第七話 過去が、契約より先に追いついてきた
「ちょ、待て――!」
間に合うはずもなく、
俺はため息をつくしかなかった。
仕方なく、
書斎の机とパソコンをリビングに移し、
簡易的な作業スペースを作る。
片付けが終わる頃、
段ボールの中はほとんど空になっていた。
――あのフォトフレームを除いて。
しばらく黙って見つめた後、
俺はそれを机の上に置いた。
その時、再びチャイムが鳴る。
ドアを開けた瞬間、言葉を失った。
ミクが、片手でベッドフレームを引きずり、
もう片方でマットレスを担ぎ、
汗だくで立っていたのだ。
「監督!」
息を切らしながらも、
得意げな笑顔。
「直接、買ってきました!」
「……魔族の腕力、反則だろ」
思わず、口元が引きつる。
ミクはあっという間にベッドを設置し、
満足そうにうなずいた後、
リビングに視線を向けた。
「監督、片付け早いですね――ん?」
彼女の目が、
机の上のフォトフレームに留まる。
「触るな!」
思わず声が低くなる。
だが、
ミクは気にせず、
写真をじっと見つめた。
「この金髪の女の人……
エルフ族っぽいですね。
もしかして、元カノですか?」
写真を返され、
俺はしばらく黙った後、
小さく答えた。
「……元カノだ。
五年前の話。正確には、振られた」
苦笑が漏れる。
「冗談で、自分はハーフエルフだ、
なんて言ってたけど……
さすがに本気じゃないだろ」
「――いいえ」
ミクの目が、鋭くなる。
「冗談じゃありません。
その人の気配……とても純粋で、強い。
間違いなく、ハーフエルフです」
そして、俺を真っ直ぐ見た。
「道理で、監督のエネルギーが他とは違うわけです……。
あの守護印も、
きっと彼女が遺したものなんですね」
「…………」
言葉が出なかった。
サキュバスに、
ハーフエルフの元恋人。
俺、いつから異世界モノの主人公になったんだ?
混乱していると、スマホが震えた。
――カナからのビデオ通話。
「なんで今……?」
疑問に思いつつ、
通話を受ける。
画面いっぱいに、
天使のような清純な顔。
「カナちゃん、
そんなに俺に会いたかったのか。
ビデオ通話なんて――」
「勘違いしないで」
氷のような声が返ってきた。
「うちの監督が、
若いアイドルと裏でよからぬことをしてないか、
確認に来ただけよ」
「なっ――!」
「ほら、図星でしょ?」
鋭い視線。
「カメラを回して。部屋を全部見せなさい」
心臓が凍りつく。
必死に視線を送ると、
ミクは一瞬で理解したらしく――
次の瞬間、
空の段ボール箱にスポッと潜り込んだ。
「……ぷっ」
危うく吹き出しそうになりながら、
俺は部屋を一周映す。
「どうだ? 潔白そのものだろ。」
カナは目を細めた。
「……なんでこんなに散らかってるの。引っ越し?」
「い、いや……
撮影が止まって暇だったから整理してたら、
止まらなくなって」
しばらく睨まれた後、
カナは不満そうに鼻を鳴らした。
「……まあいいわ。ちょうど良かった。
ミクララのメンバー、
退院したそうよ。明日から撮影再開だから」
簡単なスケジュールを告げて、
通話は切れた。
俺は大きく息を吐き、
段ボールを軽く叩く。
「……バレませんでした?」
紙箱から顔を出したミクは、
雨に濡れた捨て犬のような目で見上げてきた。
「……ああ、なんとかな」
「それと、明日から撮影再開だそうだ」
「本当ですか! やったー!」
ミクは勢いよく飛び出し、
満面の笑みを浮かべた。
「よかった……みんな無事で。
明日から、また一緒に頑張れますね!」
その無邪気な表情に、
俺も少しだけ、肩の力が抜けた。
――と、その時。
「ぐぅ……」
小さな音が、部屋に響く。
ミクは顔を赤らめ、
腹部に手を当てた。
「……すみません。
嬉しくて、ちょっとお腹が……」
こちらを見る目は、
どこか期待に満ちている。
俺は、冷や汗をかいた。
今日はもう、十分疲れている。
あの感覚を思い出すだけで、
体が震える。
……でも、明日は撮影だ。
契約もある。
しばらく逡巡した後、
俺は観念してうなずいた。
ミクはぱっと手を叩き、
そっと俺の肩に手を置く。
「ありがとうございます、監督」
そして、厳かに。
「――いただきます」
俺は目を閉じ、息を止めた。
次の瞬間に来るであろう、
あの「電撃」を待ちながら――。




