけどな」


「あなたは神官ではないでしょう」


それもそうか、とガイアスは納得した。


ノクトが二人へ目を向ける。


「帰りは?」


「特に決めてないよ」


シェルエリナが答えた。


「教会を見て、どこか歩いて帰ってくる」


「教会を見る必要はないでしょう」


リゼリアが訂正する。


「え、見ないの?」


「祈りを捧げる場所です。見世物ではありません」


「でも、王都の教会はまだちゃんと見たことないよ」


「ちゃんと、とは何だ」


ノクトが聞いた。


「ちゃんとは、ちゃんとだよ」


答えになっていなかったが、ノクトはそれ以上尋ねなかった。


「昼過ぎには戻ると思うわ」


リゼリアが言う。


「分かった」


ガイアスは頷いた。


「俺たちも適当に出る。宿にいなかったら、たぶんその辺だ」


王都で「その辺」と呼べる場所はかなり広い。


しかし、シェルエリナは気にせず頷いた。


     ◇


一階へ下りると、酒場兼食堂では朝食の準備が始まっていた。


厨房から焼いたパンの匂いが香る、バルコが大鍋の中身を木べらで混ぜている。


まだ客席に料理は並んでいない。


「バルコさん、今日は朝いらない」


厨房へ顔を出したシェルエリナが言った。


バルコは顔を上げ


「なんだ、朝から出かけるのか」


「教会へ行くの」


「教会?」


バルコはシェルエリナから、その後ろに立つリゼリアへ視線を移した。


正装姿を見て、おお、と小さく声を漏らす。


「そいつはまた、ずいぶん立派だな」


「ありがとうございます」


「朝飯を抜くと、途中で腹が鳴るぞ」


「途中で何か買うよ」


「そういうと思った」


バルコは木べらで鍋の縁を軽く叩いた。


「表通りに出る手前の屋台、今朝は豆と挽き肉の包み焼きを出してた。歩きながら食うならあれがいい」


「それにする!」


「まだ残ってればな」


シェルエリナは急いで入口へ向かった。


リゼリアはバルコに軽く頭を下げ、そのあとを追う。


「走らないの」


「まだ走ってないよ」


「今から走ろうとしていたでしょう」


扉の向こうから二人の声が遠ざかっていった。


バルコは再び鍋へ向き直る。


     ◇


宿と生活区広場の間には、朝になるといくつもの屋台が並ぶ。


仕事場へ向かう職人。


荷車を引く商人。


冒険者ギルドへ急ぐ者。


朝の短い時間に腹を満たそうと、人々が次々に立ち寄っていた。


包み焼きの屋台には、まだいくつか商品が残っていた。


「二つください」


シェルエリナが銅貨を差し出す。


屋台の女主人は、布に包んだ焼きたての包み焼きを二つ渡した。


「熱いから気をつけなよ」


「大丈夫」


言った直後、シェルエリナはひと口かじった。


「あつっ」


「言われたばかりでしょう」


リゼリアが呆れる。


「でも、おいしいよ」


薄く焼いた生地の中には、豆と挽き肉、細かく刻んだ香草が詰まっていた。


端から肉汁が垂れそうになり、シェルエリナは慌てて吸い込む。


正装のリゼリアは、シェルエリナよりずっと慎重に食べていた。


「その服、汚したら大変?」


「大変ね」


「じゃあ、こぼさないでね」


「あなたにだけは言われたくないわ」


二人は人の流れに沿って歩いた。


生活区を抜けるにつれ、建物は少しずつ大きくなる。


石造りの建物の間を朝の光が通り抜ける、


通りの向こうでは店を開ける者たちが看板を表へ出している。


荷車の車輪が石畳を鳴らす。


開いた窓から洗濯物を干す女性が顔を出し、向かいの家に声をかける。


通りの端では、眠そうな少年が箒を持ったまま店先に立っていた。


王都の朝は、静かではない。


けれど騒がしいというほどでもなかった。


多くの人が、今日も同じ一日を始めようとしている。


「フェルムより、人が多いね」


包み焼きの最後のひとかけを口に入れながら、シェルエリナが言った。


「王都だもの」


「毎朝こんなにいるのかな」


「いるでしょうね」


「みんな、どこに行くんだろう」


「それぞれの仕事でしょう」


「リセは?」


「今日は神殿」


