第四話 アパートほど契約を結ぶのに向いていない場所はない
「……手を、握ってください。」
差し出された手を取る。
指と指が絡み合い、
体温が掌からじわりと伝わってくる。
呼吸が近い。
甘い香りが鼻先をくすぐり、
心拍が一気に跳ね上がった。
視線が、
細いのに肉感的な彼女のラインに引き寄せられる。
気づいた時には、
彼女は目を閉じ、
頬を寄せてきていて——
(待て待て待て……これ、完全に“アレ”の雰囲気だろ!?
いや違う、これは仕事だ。
監督として必要なサポートだ。
そう、必要経費だ……!)
必死に言い訳を並べ立て、
俺は観念して目を閉じた。
「——いただきます。」
その瞬間、
空気が震えた。
視界が赤に染まり、
床には複雑な魔法陣が浮かび上がる。
目を開けると、
ミクはすでに真の姿へと変貌していた。
身体にぴったりと張り付く“サキュバスの正装”。
妖艶で、どこか神聖ですらある。
だが、そんな感想を抱く余裕は一瞬で吹き飛んだ。
心臓が、
踏み潰されるように激しく鼓動し始めたのだ。
胸が締め付けられ、
息ができない。
視界がぐらつき、
膝が崩れ落ちる。
ミクも同じく膝をつき、
手は離さないまま。
赤い光が部屋を満たし、まるで——
(……いや、これ完全に結婚式の空気だろ……!)
痛みで意識が飛びそうな中、
ミクが厳かに言葉を紡ぐ。
「我、サキュバスの名において誓わん——。
汝を唯一の糧と定め、
我もまた汝の存続を賭して守り抜く。
健やかなるときも、
病めるときも、
この命尽きるまで……」
祝詞のような声が反響する。
内容が頭に入らない。
ただ、早く終われと祈るばかりだ。
そのとき、ミクがふいに眉をひそめた。
「……あれ?」
声が、わずかに途切れる。
まるで、
本来そこにあるはずのないものに触れてしまったかのように。
「これは……何……?」
彼女は低く呟いた。
「監督の中に……
なにか、神聖な“守印”が……あなたを守ってる……」
「し、守印……?」
冷や汗が背中を伝い、
声が喉の奥から絞り出される。
ミクは答えなかった。
ただ目を閉じると、
彼女の身体から放たれる紅い光が一気に強まった。
まるで、 より高位の魔力を無理やり起動させ、
その“守印”を力で押し潰そうとしているかのように。
――代償は、当然、俺だ。
痛みが跳ね上がる。
二つの異質な力が、
体内で正面衝突している感覚。
「ま、まだなのか……!」
耐えきれず、叫ぶ。
「もう無理だ……!
本当に、限界――!」
このままじゃ、
契約どころか、
意識そのものが持たない。
叫んだ瞬間、
「——この誓いに背かば、代償の報いを受けん!」
その言葉を最後に、
赤光が弾け、すべてが消えた。
床に座り込み、
荒い呼吸を整える。
胸の奥に、
じんわりとした熱が残っている。
「ご、ごめんなさい監督!
必要な共鳴とはいえ、
こんなに苦しいとは……!」
「……はあ……。
で、終わったのか……?」
「はい。契約は、無事に。」
そう言われた瞬間、
胸の奥に残っていた熱が、
重たい疲労となって、
一気に全身へ広がった。
次に目を開けた時、
俺はもう、
立っていられる状態じゃなかった。




