騎士と令嬢
第6章 いざ夜会へ
「アヴィエラ・ダントン侯爵家令嬢のご入場です!」
会場の入口で声高に私の入場が告げられると、ハッとした視線が一斉に私へと集まった。まるで時が止まったかのように皆が動きを止めて私を凝視する。その間も響き続ける楽団の音楽が、何故か非現実的なように感じた。
ー--会場からの興味本位の視線を一身に浴び、その緊張と恐怖に皮膚が一気に粟立ち心臓の音がどくりどくりとやけに大きく跳ねているように響いた。
それを悟られまいと、私はツンと顎を上げ、一呼吸を置いたのちに最初の一歩を踏み出すーーー優雅に、そして誇り高く見えるように意識して・・・。
エスコートのいない単身での夜会の参加は、ただでさえ話の種になりやすい。おまけに私は醜聞令嬢だ。今さら周囲からどう見られても気にしないと思っていたが、いざ会場に足を踏み入れると、侯爵令嬢として無様な振る舞いはしたくないという思いが顔を出し自分でも驚いた。下だけは向くまいと強く思う。
会場にいる貴族たちは、数年前に社交界を賑わせたあの令嬢の登場に好奇心いっぱいに顔を向けるが、それと同時に当時と変わらぬーーーむしろ以前の令嬢時代には無かったような憂いや一層の艶やかさをまとったアヴィエラの姿に息をのんだ。
艶のある漆黒の髪は緩やかに首元でひとつに編みこまれ、自然にカールした豊かな睫毛の下には憂いを帯びた碧の瞳、そして肩と胸元が程よく開いた品の良い深い紅色のドレスは同色の刺繍を華やかにあしらい彼女の白い肌を際立たせていた。ただそこに立つだけで、存在そのものが手に取ることのできぬ孤高の一輪の大華を想わせた。
一種の神々しさをも感じさせるその佇まいに、会場の者たちはまるで言葉を忘れたかのようにアヴィエラに見入っていた。
アヴィエラ入場の少し前には、フラウザー公爵による夜会開始の挨拶がなされていた。それとともに貴族たちは各々の社交を広げようとせっせと移動をし、自分の利になる相手との繋がりを深めようと心理戦を始めたそのタイミングでのアヴィエラの入場だ。
彼女の登場により張り詰めていた会場の空気は、流れていた優雅な楽団の音楽が切り替わることで我に返ったかのように動き出し、そこでようやく貴族たちは再び歓談の輪を作り始めた。
(予定よりも到着が遅れてしまったわ。さあ、まずはロザリエ様とジークを探さなくては・・・)
主催のフラウザー公爵には後ほど挨拶をすることにして、歩みを止めずに目だけで会場をぐるりと見回すと、目的の彼女はすぐに分かった。
ロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢。彼女は二人の男性に囲まれ、しっかりと熱のこもった・・・お世辞にも好意的とは思えぬ鋭い目でアヴィエラを見据えていた。
しかしそれも一瞬のことで、彼女は再び優しげな微笑みで横の男性たちと話をつないだようだ。
(よし、ロザリエ様の居場所は確認したわ。さて肝心のジークはどこかしら、打合せ通り彼女の近くにいるはずよね・・・)
視線を左右に彷徨わせ、彼の姿を探しーーー
いたいた、良かった目が合った。ちょっとロザリエ様から離れすぎてないかしら?足が速いからあのくらいの距離でも対応出来るのかな?
そして中心より壁の方が近いような場所で私は歩みを止め、ジークとタイミングを合わせようと彼のいる方へ視線を向ける。
よく見るとジークは一人ではなく、隣りにいる男性と話をしているようだ。目は私と合いながらも時折思い出したように男性に顔を向け、彼との話に集中していないことは傍目に見て分かる。
あの男性は、確か薬を主に扱う商団を持つ男爵だ。ということは、騎士団とも関わりがある人物だろう。彼のことだからきっと適当にあしらったり受け流すような対応を出来ず、まんまと話の相手をさせられているのでないか。私の顔は思わず綻ぶ。
ジークは、チラチラと強い眼差しを私に向けて、何やら訴えている。
何だろう・・・。ジーク、とても慌てている?
そしてすぐに、あぁそうかと合点がいった。
ロザリエ様は今、二人の男性に囲まれているのだ。まずいぞ、どちらかにファーストダンスを奪われてしまう!早く、急がないと!ということだろう。
公爵家へ続く王都中央の道が夜会へ向かう馬車列で混みあっており、予定より到着が遅れてしまったのだ。
ここでロザリエ様との接点が持てなかったら、計画は台無しだ。元より、私は夜会に長居するつもりもない。本当なら暫く会場の様子を見てから計画を決行するつもりでいたが、ライバルが彼女の横に陣取っている状況なのでもう早々に行動に移してしまった方が良さそうだ。
私はジークに向かいコックリとうなずいて見せ『今からやるからね、頑張ってね!』と心の中でエールを送る。
ふうぅぅ、と小さな深呼吸をした。緊張のあまり心臓はバクバクと早鐘を打ち、顔も強張っているのが分かる。きっと目も据わっているに違いない。さあ、やると決めたら進むだけよ!
すうぅっと大きく息を吸い込む。
ーーーよし、行くわ!行くわよジーク!
アヴィエラはジークハルトに目配せをし、横切る給士から赤い果実酒を受け取りかの令嬢が歓談する方を向いた。
ジークが、慌てた表情で駈け出した様子が目の端に映った。
よし、計画通りだ。私はこのままロザリエ様の所でジークに盛大にこのグラスの中身を浴びせかければ良い。ジークの着替えはすでに侍従に頼んで控室にスタンバイ済みだ。
私は緊張を隠し口を引き結んで、ジークが間に合うようにゆったりした足取りでグラスを片手にロザリエ様のいる方へと進んでゆく。一歩一歩を踏みしめるように。
彼女が近づく私の存在に気が付き、軽く目を見開いた。ロザリエ様の口元だけが柔らかく弧を描き、お互いの目を見つめたまま、私はまた一歩彼女に近づく。
ところが、彼女まであと少しというその時にー--。グラスを持たない方の私の手首を横からパシリと掴む力強い手があった。
驚く私が見上げたその先にいたのはー--。
私の元婚約者ー--アスベルト・フラウザーだった。
「アヴィエラ、話がしたい」
そこには真剣な目をした、懐かしくも切ない顔があった。
「・・・アスベルト・・・さ、ま・・・」
元婚約者同士の再会に、何か面白いものが見れるのではないかと会場の好奇の目が向けられる。
そんな下劣な視線にさらされることはまっぴらだったので、人目を避け、アスベルトは無言のまま会場の端にあるテラスへとアヴィエラを誘導した。
「すまなかった、アヴィ」
約3年の再振りの再会を懐かしむつもりはなかったが、「久しぶり」やら「元気でいたか」と型どおりの挨拶をする間もなく、かつての婚約者はテラスに出るなり閉口一番で謝罪を口にし頭を下げた。
私は、以前よりも頬の肉が落ち、しかし変わらぬ琥珀色の優しげな瞳をもつアスベルトを真っすぐ見つめる。
「時期公爵様が、格下のしかも社交界を辞した女に頭を下げるなんて、あってはならないことです。お止め下さい」
硬い口調のこわばった声で拒絶するアヴィエラに、アスベルトはしっかりと視線を合わせた。
「3年前の全てのことを、君に謝りたい」
「・・・謝るって、あなたがなぜ?」
「ー--3年前に起きた君の醜聞は、全てある令嬢の悪意で捏造されたものだった。それに私はまんまと引っかかり、君とのことを・・・。」
驚きとともに、アヴィエラは無言のまま暫くアスベルトを見つめた。ー--どういう経緯で当時のことを知ったのであろうか。今になって当時のこと謝られるとは、思ってもみないことだった。
そしてそっと息を吐いて、あえて他人行儀に静かな声で答えた。
「・・・今さらあなたに謝られても、私はそれに対しての言葉を持ちません。もう過去のことですから」
「過去のことだと切り捨てることは出来ない。君も私も、あの件で人生が大きく狂ったのだから。特に君は・・・・」
そう言って、言葉を切った。
「アスベルト、確かにあの噂のせいで私もあなたも、家としても大きな選択をせざるを得なかった。誰もが想像もしなかった道を歩むことになったわ。でももう今さらどうにもできないし、するつもりもありません。あなたに謝ってもらうことも望んでいない」
「私は、自分と・・・そして君を陥れたあの令嬢を許せない。君は被害者であって、あんな扱いを受けていい人間じゃなかったのに・・・」
私は真意を図るように慎重に尋ねた。
「・・・あなたはそのご令嬢がどなたかなのか、知っているのよ、ね・・・?」
「ロザリエ・ウォールステイル伯爵家令嬢だ」
アスベルトは、私を正面から見据え断言した。
「ロザリエ嬢のした全てのことを知っている。アヴィ、君が彼女にされたこと。そして君の身の潔白もーーー」
「・・・そう・・・」
彼女の名前を出しても驚く様子のない私に、アスベルトは目を軽く見開いた。
「アヴィは知っていいたのか?ロザリエ嬢のことを」
「彼女が私にしていたことを知ったのはつい最近よ。なぜ私を敵視したのかまでは分からないけれど・・・」とアスベルトを見る。彼女があなたに好意を持っていたかからではないかしら?と思いながら。
「夜会のバルコニーでアヴィが男に抱きつかれたあの夜、会場を去った君を追いかけようとした私はロザリエ嬢に呼び止められ言われたんだ。彼女の婚約者を君に奪われたと。今夜のように夜会で君に誘惑されたのだと。騙されているから目を覚まして下さいと」
「・・・私はそのようなことはしていないわ」
「そんなことは知っているさ。私も全く信じなかったし、ロザリエ嬢は君を誤解していると思った。だからあの出来事の後には、私は君と一緒に積極的に夜会に出ることで、私たちの間には何の問題もないことを見せようとしていたのだしね」
そう、その甲斐あって一時期噂は収まってきていたのだ。
「けれど・・・」とアスベルトは続けた。
「けれど、私が不在だった夜会での庭園の・・・あの出来事のあとに、聞くに堪えないような噂が一気に広まった。君が・・・快楽を得るための薬物を使って男たちと夜の社交を楽しんでいるという・・・」
「や、薬物!?私が?」
あまりの衝撃に私は声を荒げた。
「なんてこと・・・、そんなことありえないわ!!」
アスベルトは肯き、しかし言いにくそうに話を続けた。
「その噂の内容が真実であるかのような証言をするものまで現れたんだ。閨で君とともに使ったと・・・」
私はそこで初めて、領地に戻ってから自分が長らく『サルヴェーニャの森の魔女』と揶揄されていた冷やかしの真意を知った。
領地に引っ込んで暫くしてから私が薬師になったことは、王都でも話題になったという。
社交界から逃げ出した当初は異性に対しての振る舞いを当てこすられていただけが、私が薬師になったことで、ただ性に奔放なだけではなく、物語の中で魔女が閨の秘め事の時に使う秘薬をも私と重ね合わせー--。つまりは、私が仕事で薬を使うことも揶揄の対象となっていた。魔女のように薬物を使って楽しんでいると。
ー----それが『サルヴェーニャの森の魔女』の噂が長らく落ち着かなかった原因なのか。
薬師になって二年、まだ駆け出しではあるが、仕事に誇りをもっている。傷を負い眠れぬ夜を幾度となく過ごし苦しみながらも、薬師になるという目標を持つことで乗り越え、もがきながら必死な思いで手に入れたそれを貶められたのだという思いが、今またアヴィエラを傷つけた。
そして当時あれだけ傷ついたのに、まだ更に傷つくことが出来る事に驚きだ。
言葉を発するこなく呆然と話を聞く私に、アスベルトは話を続けた。
「君と夜を共にしたという男の証言を否定できる人間はいない。閨の出来事の証人など、いるはずがないのだから。貴族社会の中で品行方正な令嬢と名高かった君の破廉恥な醜聞は、抑えきれないほど早く広まった。それに・・・」
アスベルトは俯き、言いにくそうに目を伏せた。
「当時の私はー--疑ってしまったんだ。その男・・・辺境貴族だというその男の話は巧妙に作りこまれていて、夜を共にしなくては分からないようなことまで・・・・。そんな筈がないと頭では分かっていたのに、まことしやかに広められる男性がらみの噂に感情がついていけなくなった。混乱し、もしかしたら君に私の他に恋人がいるのではないかと・・・。当時、いっぱしの大人のように振りまえているつもりでも、私はまだ自分の感情を制御できない愚かな少年だった・・・」
アスベルトは、まるで懺悔をするかのように俯き深く大きなため息をついて、拳を握った。
「私の父も母もその噂には懐疑的だったんだ、君のことをよく知っていたのだから。だから私にその噂を信じているのかと、噂が真実であった時に公爵家と君を守れるのかと問いただした。私はーーー-君を信じたいがと声を詰まらせてしまった。両親は私の不安を察知したんだろう、翌日に、君との婚約破棄をすることを父から聞かされた」
ー--ああ、正にこれは懺悔だ。今更だ。
当時の社交界はロザリエ様の思うように転がされていたから、アスベルトだけが悪いわけではないのだと頭では理解する。けれど・・・。心は割りきれなかった。
「あのころ・・・私がどれほど傷ついていたか、あなたにお見せできなくて残念だわ・・・」
ぽつりと呟く私に、アスベルトは眉間に深いしわを寄せ、これから私に断罪されるかのように無言のまま苦し気な顔を向けている。