「それが終わったら?」


「今日は休日よ」


「じゃあ、私と一緒だね」


リゼリアは少しだけ考え、それから笑った。


「そうね。今日はあなたと一緒」


     ◇


王都の中央神殿は、大通りから一本外れた場所に建っていた。


高い尖塔や豪華な装飾はない。


淡い色の石材を積み上げた、広く静かな建物だった。


正面には大きな扉が開かれ、その奥に朝の光が差し込んでいる。


すでに朝の祈りを捧げる人々が訪れていた。


職人らしい男。


幼い子供を連れた母親。


杖をついた老人。


旅装のまま長椅子へ座る者もいる。


リゼリアが神殿へ足を踏み入れた時、何人かが祈りを止めた。


視線が集まる。


黒い正装。


銀糸で縫われた神官の紋様。


小さくざわめく


シェルエリナは周囲を見回したが、リゼリアは気にする様子もなく歩き続ける。


「見られてるね」


シェルエリナが小声で言った。


「正装が珍しいのでしょう」


「気にならないの?」


「べつに」


リゼリアは足を止めなかった。


神殿の奥には、大きな女神像が置かれている。


その手前を横切り、二人は壁際の受付へ向かった。


受付に座っていたのは、まだ若い神父だった。


机の上で書類を整理していた彼は、リゼリアが立つと顔を上げた。


一度、正装に目をやり、いぶかしげに視線を上げる。


最後に、隣のシェルエリナを見る。


「本日は、どのようなご用件でしょうか」


慎重に選んだらしい声だった。


「神官登録をお願いするわ」


リゼリアが言う。


「神官……登録ですか?」


「ええ。王都での登録がまだだったの」


若い神父は、もう一度リゼリアの正装を確認した。


「所属神殿を移された、ということでしょうか」


「所属はしていないわ。冒険者として活動しています」


「冒険者」


神父の視線が、リゼリアの衣から腰元へ移る。


今日は武器を持っていない。


それでも、彼女がただの参拝者でないことは分かったらしい。


「……少々お待ちください」


神父は棚から数枚の書類を取り出した。


「こちらへ、以前登録されていた神殿名と、神官として認定された時期をお願いします。それから現在の居所と、主な活動内容を」


「分かったわ」


リゼリアが羽根筆を受け取る。


シェルエリナは机の脇から書類を覗き込んだ。


「何書くの?」


「今説明されたでしょう」


「聞いてたけど、いっぱいある」


「では、邪魔をしないで」


「はーい」


シェルエリナはすぐ近くの柱へ移動し、壁に刻まれた模様を眺め始めた。


花のようにも見える。


星のようにも見える。


顔を近づけて見ていると、背後から穏やかな声がした。


「朝から、ずいぶん珍しい方がいらしたと思えば」


リゼリアの筆が止まった。


「お久しぶりですね、リゼリア」


声の主は、白髪の混じった男性だった。


年齢は五十を越えているように見える。


白い神官服の上に深い青の肩掛けをまとい、胸元には女神を表す銀の印を下げていた。


柔らかな表情をしている。


だが、立ち姿には長く人を導いてきた者らしい落ち着きがあった。


リゼリアが顔を上げた。


「久しぶりね、セディ」


若い受付神父が目を見開く。


「セディ……?」


神父はわずかに眉を下げた。


「神殿内でその呼び方をする者は、もうあなたくらいですよ」


シェルエリナが二人の間へ顔を出す。


「知り合い?」


「昔のね」


リゼリアは書類へ視線を戻した。


男性神父――セディウスは、困ったように笑った。


「ひどいですね。あなたに神の道を説いたのは私なのに」


「そうね、セディには助けてもらったわ。」


リゼリアは顔を上げ、穏やかに笑いかける。


「そう言いながら、あなたは昔から私への扱いが軽い」


「気のせいよ」


「リセ、この人の前でもずっとこんな感じだったの?」


「どんな感じかしら」


「今みたいな感じ」


「今みたいな感じでしたね」


セディウスが答えた。


「まだ見習いだった頃から、落ち着いているように見えて、決めたことは誰が何を言っても変えませんでした」


