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騎士と魔女

第一章 魔女と騎士


「サルヴェーニャの森の魔女とは、あなたのことであろうか?」

 いつものように森で薬草を摘み、充分なその量に満足して機嫌良く森の家路を歩いていると、ふいに背後から声をかけられた。

今日は風が強く、木々のざわめきでその人物が近くに来るまで気がつかなかったことにギクリとする。独りで森で暮らす私は、普段は充分すぎるほど周囲に注意をはらった生活を送っているのに、ギリギリまで気配を感じさせなかった目の前の男に一気に警戒心が呼び起こされた。

 深い紺地に襟元と袖先に銀の蔓草(つるくさ)模様の刺繍が入った華やかな騎士服を身に付け、こげ茶の馬に跨り《またが》伺うような眼差を私に向けて見下ろしているこの男は、年は20代半ばくらいであろうか。程よく日焼けをした肌に精悍な顔つきをした美しい男だった。

 私を頭の先からつま先まで軽く一瞥(いちべつ)

 「サルヴェーニャの森の魔女を探して王都よりここに来た。あなたがそうか?」と再び尋ねる。

 私は無言で家への道を急ぎ歩いた。それは、私が男の探す人物だと認めている行為であることに気付いたがもう遅い。

 家はもう視線の先に見えている。私は足を速めた。

 その騎士服を着た男は、ヒラリと身軽に馬から降りると

 「友人にあなたの噂を聞いて王都よりここまで来た。サルヴェーニャの森の魔女とはこの地の森に住まう黒髪に碧眼の若い女性だと。私は王立第二騎士団に所属をしているラウンザリー男爵家のジークハルトという者だ。話を聞いてもらいたい」

 そう言いながら私のすぐ後ろをついて歩いて来た。

 ーーーーー王都の騎士団・・・。

 私は突然の訪問者である不躾なこの男と話をするつもりはなかったので、振り向くことなく前を見据えてひたすら歩を進めた。

「魔女殿、話を」

 最後はほとんど小走りになりながら家へと向かい、男の目の前で扉を閉めてがしゃりと(かんぬき)をかける。私は戸を背に寄りかかり、外の物音に耳を澄ませた。はあはあと切れる息を殺して男の気配が消えるのを待つ。

 彼は暫く家の前にいたようだが、入口の開く様子がないことに諦めたのか。扉は無理やり開けられることなく、遠くで馬の(いなな)きが聞こえた。

 ーーーそれが、私とジークハルトの最初の出会いだった。



 翌日もその男ー--ジークハルトという自称騎士は私の家にやってきた。

 その朝、私はいつものように身なりを整えたあと、朝食用に温めたパンをスープに浸し口を軽く開けたその時、扉をトントンと控えめに叩く音がする。

 食事を摂るためのダイニングテーブルは、出入口の戸の正面に位置している。私は口元のパンを持つ手を静止したまま、ノックのされた扉を凝視した。

 「魔女殿、在宅であろうか。魔女殿」

 私は扉に目を向けたまま、気配を悟られぬようそおっとそこに近づき、戸に耳をあてた。

 「煙が昇っているから家にいるはずなのだが・・・」というくぐもった独り言が聞こえ、その後ここにいるのは分かってると言わんばかりにトントンと更なるノックがされた。くぐもった音が直に耳に響き、私は無言でビクリと飛び上がった。

 ・・・怖い!

 呼吸をするのも憚られ(はばか)、ばくばくと不安に高鳴る胸を押さえながら私はそっと扉から離れた。

 そして家の周りをうろつく気配があり、私はますますおびえた。

(ど、どうしよう、ここに住んで2年でこのようなことは初めてだ・・・)

 私は涙目になりながら、もはや食事をするどころではなくなり息を詰めた。

 何なのだろうか、彼は何をしに来ているのか。

 ーーー王都の騎士で男爵家、そして私をサルヴェーニャの森の魔女と呼ぶ。

 ラウンザリー男爵家・・・直接の面識はないが、私が王都にいた時にその家名は聞いたことがあるように思う。確か代々武官の家系だったはずだ。

 爵位ある王都の騎士が私に用があるというのか。

 ーーーもしかして・・・・

 もしかして、3年前のあの出来事に関わることであろうか・・・。


 私アヴィエラ・ダントンは、22年前にダントン侯爵家の次女として生をうけた生粋の貴族令嬢だ。

 緩やかに波うつ艶のある黒髪は父譲りで、真っ白な陶磁器の肌と深い泉のような碧色の大きな目は母譲りだ。3つ年上の姉は優しく聡明で、婿入りをした彼女の夫が父の後に侯爵家を継ぐことになっている。

 父のジオルト・ダントンは王宮の官僚であったため、王都近くに領地を持ちながらも社交会デビュー後の私たち姉妹と共に王都での生活を基本としていた。娘たちに華やかな国の中心地での社交に慣れさせたい思いが強かったようだ。

 そしてー--。この男ジークハルトの言う『サルヴェーニャの森の魔女』とは、3年前に王都である出来事があってから呼ばれるようになった、全くありがたくない私の二つ名・・・私の当時の色恋がらみの醜聞を当てこすり揶揄した通り名なのだ。

 王都から近いこの領地には、私を興味本位で一目見ようとする(やから)が何度か訪れたことがあったが、それも時間の経過とともに大分少なくなってきたというのに・・・。

 初対面の人から面と向かって「あなたがサルヴェーニャの森の魔女か」と尋ねられるなんてと、私は彼の無神経さに腹が立つよりも呆れていた。


 「魔女殿」と控えめな声がかかり、一瞬で私は我に返った。その呼びかけを最後に、男は馬とともにここを離れたようだ。

 私はようやく詰めていた息を吐き、しかし朝食の続きをする気にもなれず先に洗濯をすることにした。

 しかしその日の午後、その男が再びやってきたのだ。

 乾いた洗濯物を取り込もうと芝の敷き詰めた小さな庭に出たところ、馬に跨り(またが)こちらに向かってくる彼と目があった。

 もうこうなっては、話を聞くまで彼は諦めないであろうと私は深く諦めのため息をついた。

 それに、これだけしつこいと私自身も何の用なのかと気になる。ただの興味本位で私に会おうとしている訳ではなさそうだ。

 乾いたシャツやらタオルやらを腕にかけて、彼が私に声をかけるより先に「お話を伺います。中へどうぞ」と言って家へと誘導し扉を開けた。

 男ーーージークハルトは少々驚いた様子で「ありがたい」と言いながら、少し離れた木に馬をつないで恐る恐るといった体でダイニングに入ってきた。きょろりと部屋の中を不思議そうに見回したが、さすがに女性の家をじろじろ見るのは不躾と分かったのか、黙って私についてくる。

 念のため入口の扉は開放しておく。何かあったらこの男の馬で逃げてしまおう。馬は得意なのだ。

 ダイニングの正方形のテーブルに控える椅子を引き、私は腰かけるように手で促した。

 挨拶もせずお茶も出さずに。

 「それでご用件とはなんでしょうか。王都の騎士様がはるばるとこのような地までいらっしゃるとは、一体どのようなお話でしょう」

 私はあえて硬い口調で尋ねた。

 向かい合って座るジークハルトは少し緊張した面持ちで、しかし私が全く思ってもみないことを話し出す。

 「実は私には思い人がいるのだが、その相手の令嬢と上手くいくように貴殿に魔女の秘法を享受願いたいのだ」

 「・・・・・・・・・・・・は??」

 一瞬の間の後に、あまりの予想外の内容に思わずおかしな声が出た。

 「私はかつて何人かの女性と交際したことがあるのだが、いつも上手くいかないのだ。毎回どの女性とも似たような理由で別れを切り出されてしまう。今度こそ思い人と上手くいきたい」

 「・・・・・は・・・あ・・・?」

 男の話す意味が分からなかった。それが私とどのような関係があるというのか。

 「私の友人から、貴殿は男女の色ごとに長けていると聞いている。魔女の秘法の、異性を惹きつける方法を知っているのだと。それをぜひ教えて欲しいのだ」

 「・・・・・!!」

 私は思い切り眉を寄せて深い皺を作り、不機嫌さを前面に出した。

 そして軽蔑をこめた目を彼へ向け

 「なんて無礼なの・・・」と怒りをにじませた低い声色で私が言うと

 「そうなのだ!私はいつも失礼な言動や余計なことを言ったり、まぬけな質問をして交際相手に愛想をつかされてしまうのだ。もう思い人から拒否されるのはつらいんだ、今度こそ上手くいきたい。どうか魔女の秘法を教えて欲しい」と生真面目な表情で乞う。

 バカだ。この男は振られて当然だと思った。本当に貴族なのかと疑いたくなるような物言いだ。

 私はまじまじとジークハルトを見た。

 今は座っているから背の高さは正確には分からないが、先ほど扉に立っていた感じからすると私の頭ひとつ分は高いであろう。騎士らしくがっしりとした広い肩をしているが、決していかつい印象ではなく、筋肉質で細身のその体躯はしなやかな野生の動物のような印象だ。サラサラとした髪は薄い麦わら色で、やや鋭い切れ長の目は髪色とよく合う美しいエメラルドだ。すっと通った高い鼻梁も形の良い唇も、異性にとって魅力的に映るであろう。

 爵位持ちの騎士で且つこの容姿を持ってして振られるということは、性格にかなりの問題があるか中身がよほど残念かなのだろうと察せられた。

 「私は魔女の秘法など存じません。お話がそういったことなのであれば、私ではお役に立てませんのでどうぞお帰り下さい」 

 憎々し気に言い捨てる私に対し

 「そ、そう言わずに!」

 そしてジークハルトは私が訊いてもいないことをツラツラと話し始めた。

 ジークハルト・ラウウザリーはラウンザリー男爵家の次男で2つ上の兄と4つ下の弟のいる26歳であること。現在彼は王都の王立第二騎士団に所属しており、副団長補佐官であること。