「私はーーー悲しかった。アス、あなたに信じてもらえなかったことが。事件の後に顔を見せてもらえないまま、私に何が起きたのかを伝えられないまま婚約破棄になってしまった。私の醜聞が公爵家にとってふさわしくないのは充分理解していたわ。だけど、あなたにだけは真実を知っていて欲しかった。会って・・・信じてって・・・あなたに・・だけは・・・」
当時の苦しみが再び胸に迫り、言葉に詰まるとその先を続けられなくなってしまう。アスベルトの輪郭が滲んで見えた。
ー-ーーーいやだ、泣きたくない。私は目を何度か瞬き、涙を散らす。
「アヴィ、私は君のことを愛していた、生真面目で優しく誠実な君を。婚約が決まってからずっと、君以外を愛したことはない。だから余計に強く裏切られたらと感じてしまったんだ」
「私もよアス。誰より大切に思っていた。でもあなたは、私を信じなかった」
「許してもらえなくてもいい。ただ君に謝りたかった。謝るのは私の自己満足だ・・・」
そう言って目を伏せるアスベルトとの間に重たい沈黙が落ちた。
ずっと、ずっと彼の誤解を解きたいと願ってきた。会って真実を知ってほしいと。
その願いはある種叶い、当時を心からに悔いて苦しんでいるように見えるアスベルトを目の前にし、しかしこれ以上の謝罪は望んでいない。
謝るのはもう充分とばかりに、私は話題を変えた。
「---アスはいつロザリエ様が嘘を言っていることに気がついたの?」
「君が領地へ戻ってから暫くして、冷静になって考えてみた時に一連の騒動に対し何かがおかしいと違和感があった。暫く続いていた君の噂は、まるで誰かの作った物語を語り聞くように広まり、不自然だった。真実を知りたくて君と一緒に薬を使ったと私に言い放った男を探そうとしたが、貴族名鑑に載っていなかった。そもそも自身が薬物を使用したなどと証言すること自体が、本来ありえないことだ。疑わしいことこの上ない。それに・・・その男はロザリエ嬢を介して知った人物だ。彼女に彼その男の居場所を尋ねても、彼女も知人を介して顔見知りになった程度の間柄だから所在は分からないのだと言い逃げた」
「・・・・・アスはロザリエ様と親しかったの?」
「いいや、顔と名が分かる程度で一切親しくした覚えはない。ロザリエ嬢が私に近づいてきたんだ、君が領地へ戻ってからすぐ」
「ロザリエ様はアスのことを好きだったの?だから私が邪魔であんな噂を?」
「正直分からない。ロザリエ嬢はたびたび私に君のことを醜悪だと言う。しかし、彼女は私に好意を持っているというよりも、むしろ君に対しての強い執着と悪意を感じた。私を気遣う体で、君を貶める。実際君が王都にいなくなってから、私が彼女を拒絶すると驚くほどあっさりと身を引いたよ、不自然なほどね。彼女の態度に違和感を感じ、私は最初の噂から調べることにしたんだ。君の醜聞に彼女が何かしら関わっているのではないかと思って」
ー--アスベルトへの横恋慕ではないなら、私がなぜそんなに彼女に憎まれているのか分からない。先ほどの会場での私へ向ける視線を見ても、今なお悪感情を持たれていることは間違いないであろう。
そして多分、彼女は噂を流しただけではない。私にまつわる二つの事柄の両方に、彼女は何かしら関わっているのだと思う。噂を流した彼女が、私の男性がらみの醜聞に二度の偶然で介在するなどあると思えない・・・。
でもーーーー--。
もういい。私の生きていく世界に、ロザリエ様は必要ないのだ。私が王都の社交界に戻らない以上、今後彼女とも関わることはないだろう。私にとっての大切な人が私を理解し信じてくれさえいれれば良いのだから、私が領地で生活を送る上で彼女の悪意は気にする必要のないものだ。大丈夫。今の私は、もう過去のことだと切り捨てられる。
私は一呼吸ついてアスベルトに言った。
「話は分かりました。もう今となっては、あの時のことは誤解ですよと社交界で言って回ることはできないし、私は今後も王都には戻らないので、全て過去のこととして胸に収めておくわ。ロザリエ様に追及もしない。そしてアスベルト、あなたの謝罪も受け入れます」
「ロザリエ嬢を追求しないのか!?彼女の所業を知っていても?」
「ええ、もういいの。私はこのまま領地で暮らすから。もうここは、私のいる場所じゃないのよ」
するとアスベルトは暫く私を見つめ
「・・・・・・戻ってきて欲しい、アヴィエラ」
「え?」
「戻ってきて欲しいんだ君に。君を忘れることができない」
「・・・・・何を言っているの?」
「君が王都を去ってから3年、後悔してきた。今もずっと後悔している。今回の夜会に君が出るのは、これから社交界に復帰するのかと・・・」
アスベルトは苦しげに、そして自分の言葉を恥じているかのように言った。
「私が君にそんなことを言う資格がないことは分かっている。けれど・・・私にとって君以上の女性など考えられない。アヴィ、君をまだ愛している」
真っ直ぐでそして切なげな眼差しを向けながら、アスベルトは私にゆっくりと近づくと、風に揺れる頬の周りの私のおくれ毛を手に取った。
「今夜君が来ると知ってどうしても会いたくて・・・伝えたかった。君に恋人や婚約者がいないこともダントン家に確認しているよ。アヴィを誰にも取られたくない」
思ってもみなかった話の展開に私は言葉を失い、瞠目したままアスベルトを見つめる。
「君と復縁したい。君が潔白だということを社交界に知らしめるために、公爵家としてウォールステイル伯爵家への偽証や虚偽での断罪の準備もできている。アヴィの居場所は、ダントン領ではなく私の横であって欲しい」
軽く眉を寄せ、切なげでありながら優しの滲む瞳を閉じ、昔を懐かしむかのように私の髪にそっと口づけた。
実際に肌に触れられた訳ではないのにその指先で優しく頬を撫でられたかのように感じ、瞬時に皮膚が粟立ち頬が熱くなった。
その仕草は、かつて私たちがまだ婚約者であった頃に「大好きなアヴィ」と言いながら・・・「未来のフレイザー公爵夫人」と微笑みながら・・・彼が愛情を伝えるために度々していたもので。
ー--事件後領地に逃げ戻り、薬師の学校で単身暮らしていた時。
屋敷にいる時のように侍女に湯あみを手伝ってもらうことはなく、湯を張ること自体が稀になるため、髪をバッサリと切ろうかと思った。
しかし、どうしても、切れなかった。アスベルトが綺麗だと、大好きだと口づけてくれたこの髪を切り落とすことが、出来なかった。
好きで、大好きで大切にしてきた私の婚約者。子供のころから悲しいことも楽しいこともともに経験し、乗り越え将来を誓った大切な人・・・。
ー--私は切なさに胸が苦しくなった。
アスベルトへの愛情の切なさではない。それは失った過去への哀愁だ。
アスベルトの横に立ち公爵夫人として生きていくー---。かつてあんなにも切望し、そして絶望をしたその場所・・・。
ーーーー-今、そこに未練がなかった。
彼の告白を聞いて頭の中によぎったのは、森のお茶会で美味しそうに薬草茶を飲み干すジークハルトの満足げに涼やかに笑う顔だった。
そして私は、今、ようやくかつての婚約者への愛情を過去として乗り越えていたことに気がついた。
☆☆☆
「アヴィエラ・ダントン侯爵令嬢様のご入場です!」
その声に皆が一斉に入口に視線を向けーーーーその大勢の中の一人はジークハルトだった。
ジークハルトは、夜会の開始時間より相当に早く会場に到着していた。もちろんアヴィエラが会場に入るより先に彼女を掴まえるために。
当初の予定ではラウンザリー家の父方の独身の叔母をエスコートして会場へと向かう予定であったが、それどころではなかったジークハルトは叔母を弟に任せ単身で会場へと到着し、大きなその敷地に足を踏み入れた。
入口は一つだ、そこへ向けて次から次へ到着した招待客たちが列をなす。しかも名門フレイザー公爵家の夜会ということで、その人の殺到具合はジークハルトの想像をはるかに上回っていた。王都の中でも一等地に位置し広大な敷地と美しい庭を有する、王国に5つしかない公爵家のひとつ。
「間もなくフラウザー公爵様からのご挨拶がございますのでどうぞ中へ」
入口に立つ侍従が、扉近くに所在なげに突っ立っているジークハルトにそれとなく中に入るよう促して来た。
(・・・これは居場所に困るな)
つまりは、大きな男が長い時間ホールの入り口でうろつくのは、押し寄せる招待客の邪魔になるのだ。
促されるまま仕方なく会場の中に入り、ぐるりとホールを見渡してその豪奢さに圧倒された。
足元の臙脂色の絨毯ひとつとっても、わが男爵家とは比べ物にならないような素材だと分かる。なぜ足で踏み慣らす絨毯に光沢があるのか・・・。
---さすがフラウザー公爵家だな。アヴィの元婚約者・・・。自分とは無縁の世界だ。こんな華やかな世界でアヴィは生きてきたのか。
今まで他の貴族の優美さを見ても、凄いなと思うことはあっても劣等感はなかった。しかし今夜は何故か軽く落ち込みながら、アヴィエラとフラウザー公爵令息との間柄に思いを巡らせていると「ジークハルト殿、久しぶりだね」と声を掛けてきた人物がいた。
見ると、こげ茶の髪に深森の色の瞳の紳士が、穏やかな人好きのする笑みを浮かべて近寄ってくる。
「ご無沙汰しておりますダニエル・バロック男爵。今回の夜会の手配ではお手数をお掛けしました。感謝申し上げます」
「いやいや、堅苦しいのはナシで」と人のよい笑顔を向けた。
今回の夜会は、まだ30代半ばと若いがなかなかのやり手だと評判のこのバロック男爵の手配で整っての参加だ。バロック家は薬事専売の商家でもあり、騎士団だけでなく武官系のラウンザリー男爵家とも関わりのある恩のある家柄になる。
「君がこの夜会に出たいと言っているとお父上から聞いて驚いたよ。君がそんなこと言うなんて初めてじゃない?お目当ての令嬢でもいるのかな?」
とからかうように言われ、ジークハルトはうろたえる。
どきりとした。ー--お目当てと言われすぐに頭の中に思い浮かんだのは、豊かな黒髪をひとつにまとめ簡素なワンピースを着て、ゆったり微笑みながら温めた湯を茶器に注ぐ・・・・。
ーーーそしてハッとする。
(いま何を考えた?俺はロザリエ嬢と上手くいくために・・・)
「バロック様のところではまた、慶事があったと伺っていますが」
ジークハルトは邪気を払うように、まるで自分を誤魔化すように慌てて話を変えた。
「そうなんだ!先月3人目が産まれてね!念願の女の子でそれが妻によく似ていて・・・」バロック男爵は、嬉々として話に乗ってきて、そのまま勢い話し始めた。
はっと気づいた時には遅かった。まずい話題が良くなかった、男爵の話が終わらない・・・。彼は初めての女児の誕生に脳内お祭り騒ぎで、誰かに話を聞いてもらいたくて仕方ないのだ。自分で話を振った手前、ではと失礼することもできない。
ーーーそして、そのタイミングでのアヴィエラの入場であった。
彼女の入場の知らせを聞いて、しまったと焦って入口に目を向けるが・・・。
ジークハルトは会場の他の貴族同様に、呼吸を忘れたかのように息をのんだ。
ー--ピンと背筋を伸ばし周囲からの視線を一身に浴びて前を見据えるアヴィエラは、あまりにも・・・・美しかった。はたして美しいという言葉が正しいのかさえ分からない。
アヴィエラは森で生活をしている時には、化粧はせず髪もざっくりとまとめあげ、動きやすそうなワンピースを身につけている。機能重視ともいえる姿でそれでも彼女はとびきり美しいと思っていたが、会場に現れた彼女は想像を逸していた。
自分が知る限りの、どの令嬢よりも美しいと思った。皆が妖艶だという顔の造作ではない。彼女の人間性が滲み出るような、凛とした表情からその佇まいから、彼女のまとう雰囲気が他の者と一線を画しているのだ。
完璧な化粧をほどこされた白磁器のような肌、桃色に染まる頬、赤い果実のような艶やかな唇。深紅のドレスは森の彼女の慎ましい服装からは想像ができないようなデザインで・・・胸元が開いているため、細くて白い首と豊かな胸のライン、そして対極の細い腰を際立たせ、初めて見たアヴィエラの侯爵令嬢としての姿にジークハルトは圧倒された。
ー--これが侯爵令嬢のアヴィエラ・ダントン・・・・。悠然と一歩一歩進むアヴィから目が離せなかった。
真っ直ぐ目的を定めているかのように進む彼女の視線と自分のそれが一瞬絡み、我知らずどくりと心が跳ねる。そしてそこでようやく我に返り、自分のやるべきことを思い出した。
(そうだ、呆けている場合ではない。アヴィを止めなくては!)
会場の中心から少し外れた所で立ち止まり、尚も皆の視線を集めるアヴィのもとに駆け寄りたい衝動を抑え、バロック男爵との会話を何とか切り上げようと上の空の相槌を打っていると、再びアヴィと視線がかち合った。
動かないでくれ!という思いを込めて、力強い目で合図を送る。
ー--ちょっと待て!今行くから行動せず待っていてくれ!
必死な形相で訴えかける思いが伝わったのか、すると彼女はコクリと頷き。ジークハルトがほっとしたその時ーーーー
(っっ!!!)
アヴィが給仕からグラスを受け取った!!
まずい!!!!
ジークハルトは横にいる恩人どころではなく、なりふり構わずアヴィエラのもとに駆け寄った。
間に合ってくれっ!!