「へえ、そうなんだ」


シェルエリナは楽しそうにリゼリアを見る。


「昔からリセなんだね」


「私は昔から私よ」


リゼリアは再び筆を動かす。


セディウスは、その手元を眺めた。


「王都で登録を?」


「ええ。すっかり忘れていたの」


「あなたが手続きを忘れるとは、珍しい」


「最近は忙しかったから」


「冒険者として、ですか」


「そうね」


リゼリアは書類の一枚を裏返した。


「討伐に採取、調査、護衛。神殿にいた頃より、やることは多いわ」


「冒険者の暮らしはいかがです?」


「気楽でいいわ」


迷いのない答えだった。


「気楽、ですか」


「神殿では、どうしても種族のこともあったから」


書類を記す筆先は止まらない。


声にも、苦いものは混じっていなかった。


ただ、かつての事実を語っている。


セディウスは静かに頷いた。


「そうですね。多種族が暮らす王都とはいえ、魔族の神官は今も昔もあなただけです」


受付の若い神父が、驚いた様子でリゼリアを見る。


「王都だけでなく、周辺の神殿を含めても、おそらく一人でしょう」


「珍しいの?リセ」


シェルエリナが言う。


「種族だけならね」


「私も珍しいよ」


「あなたは珍しいことを誇るでしょう」


「うん」


リゼリアは小さく笑った。


セディウスがシェルエリナへ目を向ける。


「あなたが、リゼリアの仲間ですか」


「シェルエリナです」


シェルエリナはスカートの裾をそっと持ち、丁寧に頭を下げた。


「これはご丁寧に。私はセディウス。この神殿で神官長を務めています」


「セディじゃないの?」


「それはリゼリアが勝手に呼んでいるだけです」


「じゃあ、私もセディって呼んでいい?」


「だめよ」


リゼリアが即座に止めた。


「なんで?」


「神父様です」


「リセは呼んでるよ」


「私は昔からの知り合いだからいいのよ」


「ずるい」


セディウスは声を立てずに笑っていた。


「構いませんよ」


「神父様」


リゼリアが低い声で呼ぶ。


「冗談です」


「セディ、優しいね」


「もう呼んでいるじゃない」


リゼリアが額を押さえた。


受付の神父は、笑ってよいものか分からず、書類へ目を落としている。


やがてリゼリアは最後の欄を書き終え、筆を置いた。


「これでいいかしら」


受付の神父が書類を受け取り、一枚ずつ確かめる。


セディウスはシェルエリナを見ていたが、ふと胸元へ視線を移した。


銀の細工で作られた、小さな首飾り。


植物を思わせる繊細な意匠は、どこかエルフの工芸品を思わせた。


「そういえば」


リゼリアも何かを思い出したように、シェルエリナへ振り返る。


「神父様がいるのだから、神継スキルの確認ができるわよ」


「神継?」


「以前、確認してからしばらく経つでしょう。見てもらう?」


シェルエリナは少し考えた。


視線を上へ向け、何か変化があっただろうかと思い返す。


すぐに興味を失った。


「別にいい」


「いいの?」


「たぶん変わってないし」


「確認しなければ分からないでしょう」


「変わってたら、そのうち分かるよ」


「そういうものでは……」


リゼリアは言いかけ、諦めたように口を閉じた。


セディウスが微笑む。


「本人がそう言うなら、無理に確認する必要はないでしょう」


「神父様まで甘やかさないでください」


「あなたも昔は同じようなことを言っていましたよ」


「私は言っていないわ」


「神官としての適性確認を三度断りました」


「必要を感じなかったからよ」


シェルエリナが笑った。


「リセも一緒だね」


「一緒ではありません」


「似ていますね」


セディウスが言う。


「神父様」


今度こそリゼリアの声にわずかな圧がこもった。


その時、受付の神父が書類をそろえた。


「登録が完了しました」


机の上へ、小さな金属製の証票が置かれる。


「王都中央神殿における神官資格の確認証です。治療行為や神殿設備の利用時、必要に応じてご提示ください」


「ありがとう」


リゼリアは証票を受け取り、衣の内側へ収めた。


