表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/18

第十六話 だが、俺の家のリビングも戦場に向いてはいない

スイーツショップでの「ロケハン」を終えるころ、

空はすでに夕暮れ色に染まり始めていた。


四人で店を出ると、

街灯はまだ点いていないものの、

空気はひんやりとしていて、

夜の気配だけが先に到着している。


俺はカナの隣に立っていた。


千紗は自然な動作でミクの腕に絡み、

にこやかな笑顔を浮かべながら、

俺と助監督に向かって丁寧に手を振る。


そのとき——


ミクが、不安そうにこちらを見た。


そして、その視線はすぐに、

カナの首元に揺れる「星塵琉璃」へと移る。


「監督……」


呼びかけたものの、

言葉は途中で止まった。


ミクの瞳が、カナの冷たく静かな視線とぶつかり、

次いでチサの訝しげな視線に気づいたのだろう。


彼女は、

無理やり作ったような笑みを浮かべた。


「……ううん、なんでもない。

今日はデザート、ごちそうさまでした」


両手にずっしりとした紙袋を提げた俺は、

愛想笑いで誤魔化すしかなかった。


「気にするなって。

じゃあ俺と助監督は会社に戻って荷物置いてくるから。

次の撮影でな」


——もちろん、これは建前だ。


今夜も家に帰れば、

たぶんミクはすでにソファに座っている。


二人が駅の入口へ消えていくのを見届けてから、

俺は隣のカナに声をかけた。


「じゃあ、俺たちも行くか。

先に会社へ——」


そう言いながら、深く息を吸い込み、

これから始まるであろう“重労働”に覚悟を決めた、

その瞬間。


「結構です、監督」


カナは冷ややかに言い放ち、

こちらを一瞥もしなかった。


「会社には、私ひとりで戻ります。

監督は先に帰ってください」


「え?」


返事をする間もなく、

彼女は——片手で。


すべての紙袋の持ち手をまとめて掴み上げた。


眉ひとつ動かさず、

息も乱さず、

そのまま踵を返して歩き出す。


一切の躊躇もなく、

背中はあっという間に街角の向こうへ消えていった。


俺はその場に立ち尽くし、

思わず呟いていた。


「……ミクがサキュバスなのはまだしも、

カナまで俺より力あるって……どういうことだよ……」


男としての尊厳が、

音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。


俺は苦笑いしながら、トボトボと帰りの電車に乗り込んだ。


——


玄関のドアを開けた瞬間、

予想は的中する。


「ユウマさん!」


部屋の中にいたミクが、

俺の姿を見るなり飛び込んできた。


その表情は、

隠しきれないほど切迫している。


「大丈夫でしたか?

あの助監督のカナ……何かされてませんよね?」


突然の勢いに面食らい、

俺は反射的に答える。


「いや、何も。カナは先に会社に戻ったよ。

それより、そっちは大丈夫だったか?