『アヴィエラ!!!』
まさにそう叫ぼうとしたその時ーーー
一人の男がアヴィエラの腕をつかんだ。
ハッとする。この夜会の主催の公爵家の嫡男ー--アヴィのかつての婚約者のアスベルト・フラウザーだ。
ハッとしたのはジークハルトだけではなかった。手首を掴まれた当人のアヴィエラの顔が強張って、そしてすぐ彼女の目が不安を宿した。
その揺れるアヴィエラの表情を見て、ジークハルトはカッとなった。まさか、3年前のことでまたアヴィを傷つけるつもりではないだろうな、と。なぜこんな人目のある中で元婚約者が注目を浴びるような行動をと、ぎりりと奥歯を噛んだ。
会場の視線を浴びている自覚があるようで、アスベルト・フラウザーはアヴィエラの手を引いて会場の奥にある人気のないテラスへと彼女を誘った。
しかし逆に、注目を浴びていることに気づいていながらそのようなところにー--会場から遮断され二人きりになれる場に連れ出す元婚約者の無神経っぷりに腹が立つ。好き勝手な噂がまたたつとは考えないのか、と。
声をかけるタイミングを失い、ジークハルトは二人の後をそっとついて行った。
もしアヴィを傷つけるようなことをしたら許さない・・・。公爵家嫡男と男爵家次男の身分の差はこの際どうでもよかった。
ジークハルトはテラスのガラスの扉脇で揺れる厚手のカーテンの陰に身を潜め、外に出た二人の会話に耳を傾けた。
「ロザリエ嬢のした全てのことを知っている。アヴィ、君が彼女にされたことも君の身の潔白も・・・」
唐突に聞こえてきた思いがけない名前に、ジークハルトは虚を突かれた。
アヴィを責めるのではないかというジークハルトが懸念していたような話の内容ではなく、まったく想像しなかった名が彼らの会話に出てきたことに、驚いた。
ロザリエ嬢?あのロザリエ嬢のことか?なぜ今ここで彼女の名が。そしてロザリエ嬢がアヴィにしたこととは、何のことだ?
ジークハルトには当然何の話か意味が分からず・・・。聞こえてくる会話を聞きもらすまいと、テラスの入り口に更に近づく。
ー--そして。その話の内容に耳を疑った。
ロザリエ嬢が・・・アヴィに何をしたって・・・?
3年前に起きた、アヴィエラを王都から追い出し婚約破棄にまで至らせた醜聞ーーーその事実無根の作り話の元はロザリエ嬢によるものだったーーー。
どういうことだ?なぜ?そんな疑問ばかりが頭の中をぐるぐると廻る。
普通に考えて、人としてやってはいけない部類の嫌がらせ・・・いや、アヴィやそれに関わる人間の人生を大きく狂わせたのだ。それはもはや嫌がらせの範疇を超えている。本当にあの可憐なロザリエ嬢がアヴィにそんなことを・・・!?
しかし王国随一の公爵家の情報筋がいい加減なはずがないことは、騎士であるジークハルトはよく理解している。
突然の衝撃的な告白に、ジークハルトは混乱した。
だめだ、頭が整理できない。
ー--ー-アヴィはいつ、そのことを知ったのであろうか。
俺と知り合った最初の頃に森でロザリエ嬢の名を出した時には、アヴィは確かにその言葉からも表情からも彼女のことを知らなかったと分かる。
・・・きっと俺がロザリエ嬢と上手くいくようにと彼女のことを調べてくれる中で、過去のことが明らかになっていったのだ。
どんな気持ちだったろうか。俺の思いを寄せる女性が、自分の嘘の物語を作り広めた人物だと知った時に・・・。自分を陥れた人物に好意を寄せる俺を励まし、あげくにはそのために自分を傷つけたこの社交界にまで戻って・・・。
お人よしのアヴィは、自然と自分のことは二の次にするような女性だ。ロザリエ嬢と引き合わせることが俺のためになるのならと、自分の葛藤は押し殺したに違いない。
愕然とし、ジークは拳を握りしめ口をグっと強く引き結んだ。
「戻ってきて欲しいアヴィエラ」
その声にハッとして、俯いていた顔を上げる。
「君を忘れることができない。ずっと後悔している」
その言葉を聞いた時、言いようのない怒りと焦りで顔が紅潮したのが分かった。
----やめろふざけるな、何が後悔だ。お前に後悔する資格などない。アヴィとずっと一緒にいたのに。何年も彼女のすぐ横にいたのにも関わらず信じなかったくせに!
アスベルト・フラウザーの声に心の中で悪態をつき、そして自分にもそんな権利などないことに思い当たる。
いや、おれはアヴィの友人だ。友人が元婚約者の勝手のいいように扱われている気がして腹が立つのは当たり前だ。
「アヴィ、君をまだ愛してる。君と復縁したい」
っっ!!!
よくもそんなことを!図々しい!!
アヴィが今どのような顔をしているのか見えないことが、もどかしかった。
アヴィその男を許すな!怒れアヴィ、そいつを薄情者だと罵倒してしまえ!と口に出せないエールを送った。
もうこの場に出て行ってしまおうか?偶然をよそおって・・・。
この男の話を遮ることが出来るのであれば、その選択を取りたい衝動にかられた。
これ以上、この男の話をアヴィに聞かせたくない。
「ー--アヴィの居場所は、ダントン領ではなく私の横であって欲しい」
その言葉を最後に沈黙が訪れる。
焦りと胸騒ぎから、ジークハルトは思わず豊かなドレープを織りなすカーテンの端からテラスを伺う。まさかと思うが、アヴィが嬉しそうな顔をしていたらと想像し、ついそんな行動をとってしまったのだ。
ー--と。信じられないことに、あの裏切り者がアヴィの髪に口を寄せている姿が目に入った。
(っっ!!!!)
夜会が始まってからの短い時間に受けた本日何度目かの衝撃の中で、今の光景が断トツ一番にジークハルトを打ちのめした。
(・・・嘘だろ、やめてくれ・・・、アヴィに触るな・・・。これ以上アヴィと関わるな・・・)
「ありがとうアス、その気持ちだけ受け取っておく。そしてね、私は薬師なの。領地には私が診させてもらっている大事な患者様もいる。今もこれからも私は薬師だし、何度も言うけど私は王都で暮らさない」
「君がダントン領地で薬師として自立していることはもちろん知っているよ。その仕事を大切に思っていることも。それなら君は薬師を続ければいい、私と共に」
「公爵家に入ってそんなことが可能だとでも?公爵夫人の仕事を放って薬師でいられるとでも?」
「私なら君の薬師としての仕事を理解できる。君の横で公爵夫人としての仕事を支えることだって。君はこれからの人生を結婚もせず独りであの地で過ごすつもりかい?この先何十年も?私の自分勝手な話だということはは承知している。返事は急がないから、これからの身の振り方をどうかよく考えて欲しい」
「・・・結論は出ているわ」
「それでも、もう一度考えてくれ。答えを急がないでくれ」
「・・・・・・・。」
ジークハルトの心は既にクタクタだ。アヴィエラのこの沈黙が恐ろしかった。
「よく考えて返事をアヴィ、頼む」
「・・・わかり、ました」
根負けし、ため息とともに発せられたアヴィの声を聞いた。
(勘弁してしてくれ、もう聞きたくない・・・)
それでも、ことの顛末を知らぬままにしてこの場から離れる気にはなれず、彼らの会話を聞くと行き場のない焦燥の中で心の声が叫ぶのだ。
(断れアヴィ、ハッキリとこの裏切り者を拒絶するんだ!)
もう自分でも何が何だか分らない。イラついて頭がおかしくなりそうだ。
「さあ」とアスベルト・フラウザーが軽い溜息をつく。
「夜会はまだ始まったばかりだ、主催がずっと抜けている訳にはいかないな。名残惜しいけれどそろそろ会場に戻らないとね。私たちが二人でいることは周りも見ているから、あまり長い時間空けていると邪推される。まあ、それでも私は一向に構わないけどね」
と揶揄うような、彼女の反応を面白がっているような声がする。
会場には軽快な3拍子が流れていた。
「アヴィはワルツが好きだったね。一曲お相手を願えるかな?」
「・・・・・・ファーストダンスでなければ、ね」
「くくく、ファーストダンスをだ」
「・・・なっ!嫌よ!かつての婚約者と?ばか言わないで」
「問題ないよ。そんなに重く考えることはない。私にも君にも、今は婚約者も恋人もいないんだ。君とは家族ぐるみの親交があって元々の長年のパートナー、いわば親戚みたいなものだ」
そんな訳あるかと心の中でつっこむが、ジークハルトには最早、親し気にじゃれ合うかのような二人の姿を見る気力がなかった。
己を丸のみにし覆いつくすこのどす黒く重たい不快な感情ーー---。
これをー--。嫉妬と、独占欲と呼ばずになんと言えばよいのか。
友人に対する感情ではない。こんなイラつきを友人に感じる訳が、なかったんだ。
元婚約者がアヴィに言った言葉が耳にこだました。
『アヴィを誰にも取られたくない』
その通りだ、同感だ。
なぜ今ごろ気が付いたのか。上手くいかなかったといはいえ、自分は過去にあれだけ恋愛をしてきたつもりでいたのに。
今まで交際をしてきた女性たちには、こんな気持ちになったことがなかった。彼女たちが夜会で他の男性と手を取り合いダンスを踊っても「社交は仕事だから」としか思ったことがなかったのだ。
それがアヴィの髪に触れるあの男を見た時・・・。驚くアヴィの赤く染まった頬を見た時・・・。
この感情は紛れもなく「それ」なのだ。
---ー-俺はアヴィを・・・!
そんなジークハルトの胸中も虚しく、少しの躊躇いと笑いを含んだ柔らかな声で
「変な言い逃れねアス。---分かったわ。私と踊って好奇の目で見られることをお望みなのね。さすがは公爵令息、注目を浴びることもひとつの演出なのかしら」
---っっ、ああ・・・、くっそっ・・・・!!
優しく穏やかな声音で答えるアヴィエラに、ジークハルトは裏切られたような気持ちになった。何故、全てを許したかのような対応をするのか。潔白を信じず自分勝手に婚約破棄をした相手に与える温情など不要ではないのかと、アヴィエラに対しての怒りにも似た苛立ちと腹立たしさを感じ、自信の気持ちを認識した今、やり場のないその 感情を持て余す。
テラスで動く気配がした。
(まずい、鉢合わせする!)
焦ったジークハルトは、急いで扉から離れ、カーテンの陰に身を潜めた。
そして、アスベルトにエスコートされたアヴィエラが洗練した足取りで会場に向かうのを黙って見つめた。
☆☆☆
アスベルトに手を引かれながら会場へと戻ったアヴィエラは、すぐに周囲に目を向けジークハルトを探す。
(どこだろう、見当たらないわ。私がいなくなってしまって、きっと困惑しているわよね・・・)
彼のことだ、心配こそすれなぜいなくなったのだと怒ることはないだろう。しかし準備してきた折角の計画を台無しにしてしまった申し訳なさで、自然と眉に皺がよる。
そしてーーー会場の中心あたりで軽やかに舞うロザリエ伯爵令嬢を見つけた。
(彼女と踊っているのは確か辺境の既婚の伯爵様だわ。よかった、婚約者候補と踊っているわけではない。それならばジークにもチャンスはまだあるはず・・・。ファーストダンスは無理だったけど、何とか関係を作ることは出来ないかしら・・・)
そう思い巡らしていると、エスコートをしているアスベルトの腕に力が入ったのが分かり、ハッと顔を向ける。
「アヴィ、どうした?何か気になることがある?」
「まあ!気になることなんてあるに決まっているじゃない。あなたとこんな風に踊ることになるなんて・・・」ふふふと笑いながら誤魔化した。
「君の笑い顔を見るのは久しぶりだ」と優しく目を細め、アヴィエラの背に手を回した。
アヴィエラも自然にアスベルトの肩に手を添えて、かつて何度となく共にしたワルツの音楽に身を任せた。周囲の貴族たちが自分とアスベルトに向けるあから様な好奇の視線を感じていたが、もうそれはさほど気にならなかった。
慣れ親しんだアスベルトの巧みなリードで、思いがけず楽しい時間となった。彼のリズムと自分のリズムが当たり前のように自然に溶け込み、相手が次にどのような動きをするのかが意識しなくても分かる。アスベルトとのワルツは3年ぶりと思えないほど息の合ったダンス久しぶりとなった。曲が終わると軽く息を弾ませ、礼をする。
「もう一曲どう?」続けてのダンスをにやりと笑いながら誘うアスベルトに、苦笑して軽く睨みながら「これ以上皆様においしい話題を提供するつもりはないので」と断りをいれた。
---と、そのタイミングで
「アヴィエラ様、どうぞ次は私とお願いいたします」
聞きなれた低音の声で、丁寧な言葉とともに差し出された手の先にいたのはーーーー-。
(ジーク!よかった、会えた!)
「・・・喜んで」
ほっと安堵して頷きながら彼の元に手を伸ばすが、しかし彼の顔を見た時、一瞬動きが止まってしまった。
ジークは今まで私が見たことがなうような、怒ったような硬く強張った表情をしていた。
ああ、私がちゃんと予定通りに出来なかったから・・・。彼にとっては本当に大切な機会だったのに。どうしよう・・・。
アスベルトは身体を横にずらしてジークの場所を作るも、目は探るようにジークを捉えたままだ。
ジークはその視線を無視し、少し強引なくらいに私の手を取った。
「ではまたね、アヴィ」軽く微笑みながらそういうアスベルトに私は肯いて目で挨拶をし、今度はジークのリードに身を任せた。
新たな音楽に、手を取ったジークとともにステップを踏み出した。
そして私は、小声でジークを見上げて謝罪を口にする。
「あの・・、ジーク、私すっかり作戦のタイミングを逃してしまって・・・、ごめんなさい」
すると握っているジークの手にギュっと力が入り
「いや、いいんだアヴィ。もういいんだ」
「でも」
「いいんだよアヴィ・・・」
ジークは遮るようにそう言うと、何故か苦しく切なげな表情で私を見つめる。
てっきり怒っているのかと思っていたが、それとは異なるその様子に私は驚き
「どうしたのジーク、何かあったの?もういいって・・・」と尋ねた。
「違うんだアヴィ・・・、全て違ったんだ・・・。今回の計画は実行しない」
違うって何が?私が計画を台無しにしてしまったから?と問うより早く、ジークは私の腰の少し上にあてていた手をグッと力強く引き寄せ・・・
それは未だかつてない彼との近さで、まるで抱きしめるかのように、お互いがあとほんの少し顔を近づければ頬や唇が触れ合ってしまうのではないかと思われる距離だった。
私は恋人同士かのようなその密着に驚き慌てたが、それを顔に出さないように寸でのところで堪えられた、と思う、多分。
「私が席を外している時に何かあった?ジーク大丈夫?」
ジークのきれいなエメラルドの瞳が私に向けられ、何かを言いたげに瞬いた。それは今まで見たことのないような憂いを帯びた熱をまとっていて・・・。
初めて見るそんなジークに、そして握られている手袋越しの硬くて大きな彼の手の熱さに、私は胸が騒ぐのを止められず・・・慌ててダンスに意識を集中しようと目をそらす。
驚くことに、ジークはダンスがとて上手かった。確かに、彼はダンスは練習しなくても大丈夫だと言っていたが・・・。
その動きは機敏でありながらも優雅で、ジークの普段のどこかとぼけた様子からまさかこれほどの腕前とは思わなかったのだ。
ダンスにはその者の性格が出る。ジークのそれはパートナーが動きやすいようにと思いやった心地良いリードだ。彼の誘導に身をまかせ、私は自然に音楽に合わせて足をさばく。ダンスは身体能力が高いから上手いというものではないので、これは彼の特技の一つであろう。
ーーーーきっと、これが私とジークの最初で最後のダンスになる・・・。
今後彼の手を取るのは・・・彼が手を取るのは私ではないから。
だから今夜のこのダンスを私はしっかり覚えておこう。この先、何度もこの夜を思い返すと思うから・・・。
「アヴィ、すまなかった。俺が社交に疎かったせいで君の意に添わぬ苦しい決断をさせてしまった・・・」
「え、なあに?どういうこと?」
もう私は先ほどから、彼の言動に疑問だらけだ。
「アヴィ、君とちゃんと話したい。俺は色々と思い違いをしでかしているから・・・」
「・・・何だかよく分からないけど、とりあえず話をした方が良いことは分かったわ。日を改めた方が良いのかしら?」
「・・ああ、そうだな。また森へ・・・君の森の家で待っていて欲しい」
ジークハルトの苦しげなその声は、まるでアヴィエラへの切望のように聞こえた。
第7章 ロザリエ・ウォールステイル
(----なぜあの女が!?)