「それでは、私は祈りを捧げてから帰るわ」


セディウスへ向き直る。


「またね、セディ」


「次は、もう少し早く顔を見せてください」


「覚えていたら」


「そこは、必ず来ると言うところでは?」


リゼリアは答えず、シェルエリナを連れて女神像へ向かった。


像の前まで来ると、リゼリアは静かに膝をついた。


衣の裾を整え、背筋を伸ばす。


両手を胸の前で重ね、ゆっくりと頭を垂れた。


先ほどまでの気軽な口調も、呆れた表情もない。


呼吸ひとつ。


指先の動きひとつ。


すべてが整っていた。


女神に捧げる言葉は聞こえない。


それでも、その姿を見た神殿内の者たちが、自然と声を潜めていく。


シェルエリナも何も言わなかった。


少し離れた場所に立ち、祈るリゼリアをじっと見ていた。


やがてリゼリアは顔を上げる。


立ち上がり、振り返った。


「お待たせ」


「ううん」


シェルエリナが笑う。


「リセ、きれいだった」


リゼリアは少しだけ目を見開いた。


それから、いつもの穏やかな顔に戻る。


「ありがとう」


     ◇


神殿を出た頃には、通りを歩く人の数がさらに増えていた。


二人は急ぐ理由もなく、大通りへ向かって歩く。


「セディ、いい人だったね」


シェルエリナが言う。


「神父様よ」


「リセはセディって呼んでた」


「私はいいの」


「ずるい」


「まだ言うの?」


「昔、何を教えてもらったの?」


「神学や治療術。祈りの作法もそうね」


「さっきの?」


「ええ」


「じゃあ、リセがきれいなのはセディのおかげ?」


「それだけではないわ」


少しだけ早くなったリゼリアの歩調を、シェルエリナが追う。


生活区広場へ戻る道へ入った時だった。


広場の中央付近に、見覚えのある背中があった。


ノクトだ。


彼は噴水脇に立ち、小柄な女性と話していた。


女性はシェルエリナよりもさらに背が低い。


濃い茶色の髪を後ろでひとつにまとめ、袖を肘までまくった作業着を着ている。


腰には工具袋。


頬には黒い煤が薄くついていた。


ホビットだ。


女性は腰へ手を当て、ノクトを見上げている。


「だから、帰ってきたなら顔くらい出しなって言ってるの」


「帰ってきたわけじゃない」


「王都で暮らしてるなら帰ってきたようなもんでしょ」


「違う」


「違わない」


「仕事で来ただけだ」


「それで、何日いるの?」


ノクトは答えない。


女性が目を細める。


「ほら。もうしばらくいるんじゃない」


「……しばらくはな」


「だったら親方のところに顔を出しなよ。あんたが王都にいるって知ったら、絶対怒るよ」


「だから、知らなくていい」


「私が言う」


「言うな」


「じゃあ自分で来る?」


ノクトは露骨に嫌そうな顔をした。


シェルエリナは少し離れた場所から、その様子を見ていた。


「ノクト、知り合いかな」


「そう見えるわね」


「すごく嫌そう」


「それはいつものことでしょう」


二人の声に気づいたのか、ノクトがこちらを見る。


一瞬、しまった、という顔をした。


シェルエリナが手を振る。


「ノクト!」


女性も振り返った。


その目が、シェルエリナとリゼリアを素早く見比べる。


「知り合い?」


「仲間だ」


ノクトが短く答えた。


「へえ」


女性は興味深そうに二人を見る。


「この子たちが、今の仲間?」


「そうだ」


「ノクトの昔の知り合い?」


シェルエリナが尋ねる。


ノクトが答えるより早く、女性が胸を張った。


「幼馴染」


「違う」


「違わないでしょ」


「同じ場所にいただけだ」


「毎日のように工房へ来てたくせに」


「毎日じゃない」


「ほぼ毎日」


「へえ!」


シェルエリナが目を輝かせる。


ノクトの眉間に皺が寄る。


女性は楽しそうに続けた。


「私はミナ。鍛冶通りの工房で働いてる」


「シェルエリナです。こっちはリセ」


「リゼリアよ」


「よろしく。変なのと一緒で大変でしょ」


ミナがノクトを親指で示す。