 ラウンザリー家の長男は男爵家後継ぎのため幼少よりしっかりとした教育を受け如才なく賢く育ち、三男も人付き合いの上手い明るく可愛がられる性格なのに対し、自分は苦手な貴族のしがらみから逃げて勝手気ままに生きてきたため、好きに生きてきたツケが回ってきたのだと言う。貴族令嬢とどのように付き合っていけば良いか分からないのだと。

 両親もそんな次男に政略結婚は望まず(むしろ相手貴族との関係悪化を懸念して)恋愛結婚で良いと言ってはくれているが、その肝心の恋愛がどうしても上手くいかないとため息をつく。

 そしてこの彼の思い人というのが、とある夜会で見かけた伯爵家の令嬢で、まさに一目ぼれ。あまりの美しさに一瞬で惹かれたが、かつて振られ続けてきた実績を持つ自分に、自信がないあまり声をかけることが躊躇われ、声をかけられないのであれば当然進展する見込みもないと項垂(うなだ)れた。

 次男なので結婚することに固執する訳ではないが、せっかく今現在、心惹かれている女性がいるのだから頑張ってみたい。しかし・・・と続ける。

 「5人だ。10代の頃より5人と付き合って全て振られた。私といてもイライラする、期待はずれだ、気が利かないと・・・」(てのひら)を広げて5の数字を作って悲しげに微笑んだ。|

 酒でも入っているのかと疑いたくなるようなくだの巻き方に、私は小さくため息をついた。

 「ジークハルトさん。とてもお気の毒な話ではありますが、私ではお役に立てません。どうぞお帰り下さい。突然訪ねて来られ、そのような話を聞かされても困ります」

 再びそう言ってジークハルトを追い出すことにした。

 「魔女殿、一つだけ・・・」そう言いながら悲しげに私を振り返り

 「この家の周りに石を敷き詰めた方がよい。あなたはこの家に独りで住んでいるのだろう?家の周りが芝や土だと気配を吸収してしまい野党などに窓から侵入されやすい。女性の一人暮らしだ、気をつけないと」

 さすが民の安全を守る騎士だと言ってよいのか迷うところだが、そのような注意を言い残し「それではまた来る」と去って行った。

 え・・・・・また来る?私が断ったの理解できていないの!?

 最近の王都は平和すぎて騎士は暇なのか。


 それから10日ほどジークハルトは姿を現わさず、私が言ったことを分かってくれたのだと少々安堵したころに、彼は馬に大きな荷を付けてやってきた。

 馬の背に何やら重そうな荷を乗せて、彼は馬を引いて歩いていた。

 「遅くなってすまない」

 「・・・・。」

 そもそも約束なんてしていないので謝られる理由はない。私は胸の下で硬く両腕を組んだまま扉の前に立ち、ジークハルトを無言で見つめる。

 彼の運んできた大きな麻でできた荷袋の中身は、鳴り石だった。鳴り石は踏むとカラカラと音の出る特殊な石で、王都貴族の屋敷の多くで庭や家の周りに敷き詰めて防犯用に使われている。

 「本当はもっと早く来るつもりだったのだが、騎士団の仕事が片付かなくて申し訳ない。余計なことかと思ったが、前回来た時にどうしても気になってしまって」

 そう言いながら馬か石を下ろすと、「そのようなことはしなくて良い」という私の言葉は完全に無視し、町にまだ石を取り置いているから取ってくると言い残し再び馬で町へと戻って行った。

 そして彼は町と我が家を3度ほど往復すると、それを家の周りにせっせと運び、おおよそ半日の作業で全ての石が家を取り囲むようにぐるりと敷き詰められた。

 ・・・貴族が自らやるような作業ではない。

 頼んでないこととはいえ、一人暮らしの私の身を案じ朝から午後まで働き通しで汗だくになった彼をさすがにそのまま追い返すような鋼の精神を私は持ち合わせてはいない。一通りの作業を終えたジークハルトにダイニングに入るよう伝えて温くなって飲みやすくなったお茶を差し出した。

 「このようなことをなさって私に恩を売っても、何もお教えできることはございませんよ」

 と冷たく言い放つ私に

 「分かっている、そんなつもりはないよ。私の自己満足なだけだから気にしなくていい」

 かすかに笑みを浮かべ、そう言って一気にお茶を飲み干した。

 「美味いなこの茶!薬草茶か?」

 私は答えず、彼のお茶をつぎ足しながら疑問を口にした。

 「ー--風の強い日・・・嵐の日など(あお)られて石が飛んで行ったりしませんか?」

 「大丈夫だ。低い位置にある石は、よほどの巻き風でない限り嵐で飛ぶようなことはない。そもそもこの辺りは大きな嵐も少なかろう」

 「・・・そうですが嵐が苦手なのです。危険は出来るだけ排除しておきたいので・・・」

 「自然の脅威は魔女であっても恐ろしいものなのだな・・・。まあ不安や不便は誰にでもあるか。女性の一人暮らしだ、気をつけるに越したことはないな」

 「そうですね、時にはおかしなお客様もいらっしゃいますし」とこの騎士を見ながら嫌味を込めて返す私に「それは気をつけないとね」と全く通じず頷き返した。

 「ところで魔女殿、名前を伺っても?」

 一瞬ためらったが、ずっと魔女だと呼ばれるのも気分が悪い。

 「・・・アヴィエラです」

 友人に教えてもらったという私の悪評高い二つ名のみを知っていて、本来の名を知らなかったのかと少々腹の立つ。高位貴族であるダントン侯爵家の名前を出すのも(はばか)られるし全てを教えるのも何だか癪に障るので、あえて素っ気なく名前のみを教えた。

 「アヴィエラ殿か。私のことはジークハルト・・・、ジークと呼んでくれて構わない。アヴィエラ殿はいつからここに?もう長いのか?」

 「ー--いえ・・・2年ほどになります」

 「ではまだそう経っていないのだな。慣れぬ土地での生活は苦労も不便も多かろうに。一人で全てをまかない暮らすとは立派なことだ」

 うんうんと勝手に納得し頷く彼を一瞥する。

 ー--慣れぬ土地ではない。私にはダントン家領地のこの土地もこの森もこの家も、すべて子供のころより慣れ親しんだ場所なのだが、それは口にしなかった。

 もし何か困ったことがあれば王立第二騎士団の私宛に連絡をするようにと言い残し、この日ジークハルトは帰って行った。

 ーーー王立第二騎士団のジークハルト・ラウンザリー副団長補佐官・・・。

 私のかつての婚約者を知っているか、もしかしたら仕事上での付き合いなどがあるかもしれない。

 元婚約者の、アスベルト・フラウザー公爵令息のことを私はぼんやりと思う。

 私が10歳、アスベルトが13歳の時に婚約が決まり、両家の政略的な婚約ではあるものの、年が近く互いに穏やかでまじめな性格の二人は、気心の知れたとても仲の良い婚約者同士であった。両家の仲も良好で、だれもがこのまま何事もなく事が進んでゆくものだと疑わなかったのだ。

 ー--あの出来事さえなければ。

 婚約解消と自身がこの森で独りで住むきっかけとなった事件を思い出し、気が重くなる。そして「思い人から拒否をされることがつらいのだ」というジークハルトを気の毒に思った。

 アヴィエラは知っている。愛する人から否定される苦しみを。どうしてよいか分からず暗闇の中で迷子になるような心細さを。行き場のない眠れぬ夜を過ごすやるせなさを。

 ー--次にジークハルトが来た時には、少しだけ優しくしてやろうと思った。


 その後ジークハルトは10日に1度ほどの割り合いでアヴィエラの元へ訪れるようになった。

 何をしにというでもなく単純に、深く豊かな森や草原を有るするこのダントン領が気に入ったようだった。

 王都まで馬車だと丸1日かかるが、馬であれば半日の距離だ。王都から遠くない自然豊かなこの領地は騎士には大した距離ではないようで、休日の度に息抜きがてらこの地に来ているようなものだ。

 最初は魔女の秘法を・・・と言ってはいたものの、情けない彼の恋愛話をせきららに語ってしまって気心は知れたとばかりに、最近では私を訪ねては大抵の時間をお茶を飲みながらの雑談に費やし、私が不在の時には町で食事をしたり草原の先の森でのんびりしたりと、自由気ままに過ごしているらしい。

 私も生活がかかっている以上は暇ではない。彼ばかりに時間を取られてはやるべきことが滞るので、彼をダイニングに残したまま薬草の処理をしたり洗濯を終わらせたりと、遠慮がなくなっていた。

 (だって彼が来てもお金にならないし・・・。むしろ時間を取られているわ)

 それでも追い返すことをしないのは、私は気兼ねなく話せる友人を欲していたのだろうかとも思う。

 ここ最近では、ジークハルトは自分がアヴィエラの仕事の邪魔になっている自覚があるからか、あるいはアヴィエラにご馳走になるばかりで毎回手ぶらで訪れるのも(はばか)られるのか、王都で評判の焼き菓子などを手に持ってくるようになった。



第二章 嵐の夜に


 その日アヴィエラは朝から、町に住む一人暮らしの年老いた女性の家へと向かった。

 彼女は高所にある物を取ろうとし、踏み台から足を踏み外して身体を庇い手をついた腕を痛めたのだ。骨折をしなかったのは不幸中の幸いだが、ひと月は不便な生活になるであろうという医者の見立てだった。アヴィエラは痛み止めと湿布薬の他に簡単に食べれるような日持ちする食事を数種類用意し持ち運んだ。

 体調かどうかと尋ねるアヴィエラに、処方してくれた薬がよく効いて夜も眠れるという。町はずれに住む息子が時折り様子を見に来てくれるが、仕事が忙しく1時間もいると帰ってしまうようだ。

 アヴィエラは温めの湯で彼女の身体を丁寧に拭いて清め、部屋を軽く片付けると掃き掃除をした。身体や部屋が汚れていると気持ちも落ち込むものだ。

 領主のお嬢様にそんなことをさせるのは申し訳ないと恐縮する老女に、今は薬師として来ているので遠慮はいらないと微笑む。

 思いがけず時間がかかってしまった。長居すると彼女を返って疲れさせてしまうだろう。2~3日したらまた来ると言い残して、アヴィエラは老女の家を後にした。


 (ー--風が湿り気を帯びてきた・・・)