ロザリエは動揺した。3年前に王都から領地へと追いやったあの女--アヴィエラ・ダントンが再びこの社交界へ現れたのだ。二度と目にすることなどないと思っていたのに・・・。
驚き狼狽えたのは一瞬で、なぜまたここへ戻ってきたのだと、最初に感じた戸惑いはすぐに強い怒りへと変わった。
一瞬あの女と目があったような気がした。知っているのだろうか、かつて私が彼女にしたことを?いいえ、そんなはずはない。知っていたら何かしらの報復があるはずだ。
令嬢アヴィエラに対し、それだけのことをした自覚はロザリエにしっかりとあった。
ー--男好きで淫らでふしだらな魔女、アヴィエラ・・・、ここでまたその顔を見ることになるなんてー--。
静かな青い怒りの炎が、ロザリエの心で再び芽吹いた。
ロザリエは、ウォールステイル伯爵の庶子であった。
ロザリエの母は祖父の代で没落した男爵家の娘として生まれ、ロザリエを身ごもる前には既に平民となってウォールステイル伯爵夫人の下で侍女をしていた。伯爵は、自分の妻に仕える貴族的な美しさを持つ平民に手を付けたのだ。
ロザリエの母親は、妊娠が分かったと同時に侍女を辞め、ウォールステイル領へと身を潜め出産を待つこととなった。伯爵と夫人との間になかなか子が出来なかったため、もしもの時の保険として血の繋がった子を確保しておく必要があったのだ。
生まれたのは女児だった。跡継ぎ候補を必要としていた伯爵の期待とは外れたが、しかしとんでもなく美しい・・赤ちゃんであるのに奇跡のように美しい子であった。伯爵は喜んだー--これは政略の良い駒になると。
ロザリエは、領地で母と二人ひっそりと目立たないように暮らした。与えられた家は質素ではないが豪華でもなく、しかし平民となった母親にとっては十分なものであった。
子の父親である伯爵とは夫婦や親子らしい付き合いは殆どなく、たまに戯れに訪れる父には家族としての愛情を抱くこともなかった。
母親の関心は常に父にあり、娘であるロザリエは伯爵を繋ぎとめておくための担保だ。将来、伯爵家の娘として彼の役に立つことを知らしめるために、母親がロザリエに与えたものは愛情ではなく貴族らしい教育だ。そしてその成果には完璧を求める。
ロザリエは努力した。座学にダンスに音楽に、母に褒めてもらえるように。そして外見を磨くことも忘れなかった。自分が美しければ、父が喜ぶ。父が喜べば母も喜ぶのだ。
そしてロザリエが10歳の時に、4歳上の子爵家次男セザリオル・ウェルソインとの婚約が決まった。
ウェルソイン家は爵位こそ子爵と高くはないが、他国との貿易で財をなしている資産家であり、隣国との繋がりを求めていたウォールステイル家にはぜひともお近づきになりたい貴族の筆頭だった。セザリオルが次男ということで伯爵家への養子に入れるという、お互いに都合の良い相手だ。
ロザリエにとって幸運だったのは、年が近いこと。そして何より彼が恋をするのに不足ない相手であったということだ。
最初の顔合わせのたった一日で、ロザリエは少し年上の婚約者に夢中になった。
私にクッキーは美味しいかと聞いてくれて、やさしい声で笑ってくれた。何をするのが好きかと聞いてくれた。私を気にかけてくれた・・・。私と向き合ってくれた・・・。
(・・・リオと呼んでくださいって・・・。私を特別な女の子として扱ってくれる・・・)
年上の優しくて素敵な婚約者。ロザリエの色どりのない領地生活が、セザリオルを得たことで一気に華やいだ。彼からの手紙を待つ毎日。誕生日や感謝祭にはカードとプレゼントが届いた。
彼のために、貴族としてのマナーレッスンや勉強を更に頑張った。美しいと思ってもらうために、いっそう自分の容姿を磨くことに時間をかけた。もう母や父の関心を引くためにではない。全ては婚約者セザリオルへの愛のためだ。
そしてロザリエが14歳の時に転機が訪れる。
ウォールステイル伯爵夫人が流行病にかかり、そのまま帰らぬ人となったのだ。
夫人の喪の明けた一年後に、ロザリエは伯爵の美しき後妻となった母親と共に王都の伯爵家へと呼ばれ、そして翌年に社交界へのデビューを果たした。
それは、つまりはセザリオルと結婚する準備ができていることを意味しており、ロザリエの王都での生活は、来るべき婚礼への希望で輝いていた。生まれてこのかた、こんなに日々満ち足りて過ごしたことはなかった。
ロザリエは毎日のように愛しい婚約者に手紙やお茶会の誘いを送り、いつ婚礼の儀式への話が進むのかと心待ちして過ごしていた。早く彼と家族になりたかった。一日でも早く・・・。
---しかし、ロザリエのはやる思いとは別の予期せぬことが起きたのだ。
ロザリエが毎日したためるセザリオルへの手紙の返事は、以前は3回に1回だった。しかしそれが5回送っても返事が来ない。7回目でようやく忙しかったと言い訳の返事が来た。伯爵家へ会いに来てほしいと求めても、以前であれば時間のやり繰りをしてくれていたのに、色よい返事がめったに来なくなった。
---彼の様子がおかしい。せっかく私が王都に来て、たくさん会えるようになったはずなのに。私がいくら誘っても、今の彼はあまり嬉しそうじゃない。
ロザリエは、そんな状態には我慢が出来なかった。
ロザリエにとってセザリオルは、自分の人生の全てなのだ。だから彼にもそうであって欲しかった。自分と同じだけの愛情を返してほしかった。
だから最近のあなたの態度がおかしと。私への愛情が軽いと。もっと私と会う時間を作って欲しいのだと訴えた。
「もういい加減にしてくれないか、ローザ・・・」
疲れた目をして、ため息交じりの力無い声で彼はロザリエを愛称で彼女を呼ぶ。
「いい加減て・・・何がでしょうか?私があなたに何かしましたか?」
なんのことを言われているのか全く見当がつかず、目を見開き疑問を口にする。
疲れている様子の相手対し、問い詰めることが相手を追い込むことをロゼリエは知らなかった。まるで婚約者を責めるかのようにロザリエは自分の不安と不満をセザリオルにぶつけた。
「・・・ローザ、僕たちの婚約は家同士の約束事だが、君の愛らしい容姿を好ましく思っていたし、実直な愛情も嬉しかったよ。けれど君が・・・そんな女性だとは思わなかった・・・。毎日毎日、仕事を終えて帰宅すると君からの手紙が待っている。毎日だよ?先日は私からの返事をもらうまでは伯爵家に戻れないという侍従が来たよ、急いで返事を書いて欲しいと言って懇願された。私は普段、父の貿易の仕事も手伝っているんだ。疲れて帰って来た時に、いつなら来れるのかと屋敷で待機されているのは・・・はっきり言って君の愛情が私には重荷に感じるんだ、しんどいんだよ」
「・・・私の愛情が重荷・・・?」
「こういう言い方は申し訳ないが、君の私への愛はもはや依存だよ。生きることの何もかも、全てを私のためにあろうとしないでくれ。私がいない間にも君のやるべきことはあるだろう?」
ひどいと思った。あなたのために、あなたの婚約者にふさわしくあろうと、私はずっと努力をしているのに・・・。貴族のマナーだってダンスだって身につけ、何よりの私の価値であるこの容姿も磨くことを怠ったことはない。皆が私を褒めたたえてくれるのに、あなたはそんな私を重荷だというの?
私が領地にいる時は、私に会えるのを楽しみにしていると言っていたのに・・・。せっかくいつでも会える距離に来れたのに・・・。私が重い?依存って何?そんな苦しそうな顔をしないで!
ー--今までのリオ様はそんなこと言わなかった。重く感じさせる誰かいるの?誰かに私を重荷に感じるように吹き込まれているのでは・・・?
「・・・・・・まさか、リオ様には私以外に気になる女性がいるのすか・・・?いま、もしかして・・・私を避けていらっしゃるの・・・・?だから連絡を下さらないの?」
「---っ、いや・・・そんな人いない」
一瞬の躊躇いをロザリエは見逃さなかった。
「・・・・いるのですね。あなたが・・・私を避ける・・・、心変わりなさったお相手が」
言いよどむ婚約者に畳みかけるように、ロザリエは追及の手を緩めなかった。黒く重苦しいもやが心を埋め尽くす。相手を知りたくもあり知りたくもなかったが、もう後に引けぬ気持になっている。誰が彼を惑わせたのかと。
ーーーそして言い渋る彼から聞き出した相手の名がーーーアヴィエラ・ダントン侯爵令嬢だったのだ。
「私が勝手に恋慕しているだけなんだ。彼女とは面識もないし、そもそも彼女にだって長年の婚約者がいる。私とどうこうなることはないよ。君は余計なことをしないでくれよ?」
ロザリエの静かな粘着質の追求から逃れられないと諦めたのか、もうほとんど自棄になり、セザリオルはロザリエに告げた。
---恋慕している・・・・、セザリオル様がその女に・・・。
恋慕・・・!!!
そんな言葉は聞きたくなかった。彼が私以外の女に恋情を持っているなどど知りたくなかった!!
問い詰めたのは自分であるのに、「恋い慕う」という彼の言葉に血の気が引いた。もともとの彼女の輝く白い肌は今はすっかり青ざめ唇が震える。
ロザリエにもアヴィエラ・ダントンの名は耳にしたことがあった。私とは違うタイプの美しさを持つ、華やかな美貌の侯爵令嬢だと。
「---面識もないのに、好きになったのですか?その方の見た目だけで・・・」
(見た目なら『新緑の天使』と謳われる私だって負けないはずなのにー--)
「彼女の美しさは外見だけのものでないんだよ。次期公爵夫人として、救護院への物資援助をしたり、この前の洪水では被害がひどかった地域への支援も積極的に自らが動いて・・・」
この彼の答えは最悪だった。婚約者の前で、自分の思い人がいかに素晴らしいかを語ったのだ。
ロザリエは、胸の深いところが真っ赤に染まり頭はどす黒い渦が蠢いているかのように感じた。
それからのロザリエの婚約者に対する行動は、周囲から見ても常軌を逸する執着ぶりで、程なくしてウェルソイン子爵家からの懇願のような形で、婚約が破棄となった。
ー--ー-そして。
すべてのロザリエの苦しみの矛先は、アヴィエラに向けられた。短い人生ではあるが、その時間の中で人をこれほど憎いと思ったことはなかった。憎いという言葉では全く足りりない。どうしても、彼女に不幸になって欲しかった。
ーーーーーーアヴィエラ・ダントンにまつわる様々な醜聞は、すべてがここから始まった。
愚かで醜悪な女。再び社交界に姿を見せるなんて、まだかつての栄華に未練があるの?あれだけボロボロになってもまだ懲りないなんて、まさに愚かとしか言いようがない。
そうだ。今日の夜会には確か『彼』も来ているはず。
「動物のしつけと一緒よ。馬鹿な女には、何度も繰り返し痛い目にあわせて学ばせなくてはね・・・」
ロザリエは周りを魅了する愛らしい微笑みを浮かべながらそう呟くと、『彼』を探すべく会場をぐるりと見回した。
第8章 森へ再び
フラウザー公爵家の夜会を終えてから2日ほどダントン家のタウンハウスに滞在し、もっとゆっくりしていけばと言う両親に「領地の患者さんの様子も気になるから」と別れの挨拶をした。冬が訪れる前には母も領地へと戻ってくるのだから、そう長い別れでもない。
アヴィエラはダントン領の森の家へと侯爵家の馬車で向い、荷物を家の中まで運び終えると従者に礼を言い馬車を返した。そして閂をおろすと、たった数日しか離れていなかったのにも関わらず我が家に帰って来れたことに大きな安堵を覚える。
まずは一息つこうと、いつもの薬草茶を淹れることにする。
ーーーさて。ジークが来ることになっているのは明日よね。
夜会での彼の様子からして、何かあったのは間違いないだろう。ロザリエ様に関わることなのか、そうじゃないのか。何かは分からないが、どうも喜ばしいこととは思えない。彼から戸惑いと困惑を感じたのだ。
今回の夜会は、ジークには何の収穫もなかったわよね・・・。せっかく入念な準備をしてきたのに、私のせいだ・・・。彼が私を責めることなないだろうが、計画を台無しにしてしまったことを、ただただ申し訳なく思う。
アヴィエラは軽くため息をつくと、気持ちを切り替えるように荷物の整理をすることにする。
王都から持ち帰った荷物を二階の自室へと運び、とりあえず衣類の詰まったトランクを床に置いた。そして再び一階へと降りてキッチンへ入り、帰り際に母から持たせてもらったいくつかの最高級の紅茶を棚にしまっていった。
(明日ジークが来たら、このお茶を淹れてあげよう。とても良い香りだから、きっと彼の気持ちが安らぐわ)
--ーと。外で微かに馬の嘶きが聞こえた気がした。
今のは馬の鳴き声・・・?ジークがもう来たの?