「慣れましたよ」


リゼリアが穏やかに答える。


「慣れるな」


ノクトが即座に言う。


「私は慣れたよ」


シェルエリナが笑う。


「お前に言われたくない」


ノクトが返す。


「ノクト、昔、鍛冶屋にいたの?」


「いただけだ」


「何してたの?」


「何もしてない」


「手伝ってたよ」


ミナが答える。


「余計なことを言うな」


「掃除と、炭運びと、道具磨き。あと、親方の真似して鉄を叩こうとして、よく怒られてた」


「子供の頃の話だ」


「やっぱり幼馴染だね」


シェルエリナが納得する。


「違う」


ノクトだけは認めなかった。


ミナが腕を組む。


「とにかく、今日中に親方のところへ来ること。来なかったら私から全部話すから」


「何をだ」


「王都に戻ってきて、もう何日も経ってること」


「戻ってきたわけじゃない」


「その言い訳、親方に直接言いなよ」


ノクトはしばらく黙っていた。


やがて、大きく息を吐く。


「……分かった」


「今日?」


「今日行く」


「絶対?」


「行くと言ってる」


ミナは満足そうに頷いた。


「じゃ、先に戻ってる。昼前には来なよ」


そう言い残し、鍛冶通りへ続く道を駆けていく。


小さな身体は人混みの間を巧みに抜け、すぐに見えなくなった。


残された三人の間に、少しの沈黙が落ちる。


シェルエリナがノクトを見上げた。


「鍛冶屋、行くの?」


「ああ」


「私も行きたい」


「嫌だ」


「まだお願いしてないよ」


「今からする顔だった」


「連れていって」


「断る」


「どうして?」


「用事が増える」


「見てるだけだよ」


「お前が見てるだけで終わったことがあるか?」


シェルエリナは考えた。


すぐには思いつかなかった。


「今回は終わるかも」


「終わらない」


「私も親方に会ってみたい」


「会わなくていい」


「ノクトが子供の頃、どんなだったか聞きたい」


「なおさらだめだ」


リゼリアが口元へ手を当てた。


「私も、少し興味があるわね」


「リセまで何を言ってる」


「だって、ノクトは自分の話をほとんどしないでしょう」


「話すことがない」


「いっぱいありそうだよ」


シェルエリナが言う。


ノクトは二人を交互に見た。


これ以上ここで話していても、諦めそうにないと悟ったらしい。


「今日は俺一人で行く」


「えー」


「今度、親方がいいと言ったら連れていく」


「ほんと?」


「親方がいいと言ったらだ」


「分かった!」


シェルエリナは即座に笑った。


ノクトは、自分が何か余計な約束をしたような顔をしていた。


「じゃあ、俺は行く」


「今から?」


「放っておくと、あいつが工房中に言いふらす」


ノクトはミナが消えた道へ歩き始める。


数歩進んだところで振り返った。


「正装、似合ってる」


不意に言われ、リゼリアが目を瞬いた。


「ありがとう」


ノクトはそれだけ言うと、今度こそ歩いていった。


シェルエリナが隣からリゼリアを見る。


「ちょっと嬉しそう」


「そう見える?」


「うん」


「気のせいよ」


リゼリアはそう言いながら、正装の襟元を少しだけ整えた。


     ◇


二人は大通りへ出た。


帰るにはまだ早い。


露店に置かれた色とりどりの布、香辛料の匂い、


シェルエリナが露店の星の飾りを手を伸ばそうとする、


値段を聞く前にリゼリアに腕を引かれた。


「今日は見るだけでしょう」


「まだ何も言ってないよ」


「買おうとしていた顔だったわ」


「みんな、私の顔で分かりすぎじゃない?」


「分かりやすいのよ」


通りの向こうから、焼けた肉の匂いが漂ってきた。


シェルエリナが立ち止まる。


「お肉」


「さっき朝食を食べたでしょう」


「少し歩いたから」


「それでお腹が空くの?」


匂いのする方を見ると、屋台の前に大柄な男が立っていた。


ガイアスだ。


串に刺した大きな肉を片手に持ち、店主と何か話している。


「ガイアス!」


シェルエリナが声を上げた。


