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第二話 編集室は、アイドルを見る場所じゃない

撮影はなんとか無事に終わった。


スタッフたちが機材を片づけ、

助監督のカナと一緒に店主へ挨拶をする。


そのとき、

ふと視界の端に入った光景に、

俺は思わず目を細めた。


――やっぱりだ。


ミクは皿を抱え、

ものすごい勢いで餃子を平らげている。


「ミクちゃん、

そんなに食べたらお腹ぽんぽんになっちゃうよ〜!」


メンバーの一人が笑いながらからかう。


頬をパンパンに膨らませ、

口いっぱいに餃子を詰め込んだまま、

ミクはもごもごと反論した。


「だ、だいじょうぶだもん!」


その必死な様子に、

周囲から笑いが起きる。


「はいはい、そろそろ片づけて帰ろ。

最近さ、なんか疲れすぎて……

吸い取られたみたいなんだよね」


誰かがぼやいた、

その瞬間――


箸が、ぴたりと止まった。


ミクの手が、わずかに震える。


その瞳に、

一瞬だけ罪悪感のような色がよぎった。


けれど次の瞬間、

何事もなかったかのように、

また箸が動き出す。



その夜。


俺はソファに倒れ込み、

そのまま沈み込むように目を閉じた。


頭の中を巡るのは、ミクの笑顔。


あのとき見えた赤い光。

そして、

触れた瞬間に走った、

電流のような感覚。


「……疲れすぎだな」


自嘲気味に笑い、

意識を手放した。


夢の中。


俺は乳白色の霧に包まれていた。


足元は見えず、

踏み出すたびに微かな反響だけが返ってくる。


どこまでも続く回廊を歩いているような感覚。


甘ったるい香りが鼻をくすぐり、

胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


「監督……」


霧の奥から、声がした。


耳に絡みつくような、

柔らかくて、誘惑的な声。


振り向くと、

ミクの姿がゆっくりと浮かび上がる。


――でも、昼間の“餃子が大好きな地方アイドル”じゃない。


額から小さな角が伸び、

細い尻尾が揺れている。


赤く輝く瞳が、

こちらをまっすぐ射抜いた。


一歩、また一歩。


彼女が近づくたび、

霧が震え、

甘い香りが胸を押し潰す。


「……助けて。監督」


甘えるような声。


尻尾が、俺の手の甲をなぞる。


その瞬間、

細い電流が腕を駆け上がり、


痺れが神経を伝って全身に広がる。


呼吸すら乱れる。


「……あなたが必要なの」


囁きとともに、

赤い光が視界を満たす。


吸い込まれる


――そう思った、その瞬間。



俺は飛び起きた。


全身汗だくで、

心臓が暴れるように鳴っている。


窓の外は、もう明るい。


「……最悪だ」


顔をこすり、

慌てて身支度を整えると、

電車に飛び乗って制作スタジオへ向かった。



オフィスのドアを開けると、

カナが同僚と何か話していた。


妙に気まずくて、

声をかけられず、

俺はそっと編集室へ逃げ込む。


中は誰もいない。


助かった、と息を吐き、

ドアを閉め、

照明を落とす。


モニターの光だけが、

部屋を照らした。


メモリーカードを差し込み、再生。


画面に映るのは、

ミクララのメンバーたち。


餃子を紹介する声は可愛らしい。


けれど、よく見ると

――笑顔の奥に、疲労が滲んでいる。


視線が時折、宙を彷徨っている。


対照的に、ミクだけは違った。


何度も皿を盗み見し、

子どもみたいに目を輝かせている。


俺は眉間を揉んだ。


「……ダメだな。

テンポも表情も硬い。

生きてない」


社長の「失敗するなよ」が、頭にこだまする。


そんなことを考えながら、

ぼんやりと画面を見つめていると――


また、あの赤い瞳と感触が脳裏をよぎる。


……倒れ込んできたときの、あの柔らかさ。


そのとき、勢いよくドアが開いた。


パッ、と照明が点く。


カナだ。


「監督、戻ってたなら言ってくださいよ」


軽く責めるような口調。


俺は苦笑して、適当に誤魔化す。


「忙しそうだったからさ。

カナ様は有能で多忙だから、

無能な監督が少しサボってもいいだろ?」


冗談半分。


でも実際、彼女には助けられている。


仕事は早いし、愛想もいい。


あの“天使みたいな顔”で微笑まれると、

厄介なクライアントも大抵折れる。


彼女がいなければ、

俺はとっくに潰れていた。


カナは呆れたようにため息をつき、

画面のミクに視線を向ける。


「正直に言いますけど。

監督、この歳で若いアイドルに夢中って、

ちょっとキツいですよ」


「仕事だよ。見なきゃ編集できないだろ」


軽く返しながら、

胸が少しだけざわつく。


つい口が滑った。


「……じゃあ、代わりに見る?」


即座に、冷たい声が返る。


「却下。

これ以上サボったら、

本当に無能監督になりますよ」


「じゃあ俺は、

愛しのアイドル映像を堪能し続けるとするか。

一緒にどう?」


ニヤつく俺に、カナは目を細めた。


「今のうちに、

よく見ておいたらどうです?」


嫌な予感。

「今朝、ミクララのメンバーが二人、

倒れて病院に運ばれました。

明日の撮影は、全部中止です」


目の前が暗くなった。


社長のパワハラ顔が脳内にフラッシュバックし、


胃がキリキリと悲鳴を上げる。


俺は腹を抱えたまま、

カナに言い放った。


「……ダメだ、限界。

悪いが胃薬より先に布団が欲しい。

今日はこれで失礼する」


俺の背中に向かって、

カナの呆れたような、


それでいてどこか諦め混じりのため息が飛んできた。



俺はいつもより早く帰宅した。


都心から少し外れた場所にある、

2LDKのアパート。


収入的には到底住めないが、

親戚の持ち物で、

しかも事故物件。


長らく空いていたため、

格安で貸してもらっている。


「人が住んだほうが、家も落ち着くから」


……なんて言われたけど。


ドアを開けた瞬間、

闇が水のように流れ込んでくる。


昼間の喧騒と不安が、

一気に飲み込まれた。


冷蔵庫を開けると、低い唸り音。


中身は冷凍食品と、

賞味期限ギリギリの牛乳だけ。


適当に一つ取り出し、

電子レンジに入れる。


回転する光が、

ぼんやりとした輪を描く。


――ボロ食堂で見た、

ミクの赤い光。


あの、輝く瞳。


「……幻覚だよな」


自嘲気味に笑うが、

喉が乾く。


頭痛がして、こめかみを押さえた。


「チン」


音に促され、食事を口に運ぶ。


味が、しない。


そのとき。


――ピンポーン。


澄んだ、だがやけに耳に残る音。


「……誰だよ、この時間」


玄関に向かい、ドアを開ける。


その瞬間、息を呑んだ。


「……こんにちは。突然、すみません……」


そこに立っていたのは、

淡い色のワンピースを着たミクだった。


両手でバッグの紐を握りしめ、

指先が白くなっている。


視線は定まらず、

俺を見ては、

すぐに伏せる。


風に揺れる髪が頬にかかり、

不安と必死さを隠そうとする、

かすかな笑顔。


唇が震え、

何度も練習したであろう言葉を、

ようやく絞り出す。


「……監督」


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