ジークは約束した時間よりも早く着いていることが度々あり、その都度町で時間をつぶしているようだったので、そんな時は早くてもこちらに来てしまって構わないと伝えてあった。
予定よりこんな早く来るなんて、よっぽど切羽詰まった状況なのであろうか。大丈夫かしらジーク・・・。
彼を迎え入れようと扉に向かい歩を進めようとしたその時、二階の寝室からコトリと音がした気がした。
「・・・?」
二階?何かしら、隙間風?まさか鼠とか・・・!?
「・・・だれか、いる・・・?」
試しに声を掛けてみるが、返答はない。
気のせいか。扉をノックする気配もないので、再び片付けに戻った。
ギシリ・・・
「えっ!?」
背後の音に気が付き振り向いた。
誰かがいる!!
ハッとした視線の先にいたのは・・・
ーーーー-この男!!
急いで扉の方へ駆け寄ろうとしたーーーその時には既に遅かった。
(ーーーあの男だ、3年前の夜会のバルコニーで私に絡んできた・・・!!)
逃げなくてはと踵を返した時にはグイとその手を引き寄せられ、薬を染み込ませた布を口元に当てられたアヴィエラは、そのまま意識を失った。
☆☆☆
夜会から帰ったあと、ジークハルトは王都ラウンザリー邸宅の、装飾のほとんどない自室のこげ茶の革張りソファで手を組み合わせ思い悩んでいた。公爵家の華麗なる邸宅と比べるとあまりの素っ気ない部屋を寂しく感じなくもないが、やはり自分にはこれが落ち着く。
ああ、森で会おうとは言ったものの、どの面下げてアヴィエラに会えるというのか・・・。
全ては俺の勘違いでしたと?
自分のまぬけ具合がほとほと嫌になる。自分はこの年になるまで一体何を見て経験してきたのか。いくら騎士として評価されようと、大切な人を守ることができなければ意味がない。守るどころか、意図してないとはいえアヴィにとって最も禁忌の場であろう王都の社交界に引っ張り出してしまった。
ー--大切な人・・・アヴィエラ。
彼女とアスベルト・フラウザーとの会話を聞いたことで、ジークハルトは自分の中に確かにどろどろとした黒い感情があることを初めて知った。今までの交際で感じたことがなかったのは、結局はそれほどの思いを持ったことがなかっただけ・・・。
ー--自分が好きなのはアヴィエラだ。守り慈しみたいのは、アヴィエラだった。
ロザリエ嬢を一目見て惹かれたのは事実だ。本当に天使のように美しい娘だったから、見た目は・・・。だがそれは、非現実的なまでの美しいものに対しての憧れであり、過去に自分が交際をしてきた令嬢たちと同じことを自分も繰り返したのだということに気が付いた。自分のロザリエ嬢への思いは、心からの親愛の情ではなかった。
侯爵令嬢が、いくら自家領地とはいえ、護衛も侍女も付けずにあのような森の中で独りきりで暮らすなどありえない。必要最低限の人すら自身の周囲に置きたくなくなるほど、彼女は独りになりたかったのだ。それほど傷つき追い込まれた。
アヴィをそこまで追い込んだロザリエが腹立たしい・・・いや憎くすらあり、知らなかったとはいえ腹黒い彼女に好意を寄せた自分が許せなかった。変わり身の早い自分に嫌悪を感じるが、それが率直な気持ちであった。
ー--アヴィエラを誰にも奪われたくない。フラウザー次期公爵と復縁?冗談じゃない!
(何がアヴィだ、愛称で呼ぶな!婚約破棄しておいて図々しい・・・)
二人が会場に向かい、そのまま当たり前のようにダンスを踊るのを目の当たりにした時にはもう正気でいられなかった。アヴィの腰に当てている公爵令息の手を引っぺがし、アヴィに触るなくっつくなと引き離したかった。もうほとんど衝動的に、二人の間に割り込むかのような形でダンスを懇願してしまった。
アヴィは俺をどう思っているのか。嫌われてはいないと思う。それなりの親しい関係を作ってきている感触はある。
しかしそれが恋愛的な好意とつながる訳ではないのだ。
自分が何人かの令嬢たちと交際している時には、アヴィはあの元婚約者とじっくり関係を深めていたのだ。分が悪い気もする・・・。アヴィが他の男の横に立つなど考えたくもない。
はあ、とため息をつく。ー--答えなど一人で考えても出るはずがないのだ。
(アヴィはもう森の家に着いているだろうか・・・)
そんなことを考えていると、もう居ても立っても居られなくなり、一刻も早くアヴィの顔が見たくなる。
(今から出れば夜中には着く。そうしたら明日の朝一番で彼女のもとに・・・)
もうとっくに日が暮れているのにも関わらず、ジークハルトは厩で休んでいる愛馬の元に向かい、そしてそのままダントン侯爵家の森へと馬を走らせた。
ジークハルトがダントン領に着いたのは、まさに夜も更け月が空の真上に昇りきっている頃で、町の中心部は酒を出すいくつかの店だけが明るい。
ジークハルトがアヴィエラを訪れるようになってからの馴染みの宿に向かうつもりでいたが、その前に、まずは彼女が森の家にいることを確認しに行こうと思った。
もちろんこんな夜更けに会えるなどと思っていない。彼女はもうとっくに眠っているだろう。たとえそれでも、アヴィがあの家で休んでいるということを自分の目で確かめたかった。自分が彼女と近くにいるのだという実感が欲しかった。
雲の間に見え隠れする月の明かりを頼りに暗い森の道を進みながら、明日アヴィに会ってまずは何て言おうかと考える。
自分の好きな人は、君だったと?あまりに間抜けじゃないか?いや、直球すぎるかだろうか?アヴィから貴族的なものの言い方を習ったではないか。練習の成果を見せた方がアヴィの印象も良くなるのでは?いやそれよりも、まずは謝罪から・・・。
ああだこうだと考えるうちに、もう彼女の家は視線の先だ。何度通ったか知れぬ小道を進み、そして・・・
「・・・・・?」
何かがおかしいと感じた。
なんだ、何かがいつもと違う気がする。
だてに騎士じゃない。おっとり構えているようでいて、しかし森で一人で暮らすアヴィエラの安全に関わることには、常に敏感に確認をしているのだ。
ジークハルトは馬を降り、少し緊張しながらアヴィエラが休んでいるであろう家に向かって歩を進めて行く。家は真っ暗なままだ。既に眠っているか・・・。
ふと、雲から顔をだした月の明かりで鮮明になった足元を見た時に、その違和感の正体に気が付いた。
道に馬車が通ったと思われる轍、それとは別に馬の蹄の跡がはっきりと残っている。
馬車はアヴィが使ったものだろうか?しかし単騎のこの馬は?馬車の車輪跡の上に蹄の跡がついていることから、馬車が通った後に付いたものだと分かる。
普段アヴィエラの家路までのこの道には、ほとんど誰かの形跡はなかった。それが今日に限っては随分と賑やかだ。
誰かが訪ねて来たのか・・・。まさか、アスベルト・フラウザー次期公爵・・・・? 彼と一緒に帰って来たのか?
いや、アヴィに限ってそんな筈はない。明日・・もう今日か、俺が訪ねて話がしたいことを伝えてあるのだ。そんな時に客を招いているとは考えにくかった。
大木の根本に、馬の蹄跡があった。いつも自分が馬を繋ぎ置いている木だ。
そこに男物であろう大きな靴の足跡を発見すると、まさか先ほどの疑念ー--アスベルトの来訪ー--が当たりなのではと、ぎくりとする。
ジークハルトは自分もその大木の根本に馬を繋ぐと、ゆっくりと明かりの着いていない暗い家の周りを見回した。
そして、気が付いた。
扉が開いている・・・!?
わずかだが、戸はきちんと締め切られていなかった。
ありえない。アヴィはかなり慎重なタイプだ。ほんの近くの場所への薬草摘みにも必ず鍵を掛けるし、自宅に一人でいる時に扉を開けっぱなし・・・しかも夜に施錠を忘れるなんて考えられない。
一瞬、元婚約者のことが頭に浮かんだが、迷うより先に行動した。
閉まりきっていない扉を2回続けてノックする。暫く待って返事がないので、そのままそっと扉を開けて中に入った。入ってすぐは、キッチン兼ダイニングだ。
---アヴィ、すまないが中に入らせてくれと心の中で謝りながら。
何事もなければ、勝手に入ったことを謝り倒せばいい。話せば自分の心配は理解してもらえるはずだから。
「アヴィ、アヴィエラ、いるか?」
彼女からの返事はなかった。二階のアヴィの部屋に向かい再び名前を呼ぶが、部屋は静寂と暗闇のまま変わらない。
入口脇の棚に置いてあるランプ内の|燭蝋に明かりを灯し、ジークハルトは程よく狭い部屋を照らしてみると、ダイニングテーブルの上にある缶が目に入る。茶葉だろうか?
ゆっくり近寄り、缶を手にしたまま目線を上げると、大きく戸を開けっ放しの棚が目に入った。缶を棚にしまいかけている途中のようだった。
おかしい。出かけるにしても、片付けをやりかけて棚の扉を開けっ放しなどアヴィらしくない。
そう思いながら、ジークハルトは二階への階段に視線を向け、意を決して一段ずつ慎重に上っていった。一段上がるごとにぎしりと軋む階段を上がりきった目の前が、アヴィエラの寝室だ。以前二階へ上がったのは、あの嵐の夜だけだ。
「・・・アヴィエラ、開けるよ」
そう言って扉を開くと、ふわりと彼女の優しい花の香りがして、思わず胸が締め付けられた。
本人がいるかと錯覚しそうなその香りに、その主を探し、部屋の中---ベットを見やるが人の息づく気配はなく・・・
その代わりに彼女のトランクが、無造作にそのまま床に置いてある。
ー--やはり彼女は帰ってきているのだ、この家に。何故いない?荷物をそのままに、何故姿が見えないのか。
再び一階へと降りて、今度はリビングーーー以前嵐の夜に夜を明かさせてもらったあの部屋へと向かった。
ー--ー-窓ガラスが割れていた。
部屋にガラスの破片が散乱しているということは、外部から割られたということ・・・・
「っっっアヴィエラ!!!」
ジークハルトは扉を蹴り破る勢いで開けると、外に繋いでいる愛馬に駆け寄り、そして小道にしっかりと跡を残している町とは逆の方向へと続く馬の足跡を追った。
☆☆☆
ー--どのくらい意識を失っていたのか。
アヴィエラは酷い頭痛に顔を歪ませながら、うっすら目を開けた。
埃っぽいようなカビのような臭いが鼻につき、自分に何が起きたのかをすぐに理解した。そして今の状況を確認しようと起き上がろうとするも・・・。
手首と肩が痛い。後ろ手に手首を麻縄で縛られ、私は横たわっていた。足首もきつくひとつにまとめられている。何が起きているのか分からず、不安で血の気が引いてくる。
ー--なぜあの男が・・・。
3年前の夜会で、酒に酔い具合が悪いと言って私に近づき抱き着いてきた男・・・。
彼とはあの日が初対面だったはずだ。それ以前もそれ以後も、交流どころか顔を見たこともない。何故彼が私を攫うのか。
頭を少し揺しただけでも頭痛が酷くなるので、ゆっくりと視線だけで周りを見渡した。
ー---ここはどこかの狩猟小屋なのだろうか。アヴィエラの森の家のダイニングほどの空間の壁は丸太造りで、夜明け前の薄暗い部屋の隅には薪が無造作に積んである。窓の外には森らしき暗闇が広がり、僅かな月明かりだけが小屋の中に入って輪郭を浮かび上がらせていた。
見覚えのないこの小屋に、遠く離れた場所まで連れて来られたのではないかと恐怖する。
間もなく冬を迎えるこの時期に、明け方に薄着のままで横たわる身体は芯から冷え込んで、縛られている手先がじんじんと痛んだ。縄でこすれた手首にも、擦り切れるような痛みでじんじんと沁みた。
何が起きているのか理解できずに不安で胸が潰れそうだが、このままここにいることが自分にとって良くないことになることだけは分かる。
(---に・・・逃げなくちゃ・・・)
腕の縄を何とか緩めようと、痛みを堪えて手足を動かしてみるが、緩むどころかいたずらにアヴィエラの白い柔肌に血を滲ませるだけの結果になった。それでも諦めたら終わりだと、芋虫のように砂や埃だらけの板張りを這って入口を目指すが、その時、入口の扉が軋みながらギギギと音を立て・・・
「ようやくお目覚めですか?お嬢様」
うっすらと陰湿な微笑みを浮かべながら、男が入ってきた。
恐怖でアヴィエラの全身が粟立った。
「アヴィエラ・ダントン侯爵令嬢。ご無沙汰しておりますが、私を覚えておいでですか?」
「・・・あ、あな・・た・・・、あのときの、夜会の・・・」
薬のせいか恐怖のせいか、声がかすれてうまく言葉にできなかった。
「そう、以前夜会でお会いしましたね。お目にかかるのはそれ以来ですから3年ぶりでしょうか。噂だけはよく耳にしていましたが」
にたり、とした笑みを浮かべたまま、男は一歩アヴィエラへと近づいた。
(・・・い、いや、怖い、こっちに来ないで・・・)
身を捩り男から少しでも離れようとするが、両手両足を拘束されている状態では逃げようがなく、たた怯えた目を男に向けることしか出来なかった。
「・・な・・ぜ、このようなこと・・・」
何とか声を振り絞るが、男は答えることなく、こげ茶の陰鬱な目で暫くアヴィエラをじっと見つめ、そして感情のこもらぬ目とそして声で、静かに男は呟いた。
「あなたが邪魔なんです」
「え・・・」
「アヴィエラ・ダントン、あなた邪魔なんですよ。あなたがいることで私の大切な方が傷ついているのです」
「・・そ・・れは・・」
「人を傷つけていることにすら気が付かないとは、本当に腹の立つ話です」
男は、昔を思い出すかのように彷徨わせた目をし、切なげに話し始めた。
「あの方はとても傷ついていらした。天使の微笑みに重い影が差し、彼女から一切の笑顔が消えた。それはあなたによって付けられた傷だ。天使に魔女が傷をつけるなんてこと、あってはならないでしょう?そう思いませんか?」
「・・・私が・・・どなたを傷つけてしまったと・・・」
「なぜ!なぜ分からぬ!!お前が彼女を傷つけて、なぜ知らぬ顔をしているんだ!!」
それまで穏やかな口調で話してきた男にいきなり大声で激高され、アヴィエラは恐怖で身を強張らせた。目を見開き、顔を歪ませる男を涙がにじむ目で見上げる。
「知らないとは言わせない。お前がロザリエ様から婚約者を奪ったのではないか。あんなにも愛し合っていた二人をお前が誘惑して引き離したのであろう!?その美しく妖しい姿形でたぶらかしたのであろう!?」
ロザリエ・・・、また、ロザリエ!!