 朝、アヴィエラが町へ向かった時にはうす曇りで時折(ときおり)晴れ間も見えていた空は豹変し、今は重たく暗い雲が幾層にも折り重なっていた。足元から(あお)られるような横風が強くなり、真っ直ぐ立っているのも難しいくらいだ。 

 空はここ数時間で、山の天候のように急激な変化を見せていた。遠くにあったはずの黒い雲が風の速さと比例してあっという間に町へと近づき、遠くの空を見上げたアヴィエラは帰途を急いだ。シャツやシーツを干しっぱなしにしたままだ、急がなくては。

 あと少しで家だというその時、ぱらぱらという音とともに雫が落ち始め、すぐにゴロゴロという低い地鳴りのような響きと同時に突然大粒の雨が降りだした。森の木々が多少なりとも雨が当たるのを防いでくれるが、木々の合間を縫って走る風の強さに数分後には全身がずぶ濡れとなる。気持ちは焦るが、濡れて重たくなったスカートが足にまとわりつき、思うように走れなかった。

 息を切らしながら、庭先で強風にバタバタと大きくはためくシーツというよりもはや大きなぼろ布に見えるものを急いで抱え込んで、急いで家の中に飛び込んだ。

 雨がばつばつと激しく打ち付ける曇った窓から、強風で飛んで行ってしまったと思われるワンピースらしき布切れが近くの木の高所で引っかかっているのが見えるが、この雨風の中を再び出ようとする気概はもはやなく諦めた。運が良ければ明日にでも泥まみれのそれを回収できるであろう。

 ー--外では風が低い唸りをあげている。今夜は眠るどころじゃないかもしれない・・・。そう思いながら清潔なタオルで濡れた身体と頭をぬぐう。

 そしてアヴィエラの予想はあたった。

 時が進むにつれ雨風は一層強くなり、いよいよ本格的な嵐となったのだ。

 

 「怖い・・・」

 アヴィエラがこの森で独りで住むようになって2年、このようなひどい嵐は経験したことがなかった。

 隣国へと続く山脈や平地の深い森を多く所有する自然豊かなこのルバツク王国は、近隣諸国の貴族たちの夏の避暑地として人気のある地だ。大陸の北に位置し、冬の吹雪はあっても夏は比較的天気の安定した土地であったため、この時期の急な嵐はめったにないことだった。

 そしてアヴィエラの暮らすこの家は、侯爵家の屋敷にしてはすこぶる貧相だが狩猟小屋というにはあまりに豪華なもので、アヴィエラの今は亡き祖父祖母が引退後の夫婦二人の生活場として建てたものだ。決して脆弱(ぜいじゃく)な造りではないはずのこの家が、今は大きな地鳴りのような音とともにガタガタと横に揺れ、窓ガラスは風の力だけで割れてしまうのではないかと思える。

 こんな嵐になるのなら、今夜は領地にあるダントン家の屋敷にいた方が良かったと思ったが、もう今さら手遅れだ。腕を痛めているあの老女は大丈夫だろうか。きっと一人で不安に違いない、今の私のように・・・。

 まさかの天気に心細くなり、アヴィエラのおびえる瞳に涙が浮かんだ。

 ー--嵐の日には、決まって元婚約者を思い出す。


 婚約が決まった年の夏、少年アスベルトは見分を広めるという名目で、単身でダントン侯爵家の領地に遊びに来ていた。

 ひと月ほどの滞在予定で屋敷の客間に寝泊りをしていた彼は、婚約者とともに昼間は森に入りそこを流れる小川で水遊びや魚を捕まえたり木の実を採取して遊び、夜は侯爵家自慢の料理人の腕をふるった食事をめいいっぱい頬張った。

 異性を意識するにはまだ少し幼く、しかし完全に無邪気というにはその時期を卒業している二人は、お互い時期が来たら生涯をともにする相手として朝から晩まで始終、夏のひと時を楽しんだ。

 ー--その日も、今夜のように日中は晴れていたが夕刻から天気が急変し、夜には立派な嵐へとなっていた。

 両親とアスベルトと共に早々に夕食を終え、あとは眠るだけだと寝着に着替えて各々の部屋で過ごすその嵐の夜。アヴィエラは外を唸る風の音におびえ、大きな毛布を頭からスッポリかぶって丸まり、暗闇の中ベットの中で耳をふさいだ。

 アヴィエラが6歳の頃に父から、嵐の日に外出をし落雷が身体を貫き亡くなった親戚がいるという話を聞いて以来、その光景が目に浮かび猛烈に嵐が苦手になってしまったのだ。

 もう10歳というのに、嵐が怖いからとお父様とお母様の寝室になんて行けない・・・。今夜が終わるまでは、私は布団の中でじっと縮こまり嵐が通り過ぎるのを待つしかないのだ。

 ああ、早く朝になれ・・・・朝になれ・・・・。まるで呪文のように心の中で唱える。

 ーーートントン・・・

 その時、家の中で控えめに響く何かを打つ音に気がついた。

 ーー-トントン・・・

 「・・・?」

 窓の外の轟音と毛布の中にいるため、音がこもってよく聞こえなかった。

 毛布からそっと小さく顔を出す。

 ーー-トントン・・・

 それはアヴィエラの部屋の扉を控えめにノックする音だった。

 ーー-トントン・・・アヴィエラ、アヴィエラ・・・・

 「!!」

 私は急いで飛び起き、入口へと駆け寄った。

 (アスベルト!!)

 目を見開き精いっぱいの驚きを表した顔で扉を開けると、心配気に、しかしどこか楽しそうに見えるアスベルトが、心持ち背を丸めて立っていた。

 「アヴィエラ大丈夫?怖くない?」

 嵐の音にかき消されてしまうような小声で、アスベルトがアヴィエラの耳元に口を寄せた。

 「こ、怖いの!こんな嵐、私初めてで・・・」泣きそうになりながら訴えるアヴィエラにアスベルトは内緒にしようと言いながらアヴィエラの部屋へと入った。

 婚約関係で且つまだ幼いとはいえ、男女が同じ部屋で二人きりで過ごすなど、決して認められないということは、上位貴族の令息令嬢の二人はよく分かっていた。

 が、今夜は緊急事態だからといたずらっぽく笑うアスベルトに、アヴィエラもそうだよねと肯く。

 アスベルトはガタガタと揺れて震える窓に向い、まっすぐ歩いて行った。

 窓から荒れ狂う暗闇を眺めると、遠くで金色の稲光りが見え少ししてからゴゴゴと音がして、アヴィエラは身を(すく)ませた。

 「あ・・・アスベルト、あまり窓に近づくと危ないよ・・・」

 「アヴィエラ、実は僕ね、雷って好きなんだ」

 まるで面白い秘密を打ち明けるように、いたずらっ子のようにくふふと笑いながら振り向くアスベルトにアヴィエラは思わず声を上げた。

 「な、なんでっ!?」

 「だって綺麗じゃない?それに迫力があってかっこいい。アヴィエラは花火って見たことある?」

 「・・・花火?うん、前に国王陛下のお誕生祭の時に王宮に上がったのを・・・」

 「雷って花火みたいじゃない?」

 「は、花火とは全然違うよ・・・!」

 「そう?僕には同じくらい綺麗に見えるよ。花火は人間が作るけど、雷は神様が作るんだ。犬とか鳥とか動物は花火を怖がるだろ?人間も神様の花火を怖がっているんだよ」

 神様の花火・・・。

 なるほど・・・花火にしては迫力はありすぎるが、そう言われてみればそんな気もしてきた。アヴィエラは素直なのだ。

 ベットにぐしゃぐしゃに丸まった毛布を手に取りそれを引きずりながら、アヴィエラは窓辺に立つアスベルトに近ずいた。遠くの空をまた稲光りが走りびくりと足を強張らせるが、先ほどよりも少し怖くなくなった気がする。

 隣にいるアスベルトがアヴィエラを見て笑ってくれているのを見て、アヴィエラは思い切って尋ねる。

 「・・・アスベルト・・・アス、まだ一緒にいてくれる?」アスベルトを初めて愛称で呼んでみた。

 「うんいいよ。アヴィが眠くなるまで一緒にいよう」

 優しく微笑みながら「怖くないよ」というように手を握ってくれた。

 二人は窓を背に並んで座り込みながら、遠くに離れていく雷鳴を背景に他愛のない話をする。

 好きなおやつに、好きな遊び、そしてお気に入りの本・・・。

 その中でも、アスベルトが最近読んで面白かった本に、大陸の南の国のことが記述されていたという。

 「そこにはね、大きな赤や黄色の花が咲いていて、それでルバツク国にはいないような花と同じ鮮やかな色の鳥が住んでいて・・・」

 アスベルトの穏やかな声を聴いているうちに、アヴィエラは何だか眠たくなってくる。

 「いつか大人になったら、一緒にその国に行ってみようよ」

 こくりこくりと、肯定なのか眠気なのか分からないような舟をこぐアヴィエラをアスベルトは軽く笑いながら手を引いてベットへと連れて行ってくれる。

 (・・・うん、いっしょに、い・・こう・・・、あす・・・と・・・)

 アヴィエラはこの時、初めての恋をした。


 そう、そんなひと時もあったのだ。

 ---でも。もうアスベルトはいない。

 私は独りでこの嵐の夜を過ごすのだ。強くならなくてはと、唇をかみしめる。

 ガッシャンーーーー!その時2階からガラスの割れる音がした。

 ・・・ああ、最悪だわ・・・。

 慌てて2階に駆け上がり音のした寝室の扉を開けると、やはりかベットのすぐ横の窓ガラスが割れ、その破片がベットや床に飛び散っていた。

 アヴィエラは急いで1階へ戻ると、棚から釘にとんかち、そして先ほど取り込んだばかりのぐずぐずに濡れたシーツを抱えて再び寝室へと急いで戻る。

 風がごうごうと唸り声をあげながら室内へ吹き荒れる中、これ以上ガラスが飛び散らないようにと割れたガラス窓に濡れたシーツを打ちつけていった。ガラスの破片が濡れた布に絡みつく。

 全身濡れた身体のまま必死に作業を終えて、半ば茫然としながら外の暗闇を見る。ピカリとまた光り、それ同時にどおおんという低く重い振動が響き、アヴィエラはビクリと大きく身体を震わせた。

 怖かった。アスベルトのいない嵐は怖い。指先がピリと痛む。シーツを打ち付ける際にガラスで指を切ったのかもしれない。

 「痛い・・・、怖い・・・・・」

 気がつくとポロリと涙がこぼれ、そのことを自覚すると次から次へとホロホロと流れる。冷え切った頬に温かい涙が伝うのが気持ち悪かった。

 「・・・・アスベルト・・・」

 思わず口にした、決して返事の来ることのない名を呼ぶと更に涙は止まらなくなり、目の奥がツンと痛くなる。

 未練を断ち切ったと思っていた、かつての婚約者の瞼の奥に浮かぶその姿に、胸が潰れそうだった。

 ーーーアスベルト、怖い。助けて、一緒にいてーーーー

 その時

 ドンドン!!

