第三話 条項を理解する前に結ぶ契約じゃない
ドアノブに手をかけたまま、
俺はその場で固まっていた。
閉めるべきか、それとも――。
「ミク……さん?」
反射的に声を潜める。
「どうして、ここに……?」
ドアの外に立っていた少女は、
見つかった子どもみたいに肩をすくめ、
コートの裾をぎゅっと掴んだ。
「えっと……その……」
俺は素早く廊下の左右を確認する。
冷たい白色灯。人影はない。
「とにかく、中に入って。」
体をずらして道を開ける。
「ここで話すのは、
色々まずい。」
売れっ子アイドルが、
深夜に俺の部屋の前に立っていたなんて話、
明日には俺の職業人生が終わる。
ミクはおそるおそる室内に足を踏み入れた。
見知らぬ縄張りに入る小動物みたいな動きだ。
◇
ドアを閉め、
湯気の立つお茶を淹れる。
テーブルを挟んで向かい合って座ったものの、
間には目に見えない一線が引かれている気がした。
「……どうして、俺の住所が分かった?」
先に切り出したのは俺だった。
ミクは湯飲みを両手で包みながら、
飲もうとはせず、
立ちのぼる白い湯気を見つめている。
「……あなたの、
エネルギーの気配を辿ってきました。」
小さな声だった。
「前に……吸ってしまったので。
位置が、分かるんです。」
俺は反射的に腕を組み、
椅子の背に体重を預ける。
――吸った。
頭の中に、
食堂で倒れ込んできた彼女の感触がよみがえる。
一瞬だったのに、妙に鮮明な体温と衝撃。
映像業界で長くやってきた。
荒唐無稽な企画も、
嘘みたいな設定も山ほど見てきた。
だが、現実世界に「他人のエネルギーを吸って生きる存在」がいる、
という話は――さすがに現実感がなさすぎる。
思考を整理しながら、
俺は彼女の表情を値踏みするように観察する。
目にははっきりとした後悔が浮かんでいる。
視線は逸らさない。
その様子は、即席の言い訳にも、
悪ふざけにも見えなかった。
――もしこれが演技なら。
彼女の将来は、
恐ろしいほど眩しいものになるだろう。
もし、彼女の話が本当なら。
今日、ここに来た理由は一つしかない。
俺は深く吐息を漏らし、口を開いた。
「……ミクさん。」
「は、はい!」
彼女の背筋が、
軍人のようにぴんと伸びる。
「俺のエネルギーを吸ったと言ったな。
それで、わざわざここまで来た理由は……
その件、だよな?」
数秒の沈黙。
何かを測るような間のあと、
彼女は小さくうなずいた。
「はい。」
顔を上げ、
覚悟を決めた声で言う。
「私は、人間じゃありません。……サキュバスです。」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が一瞬、凍りついた気がした。
「その……伝承にある、
人の生気を糧にする存在、です。」
俺の反応を窺うように、
付け足す。
心臓が早鐘を打つ。
だが、俺は腕組みをした姿勢を崩さない。
指先の微かな震えを、
悟られないために。
「……分かった。」
できるだけ平静な声を作る。
「フィクションの設定によくある、
接触することで男の精気を吸い取る存在、
という認識でいいか?」
「は、はい!」
即答したあと、慌てて続ける。
「でも……私、ちょっと特殊で。」
「特殊?」
「女の子からも、吸えちゃうんです。」
「……女の子も?」
思わず目を見開いた。
俺の知っている『設定』とは、
明らかに食い違っている。
ミクはうつむき、
湯気に声を溶かすように言った。
「普段は……メンバーとハグしたときに、
ほんの少しだけ。」
「でも最近、仕事が立て込んで……
制御できなくて……」
指先が、小さく震えている。
「みんな、すごく疲れやすくなって。
今日の朝は、二人……倒れて、病院に……」
顔を上げた彼女の目は、
赤く潤んでいた。
「……これ以上、あの子たちを傷つけたくないんです」
その瞬間、
俺の中のすべての違和感が、
一本の線に繋がった。
撮影中の不調。
異様な疲労感。
あのとき、
彼女が倒れ込んできた瞬間の、
電流みたいな感覚。
俺はしばし沈黙し、事実を整理してから問いかけた。
「……異常な食欲も、
それが原因か?」
「あ……」
ミクの頬が、
一瞬で林檎のように赤くなる。
「多少は補えますけど、
普通の食事なんて気休めにしかなりません。
……最近、本当に食べすぎていて」
両手で顔を押さえ、小さく呟く。
「食べすぎると太るし、
太ると運動しなきゃで……
運動すると、もっとお腹が空いて……」
頭を抱えたくなった。
これは、もうメンバーの健康管理の話じゃない。
グループのセンターの体重管理が崩壊すれば、
この番組企画そのものが死ぬ。
撮影を成立させるのが、
俺の仕事だ。
もし本当なら――これは、俺のキャリアで最大級のリスク。
もし嘘でも――最悪、綺麗な女の子に体力を少し持っていかれるだけだ。
俺は立ち上がり、
テーブルを回り込む。
ミクが、不思議そうに見上げてくる。
その視線の中で、
俺は一気にシャツを脱ぎ捨てた。
「えっ!? か、監督、何を――!」
「エネルギー供給だろ?」
ベルトに手をかけ、真顔で言う。
「フィクションのテンプレなら、
だいたいこうだ。」
「ち、違います!」
彼女は慌てて首を振った。
「今は……契約を結べば、
それで大丈夫です!」
俺は小さくため息をつく。
――なぜだろう。
ほんの少しだけ、
肩透かしを食らったような気分だった。
「……じゃあ、具体的にどうする?」
「ほ、本当にありがとうございます!」
目を輝かせてうなずく。
「えっと……服を着て、
部屋の中央に立ってください。」
言われた通り、
リビングの中央へ。
ミクは一歩分の距離で立ち止まり、
声を落とす。
「……手を、握ってください。」
――そのときの俺は、
まだ知らなかった。
これは、
条項をきちんと理解しないまま結ぶ契約だったということを。