ロザリエ様の婚約者など、知りはしない。顔を思い浮かべるどころか、その名すら知らないのだ。そもそも私はアスベルトに思いを寄せいていた。愛する婚約者がいてなぜ他の男を誘惑など・・・。
「・・・ご、誤解です!私はそのような」
「お前がロザリエ様を傷つけたのだ!!お前はいるだけでロザリエ様を傷つける!」
アヴィエラの声を振り絞った訴えを遮り、声高に叫ぶ男にもはや正常な判断も落ち着いて話をすることも出来るはずなかった。
そしてアヴィエラは思い出した。
ー--たしかロアナが言っていた。ロザリエ様の妄信的な信者がいると・・・。もしそれがこの男なら、過去の私への関与に合点がいく。
3年前の夜会でこの男は、ロザリエ様のために私に接触し陥れたのだ。彼女の婚約者を私が奪ったと思い込み、その復讐をするために・・・。
もしかしたらロザリエ様もその計画に加担している・・・もしくは首謀しているのかもしれない。
ー--あの時。半分閉まっていたはずのバルコニーのカーテンを開き、何をしているのかと会場に響き渡るよう声高に美しい声を張り上げた令嬢ー--ロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢。私に関するあらゆる醜聞に、彼女が積極的に関わっていることは疑いようのない事実・・・。
「お前をあの方と同じだけ・・・あの方以上に傷つけてやる」
ハッとして男を見ると、私に睨みつけるような視線を向け、口元だけを歪めて笑っていた。
ー--アヴィエラの恐怖で見開く目を見て、男は歓喜した。
そうだ怖がれ、絶望しろ、泣き叫ぶんだ・・・。私の美しく尊い天使の心を壊したこの魔女に、罰を与えてやるのだ。
2日前の公爵家夜会で、新緑の瞳をうるませながらロザリエ様は私に言った。アヴィエラがまた私に害をなそうとしている、怖い、助けて欲しい。あなたを頼りにしていると。頼りにできるのはあなたしかいないのだと・・・。
ー--私だけ・・・。ロザリエ様の期待に応えられるのは私だけ・・・。
男はどこか夢見がちな歪んだ笑みを顔に張り付かせたまま、一歩一歩、恐怖と絶望を長引かせるためにあえてゆっくりとアヴィエラに近づいて行った。
硬直し引き攣った美しい顔を見ると、高揚感に胸が躍った。
そして、彼女の目の前で拳を握りしめ、恐怖で身を縮こまらせる目の前の獲物の青ざめて震える頬に向けて、その腕をグンと大きく振りかぶった。
ジークハルトは、暗闇の小道に残っている馬の足跡を見失わないよう気を張りながら、可能な限りの速さで馬を走らせる。いくら軍馬とはいえ、王都からダントン領への道のりだけでも疲れているであろう愛馬に申し訳なく思うが、今は一刻を争う。
アヴィエラが何等かの事件に巻き込まれたのではないかという思いはもはや確信に近く、どうにもならない状況が彼を焦らせる。
---何もなければそれでいい。だが何事もないというには、あまりにも不自然すぎる。
もし無理に連れ出されたとしたら、その攫った人物はプロではないだろう。はっきりと山道に残る馬の蹄跡。こんな追手の目につきやすい道・・・、追跡しやすい道を選ぶことはないのだ。
どのくらい馬を走らせたか。夜明けが近いのか、目をこらさなくても容易に道の輪郭が見えるようになってきた。広大なダントン領の森を抜け、北の方角に細長く伸びる、山脈のような森で繋がっている二つ隣の領地へと移っているはずだ。王都から比べると寒さ一層厳しい。
ー--と。山の道の様子が若干変わり、主道から逸れた小道に馬の蹄跡が続いているのが見てとれた。それは、うっそうと茂る背の低い木の奥に続いており・・・
(あの小屋か!)
小道の先にある小さな古そうな狩猟小屋ー---。
ジークハルトは馬から降りると、少し離れた場所で耳をすませ、何かしらの物音がしないか確認する。
ー--いる。小屋から何かが動く気配がある。
小屋の中からは見えない場所に馬を繋ぎ、慎重に小屋へと近づいた。小屋の裏からは、追跡している相手のものであろう馬の低い嘶きが聞こえた。
ー-ーここに、いる。
五感の全てを小屋とその周囲に向け、腰に携た自らの剣に手を重ねた。万が一に備えいつでも抜刀できる。
自分が騎士で、戦闘のための訓練を受けていることを感謝した。何があっても、アヴィエラを守ると心に決めて。
小屋の入口の横に小さな窓がある。扉と窓の間に身を寄せ、張り詰めた意識のままそっと中を伺ったその時ー--ー-。
ジークハルトの目に飛び込んだ光景に、息をのみ目を見開いた。
そこには縛られ床に転がされるアヴィエラと、その上に覆いかぶさり馬乗りになった男ー--。動けないアヴィエラの髪を上に大きく引っ張り上げ、片方の手にはナイフが光っていた。
アヴィエラの不自然に仰け反った白い首を見た時、ジークハルトは、もう何も考えることなどできずに呼吸することすら忘れた。
想像を絶する惨状を目の当たりにし、考えるより先に身体が動く。剣を手に小屋の扉を開け放って叫んだ。
「ー---っっアヴィっっっ!!!」
その扉の先にある光景に、ジークハルトは今までの人生で感じたことのない恐怖と怒りに目の前が真っ赤になった。
アヴィエラの片頬は大きく腫れ上がり唇の端が切れて血に染まっている。左の眉から目にかけては赤紫の腫れて潰れー--横たわる彼女の身体の周りには、切り刻まれた黒髪がまるで血溜まりのように散乱していた。それは長い時間をかけて彼女がいたぶられていた証拠のようでー-ー--。
ジークハルトは、ぐったりと力なくされるがままのアヴィエラを見て頭の中がどす黒い渦で埋め尽くされるのを感じた。
騎士は決して冷静さを欠いてはいけない。勝つためにどう動くか戦略を立て、被害を最小限に抑える。副団長補佐官という仕事は、戦略を立てる上でのブレーンだ。
しかし今。アヴィエラを助けるためにどうするかとは、考えられなかった。涙と血に濡れる彼女の頬を見た時に、身体の全ての血が首より上に一気に集まり、彼の中の何かがバキンっと大きな音を立てて壊れ外れた。
「・・・・っっぅううおおおおっっ!!!!」
怒りで真っ赤になった目で、自分でも聞いたことのないような獰猛な声が腹の底から発せられ、ジークハルトはアヴィの上に跨る男に向かって飛び出した。
アヴィエラは、恐怖と痛みでほとんど意識を失っていながらも、ボロボロの身体を僅かに傾け、そして彼の姿をぼんやりと目の端に捉えた。
ー--きて・・くれた・・・。ジーク・・たすけにきて・・・。もう、だいじょう・・ぶだ・・。
アヴィエラはほっと頬を緩め・・・。深い暗闇へとそのまま意識を手放した。
第9章 答え合わせ
---白い・・・・・。
アヴィエラが重たい瞼をゆっくりと上げて目を開き、もやのかかったままぼやける意識の中で最初に頭に浮かんだのは、目の前の白い天井が眩しい、という思いだった。
・・・なにが、おきたの・・・・・
アヴィエラは、ダントン領の中で一番大きな施療院の一室の清潔なベットに横たわっていた。
---わたし・・なぜここに・・・、ここ・・・、どこ・・・?
ぼんやりとした頭で状況の理解ができずに、起き上がろうと腕を伸ばし身を立てたその時、顔から足先まで走る鋭い痛みに「っっつ!」と言葉にならぬうめき声をあげた。そしてお腹の上の丸太が乗せられたような重みに、起き上がるどころか再び枕の上へボスンと頭を弾ませた。
重みの正体は、ジークハルトだった。
「・・・じー、く・・・」
彼は私のお腹の上に頭と腕を載せて、うつむき眠っていたようだ。
私のかろうじて動いた身体に、彼は一瞬でハッと目を覚ました。
「アヴィ!!」
「・・じ・・く・・・」
声がかすれて思ったように声がでない。喉がひりひりと痛かった。
喉どころか。身体の至る所に痛みを感じ、思わず顔をしかめる。長く眠っていたのか、ぼやける思考に軽い頭痛もした。ジークの顔や部屋の風景がやけに見ずらい。目が上手く開かないようだ。
「アヴィ・・・」
ジークは私の手を触れるか触れないか分からないほどそっと握り、うるんだ目で痛ましげに私を見つめた。一瞬、彼が泣いているかと思った。
「・・・じ、く・・・」と言ってすぐにけほけほと空咳をする私に
「無理して話さなくていい、いま水を・・・」
そう言って枕元に置いてある水差しからカップ半分に水を注ぎ、私の背中に手を添えて半身を起き上がらせてくれた。カップをそっと私の口元に寄せる。
「ゆっくり・・・そう」
うまく飲みきれなかった水がたらりと口の端から流れ、顎を伝ったそれは腹回りに掛けられていたリネンに灰色のシミを作る。
水が唇や口内にピリリと沁みた。
「・・ジーク、わたし・・・どうしたの・・?」
「アヴィ、君は丸5日間昏睡状態だったんだよ」
「・・・5日、かんも・・・?」
「痛むところは?辛いところはないか?」
「・・・からだ、全部が、痛いわ・・・。」
私がそう言うと、ジークは大きな掌で労わるように私の手を包み込み「そうだよな・・・」と小さく呟く。
ジークに握られた手を見ると、私の両手首には真っ白な包帯が巻かれており、そこで私は昏睡に陥る前に自分に何が起きたのかを瞬時に思い出した。
「ー--ー--っっ!!!」
あの夜見た男の顔が目も前に現れたような錯覚に、私は声を出すことも出来ずに目を見開き自らの身体を抱きしめた。
握った手を急に振り切られたジークは
「大丈夫だアヴィ!!あの男は捕まった、君はもう安全だ!!怖いことはもうない!!」
と、少しの躊躇なく私の頭をその胸に抱いた。
「もう大丈夫だアヴィ!」
何度も何度も「大丈夫だ」というジークの言葉を聞きながら、彼の汗と森のような香りと、そしてどくどくと早鐘を打つ胸の音を暫く聞いていうちに少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
少しずつ、靄がかっていた頭がはっきりしてくる。
「ジーク・・・、あの男は・・・捕まったのね・・?」
「そうだ。あの場で俺が取り押さえた。そして・・・」
と言いよどむ。
「いや、この話は君が回復してからにしよう。まずは身体を治すことを」
「ー--いいえジーク、私はいま、聞きたい・・・。ちゃんと知りたい」
「・・・・・」
「お願いジーク・・・教えて」
暫くの躊躇のあと、ジークハルトは軽く肯いてアヴィエラの知りたがっていることの顛末を静かに話し始めた。
「俺が君を救出したあと、意識のないあの男を捕縛してすぐに現地の治安警察に引き渡した。君は二つ先の他家の領地にまで連れていかれていたんだ。その領地の救護施設に君を一時保護をしてもらったあと、意識のないままの君をこのダントン領に移した。そして・・・」
ジークは真っ直ぐに私を見て、意を決したかのように先を続ける。
「誘拐暴行の指示をしたとして、ロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢も捕らえられて、今は王立騎士団の施設で収容されている。社交界で評判だった伯爵家の令嬢がおこした事件ということで、王都ではその話題でもちきりだ」
指示・・・。捕らえられて収容・・・・。半ば確信に近い予想していたこととはいえ、ロザリエ伯爵令嬢からのあまりにひどい仕打ちに、私は少なからずショックを受けた。
「・・・やっぱり・・・ロザリエ様が仕組んだことだったの、ね・・・。あの男に私を襲わせるよう指示したのも彼女だった・・・」
「ー--アヴィ、君はあの男から何か聞いたか?」
アヴィエラはゆっくりと顔を上げ、諦めたような疲れ切った表情でジークハルトを見つめ口を開いた。
「ー--私が・・・ロザリエ様を傷つけたからって・・・・。愛し合っていた彼女とその婚約者の仲を私が壊したと・・・」
「それは完全な逆恨みだ。ロザリエの婚約者が君に恋情を抱き、それに嫉妬した彼女が君を恨んだんだ。今、ロザリエとあの男・・・トマス・オルソーっていう地方の男爵家の男だが、彼らの取り調べが王都で行われている最中だから、詳しいことはこれから更に明らかになるだろう。ただ・・・ちょっと、トマス・オルソーの体調が思わしくなくて時間がかかっているのだが・・・」