 「な、なに・・・?」

 1階の扉を思い切り叩く音が響いた。

 何か風で飛ばされてぶつかったのかもしれないと、私は涙をグイとぬぐって緊張しながら下へと降りた。

 ドンドンドン!!!

 再び扉を叩く音とともに、最近では馴染みになった聞き覚えのある声が響いた。

 「アヴィエラ殿!アヴィエラ殿!中にいるか?」

 「ジークハルトさん!?」

 私は慌てて扉を開けた。

 そこには、まさに全身ずぶ濡れで、強い風に(あお)られた黒く重たい外套をバサバサと音をたてて暗闇にはためかせるジークハルトの姿があった。

 「ジークハルトさん!どうしたのですか、こんな日に!」

 とにかく中に入ってとダイニングに招き入れ、急いでタオルを取りに行った。

 「あなた、来るの明日の予定じゃなかった?」

 そう言いながら大きめのタオルを渡してやり、私は別のタオルで彼の肩や背中を拭いてやる。ついでに濡れていた自分も拭いた。

 「そう。たまたま今日はここの隣領に仕事できていたから、宿に泊まって明日の朝にここに来るつもりでいたんだ。そうしたらそこで、夜には嵐が来ると聞いて」

 そう言うとフードから頭を出しワシャワシャと濡れて束になった栗色の髪を豪快に拭いた。水しぶきが勢いよく私の顔に跳ね、またタオルで自身の顔を拭った。

 「アヴィエラ殿が嵐を苦手だと言っていたのを思い出した。一人きりでこんな嵐を過ごすのが心配だったから来てしまった」と照れたように笑った。

 「・・・こんな雨風の中・・・。馬は大丈夫?」

 「馬は宿に置いてきたから」

 では自らの足で来たというのか。この嵐の中、私を心配して身ひとつでーーーー

 「アヴィエラ殿、大丈夫か?泣いていたのか?」

 私は手の甲でこしこしと目をこすり、

 「大丈夫です、寝室のガラスが割れてしまって指を切ってしまったの」と人差し指を立てて2階を指した。

 それは大変だ、部屋が安全かどうか俺が確認しても良いかと聞かれ、了承をする私を伴って階段へと向かうジークハルトの背に、私は思い切って声をかけた。

 「・・・ありがとう」

 「え?なに?何か言った?」

 「ありがとうジークハルトさん」

 「どういたしまして」まだ濡れている髪をかきあげ、にっこりとジークハルトが笑った。すっと流れるような瞳が優しく細められた。

 アヴィエラはもう、今夜の嵐が怖くなかった。


 翌朝は、前日の嵐が嘘のような晴天だった。

 結局、昨夜は2階だけでなく1階も危なげな場所は薪の廃材などを使って補強をし、ガラスの片づけもジークハルトが行った。一通りの確認の後に、もうこれで大丈夫だと思うと頷き、彼はこのまま町へ戻ると言う。

 「まさか!この嵐の中、帰すことなんて出来ないわ!」

 「大丈夫だ。行きも問題なく来ているし騎士団で嵐の中での訓練もあり慣れているよ」

 「客室があるの。そこに泊って」

 「君の部屋は今夜は使えない。君が客室を使えばいい」

 「だからってこんな嵐の中を帰せないわ!」

 ジークハルトが雷に射抜かれた光景を想像し、身震いし私は再び声を上げた。

 「何も考えず感情的になって、一人住まいの女性の家に不用意に夜に来てしまった。ほんと考えなしだ。こういうところが俺は駄目なんだろうな。気を遣わせてすまない。俺は本当に大丈夫だから」

 そう頑なに断るジークハルトに、私がまだ嵐が怖いのだと悲しげな顔をして見せた。何があるか分からない、怖いから今夜はここに泊って欲しいというと、ようやく困ったような顔をしながら了承してくれた。

 私が2階の客室をジークハルトが1階の小さなリビングを使うことで決着し、彼はそこにある一人掛けのソファを寝床とした。ジークハルトが来る時はいつも入口に隣接するダイニングでお茶を飲んでいたので、彼をリビングに入れたことは初めてだった。

 そしてジークハルトに大き目のブランケットを手渡し、風の唸り声を耳にしながらそれぞれの部屋へと引き払った。

 ー--昨夜は遅くまで起きていた。

 いつもより少しだけ遅い時間に目が覚め客間で目覚めた自分を不思議に思ったが、一瞬で昨夜のことを思い出した。

そして隣の自分の寝室の扉を開けて中をのぞき、まだ濡れてはいるが思っていたよりひどいことになっていないそこに安堵する。

 ー--ジークハルトさんはもう起きているだろうか?

 普段アヴィエラは異性に対してかなり距離をおいた付き合い方をしていた。

 薬師の仕事として接する時も意識的に一線をひき、口調も決して砕けずに。必要以上に親しくならないように。誤解されないように。

 しかしと思う。ジークハルトは信用してよい人間だと。私を傷つけることはしないだろう。だから昨夜、普段の自分からは考えられぬ行為だが、迷うことなく彼を泊めた。どうせこの家を訪れる客もいない。他人に見られないなら、なかったことと同じだ。

 アヴィエラは自身の寝室にあるクローゼットからワンピースを取り出し着替えると、軽く髪をまとめた。足音を立てないように気をつけながら1階へと降りて行き水場で顔を洗った。

 そしてリビングへとそっと足を運ぶと、中から物音のしないことを確認して静かに扉を開ける。

 ー--ジークハルトは大きな身体を小さく丸め、窮屈そうにソファで眠っていた。

 着ていた服はびしょ濡れで、とてもではないが着衣したまま寝ることなど出来なかったのであろう。彼は服を脱いで昨夜渡した大きな毛布にくるまっており、濡れて黒く重くなった服がソファの横の床に無造作に重なって置いてあった。

 私の気配を察したのか、ジークハルトのエメラルドの目がゆっくりと開かれた。

 彼はすぐに現状を理解したようで、私に顔を向けると、かすれた気だるげな声で

 「おはようアヴィエラ殿。ちゃんと休めた?」と寝癖でピコンとはねた前髪で問うた。

 「お陰様で。ありがとうジークハルトさん。もう起きられるようなら、顔を洗ってらして。もう少ししたら朝食を作るわ」

 分かったと言いながらジークハルトは身を起こし、めくれた毛布から彼の筋肉質の肩が露わになり、アヴィエラは慌てて目を逸らした。

 (薬師の仕事をしていても裸の男性の手当てはあるじゃない、気にしたらだめよ・・・)そう思い込み熱くなる頬をごまかした。

 ここに男物の服などあろうはずもなく、彼は裸の上に毛布を巻きつけた状態の少々気まずい格好で朝食を終えた。こんな晴天だ。彼の服もすぐに乾くであろう。

 朝食後、芋虫のように毛布のみを身に付けたジークハルトがその格好のままで家の周りを点検するというのを何とか思いとどまらせ、濡れてしまった服やらタオルやらを干し終えると、私はジークハルトにダイニングの椅子に腰かけるよう勧めた。

 もういいだろう。この人はいい人だ。私に悪意を持って関わってきている訳ではない。単純・・・純粋な気持ちで、私に教えて欲しいと願っているだけなのだろう。

 アヴィエラは彼の気に入っている薬草のお茶を淹れて、目の前に座る恐ろしいくらい親切でお人よしで実直なこの男に切りだした。

 「さて、ジークハルトさん。決めました。今後私はあなたに、意中の方と上手くいくための方法をお教えします」

 そう告げると、ジークフリートは瞠目し暫く無言で私を見つめると

「本当か!それは・・・ありがたい!」と頬を緩ませた。

「ぜひ教授願いたい」

「私のことはアヴィと。私もあなたをジークとお呼びしても?」

「もちろんだ、アヴィエラ・・・アヴィ。よろしく頼む」

 こうして私たちは、まるで師匠と弟子のような関係となったのだ。



第三章 彼女の名はロザリエ


 改めて見ると、今更ながらジークはとても見目の良い男だった。

 すらりと高い背に騎士らしく広くたくましい背中、程よく日焼けしたきめ細やかな肌に、その顔立ちも精悍で切れ長の涼しげなエメラルドの目元は笑うととたんに優しげになり、それだけで心を奪われる令嬢も多いのではないかと思う。

 そして数多(あまた)いる王都の騎士の中でも、彼は役職持ちだ。剣技が飛び抜けているのはもちろんのこと、それだけでは補佐官など務まらない。頭も切れて優秀なはずなのだ。