ガイアスが振り返る。


口には肉が入ったままだった。


噛み終えてから答える。


「おう。もう終わったのか」


「終わったよ。何食べてるの?」


「見りゃ分かるだろ。肉だ」


「大きいね」


「ここのはうまいぞ」


屋台の主人が胸を張る。


「朝からじっくり焼いてるからな。外は香ばしく中は柔らかい。食べ応えならこの通りでうちに勝てる店はないぞ」


「二つください」


シェルエリナがすぐに言った。


「私は……」


リゼリアが断ろうとした時には、主人がすでに二本の肉串を焼き台から上げていた。


「はいよ」


「リセの分も」


「私は頼むと言っていないでしょう」


「でも、食べるでしょ?」


リゼリアは、香ばしく焼けた肉を見る。


正装のまま肉串へかぶりつく自分を想像したのだろう。


少し迷った。


「......切り分けてもらえないかしら」


三人は串を持ったまま、来た道を戻った。


中央広場へ着く頃には、噴水の周りにも多くの人が集まっていた。


ノクトとミナの姿はない。


空いていた長椅子を見つけ、三人で並んで座る。


ガイアスが豪快に肉へかぶりつく。


シェルエリナも負けじと大きな口を開けた。


リゼリアは正装を汚さないよう、切り分けられた肉を慎重に食べる。


「教会、どうだった?」


ガイアスが聞く。


「登録は問題なく終わったわ」


「昔の知り合いがいたよ」


シェルエリナが言う。


「セディっていうの」


「神父様よ」


「知り合い?」


「昔、世話になった方ね」


「それと、さっきここでノクトの幼馴染にも会ったよ」


ガイアスの動きが止まる。


「ノクトに幼馴染がいるのか?」


「本人は違うって言ってたけど、毎日鍛冶屋に行ってたんだって」


「ほう」


ガイアスは面白そうに笑う。


「それは、帰ってきたら聞かねえとな」


「嫌がるわよ」


リゼリアが言う。


「だから聞くんだろ」


「ガイアス、悪い顔してる」


「気のせいだ」


シェルエリナは肉を食べながら笑った。


噴水の向こうを、荷物を抱えた子供たちが走っていく。


広場の端では、竪琴を持った男が演奏の準備を始めている。


朝の祈りを終えたらしい老人が鳩へ餌を撒き、そのすぐ横を冒険者たちが笑いながら通り過ぎた。


三人は長椅子に座り、肉を食べている。


誰かを助けているわけでもない。


魔物と戦っているわけでもない。


ただ王都の広場で、休日の時間を過ごしていた。


     ◇


宿へ戻ると、ノクトはまだ帰っていなかった。


三人は一度部屋へ戻り、リゼリアが普段着へ着替えるのを待った。


それから酒場の隅のテーブルへ集まり、冷たい果実水を頼む。


「結局、ガイアスは何してたの?」


シェルエリナが尋ねる。


「武具を見てた」


「買った?」


「いや。王都のものがどんなもんか見ただけだ」


「肉も見てたよね」


「肉は食った」


「私たちも食べたよ」


「見りゃ分かる」


空になった串は、三人とも宿へ入る前に捨ててきている。


それでも匂いが残っているらしい。


バルコが飲み物を置きながら鼻を鳴らした。


「人の朝飯を断って、外で肉を食ってきたのか」


「包み焼きも食べたよ」


シェルエリナが答える。


「なお悪い」


「おいしかったよ」


「そういう問題じゃねえ」


言いながらも、バルコは本気で怒っている様子ではない。


追加の水差しを置き、厨房へ戻っていった。


三人は朝からあったことを順番に話した。


神殿のこと。


セディウスのこと。


ノクトの幼馴染だという、ミナのこと。


話がミナへ移ったところで、宿の扉が開いた。


ノクトが入ってくる。


「ノクト、こっちこっち!」


シェルエリナが大きく手を振る。


ノクトは一度、気づかなかったことにしようとした。


だが、ガイアスまで手招きを始めたため、諦めてテーブルへ向かってくる。


椅子へ座る前に、バルコへ麦酒を頼んだ。


「鍛冶屋、どうだった?」


シェルエリナがすぐに尋ねる。


「普通だ」


「親方、怒ってた?」


「怒ってない」


