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第十一話 風呂で消えるものばかりではない

深夜、帰宅する道すがら、

俺の脳裏には何度もカナの表情が浮かんでは消えた。


あの瞬間、

彼女はヘスティアと直接相対していたわけでもない。


それでも迷いなく口にした。


――ハーフエルフの王女。


――『終焉のヘスティア』。


なぜ、そこまで断言できたのか。


その名に、

どんな意味があるのか。


考えがまとまらないまま、

気づけば家の前に立っていた。


ドアを開けると、

玄関には開きかけのスーツケースと脱ぎ散らかされた服。


リビングのソファでは、

ミクが体を丸め、

両手を頭の下に敷いて眠っていた。


規則正しい寝息。

まるで昼寝を決め込んだ子猫みたいだ。


……途中で力尽きたんだろう。


一日中撮影して、

そのあと荷物を運び込んだんだ。

無理もない。


俺は物音を立てないよう毛布を取り、

そっと彼女に掛けてから自分の部屋へ戻った。


だが、頭の中の靄は晴れなかった。


疑問と違和感が絡まり合い、

答えの形を結ばないまま――


いつの間にか、眠りに落ちていた。


――夢を見た。


果てしなく広がる白い霧。


その中を、

俺はひとり彷徨っている。


「……ドン、ドン……!」


前方から、

鈍い衝撃音が響いた。


音のする方へ近づくと、

透明な壁の向こう側で、

誰かが必死に拳を叩きつけている。


やがて、

輪郭がはっきりした。


身体の線を露骨に強調した、

サキュバスの装束。


「……ミク?」


思わず名前を呼んだ瞬間、

背筋が凍った。


違う。


その黒髪は――


――カナだ。


彼女は無言のまま、

何度も何度も見えない壁を叩き続けていた。


焦燥、苛立ち、

そして何かに縋りつくような……


必死な光を宿した瞳で、

俺を見つめながら。


声は、届かない。


手も、伸ばせない。


その瞬間――


俺は飛び起きた。


全身が汗で濡れ、

シーツにははっきりと跡が残っている。


荒い呼吸。

心臓が、

まだ夢の中に置き去りにされたみたいだった。


「……どうして、あんな夢を……」


震える手で額の汗を拭い、

必死に呼吸を整える。


だが、あの眼差しだけが、

焼印のように脳裏に焼きついて離れなかった。


カーテンの隙間から差し込む光で、

もう朝だと分かる。


その時、

キッチンの方から冷蔵庫の扉が閉まる音がした。


……ミクだろう。


俺は重い頭を押さえながら、

浴室へ向かった。


シャワーを浴び、

勢いよく体を洗う。


だが――ふと、

手が止まった。


胸の左側。


どうしても、

洗い流せない跡がある。


視線を落とす。


そこには、

半月状の弧。


そこから細い蔓のような模様が伸び、

心臓を囲むように刻まれていた。


その中心が、かすかに紅く脈動している。


「……なんだ、これ……?」


指でなぞっても痛みはない。


ただ、

奇妙な温もりだけがそこに宿っていた。


その瞬間、

脳裏に浮かんだのは――


冷静で、

どこか切実なカナの声だった。


――「監督……ミクには気をつけて。

 彼女、全部を本当のこととして話しているとは限らない」


不安を振り切るように急いで支度を終え、

リビングへ出ると、

案の定ミクがソファでお菓子を抱えていた。


「おはようございます、カント――」


「ちょっと待て!」


俺は彼女の言葉を遮り、

服の襟を引き下げて印を見せる。


「これ、何なんだ。ちゃんと説明しろ」


ミクは一瞬きょとんとし、

それからあっさり言った。


「ああ、それですか。契約印ですよ」


「……契約印?」


「契約を結んだ証です。

双方の体に出るんです」


そう言って、

彼女は自分の服にも手を掛ける。


「待て! 見せなくていい! 

……どこにあるんだ」


「右の鎖骨の下ですよ」


それ以上見ないよう、

俺は咳払いして視線を逸らした。


「……目立たないならいい。

色も薄いし」


「今は、ですね」


ミクは悪戯っぽく笑う。


「感情が深まると、

濃くなりますし……光ったりもしますよ」


「は?」


「契約は“通路”ですから。

安定するほど、

エネルギーが流れるんです」


半信半疑の俺の手を、

彼女は勢いよく引いた。


「試してみましょう!」


鏡の前で、指を絡める。


近すぎる距離。

体温が、妙に意識を刺激する。


……だが、何も起きない。


ミクは不満そうに唇を尖らせ、

顔を近づけてきたが――


やはり、

変化はなかった。


「……相性、悪いのかな」


ぽつりと、

独り言のように漏らす。


一瞬だけ、

彼女の笑顔が強張った。


すぐに作り直されたその「営業用」の笑みが、

逆に胸の奥をちくりと刺した。


ほんの一瞬の落胆。


それだけのはずなのに、

胸の奥がわずかに締めつけられた。


……いや。


むしろ、何も起きなかったからこそ、

疑念はよりはっきりと形を持ち始める。


「感情だなんて、

あるわけないだろ」


わざと視線を逸らし、軽く、

投げやりな口調で言う。


少し意地の悪さすら滲ませて。


「勘違いするな。

君を住まわせてるのは、

仕事の都合だけだ」


言い切った直後、

――自分でも、

言い過ぎたとわかった。


「それより、さっさと荷物を片付けろ。

リビングが散らかり放題だぞ」


「はーい! 契約者のために、

お部屋の掃除頑張ります!」


その隙をついて、

俺はそっと外に出ようとした。


一人で、

少し頭を冷やしたかった。


「監督」


背後から声がかかり、

足が止まる。


「あとで買い物に行きたいんだけど……

 予備の鍵、一本もらってもいい?」


胸の奥が、わずかに沈んだ。


数秒、迷ってから、

俺は引き出しを開け、

予備鍵を取り出してテーブルの上に放った。


「……後で返せよ」


それだけ言って、振り返らずに玄関を出る。


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