と言い淀んだ。
ー--私はあの狩猟小屋で最後に目にした光景を思い出した。ジークがあの男を全体重をかけたかのような勢いで殴り飛ばし、剣の柄で背中をどつき・・・。よくよく考えてみると、ジークの最初の一撃だけであの男は伸びてしまっていたのではないかと思う。更なる騎士の本気の攻撃を受けたトマス・オルソーは、きっと回復をするのに相当な時間がかかるであろう・・・。
「トマス・オルソーは、領地から出てきたロザリエを見て一瞬で彼女の魅力に惹きつけられ、彼女のデビュー以来ずっといい様に使われてきたんだ。一部では有名な、ロザリエの妄信者だったらしい。3年前の夜会の庭園で・・・君が、襲われたのも、ロザリエがトマスを使って男を手配し誘導したと」
そう憎々し気に言い捨てた。
ー--そんなにも、私は彼女に憎まれていた。アスベルト以外の男性と親しくした覚えはないが、それ程までに他人から恨まれるという事実に、重い溜息が出る。
私は、この領地に戻るまでの過去の出来事を思い出し、それが彼女の逆恨みから始まったのだと思うとやり切れない気持ちになった。
当時、心から大切に思っていた婚約者との未来も、大好きな家族との生活も失った。愛している相手との婚約破棄という現実は、生皮を剝がされるかのような痛みを伴い、毎日心が血を流した。苦しくて苦しくて、毎日をやっとの思いでやり過ごし・・・。
私はそっと目を閉じた。その眦から頬ににかけて、幾筋もの涙が落ちてゆく。
もう終わったことだと理解していても、胸にこみ上げるものを堪えられなかった。
「アヴィ、ロザリエにもトマス・オルソーにも罰が下る。君にしてきた行為は許されるものではない。爵位があっても相当な刑罰になるだろう。それがどのようになるか今はまだ分からないが、俺は死ぬまで忘れない、あいつらが君にした仕打ちを。君から奪ったものは、どれも取り返しのきかないものばかりだ」
ジークハルトは静かな口調で、しかし重く怒りを含んだ声色でそう告げると、アヴィエラの涙を拭いてあげようとハンカチを探すが、自分が携帯していないことに気づくと少し躊躇ったのち、困ったような表情で自らの袖でその涙を拭った。
そのいつもと変わらぬ不器用な様子に慰められ、アヴィエラは鼻をすすりながら思わずクスリと笑みをもらす。そしてふと思い当たりジークハルトに尋ねる。
「ジーク、あなたロザリエ様のことは、もういいの・・・よね・・・?」
「当たり前だ!あのくそ女・・・」
と貴族らしからぬ口調で怒りを露にした。
「あ、そうだ。君に言わなくてはならないことが・・・」
と背をピンと張り目を泳がせた。
「アヴィ、実は俺は知ってしまった。君の真実を・・・」
「・・・え?私のなんですって?」
「その、君の、真実・・・?過去の事件のことも、元婚約者とのことも・・・。君がー--ダントン侯爵家の令嬢だということも・・・」
ー--私の真実。ということは・・・。
「ー---私が、魔女・・・・・・・って・・・?」
「・・・・・んん、じゃないって、ことも・・・」
とジークは顔を赤らめた。
ー--ああそうか。魔法は溶けてしまったのか。
「ごめんなさいジーク。騙していたつもりはなかったの。最初、何だかあなたとの話が嚙み合わないなって思っていて、途中であなたが私を本気で魔女だと思っていると気づいたのだけど。本当のことを言うタイミングを逃してしまったというか・・・。最終的にロザリエ様と上手くいくお手伝いが出来れば良いのだから、もうこのまま魔女で通してしまおうって思ってしまったの・・・」
「いや、謝るのは私の方だ。まさか本気で魔女がいるなんて思わないだろうし・・・。出会った時から君に対し無神経な発言を繰り返していたと思うと、本当に申し訳ないよ。よく俺に協力してくれたと感謝しかない」
そしてゆっくりと私に視線を合わせ、意を決しかのように話を続けた。
「アヴィ、君と過ごしたこの数か月間は、俺にとって本当に楽しくてかけがえのない時間だったんだ。君には何の得にもならないことであっても、一生懸命に俺に関わる君を見るのが嬉しくて・・・君とずっと一緒にいたくて・・・俺は・・・」
そう言ってジークは一呼吸をおくと、私の手をしっかりと握りしめた。
「アヴィが好きだ。君のことを心から大切に思っている。少し前までロザリエに惹かれていたから軽く信用なく思われてしまうかもしれないが、こんな気持ちになったことは初めてなんだ。君に対するような気持ちは、誰にも感じたことがない。気が付いたら、いつも君のことを考えていた。優しい君が好きだ。真面目でお人良しな君が好きだ。強がりで繊細な君が、本当に本当に大好きなんだ。幸せでいて欲しい。笑っていて欲しい。ー--ー-俺のそばで」
ー--言われた言葉は耳に入った。しかしその内容を理解するには、戸惑いの方が大きかった。
(---私を、好き?ジークが私を?)
ー--夢を見ているのではないか。まだ私は意識が戻ってなくて、都合の良い夢を・・・。
「アヴィエラ・ダントン。この先の人生を君とずっと一緒に生きていきたい」
それは今までアヴィエラが見たことのない、ジークハルトの熱を孕んだ眼差しでー--。
その視線の先にいるのが自分なのだということを目の当たりにし、驚愕する。
皮の厚い無骨な手に握られた熱と、恋焦がれるような男からの視線を身に受け、じわりじわりとこれは現実なのだと実感する。
「・・・私、私は、あなたが幸せになれるならって・・・。ジークがロザリエ様を好きなら・・・、彼女と上手くいくことが、あなたの幸せならって思って・・・。森であなたと過ごす時間が幸せで、あなたとのこの時間を失いたくないと思ってしまって、私は怖かった。これ以上ジークを好きになってはいけないって思って」
ようやく落ち着いていたアヴィエラの碧の目から、再びほろりと涙が零れた。それは頬の傷に沁みたが、溢れだす感情とともに次々にぽろぽろと流れ落ち、その涙を止める手段をアヴィエラは知らない。溢れるままの涙の溜まった目で、ジークハルトを見上げた。
「・・私・・・も、ジークが好き・・・ひっく!・・・ジークのことが、好きなの・・・ひっく!好きになってしまった、っひっく!・・ジーク・・・」
そう言いながら、傷だらけの痛々しい姿でジークハルトに訴える。
かわいい嗚咽を漏らしながら懸命に好きだと伝えるアヴィエラに、ジークハルトはもう堪らなかった。
「かわいいアヴィエラ・・・、誰よりも大切にする。これからはずっと一緒だ!」
そう言うと、握っていた手の片方をゆるりと放し、その手をアヴィエラの頬に寄せた。涙が尚もはらはらと落ちる頬をぬぐいながら、互いの唇がゆっくりと合わさりー--。
その思いがけないほどの彼の唇の柔らかさと優しい熱に、アヴィエラは安堵と幸福を感じた。離れる唇が寂しく、再びその熱が欲しくてアヴィエラは見上げた先にいるジークハルトに向かい、また瞳を閉じた。
何度となく離れてはまた触れ合うその唇の心地よさに吐息が漏れ、アヴィエラはジークハルトの胸に頬を寄せた。
安心して寄りかかるようなアヴィエラの、まるで恋人に対するような甘えたしぐさに、ジークハルトは思わずアヴィエラの背中に回した腕を自分にぎゅっと引き寄せた。今までの彼女との付き合いの中で、甘えてもらったのは初めてだ。
嬉しさのあまり、抱きしめる腕に力が入る。
「っ、いた・・・」
「あ!す、すまない!君、全身傷だらけだったんだ」
慌てて身を離すジークハルトの体温を名残惜しく思いながら、
「・・・私の傷、ひどいの?」
「・・・ううんん、アヴィ、正直かなり痛いだろ?表面的な傷だけでなくて、目と額の間もひどく打撲してるし」
そう言ってこめかみのあたりを指さした。
「目の打撲・・・」
思わず顔に手をやると、左目の上から頭にかけて、ぐるぐると包帯が巻かれていたことに今気が付いた。
(だからなのね、何だか目が重くて視界が悪いと思った・・・)
「ね、ちょっと鏡を持って来て下さる・・・?」
「・・・鏡、か・・・、うん、ちょっと待って、ここにあったかなぁ・・・?」
躊躇したような彼に、私は一抹の不安を覚えた。
「病室の手鏡は、たいてい棚の引き出しに入っているはずよ」
一瞬の間の後、覚悟を決めたかのように私に言われるままジークは棚の引き出しの一番上から、手のひらくらいの大きさの手鏡を取り出した。
「アヴィ、最初に言っておくけど君は結構な怪我なんだ。けれど、今は腫れが酷いが、これはちゃんと治るからね」
気遣うように言って渡されたその鏡に映る自分の顔を見た時に、私は思わず「ひっ!」と悲鳴をあげてしまった。
眉尻から左目にかけて腫れ上がった瞼に目の半分が隠れ、包帯の隙間から見えるその肌はどす黒かった。右側の頬も、まるで大きなコブができたかのように丸く不自然に盛り上がり、唇の端には紫の痣と大きく切れた傷が生々しく残っている。唇だけでなく、口の中も相当に切れているのであろう。舌でぐるりと口内を回してみると腫れているのが分かる。道理でしゃべりにくかった筈だ。
かつて見たことのない自分の惨状に、アヴィエラは泣き出しそうな情けないような顔で鏡を下ろし、暫く言葉がでなかった。
「多少時間がかかっても傷も打撲もちゃんと戻るから、大丈夫だ。なんだったら怪我が治るまで俺も君の所に・・・一緒に住んでも、いいかもしれないね・・・?そうだよ、森での生活が不便になるから俺が手伝うよ」
ジークハルトはちょっと良いことを思いついたぞというように頬を染め、そして嬉しそうに緩まる唇を慌てて引き締めた。
しかし私は彼のそのどこか楽し気で乗り気な提案どころではなく、再び鏡を覗き込み、暫く無言で自分の姿をじっと見つめた。
「・・・かみ・・髪もひどい・・・」
トマス・オルソーにナイフで切られた艶やかだった黒髪は、左右バラバラに肩先でうねっていた。まるで激しい戦の後の戦士のようだった。
「アヴィ、怖かったね・・・。もう大丈夫だから」
そう言いながら、眉間の皺を深くして悲し気にアヴィエラのぼさぼさに跳ねた髪に手をやり、そっと撫ででくれる。
「ジーク・・・、あなた、よくこんな状態の、ボロボロの私にあんな告白して・・・」
「す、すまない!不謹慎だったな!」
「そうじゃなくて・・・。すごいわ私、まさに魔女みたい・・・。よく私に愛の言葉をささやけたと感心してしまうわ・・・ふ、ふふ・・・くくく・・・」
と思わず笑い出す私に
「どんな君でも大好きだ!!」
と再びギュギュっと抱き寄せて、アヴィエラに悲鳴を上げさせた。
怪我は順調に回復し一週間を過ぎたころ、私は寝たきりの生活であった施療院から領地の屋敷へと身を移した。
顔の腫れや傷はまだ生々しく残っているが、あとは時間が癒してくれるであろう。
思いを伝えてからのジークハルトの切り替えは、まるで別人のようだった。
見舞いに来ては愛を囁き、枕元には花を欠かさず。
「どんな美しい花だって君の前には霞んでしまう。君を前にすると伝えたい言葉が泉のようい湧き出るんだ」とのたまわった時には、アヴィエラは卒倒しそうになった。
施療院にいる間も屋敷療養に切り替わってからも、ジークハルトは毎日甲斐甲斐しく、動くことのままならないアヴィエラの世話を焼いた。屋敷にいる者たちには、騎士というよりまるでお嬢様の専属侍女のようだと陰で苦笑されながら。
ジークは、領地中心地にある彼の馴染みの宿ー--アヴィエラの森の家を訪ねる際に度々利用していたらしいー--に長期滞在用の部屋を借り、そこから通っているのだという。
そんなに騎士団を休んで大丈夫なのかと心配する私に、
「あ、それは大丈夫だ。今回トマス・オルソーを捕らえた功労者ということで特別休暇をもらっている」
「特別休暇を?」
「今までの事件のあらましは団長に話してあるし、婚約者の看病ということで長期休暇を取り付けたから」
「こ、婚約者!?」
思わず大きな声を上げて、唇が引き連れてイタタと呻いた。
私たちはいつのまに婚約を?初耳だ、聞いてない!!