「本当に?」


「……少し怒ってた」


ガイアスが笑う。


「で、そこにいた女性は誰なんだ?」


「聞いたのか」


「聞いた」


ノクトは嫌そうに三人を見た。


誰も話題を変えるつもりはなさそうだった。


麦酒が運ばれてくる。


ノクトは一気に飲み、杯を置いた。


「昔、少しだけ王都に住んでた」


「どれくらい?」


シェルエリナが聞く。


「数年」


「初めて聞いたわ」


リゼリアが言う。


「言ってないからな」


「どうして王都に?」


ノクトは杯の中を見た。


「家の都合だ。長くはいなかった」


「それで鍛冶屋へ通っていたのね」


「ああ。近くにいたから、よく工房に入り込んでた」


「入り込んでた?」


「最初は勝手に入ってた」


「怒られなかったの?」


「追い出された」


「それでも行ったのか?」


ガイアスが尋ねる。


「ああ」


「お前らしいな」


「どこがだ」


「追い出されても行くところが」


ノクトは否定しなかった。


「そのうち掃除や炭運びを手伝うようになった。親方は人族で、口は悪いが腕はいい。ミナは同じ頃から工房にいた」


「やっぱり幼馴染だね」


「違う」


「まだ言うのか」


ガイアスが呆れたように笑った。


「今度、連れていってくれるんだよね」


「親方がいいと言ったらだ」


「なんて言ってた?」


ノクトは黙る。


シェルエリナがじっと見つめる。


ガイアスとリゼリアも、答えを待つ。


「……好きに連れてこいと言ってた」


「やった!」


シェルエリナが両手を上げた。


「でも今日は行かない」


「分かってるよ」


「仕事の邪魔はするな」


「分かってる」


「勝手に道具へ触るな」


「分かってるよ」


「炉へ近づくな」


「ノクト、私のこと何だと思ってるの?」


「全部やりそうなやつ」


シェルエリナは口を尖らせた。


リゼリアは果実水を口へ運びながら、静かに笑っている。


ガイアスが椅子の背へ身体を預けた。


「鍛冶屋に神殿か。王都には、二人とも知り合いがいたんだな」


「ガイアスはいないの?」


シェルエリナが聞く。


「今のところはな」


「私は?」


「お前は、知らないやつにも話しかけるだろ」


「じゃあ、これから知り合いになるね」


「そういう意味じゃねえ」


けれど、それは間違いではなかった。


王都へ来たばかりの頃、シェルエリナたちにとって、この街は大きな建物と、知らない人々で満ちた場所だった。


今は違う。


宿へ戻ればバルコがいる。


神殿には、リゼリアを昔から知る神父がいる。


鍛冶通りには、ノクトを幼い頃から知る親方とミナがいる。


冒険者ギルドへ行けば、名前を呼ぶ受付や、声をかけてくる冒険者が少しずつ増えている。


巨大だった王都の中にも、彼女たちの知る場所が増えてきた。


シェルエリナはテーブルの上へ身を乗り出す。


「それで、次の依頼どうする?」


休日の話はそこで自然に終わった。


ガイアスが依頼の候補を書いた紙を懐から取り出す。


「昨日見た中だと、街道沿いの魔物討伐か、北の森の薬草採取だな」


「ダンジョン調査の募集もあったわね」


リゼリアが言う。


「合同依頼だろ」


ノクトは紙を引き寄せ、内容を読む。


「出発は三日後。まだ枠が空いてるかもしれない」


「ダンジョンがいい」


シェルエリナが即答する。


「理由は?」


「面白そうだから」


「却下」


ノクトが言う。


「なんで!」


「内容を読んでから決めろ」


四人の声が、昼前の酒場に重なる。


厨房では鍋の蓋が鳴り、入口から新しい客が入ってくる。


外では王都の人々が行き交い、今日という一日を過ごしている。


彼女たちもまた、その中にいた。


フェルムで育ち、王都へやって来た四人の冒険者。


その名が街中に知られるようになるのは、もう少し先のことだ。


けれど王都アルディオンはすでに、彼女たちのための場所を、少しずつ作り始めていた。

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