千紗には——」


ミクは小さく息を吐き、

肩の力を抜いたものの、

不安は消えていない。


「寮まで送ってから、

すぐ戻ってきました。でも……ユウマさん。

あのカナの気配、

やっぱり変です。

それに、あの鎖骨のネックレス……

本当に、何ともないんですか?」


俺はソファに腰を落とし、

無意識に左手首を見下ろす。


そこには、あの革のブレスレットがあった。


「変じゃないかって?……あるよ」


ため息が漏れる。


「いつからあんな怪力になったのか知らないけど、

俺が必死で持ってた袋、

片手で全部持って行った。

しかも余裕そうに」


ミクは腕を組み、

珍しく真剣な表情になる。


「ユウマさん、

冗談で済ませちゃだめです……」


俺の脳裏に、

嫌な記憶が次々と浮かび上がる。


夢の中で、

サキュバスの衣装を纏い、

見えない壁を叩き続けていたカナ。


居酒屋で、

声を潜めて囁いた言葉。


そして、スイーツショップで、

契約印を見たときのあの視線。


すべてが、

一点に収束していく。


——カナも、この世界の存在じゃない。


出演しているアイドルが異界の存在で、

長年一緒に仕事をしてきた助監督までそうだなんて。


さすがに現実感がなさすぎる。


俺は頭を振って思考を振り払い、

ベランダへ出てガラス戸を開けた。


夜風に当たって、

頭を冷やそうとした、

そのとき。


「……俺が弱すぎるだけかもな。

運動不足だし、ランニングでも始めるか……」


——ぶるり。


左手首の革のブレスレットが、突然震えた。


錯覚じゃない。


一定のリズムを刻むような振動が、

何かに呼応している。


同時に、夜空へ目を向けた俺は気づいた。

月明かりを横切る「影」を捉えた


「……あれは……?」


呟いた瞬間、

背後のミクが同じ方向を見て、顔色を失った。


「ダメ! ユウマさん、逃げて!」


彼女が俺の手を掴み、

室内へ引き戻そうとした、

その刹那。


「ゴォッ——!」


激しい気流とともに、

何かがベランダへ降り立った。


腕で顔を庇い、

風が収まるのを待ってから目を開く。


そして——顎は地面に落ちんばかりに外れた。


夜空から現れたのは、カナだった。


ミクと同系統の、黒い革のサキュバス装束。


妖しく露出の多いその姿。

羊角のように湾曲した角と、

紫色に淡く発光する身体。


俺は硬直し、

無意識にミクの手を強く握り締めていた。


カナが、低く告げる。


「やっと見つけた……監督……いいえ、悠真」


その視線が、

俺たちの繋がれた手に落ち、

一瞬で凶悪な色を帯びた。


そしてミクへ向き直り、

露骨な嫌悪を叩きつける。


「……それから、あんた。泥棒猫」


ミクは手を離さず、一歩前に出る。

まるで獲物を庇うかのように。


「泥棒猫って何よ! 私たちはちゃんと契約してる!」


「それがどうした」


カナは冷笑し、拳を握りしめた。


「悠真は、私が先に見つけた。先に来たのも、私だ」


「五年よ……」


カナの声が、震えた。


「五年、ずっと待ってた。


毎日、そばにいた。

仕事を手伝って、

監督の負担を減らして、

少しずつ、少しずつ……


あの忌々しい『守印』が薄れるのを待ってた。」


拳が、震える。


「なのに——」


視線が、ミクを射抜く。


「あんたが現れた途端、

全部持っていかれた!


契約って、何よ!

そんな卑怯な手で、

悠真を独り占めするなんて——!」


「卑怯?ユウマさんは同意してる!」


ミクが即座に返す。


「同意……?」


カナの表情が歪んだ。


「…………人間の食べ物なしでは生きられない、

サキュバスとしても未熟みじゅく出来損できそこないのくせに。

……ましてや、男も女も選ばないような節操せっそうなしの雑食ざっしょく女に、

悠真を語らせたくないわ!」


「 私は夢の中でしか触れられなかった……

それすら、あんたの忌々しい契約に阻まれてる!」


——守印。

——雑食ざっしょく

——ゆめ


単語が頭の中で爆ぜ、世界が傾く。


そして、ミクの次の一言が、俺の理性を完全に叩き壊した。


「何があっても、

今はユウマさんと私が契約してる」


揺るぎない声。


「ユウマさんは、私のもの」


俺は口を開いたまま、何も言えなかった。


決まり文句の「俺のせいで喧嘩するな」すら、

喉で詰まる。


カナが、くすりと笑い、手首を回す。


「どうやら、言葉は通じないみたいね」


紫の光が、さらに濃くなる。


「ちょうどいい。私も、うずうずしてたところ」


ミクは俺の手を離すと、背中を押して一歩後ろへ下げた。

次の瞬間、赤い光が彼女の全身を包み込む。


彼女は一歩前に出て、静かに構えた。


「⋯⋯来なさい。相手してあげる」


数歩離れた場所で、

その一触即発の対峙を見つめながら、

俺の心は絶叫していた。


——頼むから、やめてくれ。


ここは——

ここは俺の——

リビングだぞ……!


だが、その叫びは声にならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