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天才魔術師父子と私の魔法のごはん  作者: 氷雨そら


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ファクターX 1


 旦那様は、今日は仕事を休んだ。

 魔術師副団長バーレイ卿に、絶対に仕事に来るなと厳命されてしまったのだ。

 普段、穏やかな彼ではあるが、ここぞというときには絶対に譲らないらしい。


「お父さま、お母さまのこと忘れちゃったの!?」


 現在ロイは、旦那様の膝に上がり、絶対に離すまいと密着している。

 ロイが涙目になった。

 旦那様は慌てている。


 彼は、子どもが苦手だと言いながら、街中で泣いている子どもがいたなら放っておかないタイプの人間なのだ。


「――忘れていない」

「でも、結婚したことを忘れちゃったんでしょ! 僕のことも忘れちゃったんでしょ!」

「……それは、確かにそうだが」

「でも、僕はお父さまのことが大好きだし、僕を包む魔力は変わらないから、許してあげる」

「確かに、君のことをなぜか無意識に守ろうとしている……?」


 ロイが涙目のまま笑った。


「早く、ファクターXを思い出してよね!」

「ファクターX?」

「魔力で解析できないからわからないんだって言ったら、一緒に考えようって約束したでしょ!」

 

 旦那様は、困惑した表情を浮かべた。


「なあ、ルナシェ嬢……じゃなかった、えっと君のことを俺はなんて呼んでいたんだ?」

「君とか、なあとか……でしょうか……」

「絶対ならないと思ってたタイプの夫になっていただと!? 君はそれでよかったのか」

「構いませんよ」


 事実なのだからしかたがない。

 けれど彼は、私の名前を呼ぶときには、結婚して六年経った今でも頬を赤らめるのだ。

 それはそれで、可愛らしいので私としてはこれっぽっちも文句はない。


「でも、困りましたね」

「確かに困った状況だが……」


 そこに、オーランド一家がやってきた。

 我が家の使用人はオーランド一家のみ。

 つまり、執事長のフェイ、侍女長のライラ、侍女のエミリーである。

 彼らは神妙な面持ちだったが、旦那様にだけちょっと冷たい視線を向けた。


 最初に口を開いたのは、ライラだった。


「坊ちゃ……いえ、旦那様ときたら、なんて情けない……。ロイ坊ちゃん、旦那様と奥様は大事なお話をされます。ライラと一緒に参りましょう」

「うん……お父さま、早く思い出してね!」

「すまない……」

「大丈夫だよ。ファクターXは、確かにあるってお父さまは言っていたもの」


 ライラは不機嫌な表情であったが、ロイに視線を向けるといつものようにニコリと笑って、彼のことを抱き上げる。

 次に旦那様の前に出たのはエミリーだ。


「旦那様」

「エミリー」

「私のことを覚えていても意味がありません。私、これから旦那様の呪いを解く方法を探す旅に出て参ります。探さないでください」


 私は二人の会話にちょっと割り込んだ。

 エミリーは思い切りがよすぎるところがある。


「エミリー! 危ないことはしないでね……!」

「心配ご無用。母譲りの剣技と父譲りの魔法がございますゆえ」


 エミリーは音もなく姿を消した。

 いつもそう言うが、実際には彼女の力を目の当たりにしたことはない。

 彼女はいつ帰ってくるだろうか……私は無事を祈った。


 最後に前に出てきたのは、フェイだった。


「なんて情けない――まさか陛下の代わりに呪いを受けてしまうとは詰めが甘い……このフェイ、そのような指導はしていなかったはずです。いいえ、すべては私の不徳の致すところでございます。どうぞ皆さまお元気で……」

「待って! 待ってフェイ! あなたには、これからも私たちを守ってもらわなくては!」

「奥様のご温情に感謝いたします。私のほうでも、陛下を狙ったのが誰か、何があっても掴んで参ります」

「無理なくね……騎士団と魔術師団にお任せしたら良いと思うの」

「――魔術師団の長が、このていたらくでございますゆえに」

「……」


 旦那様とオーランド一家の繋がりは深い。

 特にフェイは旦那様に魔術を教えた師匠であると聞いている。

 だが、家庭内では優しくても、隙のない旦那様がこんなに責められているのは初めて見た。


 ロイを連れ、オーランド一家が去って行くと、応接室には私たち二人になる。

 部屋は静まり返った。


「……ルナシェ嬢」

「……レインハルト様」


 彼にルナシェ嬢と呼ばれれば、学生時代の思い出がよみがえるが……。

 距離が急に遠くなってしまったようで、寂しい。


「困りましたわね」

「……確かに、困らせているのだろうな」

「一番困っているのは、レインハルト様です。ロイのことはお願いしたいですが、私のことまで考えなくても大丈夫ですよ」

「君は」


 ――旦那様が、私に求婚してきたのは、ある日突然だった。


 王立学園のクラスメイトではあったが、私との接点はほとんどなかったはずだ。

 あの求婚おかげで、私は高齢の高位貴族の後妻にならずにすんだのだが……。


 結婚してから、旦那様は私のことを愛してくれた。

 幸せなことにロイという子どもにも恵まれたが……。

 もう一度、好きになってもらえる自信はない。


「……コーヒーでも淹れましょうか。ブラックでよいですか?」

「ミルクを少し……いや、いつもブラックだったのならブラックで」


 ほんの些細な違いが、もう取り返しがつかないズレのようにも感じる。


「……少しお待ちくださいね」

「……待ってくれ」


 コーヒーを淹れるために退室しようとすると、旦那様に手を引かれた。


「あの……?」

「待ってくれ。ファクターXは、確かに存在するんだ」

「は……」


 今朝のロイとの会話で口にしていた、ファクターX。

 旦那様は、なにかの感情に名前をつけられないようだ。

 だから私には、それが結婚したことを忘れる前に冗談めかして口にしていたファクターXと同じなのかは判別できない。


 背中側から抱きしめられた。


「――よくわからない。でも、あの子は俺と君の子だ。俺の魔力が君の気配に混ざっている」

「ロイにとって、あなたがそう思ってくださることは、何よりの救いでしょう」

「……君と結婚しているというのは、信じられないが」

「そうでしょうね。私とあなたでは住む世界も考え方も身分も何もかも違いますもの」

「……でも、知らない何かが胸の中にあるんだ。魔力で分析できない、何かが」


 それは、旦那様が私に求婚したときに告げた言葉だった。

 あの日、彼は私に言った。


『名前がつかないが、それは確かに存在する』


 旦那様は、私の手を引いた。

 あのときよりも、不安そうかもしれない。


「君に教えてもらいたい」

「ふふ、今回も私が教えるのですか」


 旦那様は、いつでも魔力で物事を分析していた。

 怒りは火の魔力、悲しみは水の魔力、寂しさは風の魔力、力強さは土の魔力……それぞれが混ざり合って、人の感情を形作るのだとすら……。


 それなのに、私に向けた感情は分析してもわからない。

 でも、確かに存在するのだと――彼はきっと、ずっと私のことが好きだったのだ。

 今になってそのことが、ようやく理解できた気がした。


 その感情を、私はひとつしか知らない。


「――愛しています、旦那様」


 私は振り返り、彼に微笑みかけた。

 彼は頬が染まり、次いで耳まで赤くなった。

 それがすべての答えだろう。


 ――呪いが解けるのが先なのか、それとも彼が再びファクターXに命名するのが先なのか……それは今のところ私にも旦那様にもわからないにしても。




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