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第三話 条項を理解する前に結ぶ契約じゃない

ドアノブに手をかけたまま、

俺はその場で固まっていた。


閉めるべきか、それとも――。


「ミク……さん?」


反射的に声を潜める。


「どうして、ここに……?」


ドアの外に立っていた少女は、

見つかった子どもみたいに肩をすくめ、

コートの裾をぎゅっと掴んだ。


「えっと……その……」


俺は素早く廊下の左右を確認する。


冷たい白色灯。人影はない。


「とにかく、中に入って。」


体をずらして道を開ける。


「ここで話すのは、

色々まずい。」


売れっ子アイドルが、

深夜に俺の部屋の前に立っていたなんて話、

明日には俺の職業人生が終わる。


ミクはおそるおそる室内に足を踏み入れた。


見知らぬ縄張りに入る小動物みたいな動きだ。



ドアを閉め、

湯気の立つお茶を淹れる。


テーブルを挟んで向かい合って座ったものの、

間には目に見えない一線が引かれている気がした。


「……どうして、俺の住所が分かった?」


先に切り出したのは俺だった。


ミクは湯飲みを両手で包みながら、

飲もうとはせず、

立ちのぼる白い湯気を見つめている。


「……あなたの、

エネルギーの気配を辿ってきました。」


小さな声だった。

「前に……吸ってしまったので。

位置が、分かるんです。」


俺は反射的に腕を組み、

椅子の背に体重を預ける。


――吸った。


頭の中に、

食堂で倒れ込んできた彼女の感触がよみがえる。


一瞬だったのに、妙に鮮明な体温と衝撃。


映像業界で長くやってきた。


荒唐無稽な企画も、

嘘みたいな設定も山ほど見てきた。


だが、現実世界に「他人のエネルギーを吸って生きる存在」がいる、

という話は――さすがに現実感がなさすぎる。


思考を整理しながら、

俺は彼女の表情を値踏みするように観察する。


目にははっきりとした後悔が浮かんでいる。


視線は逸らさない。

その様子は、即席の言い訳にも、

悪ふざけにも見えなかった。


――もしこれが演技なら。

彼女の将来は、

恐ろしいほど眩しいものになるだろう。


もし、彼女の話が本当なら。


今日、ここに来た理由は一つしかない。


俺は深く吐息を漏らし、口を開いた。


「……ミクさん。」


「は、はい!」


彼女の背筋が、

軍人のようにぴんと伸びる。


「俺のエネルギーを吸ったと言ったな。

それで、わざわざここまで来た理由は……

その件、だよな?」


数秒の沈黙。


何かを測るような間のあと、

彼女は小さくうなずいた。


「はい。」


顔を上げ、

覚悟を決めた声で言う。


「私は、人間じゃありません。……サキュバスです。」


その言葉が落ちた瞬間、

空気が一瞬、凍りついた気がした。


「その……伝承にある、

人の生気を糧にする存在、です。」


俺の反応を窺うように、

付け足す。


心臓が早鐘を打つ。


だが、俺は腕組みをした姿勢を崩さない。

指先の微かな震えを、

悟られないために。


「……分かった。」


できるだけ平静な声を作る。

「フィクションの設定によくある、

接触することで男の精気を吸い取る存在、

という認識でいいか?」


「は、はい!」


即答したあと、慌てて続ける。


「でも……私、ちょっと特殊で。」


「特殊?」


「女の子からも、吸えちゃうんです。」


「……女の子も?」


思わず目を見開いた。


俺の知っている『設定』とは、

明らかに食い違っている。


ミクはうつむき、

湯気に声を溶かすように言った。


「普段は……メンバーとハグしたときに、

ほんの少しだけ。」


「でも最近、仕事が立て込んで……

制御できなくて……」


指先が、小さく震えている。


「みんな、すごく疲れやすくなって。

今日の朝は、二人……倒れて、病院に……」


顔を上げた彼女の目は、

赤く潤んでいた。


「……これ以上、あの子たちを傷つけたくないんです」


その瞬間、

俺の中のすべての違和感が、

一本の線に繋がった。


撮影中の不調。


異様な疲労感。


あのとき、

彼女が倒れ込んできた瞬間の、

電流みたいな感覚。


俺はしばし沈黙し、事実を整理してから問いかけた。


「……異常な食欲も、

それが原因か?」


「あ……」


ミクの頬が、

一瞬で林檎のように赤くなる。


「多少は補えますけど、

普通の食事なんて気休めにしかなりません。

……最近、本当に食べすぎていて」


両手で顔を押さえ、小さく呟く。


「食べすぎると太るし、

太ると運動しなきゃで……

運動すると、もっとお腹が空いて……」


頭を抱えたくなった。


これは、もうメンバーの健康管理の話じゃない。


グループのセンターの体重管理ルックスが崩壊すれば、

この番組企画そのものが死ぬ。


撮影を成立させるのが、

俺の仕事だ。


もし本当なら――これは、俺のキャリアで最大級のリスク。


もし嘘でも――最悪、綺麗な女の子に体力を少し持っていかれるだけだ。


俺は立ち上がり、

テーブルを回り込む。


ミクが、不思議そうに見上げてくる。


その視線の中で、

俺は一気にシャツを脱ぎ捨てた。


「えっ!? か、監督、何を――!」


「エネルギー供給だろ?」


ベルトに手をかけ、真顔で言う。


「フィクションのテンプレなら、

だいたいこうだ。」


「ち、違います!」


彼女は慌てて首を振った。


「今は……契約を結べば、

それで大丈夫です!」


俺は小さくため息をつく。


――なぜだろう。


ほんの少しだけ、

肩透かしを食らったような気分だった。


「……じゃあ、具体的にどうする?」


「ほ、本当にありがとうございます!」


目を輝かせてうなずく。


「えっと……服を着て、

部屋の中央に立ってください。」


言われた通り、

リビングの中央へ。


ミクは一歩分の距離で立ち止まり、

声を落とす。


「……手を、握ってください。」


――そのときの俺は、

まだ知らなかった。


これは、

条項をきちんと理解しないまま結ぶ契約だったということを。



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