 ーーーなのに振られると・・・。

 そう。最初に感じた通り、彼のこの性格の問題なのであろう。

 訊くと彼は、今まで5人の貴族令嬢すべて相手からの積極的なお誘いがあり、ジークもだんだんその気になってそのまま交際へ発展したという。お互い政略結婚をしなくて良い立場の者同士だ、交際が深まり互いに同意すれば、そのまま婚約そして結婚への道は明るい。しかし、そろそろ婚約をという段階になる前に相手からはお断りが入る。

 なるほどねと思った。

 きっと彼の麗しい見た目に期待をしてしまうのだ、王子様を。甘い言葉で愛を囁き、夜会の前には流行のドレスや装飾品の贈り物をしてくれて、まるでお姫様を扱うようにエスコートをしてくれると。

 ジークの外見通りのお付き合いを疑っていない令嬢は、いざ付き合ってみると、思っているような交際生活にならないことに戸惑いを感じるのであろう。彼の持つ実直さは、洗練されたスマートな振る舞いを好む貴族社会では良しとされないのだ。野暮ったい男に思えてしまうのかもしれない。

 人から与えられること、(かしず)かれることに慣れている貴族の令嬢は多い。最初は疑問を持ちながら付き合ってみても、時間が経つにつれ彼の不器用さや鈍さに我慢ができなくなるのは目に見えている。なまじ見た目が良いばかりにその期待値が高くなり、そして現実での落差にがっかり度も高くなるのだ。

 よし分かった。まずは多くの貴族令嬢が喜ぶであろう洗練された且つ情熱的な表現の仕方やマナーを教え、手紙の書き方、プレゼントを贈るべきタイミングとその中身、それらを順を追って学んでもらおう。

 今回に限れば、既にジークには意中のお相手がいるのだ。ひと通り学んだらその令嬢に合わせた個別の対策を考えればよい。

 「ジーク、相手のご令嬢はなんておっしゃるの?」

 「ロザリエ嬢だ。ロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢だ」

 もしかしたら私の知り合いの可能性もあるのでは、と思い尋ねるが聞いたことのない名だった。

 (あとで王都にいる友人にこっそり聞いてみよう・・・)

 ジーク曰く、夜会で初めて彼女を見た時、彼女のまわりだけ空気が違い金色の明るい光が彼女を取り囲み、目を奪われたと。まるで天使降臨の宗教画のようだったという。本人のいない所でそれだけの言葉で褒められるなら、ジークもまったく成長の見込みがない訳でもなさそうだ。

 伯爵家で且つそれほど美しいならロザリエ嬢はもう既に決まった相手がいるのでは?と当たり前の疑問を口にすると、ジークも気になって知人に聞いてみたところ何年か前に一度婚約の解消をしているようで、それ以降は今のところ話の進んでいる相手はいないと言う。

 貴族の政略的な婚姻では、家同士の政治的商売的な方向が異なってしまえば、婚約の解消はままあることだ。

 そうであるなら、今年の社交シーズンが終わる前にジークとその令嬢を近づけてあげたいと思う。

 デビュー後の貴族にとって、毎年の社交はより良い婚約そして結婚を勝ち取るための戦場だ。ジークの思い人が素敵であればあるいほど、早く婚約が決まってしまう可能性が高い。急いだほうが良いのだ。

 私はさっそく、授業に取り組むべくジークに課題を与えてみた。

 ーーーそしてあまりの出来に愕然とする。


 「そ、そうじゃないわジーク!そんな直接的な言い方をしたら、女性はひいてしまうわ・・・」

  課題は、《手紙で王立中央庭園の花の鑑賞会へ誘ってみよう》だ。

 「なによこれ、なんの手紙?『13時に◎◎草原で待つ。決して遅れることのなうように』って・・・。相手は恋しい人よ?騎士の部下に命令をしているわけではないわ。業務連絡でもなければ決闘の申し込みじゃああるまいし、それに庭園がなぜ草原になってしまったの?」

 「いや、庭園を花見ながらちんたら歩くよりも草原を馬で走る方が楽しそうだからさ」

 「書き直して!!」

 《王都で令嬢に評判の観劇へのお誘い》にしても、丁寧に書けたと照れくさそうに差し出した手紙には

 『17時に劇場で待ち合わせをして、一緒に楽しい劇を観ましょう』

 ああ、ジーク・・・嘘でしょう?

 「どこの男児よ・・・」私は頭を抱えた。

 また別の日には

 「今日の課題は《相手を褒める》よ。褒めることは何でもいいの。人となりを知らない方に対してであれば、その方の身に着けているもの・・・例えば髪飾りやドレスが似合うでもいいし、親しい方であればそのご家族やお人柄をとか。褒められて嫌な気持ちになる人はいないでしょ?でもね嘘はダメ。お世辞じゃなくて、その方の良いと思うところを心を込めてお伝えするってことよ」

 「よし分かった。じゃ、まずはアヴィを褒めるよ」そう言うとじーーーとアヴィエラを見つめた。

 「き、き、きれいなひとみですね」

 「あ、あ、ありがとうございます」

 まさか容姿を褒められるとは思っていなかったので、思わず顔を赤らめてしまった。言った本人も顔が赤いのだ。

 そんなこんなの練習も、何度も何度も練習を重ねることで、どうにか大人の男性からのお誘いの手紙だとわかるくらいには成長し、手紙の次はさりげなくスムーズなエスコートであってみたり、女性が喜ぶ場面別の贈り物であったりを学んでいった。ちなみにダンスは得意だ問題ないというので、時間もないしそこは彼を信じて練習はパスにした。

 そして私たちは、指導の合間にお茶を飲み楽しんだ。それは、独り住まいの私には思いがけないくらい楽しいひとときであり、彼が来る日には以前彼が美味しいと称賛してくれたお茶をかかさないようにした。


 

 そしてーーーー

 (何かがおかしい。何か変だわ・・・)

 以前からうっすらと感じていたことだったが、ジークとの会話の中で、私はどうも話がかみ合わないことに気がついた。

 「アヴィはさ、いわゆる媚薬のような薬で相手を騙したり、魔術で人の心をあやつったりしないから信頼が出来る。もし君がそういうタイプの魔女だったら、俺は頼むことはなかったよ」

 「・・・・・魔術・・・?」

 「あ、そうだ。この依頼の謝礼を何にするかまだ決めていなかったな。肝心なことを最初に決めておかなくてすまない!何がいいのだろうか。金か物か、他の何かでも。魔女の世界では何を受け取ることが多いのだろうか。まさか依頼の代償は俺の魂とか?」と言って形の良い唇ではははと笑う。

 「・・・・・たましい・・・」

 まさかーーーーこの人まさか信じてるーーー?

 ジークは強張る私の顔に気がつかない。

 私は、恐る恐る訪ねた。

 「・・・ねえジーク、あなたは私以外の魔女を知っている・・・とか?魔術を見たことある・・・とか‥‥?」

 「実はあるんだ、子供のころに一度」

 そして彼は大切な秘密を打ち明けるというように、小声で話し始めた。

 ジークがまだ子供のころに行った家族との旅先の田舎町で、まだ少女の魔女に会ったという。

 ジークはその町の中央広場の露店で土産物を買おうと一人うろついていたところ、魔女から声がかけられた。今から魔法を見せるから持っているお金をくれと。好奇心から快諾したジークハルトに向けニッコリ微笑んだ少女は、では・・・と。そしてその魔女は手を空に向け広げると、何やら呟き・・・。程なくして晴れていた空から雪が降り始めたのだと。

 「ー---で、ジークはその少女にお金を全て渡してしまった・・・と・・・」

 「あれは驚いたなぁ。どういった仕組みの魔術なんだろうか・・・」とジークはうんうんと昔を思い出しながら頷き「いつかアヴィの魔術も見てみたい」とのたまわった。

 私は口を軽く開けたままじっとジークを見た。

 きっと田舎町のその空の先に、暗い雨雲が見えていたのであろう。ルバツク王国では冬の雨雲は確実に雪になる。風向を考慮して、その少女は間もなく雪が降ると予言めいたことを言ったのだと推測できる。

 まだ子供であったジークは、それを魔法だと信じお金を渡した。そして大人になった今も信じている・・・。

 ーーーー-私を本当の魔女だと・・・・。

 あまりに驚いて、私は顔を作ることができずに険しい表情をしていたようだ。

 「アヴィ?やはり魔術は普段は人前で隠しておくものなのかな」

 何と答えればよいのか分からず、「ええ」とも「ああ」とも曖昧な声を発する私に「いつか俺に心を許してくれたら見せてくれると嬉しい」と子供のような顔をしてほほ笑んだ。

 ーーーこのような大人がいるなんて。しかも彼は貴族で騎士なのだ。

 どうりで・・・と思う。ジークの性格がだんだん分かるにつれ、彼の話す内容に違和感があったのだ。

 『サルヴェーニャの森の魔女』とは、王都貴族の男性にとって有名な官能空想小説だ。私は以前、自分となぞられるその本がどうしても気になり、義兄にお願いしてそれを取り寄せたことがあったのだ。内容は、令嬢淑女などとても正気で読み進められないような、はっきり言って猛烈に下品なものだった。

 ジークは最初に会った時に私を『サルヴェーニャの森の魔女』かと聞いてきたので、てっきり私はその小説に出てくるふしだらな魔女、と侮辱されたのだと思ったのだ。

 多分彼はその小説を、そして私の3年前の王都での噂も知らない・・・。

 王立騎士団に所属していてあの醜聞を知らないなんてことがあるのか不思議だが、彼の人となりを理解してきた今なら妙に納得だ。

 ー--ああ、なんて可愛い人なんだろう・・・・・。優しくて純粋でまっすぐで。

 こんな人が、貴族令嬢の手に負えるはずがない。

 私は、ジークが今まで振られ続けことを悲しく思った。ジークはすっかり自信を失っている。

 見た目だけではなく彼の本質的な善良さをちゃんと見て、ありのままの彼を愛してくれる人が見つかれば良いのに。。。

 そしてそれが願わくば、彼の思い人のロザリエ様でありますようにーーーーー。

 そう思った時に、私は何故かちりりとした胸の痛みを覚えた。


 しかしそれからほどなく、思いがけずにジークは私の良からぬ噂を知ることとなる。

 その日私は午前中に街に出て、いつもの店に薬を卸したり日常の用品を買い物する予定だった。午後にジークが来るというので、なるべく急いで用事を終わらせる。

 彼はきっと、手土産に焼き菓子を持ってきてくれる。今日は思いのほか涼しいから、いつもの彼お気に入りの薬草茶はやめて生姜をほんのり聞かせた紅茶にしようなどと漠然と思いながら、さて森の我が家に帰ろうかと荷物を抱えなおしたその時、