いつかそうなればという思いはもちろんあったが、言葉であったり手続きであったり根回しであったりと、貴族の婚姻までに必要と思われる様々なものをすっ飛ばして、当たり前のように婚約の話をしていることに驚いた。
ジークハルトはえへへという顔をしながら目じりを下げ、さも嬉しそうに表情を和らげた。
「ダントン侯爵家には、私の父のラウンザリー男爵から正式に婚約をお願いする話が行っている。格下の男爵家からのお願いなんてと懸念していたけど、娘の窮地を救った俺に感謝こそすれ反対はないと言って下さり、話はすんなり通ったよ。俺も君も爵位を継ぐ立場じゃないから、アヴィが了承するなら結婚を許してくれるという返答ももらっているよ。ー--あ、れ?・・・もちろん、承諾、してくれる・・・のかな・・・?」
驚きのあまりただただじっとジークを凝視する私に、ここでようやく肝心の私を無視し先走って話を進めたことに気が付き急に不安になったのか、ジークハルトは先ほどの蕩けるような夢見がちな表情が一変して不安げに尋ねた。
「私に正式に結婚を申し込むより先に、ダントン家の了承を取ったのね?私、何も聞いてないけれど」
「いや・・・、施療院で君が目覚めた日に思いを伝えあったから、それでもう結婚を承諾してもらったものだと・・・」
私を不安げに見るジークに、思わず苦笑をする。
「順番が逆になってしまったのは申し訳ない。彼に・・・、君を取られないよう焦ってしまっていた。向こうに動かれるより早く、コトを進めなくてはと・・・」
「彼?私を取るって・・・・・」
意味が分からずそう尋ねる私に、ジークは一呼吸を置いて意を決したように話した。
「君がフラウザー公爵令息に復縁を求められているのを聞いてしまった。公爵家の夜会で」
「ええ!あの時、私たちの話を聞いていたの!?」
ジークハルトは、アヴィエラの言う『私たち』という言葉にさえカチンと来たが、とりあえず話を進めるために、肯き言葉を続ける。
「君が、以前の婚約者に再び婚約を求められているのも、そして君たちの親し気な様子も見ていた」
ジークハルトは、吐き出すように重いため息をついた。
「その時になって、ようやく俺は・・・、君への気持ちを自覚したんだ。君を取られたくないと。あの男よりも君を愛していると」
「・・・・・」
「俺は、次男で父が爵位を退いたらただの平民騎士になる。騎士団ではそれなりの地位についていても・・・フラウザー公爵家のような生活を君に与えてあげれない。身分も資産も、彼と俺では比べるのすら失礼なほど桁違いだ。・・・それでも」
ジークハルトは真っ直ぐに、熱を帯びた眼差しでアヴィエラを見つめた。
「それでも、アヴィを彼に渡したくない。誰よりも君が好きなんだ。君を幸せにするのは、俺でありたい。目もとの皺が深くなってこの美しい黒髪が白くなっても、歩くのがままならなくなっても、ずっと一緒にいたい。死が迎えに来るまでの間、君とともに年を重ねたい。俺の我儘だと分かっていても、それでも、君を彼に譲るなんて出来ない、ごめん・・・」
まるで私を説得するかのように、思いのこもったその言葉に、私は優しく細めた目と柔らかな声音でジークに伝える。
「ジーク・・・。あなた、私の授業の成果が出ているわ。教えたかいがあるというものね、ぐっときちゃったわ・・・」
と潤む眦で静かに微笑えんだ。
「ジークがただの騎士だというのなら、私だって侯爵家の恩恵をあなたに与えてあげることはできないわ。何より、払拭されつつあっても醜聞にまみれ領地から逃げ出た過去は変わらない。それでも私と一緒にいてくれる?」
「当たり前だ!俺が好きになったのは、侯爵家のアヴィエラ・ダントンじゃなない。魔女で薬師のアヴィだよ」
「私もよ。私も男爵家子息のジークハルト・ラウンザリーではなく、不器用で貴族の礼節を知らなくて、きまじめで優しくて、魔女だと信じて私に教えを乞う純粋なジークが好き」
私はそう言って、ジークの大きく豆だらけの硬い手を取りそっと自らの頬に当てた。
ジークは「それは褒められているのかな・・・」と複雑な表情をしつつも、頬から耳まで朱に染めながら、ゆっくりとしかし断言するように伝える。
「アヴィエラ・ダントン、結婚してくれ。騎士の妻に。薬師のアヴィ」
「はい。これからの人生を共にずっと。よろしくお願いいたします、騎士のジーク。私にも、あなたを幸せにさせる栄誉をお与え下さい」
そしてジークは両手を私の頬に寄せると、ゆっくりと顔を近づけた。
柔らかく暖かなジークの熱を唇に感じながら、この数年間で私が負ってきた身体と心の傷が癒えていく気がした。
事件からひと月ほど経って王都での取り調べがほぼ終わり、その後関係者への処分が下された。
私の拉致事件を起こしたトマス・オルソーは、侯爵令嬢の誘拐及び傷害事件の実行犯として、生涯をルバツク王国最北端の地下牢で過ごすごととなった。その地下牢は初秋でも霜が下りるような極寒の地にあり、衰弱した身体では冬を越すことが出来ない者もいる過酷な場所だ。彼はそこで死を迎えるまで過ごすことになる。今回の事件だけでなく過去の私への悪意ある虚偽や名誉棄損を考慮し、妥当な刑であった。
そしてロザリエ伯爵令嬢は、伯爵家からの勘当後に北の辺境地の修道院に送られることとなった。彼女は実際に自分が手を下すことなかったため極刑になることはなかったが、しかし親族以外の面会を受け付けず北の地での過酷な肉体労働を伴う、戒律の厳しいいことで有名な修道院での生活は、貴族令嬢にとっては想像できない程の厳しいものとなるだろう。
ー--彼らが王都の地を踏むことは、生涯ない。
そして私にとって、大きな救いがひとつあった。
今回の事件に関連して、過去の私に絡んだ醜聞の検証をする上で、思いがけないことが明らかになった。
夜会で襲われた時に私を助けてくれた一組の男女ー--ずっと彼らに裏切られたと思っていたー--は、広まった噂に全く関与していないことが分かったのだ。
むしろ当時、ダントン侯爵令嬢の噂は事実無根でありその話は事実ではないと社交の場では訴えてくれていたらしかった。
長い間ずっと心に引っかかっていた暗く重たい鉛のような感情が、春の雪解けのように溶解していき、私はやっと醜聞から解き放たれたような解放を感じた。
ー--そして。
ダントン領の屋敷での療養中、アスベルトが見舞いに訪れた。
「身体の調子はどうだい、アヴィ」
夜会で復縁を考えて欲しいと言われ、それきりになっていたのだ。何度か体調伺いの手紙をもらい、回復中だと返信は出していたが、顔を会わせるのは夜会以来だ。
アスベルトが私室に訪れても退出する気配はなく、番犬よろしく私の横にピタリと張り付き離れないジークに、アスベルトらしからぬ不機嫌さを隠さない声色で、
「君は・・・?」
と、『この男は何者だ、何故ここにいる』そう言いたげに目で問うてくる。
アスベルトがジークと顔を会わせるのはフラウザー公爵家での夜会でのほんの一瞬の出来事だったが、アスベルトはしっかり彼を覚えているらしい。
私はちらりとジークを横目で見てから、ひと息に紹介した。
「この方は、ジークハルト・ラウンザリー様です。ラウンザリー男爵のご子息です。王立騎士団で副団長補佐をなさっていて、そして今回の事件で私を助けてくれた方です」
「君がアヴィを助けてくれた騎士か!そうか、私からも礼を言うよ。アヴィを助けてくれて感謝する」
するとジークはあからさまに不機嫌な口調で憮然と言い放つ。
「あなた様に礼を言われるような事ではございません。私は、自分の愛する人を守っただけのこと。今は婚約者として彼女を支えておりますので、本日同席させて頂いております」
一瞬の間があった。
「あ、いする?婚約者?」
「あ、あのねアスベルト・・・。私とジークハルトは婚約したのよ」
「・・・こんやく・・・・」
あの時、誠実に、アスベルトに復縁を求められていたのだ。こんなついでのような知らせ方をするつもりはなかった。身体がもう少し良くなってから、礼儀をもって正式に復縁の話を断ろうと思っていたのだが・・・。
ジークハルトの嫉妬と対抗心の混在した物言いで、予定はパアだ。
アスベルトは瞠目したまま私とジークを今後に見やり、そして眉を寄せた苦い笑いとため息を同時についた。
「・・・そうか、なるほど。アヴィ、君にはもうこの騎士がいる・・・ということだね?」
「そ」
「そうです」
私が言うより早く、ジークが言葉を被せ答えた。
「ー---そうか。はあぁぁ。そうか・・・。私の出番はない、ということだね?」
「・・・・・はい。ジークハルトさんを愛しています」
「アヴィ!」
ジークは喜び心の声がそのまま出てしまったようで、思わず満面の笑みで私に向き直るが、見ていないふりをした。
「ごめんなさいアスベルト、こんな形でお返事をすることになってしまって・・・。私を、望んでくれてありがとう。ずっと気にしてくれていて、ありがとう」
「いいや、こちらこそ君を守れなくてごめん。ずっと、ずっとあの時の自分の行動を後悔していたけど・・・」
そう呟くと、アスベルトはジークの正面に真っ直ぐに向き直り、先ほどまでの不穏な眼差しの代わりに強く思いつめたような視線を向けた。
「ジークハルト・ラウンザリー殿、元婚約者として最後に言わせて欲しい。私は、情けないことに君のように愛する人を守ることが出来なかった。・・・どうか・・・アヴィエラを幸せにしてくれ」
ライバル視をしているアスベルトの切望にも聞こえる真摯な言葉に、ジークハルトは驚き息を詰めた。
心を寄せる人との未来を他の者に明け渡さねばならないことの苦しさが、アスベルトの声色にも表情にもはっきり表れていることに気づいて。
しかもかつては自分の手の中にいた者だ。それを自分の誤った判断で失った後悔は、奥深いだろう。
そしてそんな彼に報いようとするかのように、ジークハルトも姿勢を正し真っ向から宣言する。
「光栄です。アスベルト・フラウザー様。自分の全てをかけて彼女を守り、幸せにすることをあなたにお約束します」
アスベルトは、以前と変わらぬ優しい眼差しを私に向けると、
「アヴィ、君が無事で本当に良かった。ジークハルト殿と婚姻するのであれば、王都へ来る機会が増えるだろう。早く良くなってまた王都で会おう。その時は友人としてジークハルト殿もぜひ一緒に」
そう言いながら右手を差し出し、ジークハルトは肯きながら顔を和らげ、その手を強く硬く握り返した。
第10章 魔女は微笑む
それはまさに晴れの日に相応しいような、どこまでも澄み切った快晴で、空の端に遠くそびえる山稜がくっきりとした輪郭で浮き上がって見えていた。
晴天に涼やかな風が心地よく、これぞ婚礼日和だ。
ダントン侯爵家領地の中心にある領地の一番大きな教会で、アヴィエラ・ダントンとジークハルト・ラウンザリーは婚礼の儀を上げた。
事件から半年以上が経った。アヴィエラの傷はすっかり回復し、髪も何とか結って様になる長さまで伸びていた。
そんなに急がずにゆっくり準備をして、婚約期間を楽しみながら一年後に婚姻を結ぼうというアヴィエラに、一年後の冬に婚姻式をするより春にした方が気候も良いからと言い張り、詰まるところそんなに待てないというジークハルトが強引に話を進めた結果だ。
王都と近いとはいえ、貴族同士の婚姻を領地のみで行うのはいかがなものかという声も貴族間ではあったようだが、何せ社交界での話題を振りまきまくった令嬢だ。先日の事件を含め、過去に起きた陰謀の被害者として同情されていたのもあり、せめて婚礼という祝事は人々の好奇心を満たさず厳粛に行いたいと希望すれば、それもそうかとすんなり受け入れられた。
婚礼には両家親族の他に王都からロアナとアスベルトが、そして恩人であり師でもあるクリステも来てくれた。
「ジークハルト・ラウンザリーおよびアヴィエラ・ダントンを祝福し、神の御許において両者が夫婦となったことをここに宣言します」
神父が高らかに声を上げると参列者から一斉に拍手が鳴り響き、見つめ合いながら頬を染める新郎新婦を祝福した。
細やかな刺繡とレースをふんだんにあしらい、首元まである立ち襟の身体の曲線に沿ったデザインの純白ドレスを着たアヴィエラは、まさに圧倒的な美しさで、式が始まり入場した時には会場の招致客もそして新郎のジークハルトも息をのんだ。
「アヴィ・・・本当にきれいだ。信じられないくらいきれいだ。早く二人きりになりたい」
「ジークも素敵よ。いつもの騎士服も素敵だけど、正装したあなたは見惚れてしまうわ」
囁くような小声でいちゃつきながら、互いに一歩を踏み出して両脇で見守る参列者の中を抜けて行く。
厳粛な式は滞りなく行われた。
放たれた教会の扉の外には、祝福のためのフラワーシャワーを持った親族や友人が、両側一列に並んでいる。ロアナのアスベルトの評価も、ロザリエ嬢の再調査を依頼していたと聞いて多少上がったようだ。二人で横に並んで晴れやかな祝福の笑顔である。
アヴィエラとジークハルトは教会の扉から出てすぐの階段を笑顔で一歩また一歩と、祝いの言葉を掛けられながら進む。
ー-----その時。
ハッとしたジークハルトが立ち止まり、目線を真っ直ぐに向けた先の、中央広場の一点を見つめた。
ー--その視線の先には一人の少女が立っていた。
10歳と言われればそう見えるし、20歳と言われたらそれも納得するような、不思議な佇まいの少女。深い森の緑色の簡素なワンピースを身に着けた彼女も、真っ直ぐにジークハルトを見つめている。
時が止まったかのように、暫く二人は目線を合わせたままで、そして少女はにこりと優しく微笑んだ。
『お・め・で・と・う』
「・・・・っっっ!!!」
口の動きで彼女の言葉を拾うと、ジークハルトは何か思い当たったように、大きく目を見開いた。
少女は徐に両手を空に向かって広げると、目をつぶり何やらぶつぶつと口を動かした。かと思うと、ぱっとジークハルトを見てから人差し指を空に向けて突き刺すような動きをして、満面の笑みを浮かべる。
ー-ー--風が吹いた。冷たい風だ。
「・・・なに?」
「冷たい・・・、雨?」
「・・・雪だ、雪だよこれ!」
「本当だ、雪だわ!!」
参列者たちが口々に声を上げた。ルバツク王国が北に位置するといっても、春が大分と進んだこの時期に雪が降ることは殆どない。北のこの地でさえめったに起こらない珍しい現象に、教会ににとどまらず広場からも歓声が上がる。
空から舞い降りてくる丸く柔らかそうなそれは、紛れもなく白い淡雪だった。
ー--それはまるで、祝福の白い花びらのようにアヴィエラとジークハルトの周りにひらりひらりと舞い、ジークハルトは空を仰いで顔でその祝福を受けた。
ー--魔女殿。
全てはあなたのお陰だ。あなたとの出会いが、アヴィエラにたどり着いた。恋と誤解して。魔女と誤解して。そして愛へたどり着いた。
ー--ー-魔女殿に、祝福を。
そう思って視線を広場にいる少女に移すと、そこにはもう彼女の姿は見えなかった。
ーー-アヴィは信じるだろうか。魔女の真実を。
それとも、俺が純粋な男だからと優しく自愛のこもった眼差しで微笑むのだろうか。
ジークハルトは、雪を全身に受けてはしゃぐ妻を見つめ、優しく肩を抱いた。
彼女の肩には白い淡雪が、溶けずに暫く残っていた。
~~~ おわり ~~~




