第二十四話 元カノ(ハーフエルフ王女)との再会が、心臓に悪くないわけがない
「ヘス……ヘスティア?」
思わず、名前を呼んでいた。
自分でも分かるくらい、
目を見開いている。
声に混じった驚きも、
隠しようがなかった。
「……どうして、急に帰ってきたんだ?」
五年前のあの日のことは、
今でもはっきり覚えている。
彼女は何の説明も残さなかった。
ただ一言――
「海外に留学する」とだけ言い残して、
俺の前から姿を消した。
まるで夢が、
突然誰かに遮断されたみたいに。
そして今――
その彼女が、
俺の編集室のドアの前に立っている。
ヘスティアは、
さらりと金色の髪をかき上げた。
優雅な仕草だった。
まるで、
何も起きていなかったかのように。
「ええ」
彼女は微笑む。
「海外での“学業”が終わったの。
帰ってくるのは当然でしょう?」
その「学業」という言葉は、
どこか意味深に響いた。
そして――
彼女の視線が、
ゆっくりと俺の背後へ移る。
カナへ。
唇には、
まだ笑みが残っている。
だが、
その金色の瞳だけは――
はっきりと冷え込んでいた。
「ただ、まさか……」
口調は軽いままだ。
「こんなところに、
泥棒猫がいるなんてね」
その瞬間。
空気が凍りついた。
背後で、
カナの体がびくりと固まるのが分かる。
顔色は一瞬で青ざめ、
俺の背中に隠れるようにして震えている。
視線すら、
ヘスティアに向けようとしない。
俺の脳裏に、
いくつかの記憶がよぎった。
居酒屋で。
カナが初めてヘスティアの写真を見たときの、
あの本能的な恐怖。
それから――
ミクが言っていた言葉。
ハーフエルフ。
そのとき、
俺はようやく気づいた。
目の前にいるこの金髪の女は――
本当に、
五年前に俺が付き合っていた
ただの「元カノ」なのか?
それとも。
俺は最初から、
彼女のことを何一つ理解していなかったのかもしれない。
……だとしても。
ここは俺の会社だ。
部下が目の前で侮辱されるのを、
黙って見ているわけにはいかない。
俺は小さく息を吸い込み、
一歩前に出た。
カナを完全に背中へ隠す。
「……ヘスティアさん」
わざと、その「さん」を強調した。
「どうして帰ってきていきなり、
そんな言い方をするのか分からない」
「でも、カナさんは俺の大事な助監督で、同僚だ」
俺は真っ直ぐに彼女を見る。
「軽々しく、そんなこと言わないでくれ」
ヘスティアの眉が、
わずかに上がった。
そして――
彼女は、
くすりと笑った。
その笑みには、
ほんの少しの皮肉が混じっている。
「ふふ……ユウマ」
彼女はゆっくりと言った。
「あなた、本当に知らないの?」
「それとも――知らないふり?」
彼女の視線が、
ふいに俺の胸元へ落ちる。
瞳が鋭く細められた。
「私の守印を上書きして契約するなんて」
「本人の同意なしにできるわけないでしょう?」
「……は?」
俺は完全に固まった。
守印?
