第二十二話 これは最初から相談して決めたことじゃない
俺は、
そのまま黙って彼女を見つめていた。
手はまだ宙に浮いたまま。
さっき何かをしようとして、
途中で自分でもその動作を忘れてしまったみたいに。
ミクはぐっすり眠っている。
茶色の長い髪がシーツの上に柔らかく広がり、
静かに一面を埋めていた。
呼吸は穏やかで規則正しい。
胸が小さく上下しているのを見る限り、
ついさっき自分が何をしたのかなんて、
まるで知らないみたいだった。
俺はゆっくりと手を引き戻し、自分の胸に当てた。
そこには――
温かい流れがある。
さっきまでのような混乱はない。
互いに引き裂き合うような痛みも消えていた。
体内を流れる魔力は、
三本の川のようだった。
さっきまで暴れ狂っていたそれらは、
強引に河道へ押し戻されたみたいに整えられている。
その中心に、
一つの流れが静かに陣取っていた。
残り二つの暴れそうな力を、
しっかりと押さえ込んでいる。
……なるほど。
さっき何が起きたのか、
ようやく理解できた。
俺が気絶したのは、
体内の三つの力が衝突して均衡を失ったからだ。
そしてミクは――
自分の契約魔力の強度を無理やり引き上げて、
主導権を握らせた。
その結果、
暴走寸前だった内部の力関係を、
強引に安定させたわけだ。
つまり――
彼女は自分の力で、
俺の身体を**「固定」した**。
そう思うと、
自然と視線が彼女の顔へ戻った。
今こうしてぐっすり眠っているのも、
おそらくその反動だろう。
さっき相当な魔力を消耗したはずだ。
その時――
「ん……」
ミクの眉が小さく動いた。
ゆっくりと目を開け、
まだ完全には覚醒していない様子で目元をこする。
「……ユウマさん、おはよう……」
ぼんやりした声でそう言った。
そして次の瞬間――
「……あっ!」
突然、記憶が繋がったみたいに、
ミクは勢いよく体を起こした。
そのまま両手で俺の頬をがしっと掴む。
「ユウマさん! 大丈夫ですか?!」
顔が一気に近づく。
普段の天然アイドルとは思えないくらい、
必死な表情だった。
「さっき急に倒れたんですよ!
私、すごく時間かけて契約を安定させたんですから!」
頬を掴まれたままだと話しづらいので、
俺は軽く彼女の手を外した。
「……もう大丈夫だ」
深く息を吸い、
声を落ち着かせる。
「助かった。ありがとう」
これは社交辞令じゃない。
さっきの状態で病院に運ばれていたとしても、
何も解決しなかったはずだ。
どんな名医でも、
「体内で三つの魔力が喧嘩していました」
なんて診断、書きようがないだろう。
せいぜい医学界の未解決症例として論文になるのが関の山だ。
俺の言葉を聞いて、
ミクはほっと息を吐いた。
少しだけ距離を取る。
でもその表情は、
すぐにどこか不安そうに揺れた。
「ユウマさん……」
小さな声で言う。
「知ってますか?
私のグループ……事務所、変わったんです」
俺は一瞬だけ固まった。
「このまま……私たちが一緒に撮ってる番組……どうなるのかなって」
言い方が、とても慎重だった。
自分の将来を心配している感じではない。
露出とか、人気とか、そういう話でもない。
彼女が気にしているのは――
俺たちの撮影が、このまま続くのかどうか。
俺は一瞬だけ黙った。
そして、なるべく自然に笑った。
「大丈夫」
そう言う。
「新しい担当マネージャー、俺の知り合いだから」
「担当が変わるだけで、他は何も変わらない」
……正直、少しだけ後ろめたい。
確かに鈴木は知り合いだ。
制作会社も変わらない。
だが――
あの人のやり方は、
前のマネージャーとは別の生き物と言っていい。
しかも今、カナを表に出そうとしている。
次の撮影がどう転ぶのか。
正直、まったく読めない。
そんな不吉な未来予想図が頭をよぎった瞬間――
スマホが震えた。画面を覗き込む。
【件名:なし/差出人:鈴木】
メッセージは一行だけだった。
『現場訪問企画:センター・ミクによる制作チームへの差し入れ』
……
俺はその文字列を三秒ほど見つめた。
そして――
ゆっくり額に冷や汗が浮かぶ。
意味が分かった。
鈴木の狙い。
あの人は――
この段階でカナのデビューや契約をどうこうするつもりじゃない。
やろうとしているのは、
もっと容赦のない方法だ。
露出を増やす。
カナの、作られていない自然な魅力を。
包装も演出もない、そのままの形で。
少しずつ、ネットに広げる。
それが何度か成功すれば――
視聴者が気づく。
ファンが名前を探す。
ブランドが指名する。
そうなった時。
世論そのものが、
彼女を舞台の前に押し出す。
俺はスマホを握りながら、
妙な顔をしていたと思う。
半分は感心。
半分は恐怖。
この冷酷なほど正確な嗅覚――
いかにも鈴木らしい。
問題は。
一度回り始めた歯車は、
たいてい止まらないことだ。
「ユウマさん?」
隣でミクが不思議そうに声をかけた。
俺はすぐスマホを伏せる。
「……なんでもない」
頭の中の不穏な予感を振り払う。
次の撮影テーマはもう決まっている。
なら――
監督としてやることは一つだけだ。
面白く撮る。
俺はミクを見て、
なんとか笑った。
「次の撮影内容、もう決まった」
ミクが瞬きをする。
「え?」
俺は軽く息を吸った。
そして――
俺が決めたわけじゃない企画を告げる。
「次は、店での撮影じゃない」
「ミクがミクララを代表して――」
「弁当を持って、制作会社に差し入れに来る」
「ええっ?!」
ミクは慌てて口を押さえた。
「ユウマさんの会社ですか?!」
目が一瞬で輝く。
……が、次の瞬間。
彼女は何か思い出したように、
慎重に聞いた。
「じゃあ……カナちゃんも……?」
俺は肩をすくめた。
「カナは助監督だ」
「会社じゃなくても、撮影現場には必ずいる」
一拍置く。
そして付け足した。
「……この事実からは逃げられない」
ミクは一秒ほど黙った。
それから大きく息を吸い、
覚悟を決めたように頷く。
「そうですよね」
拳をぎゅっと握る。
「ユウマさん――私、頑張ります!」
まるで大きな大会に挑む選手みたいな顔だった。
俺はそれを見て、
静かに頷く。
そして再び胸に手を当てた。
体内では三つの魔力が、
まだゆっくり流れている。
今は安定している。
だが――
俺には、なんとなく分かる。
この静けさはきっと。
嵐が来る前の、
ほんの短い凪に過ぎない。
長らく更新をお休みしてしまい、申し訳ありませんでした。
仕事の出張が落ち着きましたので、本日より投稿を再開します。
お待ちいただいた皆様に感謝いたします。第22話、ぜひお楽しみください!