 「アヴィ?」と声がかかった。

 ハッとし声のした方を見上げると、聞き覚えのある声の主はこげ茶の愛馬に(またが)るジークだった。風がジークのサラサラの栗色の髪をゆらし、光にあたる彼の瞳がいつもよりも明るく見えた。

 私を見ると彼は破顔し

 「やっぱりアヴィだ。町で会うの初めてだね」

 「驚いたわ、ジーク来るのは午後じゃなかった?」

 「早朝の散歩ついでに飛ばしたら、予定より随分と早く着いてしまった。アヴィは買い物?」

 「ええ、薬を卸して食材とか日用品を色々とね」

 「重そうだ。持つよ」と言って馬を下り、私の荷物を馬の荷袋へと(くく)りつけた。

 「アヴィお昼はもう食べた?もしまだなら広場の裏に上手いチキンを出す店を見つけたんだけど、一緒にどう?」

 「行く!行きたい!」

 その楽しげな提案に私は即答する。私はめったに外食をしないし、友人と呼べるような人と店で食事をすることは、この森に住んでから初めてだ。思いがけないお誘いにわくわくした。

 目を輝かせながら期待で頬を染めるアヴィエラを見て、ジークハルトは一瞬言葉に詰まり瞠目したのち視線を外し、

 「ハーブをたっぷり使っていて旨いよ」と言いながら愛馬の手綱を引き、私の隣に並ぶ。

 その店は、中央広場から放射線状に延びる細道を入り少しだけ歩いた裏道にあった。赤いレンガ造りの外観はカジュアルだ。

 ジークは店の裏手にある専用のつなぎ場で馬を休ませ、二人で店の入り口に向かおうとしたその時、私たちの数歩先を歩く若い男たちの軽やかな笑い声が聞こえてきた。

 彼らは質の良い布地の服を身につけ、髪もきれいに整えられており、どこか洗練されたこの三人の男たちのいでたちは王都の貴族たちを思わせ、私は一瞬で緊張をした。

 (まさか昔の知り合いじゃないわよねーーー?)

 咄嗟に下を向いて顔が見られなうようにする。

 「この領地に例の『サルヴェーニャの森の魔女』がいるんだろ?」

 先を歩く貴族らしき男の言葉に、ぎくりと身体が強張(こわば)り私は歩みを止めた。

 「森に引っ込んでからもう3年くらい経つか?私は以前、夜会で彼女を見たことがあるよ。それはそれは妖艶で、あの容姿なら男を籠絡(ろうらく)するのはわけないだろうな。相手に婚約者がいようが既婚者であろうが、男ならおかまいなしらしいじゃないか」

 「私も一晩くらいお相手願いたかったな!」

 楽し気に、しかし確実に見下したような嘲笑ともとれる笑い声が耳に入ってきた。

 アヴィエラは俯き、眉を寄せて唇をきつくかみしめた。

 よくもこのダントン領で領主の娘の噂話などできるものだわ、神経を疑う・・・。

 「まぁ結婚向きではないよな彼女は。婚約破棄されるのも納得だ」

 「いや結婚は無理だが、私は彼女となら一晩遊べるだけで本望だ!ここに滞在している間に、ぜひ魔女様に夜のお相手の依頼を願おう」

 私は、はははと尚も話を続ける男たちに怒りを感じるより、隣に立つ友人にこの話を聞かれたことが恥ずかしかった。

 ー--これが私の・・・『サルヴェーニャの森の魔女』の世間での評価なのだと、ジークに知られてしまった。男たちに見下され、(あざ)け笑われる・・・。こんな私に異性を惹きつける術を学ぶなど、むしろデメリットしかないのではないか・・・。

 隣のジークが足を止め棒立ちになっているのが分かる。申し訳なく、そして気まずくて、私は彼の顔が見れなかった。

 しかしー--。

 (うつむ)く私の視界にジークの手が目に入り・・・。それはギュっときつく握られ、ぶるぶると震えていた。

 ハッとしてジークを見上げると、整ったきれいな眉の間に深い皺が入り頬は怒りのあまり紅潮し、彼は今にも飛び出さんとするところだった。先を談笑しながら歩き続ける男たちは、ジークと私の存在に気づきさえせず、そのまま店の扉の先へと消えて行った。

 「いいの、ジークやめて!」小さな、しかし鋭い声でアヴィはジークの腕を掴んだ。

 「なぜ!!あんな勝手なことを言われて黙ってなんかいられるはずないだろう!!」

 「いいのジーク、関わりたくないの!今出ると面白おかしく噂が広まるわ。あなたもこんなところで喧嘩なんてしたら騎士団から処分を受けてしまう。私なら気にしてないから大丈夫よ!」強張(こわば)った声で必死に止める私に

 「騎士団の処分なんてどうでもいい!!あの男たちの話す内容は事実じゃない、君はそのような女性じゃない!君を侮辱されて黙ってなんかいられない!!」

 「・・・・・」

 そう、まったく事実じゃない。

 私は、3年前に社交界で事実無根の色恋沙汰の噂を広められ、それがあたかも事実かのように知れ渡り社交界から一切の身を引いたのだ。男好きのする妖艶な容姿だと言われ(さげす)まれるることで、まさに身体も心も傷だらけになって。

 ほろりと、アヴィエラの大きく見開かれた碧の美しい瞳から、涙がこぼれた。

 ジークハルトのその言葉は、アヴィエラが当時の婚約者であったアスベルトに叫んで欲しかった言葉だった。

 「アヴィはそんな人間ではない」そう言って、私を信じて周りの好き勝手な噂を広める人たちに憤って欲しかった。公爵家の婚約者という立場ではなく、私の恋人としてなりふり構わずに・・・。

 もちろんそんなことは叶わぬ立場ということは充分承知している。だからこそ、アスベルトとは一切の連絡を取らないまま身を引いたのだから。

 決して長くはないが打ち解けた付き合いの中で、ジークは私を信じ、例えお咎めがあったとしても私の名誉を守ろうとしてくれた。その事実が、ただ嬉しかった。

 一度流れると涙は留まることをしらない。これ以上情けない姿は見せたくないと、ぎゅっと目も口も力を入れるが、それでもきつく閉じられた(まなじり)からは涙は溢れ出てしまうし、嗚咽が漏れた。

 「・・っう・・っ、っく・・・っ・・・」

 (うつむ)き嗚咽を(こら)えながら静かに涙を流すアヴィエラに、ジークハルトはまるで自分が傷を負ったかのように顔をゆがめた。

 「アヴィ、魔女だからといって傷つかぬはずはない。他者が傷つけてよい物など一人もいないよ。傷ついたら怒っていいんだよ」

 そう言うと、困ったような怒ったような表情で恐る恐る手を伸ばし、流れ落ちる涙で濡れた私の頬をそっとぬぐった。

 とまどいながらも手の甲で優しく触れるジークハルトに、アヴィエラは胸が押しつぶされるような何とも言えない気持ちになった。

 不器用でまっすぐな彼の優しさに、何故だか心が痛んだ。

 ーーーージークはロザリエ様が好きーーーー

 心の中で確認をする。

 「アヴィ、今度あんなことを言うやつがいたら必ず俺に言うんだ。二度と勝手なことを言えないように俺が()()()()に合わせてやる。」

「・・・ふふ、()()()()ってなによ・・・」

 鼻をすすりながらようやく笑ったアヴィエラに、ジークハルトはほっとしたように微笑んで

 「君を傷つけるやつは俺が許さない」

 アヴィエラはまだ濡れている瞳でジークハルトを見つめた。

 ーーージークが好きなのはロザリエ様。この正義感の強くて優しい友人のために、私は自分にできることをするーーーーそう自分に釘をさした。

 そうしないと・・・これから先の自分の気持ちに自信が持てないような、傷つきたくないというような、漠然とした不安が心を占める。

 「アヴィ大丈夫か?」

 そう気遣うジークに軽く肯いて見せると、ジークは、さっきの男たちがいるから店に入るの今度にしようかと言い、私もすっかり食欲がなくなってしまったので、とりあえずは二人で森の家へと向かうこととした。


 ジークが私のもとに通うようになって4カ月あまりが過ぎた。風はすっかりと秋めき、間もなく収穫祭だ。冬が長く厳しいこの国では、収穫祭が終わると同時にその年の社交シーズンも終わりとなる。

 その日いつものようにダイニングで向かい合い、他愛のない話をしながらジークとお茶を飲んでいた。

 私はいよいよ彼に提案することにした。

 「ジーク、あなたの社交のマナーも立ち振る舞いもとても良くなったわ。そろそろロザリエ様とお会いできそうな夜会を探しましょう。出会いの場としては夜会が一番自然だと思うから」

 そういう私に、ジークは何を言われているのか分からないとばかりに、きょとんとした眼差しで口を開けて「あ、そうか」とつぶやいた。

 もはや私たちは、秘法を教える師と弟子と称した茶飲み友達だ。しかし、この数カ月間の私たちの本来の目的が何かを忘れてはならない。

 「私がジークに教えられる、令嬢と上手くいくための(すべ)はもうほとんど伝えたわ。あとはあなたが彼女と出会えるきっかけがあれば良いだけだわ」

 そもそも私が彼に教えたことは貴族の基本的な社交マナーや会話術だ。それを今までずっと魔女の秘法と思って学んでいることが驚きなのだ。

 しかしロザリエ様とのことは関係なく、私と学んだ事柄は今後の彼に必ずプラスになるはずだ。ジークはもともと好感をもたれるような人柄だし、社交界でのマナーが身に付いていればジークはもっと様々なことがスムーズに運び、誤解されることなく上手くいきやすくなるだろう。