ヘスティアは、
まだ俺の胸を見つめている。
まるで、
そこに何か見えない印でもあるかのように。
「本来、あの守印はね」
彼女の声が、
少しだけ冷たくなる。
「私のせいで異世界の連中にあなたが狙われないようにするためのものだったの」
「……でも」
彼女の表情が、わずかに曇った。
「今はもう、
完全に汚染されてる」
その視線が、
俺の背後のカナをかすめる。
「しかも、サキュバス一匹じゃない」
ヘスティアは眉をひそめた。
「他にも、何か混ざってる」
「でなければ――」
「この程度のサキュバスが、
私の守印を上書きできるはずがない」
頭の中が、
ぐちゃぐちゃになった。
守印。
契約。
異世界。
意味の分からない単語が、
次々と投げ込まれてくる。
そういえば――
ミクと契約したとき。
確かに彼女は言っていた。
俺の中には、
何か特別な力がある、と。
それに――
あの「事故物件」に引っ越してから、
妙な現象を一度も感じたことがないのも不思議だった。
まさか――
思考がまとまりかけた、
その瞬間。
ヘスティアが、突然手を伸ばした。
ぐいっと俺の襟を掴む。
「ユウマ!」
彼女の声から、
初めて余裕が消えた。
「あなた、魅了されてるでしょう!」
顔が近い。
金色の瞳が、
危険な光を帯びている。
「……でも、大丈夫」
彼女は低く囁いた。
「私が戻ってきたんだから」
その瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「今度こそ――」
「あなたを連れて帰る」
「……はぁっ?!」
俺は完全に固まった。
背後のカナも、
言葉を失っている。
「そうよ」
ヘスティアは俺の襟をさらに引き寄せる。
「今すぐ――」
そのまま、
何かとんでもない行動に出そうになった、
そのとき。
廊下の向こうから、
足音が近づいてきた。
「おやおやー!」
明るい声が先に飛び込んでくる。
「藤原監督!ヘスティア!もう会ってたんですね!」
その声には聞き覚えがありすぎた。
鈴木だ。
ヘスティアは一瞬で俺の襟を離した。
一歩下がる。
表情は、
すでに何事もなかったかのように整っていた。
さっきまで拉致未遂を起こしかけていた人間と、
同一人物とは思えない。
「鈴木さん」
ヘスティアは優雅に微笑む。
「大したことじゃありません」
「藤原とは久しぶりでしたので、
少しお話していただけです」
鈴木は編集室の入り口に立ち、
俺たち三人を順番に見回した。
あの人の目だ。
状況は、
だいたい全部理解している。
……なのに。
彼女は、にかっと豪快に笑った。
「いやー、ごめんなさいね藤原監督!」
ぱん、と手を叩く。
「ヘスティアが急に帰ってきたもんだから、
サプライズにしようと思って!」
「連絡もしないで、
そのまま制作室に連れてきちゃいました!」
満面の笑顔。
「びっくりしました?」
「いやー、面白すぎてさ!
今日ここで撮影企画やってるの、
完全に忘れてましたよ!」
「はははは!」
笑い声がやたら大きい。
一方の俺は、
まだ情報量の爆発に耐えている最中だった。
そのとき――
廊下の向こうから、
聞き慣れた声が飛んできた。
「監督ー!」
振り向く。
ミクが、おにぎりの袋を提げて走ってきていた。。
「監督!残りあんまりなかったですよー!」
息を切らしながら言う。
「監督とカナちゃんの分、
なんとか確保してきましたけど――」
そこで、
彼女の言葉が止まった。
入口に立つヘスティアの姿に、
ようやく気づいたらしい。
足がぴたりと止まる。
「……あれ?」
ミクは眉をひそめた。
「この人……?」
その瞳が、
わずかに警戒の色を帯びる。
ヘスティアが、
ゆっくりと顔を傾けた。
横目でミクを見つめる。
その表情に、
うっすらと影が差した。
「……なるほど」
小さく呟く。
「あなたなのね」
背中に、
冷たい汗が流れた。
まずい。
この空気は、
かなりまずい。
もし本当にヘスティアが伝説のハーフエルフ王女なら、
魔族との関係が良好なはずがない。
ここでその話題に突入したら――
間違いなく修羅場になる。
俺は慌てて口を開いた。
「えっと、ヘスティアさん。この子は――」
しかし。
その言葉より早く。
鈴木が、すっと二人の間に割り込んだ。
まるで番組の司会者みたいな軽いテンションで。
「ヘスティア!」
ぱん、と手を叩く。
「この子ね、
うちの事務所が新しく契約したアイドルグループのセンターなんですよ!」
ミクを指差す。
「ほら!」
「めちゃくちゃ将来有望な新人でしょう?」
その瞬間。
俺は、
本気で涙が出そうになった。
鈴木さん。
あなた、最高すぎる。
もし可能なら――
一生ついていきます。