 「いや、しかしまだ早いのではないか?スマートな会話なんかまだ自信がないし、もう少し時間をかけて学んだ方が良いのでは・・・」

 「でも急がないともうすぐ社交シーズンが終わってしまうわ。そうしたらロザリエ様だってウォールステイル領に帰ってしまうでしょうし。それにジーク、あなた随分と洗練されたと思うわ。貴族特有の会話だって言い回し方だって、もう分かってきたでしょ?立ち振る舞いも食事やお茶の時の所作だってきれいになったわよ」

 合格よ、とにっこり笑う私にジークは眉尻を下げ

 「俺は情けないな。下位とはいえまがりなりにも貴族なのに。1から10まで君に頼りっぱなしだ。魔女の君の方がよっぽど貴族らしいよ」

 それは当たり前だ、私は侯爵家令嬢なのだ。幼い頃から身体に叩き込まれた令嬢としての所作や立ち振る舞いは、社交界を離れた今もなお恥ずかしくない程度にでも健在だ。

 ため息をつくジークに

 「情けなくなんてないわジーク。あなた、好きな女性のために変わろうと思ったのでしょ?自分をありのままに見つめることは勇気がいることよ。そして反省して、変わろうと行動を起こすことは更にもっと多くの勇気がいるわ。あなたの心は強い。本当に情けない人っていうのは、自分を見つることなく悪いのは周りにいる人間だ環境だって逃げるもの。あなた素敵な人よ。自信を持って」

 きっぱりと断言する私の目をジークは穏やかな瞳で見つめ、そして「ありがとうアヴィ」と静かに微笑んだ。

 「ねえジーク、私はあなたにさんざん色々なことを教えてきたけど・・・でも、私そのままの真っ直ぐなあなたも素敵だと思うわ。人と関わる時にはもちろん最低限のマナーは必要だと思うわ。でも礼節以外で会話やマナーが洗練されていなかったとしても、そのままのあなたを出しても良い気がするの。上辺ではない本当のあなたを。本当は変わる必要なんてないのかもしれないって・・・」

 一生懸命に力付けようとするアヴィエラに、ジークハルトは返事をすることなく彼女を静かに見つめた。



 ☆☆☆



 今ジークハルトは混乱していた。

 ここ最近、ロザリエ嬢よりもアヴィのことを考えている時間の方が長いことに気がついた。

 騎士団の貴重な休日は、全てアヴィの所へ来ているのだ。何なら、ここへ来るために今まで以上に決して楽ではない面倒な仕事を早く終わらせるようになっている。徹夜をしたことさえある。

 数日前も、今度アヴィの森へ向かう時には同僚から聞いた王都に新しくできたという評判の店で菓子を買って行ってみよう、焼き菓子好きの彼女はきっと喜ぶだろうと思った。喜びで頬を染めながら美味しい美味しいとサクサクと咀嚼するアヴィを思い浮かべ、思わず自分も微笑んでいた。

 あの嵐の日にだって、自分だってびしょ濡れなのにも関わらず「ジークが風邪をひいたら大変だ」と大きなタオルで優先して拭いてくれ、あげくに未婚女性が男を泊めるリスクを承知で自分が怖いからだと家に(とど)まらせてくれた。俺が勝手に来たのにも関わらず。そして俺に恩義を感じた彼女は、全く自分の特になるでもない俺の願いを承諾してくれたのだ。

 本人は気づいていないようだが、アヴィはとんでもなくお人よしだと思う。金にならない俺の相手で多くの時間と労力を費やし気遣い(おもんばか)ってくれる。なんなら少し抜けているのではないかとまで思っている・・・。本当に、よく魔女としてこれまで生きてこれたものだ。

 先日の町での、あの貴族らしき男たちが好き勝手に言ってアヴィを侮辱した時は、自分でも抑えきれぬほど腹の奥から怒りが沸いた。彼女が止めなかったら、間違いなく彼らを叩きのめしていただろう。今だって思い出すと腸が煮えくり返る思いだ。もし彼らを王都で見つけたら、正視できる自信がない。

 アヴィを傷つける人間を許せなかった。アヴィに喜んでもらいたい。やさしく微笑む彼女を見たかった。そしてーーーー

 「ジークどうしたの?大丈夫?」

 長いこと沈黙をするジークハルトにアヴィエラが心配そうに声をかけた。

 ハッと我に返り、ジークハルトは軽く頭を振った。

 このアヴィの特別な授業が終われば、自分がここへくる当初の目的がなくなる。

 森のこの家で菓子をつまみながら茶を飲み、他愛のない話をする。共に過ごすこの時間がなくなるなんて、今のジークにはもう少しも想像ができなかった。

 ーーーいやだーーーー。

 胸がギュッと掴まれたような気がした。せっかく打ち解けて話せるようになったのだ。俺たちは今はもう親しい友人と言っていいだろう。

 「アヴィ、これからも・・・ここへ来ても・・・?」我ながら弱気な声で驚いた。

 アヴィは暫く無言で考えていたが、一呼吸おいてから

 「それは難しいのではないかしら。もしロザリエ様と上手くいって恋人になった時に、あなたが他の女性のもとに通ってることを知ったら厭な気持になると思うわ。ましてや私は王都での評判が悪いから・・・」

 「俺たちはー--友人なのに?」

 「そう。友人だと当人同士が言っていても、周りはそう見なさないかもしれないでしょう。私にもし恋人がいたら、その相手に定期的に通う異性がいるなんて耐えられないわ」

 ー--だからあなたがうまくいったら私たちのお茶会はおしまいよ、と寂しげに微笑んだ。


 (さあ、私も覚悟を決めて動きましょう)

 なんの覚悟か。ジークの思い人のもとへ送り出す覚悟だ。

 ジークとのお茶会が間もなく終了を迎えることが現実味を帯び、私ははっきりと彼への好意を自覚してしまった。

 私は間違いなくジークに惹かれているし、彼との他愛のない気心知れたお茶会を友人としてだけでなく、下心も持って楽しみにしている。

 ここ最近では、ジークが(顔も知らないけれど)ロザリエ様とともにいる姿を想像するだけで苦しくなってしまう。あのエメラルドの美しい瞳が、他の女性に真っ直ぐに向けられる・・・。手を取りエスコートし・・・彼の一途なひたむきさが自分以外の女性に向けられると思うと、苦しくて逃げ出したくなるような胸を焼かれる思いがするのだ。

 ジークはこの数か月もの間、ロザリエ様のためにわざわざ休みの度に王都から通って頑張っているというのに、勝手に悋気(りんき)を持つ自分に嫌悪した。

 ---もう潮時だ。これ以上彼への思いを深くしてしまう前に、彼を祝福してあげれるうちに、私は早急に距離を取らなくてはならない。

 ジークから聞いた令嬢の名ーーーロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢。

 まずは彼女がどのような人物かを知ろうと思った。

 私は王都にいる友人に一通の手紙を書いた。3年前ひどい噂を流された時に私の潔白を信じ、身体を壊して療養する私に気遣う手紙を度々送ってくれたロアナ・トルスウェイ伯爵令嬢だ。

 ロザリエと同じく伯爵家の令嬢なので、何かしら付き合いや交流があるかもしれないと思ってのことだ。

 案の定、その令嬢を知っているとの返事がきた。

 もしロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢と一緒になれるようなお茶会やサロンパーティがあるなら自分も一緒に参加をしたいということを願い出ると、ちょうど一週間後に上位貴族令嬢のみの茶会がロアナの屋敷で催されるという。

 私は、そこにこっそりもぐりこませてもらうことになった。


 「アヴィ、手紙が来て久しぶりに会えるかと喜んだけど、あなたの目的は私と会うことではないわね?一体あなたは何をたくらんでいるのかしら?」

 お茶会が始まる前にトルスウェイ家のロアナの私室に呼ばれ、久しぶりの再会を喜んだのも束の間、彼女から問い詰められた。

 ごめんなさいと上目づかいに謝ってから

 「ちょっと恋の橋渡しをしようかな、って」

 「は?恋の橋渡し?」意味がわからぬというように目を見開くロアナに言う。

 「上手くいって欲しい友人がいるのよ・・・彼女と」

 私は、友人がロザリエ様に片思いをしていることと私が仲介役になって仲を取り持ってあげたいという計画を簡単に話した。

 私がかつて醜聞にまみれたとはいえ、腐っても侯爵家の令嬢だ。家格が上の私が仲介役をすることで、伯爵家のロザリエ様と男爵家のジークを引き合わせることだけは出来るはずだ。

 知り合ってしまいさえすば、チャンスが生まれることは間違いない。今日ここで私がロザリエ様との縁を繋ぎ、そしてそれをジークへと(つな)げるつもりだった。

 そう伝えた私の顔をロアナはまじまじと見つめ、しかし次に厳しく真剣な表情になった彼女は、鋭い眼差しを向けながら言い放った。

 「アヴィ、私は少し思い違いをしていたようだわ。あなたはロザリエ・ウォールツテイル伯爵令嬢のことをどの程度知っているの?」

 「え・・・」ロアナの真剣な様子に、私は思わず身を引いた。どのくらい知るも何もない、私は彼女のことを全く知らないのだ。

 詰問するように問うロアナに、私は驚きを隠せぬまま答える。

 「えっと・・・実は彼女のことを何も知らないわ」

 「アヴィ、悪いことは言わないわ。彼女に係るのはお()めなさい」

 いつも飄々としているロアナの、珍しく厳しい声音にどうしたというのだろうかと(いぶか)る。ロアナはロザリエ様に関わる何かを知っているようだ。しかも彼女と関わるなとはどういうことであろうか。

 そしてロアナは、はあとため息をつき断言するように言い切った。

 「アヴィには過ぎたことだからと敢えて知らせなかったのだけど、3年前にあなたの根も葉もない噂を広めたのはロザリエ様よ」

 言われた意味が分からなかった。

 「ー----どういうこと?」

 「3年前のあの事件のあとに、私や他のあなたの友人が噂の鎮静化をはかろうと、茶会であなたをかばう発言をすると、彼女は決まって否定するの。『私の友人のお友達がアヴィエラ様に婚約者をとられたと言っているようです』とか『友人の知り合いの男性がアヴィエラ様に誘われたことがあると言っていました』って。どこの誰が言っていたのかを聞いてみても、直接の知り合いじゃないのでって逃げるから、私もそれ以上の追求のしようもなくてね。ずるいのよ、他人の懐を借りてあなたの評判を落としていた」

 「・・・ロザリエ様が・・・私を・・・?なぜ?私たちに接点はなかったはずよ?」

 「分からないわ。でもあなたが王都を去り領地で療養している間にも、根も葉もないこと、ありもしない噂話を流し続けたのは彼女よ。そしてアスベルト様にも近づいた」

 「アスベルトに・・・?」

 「そう。夜会ではいつも積極的に話しかけていたわ」

 「・・・そんな・・・」

 「でもアスベルト様とロザリエ様が親しくなっていったという話は出てこなかったから、上手くいかなかったのでしょうね。彼女の見た目に騙されなかった事だけはアスベルト様を評価するわ」と冷たく言い放った。彼女は私とアスベルトの婚約破棄以来、彼のことを『見損なった』と最低評価しているのだ。

 「とにかく、アヴィが彼女と関わることは止めたほうがいいわ。私、アヴィが今回ロザリエ様に会おうとしているのは、3年前のことを知って彼女に仕返しをしようとしているのかと。それなら協力しようかなって」

 「まさか!そんなこと・・・。そもそもロザリエ様がそんなことしていたなんて・・・」

 私は動揺した。

 「彼女は、数年前のデビューと同時にウォールステイル領から出てきてね。あなたが領地に引っ込んでしまう少し前のことで、デビューした時にはかなり話題になったの。その人間離れした愛らしさで『新緑の天使』なんて呼ばれているわ。彼女の天使のような姿形に惹かれ盲信的な信者をもつ、ある意味では凄腕の令嬢よ。とりあえず今日のお茶会ではアヴィは顔を見せない方がいいわ。陰からこっそり顔だけ確認して、今後は近づかないようになさい。・・・あなたのその友人も見る目ないわね」

 そう言うと、そろそろ時間だから行きましょうとソファから立ち上がった。

 私は半ば茫然としながらロアナの後ろをついて行く。

 (なぜーーー。どこでロザリエ様の恨みを買ってしまったのか。ジークの思い人だというのに、私は既に彼女に嫌われているのか。ロアナの言うようにアスベルトに思いを寄せていて婚約者であった私が目ざわりだったの・・・?)

 トルスウェイ伯爵家の丁寧に手入れをされている庭園は、素晴らしかった。

 秋らしく涼やかな風に強すぎない日差しの中、色とりどりのドレスを身に付けた令嬢たちがまさに花のように咲きほこっている。立食形式のカジュアルな茶会で、各々がガゼボや日よけ傘のあるテーブルで社交する中。

 ー--白いテーブルに集う華々しい令嬢たちの中で、遠目でもひときわ目を惹く令嬢がいた。

 金にも銀にも見えるまっすぐで(つや)やかな髪は日差しを受けてきらきらと輝き、まるで女神のように神々しく風に揺らめいて彼女を縁取っている。そして翡翠色の大きな瞳は優し気に愛らしく(きら)めき、小さめの高くも低くもない形の良い鼻と瑞々しい果実のような桃色の小さな唇を持つ令嬢。『新緑の天使』・・・それは春の優しくも穏やかな日差しを思い起こさせる姿で、ジークが彼女を表現する時に使っていた言葉を思い出す。『天使降臨』。ー--きっと間違えなく、彼女が私の目当ての令嬢であろう。

 しかしそれと同時に、アヴィエラは違う意味でも目を奪われた。

 ー----彼女は・・・・・

 茶会の主催であるロアナは、その令嬢に向かって真っすぐ優雅に歩を進め、令嬢の座るすぐ後ろに立ち止まると、私の隠れる木に向かってチラリと目配せをする。

 ーーーー彼女がロザリエ様・・・

 私は、彼女から目が離せなかった。自分でも険しい顔をしているのが分かる。

 ー--私は。

 ー--私は彼女を知っている。

 3年前に。

 最初はあの夜会のバルコニーで。

 そして2度目はあの事件が起きた夜会の会場で。

 私は彼女に会っているのだ。

 偶然・・・なの?

 私は早々にお茶会を抜け、ダントン家のタウンハウスに戻った。



第四章 アヴィエラの過去


 

 王都の屋敷の部屋に籠った私は、かつて自分に起こった忌まわしい出来事を思い出していた。

 

 それは私がまだ19歳の年で、アスベルトと共に出向いた夜会でのことだった。

 名門フラウザー公爵家の嫡男として成長した彼は、その年齢にそぐわない程の落ち着きと知性を持って、社交界では既に一目を置かれていた。すらりとした長身にサラサラの黒髪、スッと通った鼻梁に薄く形の良い唇、そして琥珀色の優しげな瞳は、時には真実を見極めようとするように鋭くもなり、さすが時期公爵家を受け継ぐものとしての資質を持ち合わせていると、アヴィエラは時々そんなアスベルトに見惚れてしまう。しかし何よりアヴィエラが愛したのは、彼の穏やかで優しい性格だった。

 まだ年若いころに政略的な婚約としてなされたが、アスベルトと婚約ができて本当に幸せなことだと思っていた。

 その日は、彼のエスコートのもと侯爵家令嬢としてそして時期フラウザー公爵の婚約者として、そつのない社交をこなしていたと思う。

 婚約者だから許されるアスベルトとの複数回のダンスを楽しみ、少量のお酒を(たしな)んだことも手伝い、会場の熱気にあてられた私たちはバルコニーへと涼みに出た。

 頬をかすめる心地よい風に汗も引き始め、他愛ないお喋りをしているとアスベルトを呼びに彼の友人が来た。相談事があるという。アスベルトは友人と室内に戻ると言い、一緒に会場に戻るかと問われた私は、相談事なら私がいては話しにくいだろうと、もう少し汗が引いてから戻るからとその場に留まったのだ。

 ーーーそれが悪かったと、後悔してもしきれない。

 夜風にあたりながら花の咲き誇る夜の庭園を眺めている私に、背後から若い男の声がで

 「お一人ですか?」と声がかかった。

 突然のことに驚き振り返ると、若いと思った声の持ち主は20代半ばくらいであろうか。中肉中背でこげ茶の髪の間から覗かせている目はじっとりと陰鬱な印象を与えた。

 そのまとわりつく視線に厭なものを感じ、私はあえて軽く聞こえるように否定をした、

 「いいえ婚約者と来ています。少し涼みに出ただけですのでもう戻らないと」

 婚約者以外の男性とこのような場所で二人きりになるのは、社交界では御法度だ。急いで会場に戻ろう歩を進めたその時、

 「少々酒に酔ってしまったようだ、具合が悪いのです・・・、肩をお借りできませんが?」と下から見上げるように私と目を合わせる。

 ぞくりとした。本能的に逃げたくなる。

 「今、人を呼んで参りますのでこのままお待ちになってて下さい」

 と彼の前を通り過ぎようとした時ー--。

 「胡麻化さなくて良いですよ。あなたのその美貌で男を誘いたぶらかすため、ここで罠を張っていたのでしょう?」

 私の腕をパシリと掴み引き寄せようとする。私は驚きのあまり大きな声を上げた。

 「・・・な!!失礼な!!酔っていらっしゃるのですよね?手をお放し下さい!!」

 男の蔑む目にぞっとし腕を振り払おうとする私に、男は思いがけないくらい強い力で握った腕を引き寄せ私の耳元に唇を寄せて言った。

 「私は全部知っているんですよアヴィエラ様。あなたのしたこと全て」そう言うと男はガバリと私に覆いかぶさり、私の背中と腰に彼の腕をからめて抱き寄せた。

 「っっ!!!」

 ゾッとした。驚きと恐怖で身体が硬直し、頭が真っ白になる。

 「っな・・・なにをっ・・・・」言葉にならない声で何とか助けを呼ぼうと身をよじったその時。

 「まあ!あなた方このような場所で何をなさっているのですか?あなた、あなたはアスベルト様の婚約者の・・・!」

 軽く閉じられていた会場のカーテンは私たちを見つけた声の持ち主によって大きく開け放たれ、高く透き通った彼女の声は夜会の会場に響き渡った。

 皆の視線が一斉に私と私に抱きつく男へと注がれた。

 「・・・ち、ちが・・・。」

 血の気が引く。とんでもないことになってしまった。

 青ざめながらそれでも弁解をしようとする私に、その男は声を高らかに会場に向かって言い放った。

 「この女性が私のことを誘惑したのです!ここで休む私に誘いをかけてきたのです!」

 「・・・!!!」

 違う!そんなことしていない!!そう叫びたかった。

 あまりの嘘に私は目の前のこの男に瞠目するが、彼は堂々と、まるで大切なことを宣言するかのように誇らしげな顔をして会場にいる貴族たちをゆっくりと眺めた。

 私はパニックになった。そして心の中で叫ぶ。

 ・・・ちがう、ちがう!!私はそんなことしていない!!!

 ・・・・・アスベルト!アスベルト!!

 ーーー彼は先ほど呼びに来た友人と会場の中心部にいた。そして驚愕の表情で私を見ている。ついさっきまで私と一緒にいたのだ、彼も何が起きているのか分からないのだろう。困惑している。

 私は青ざめながら首を横に振り、助けを求めるようにアスベルトに向かい手を伸ばそうとしたその時、私の耳元でその男が囁いた。

 「誰もあなたを信じない。あなたの婚約者もだ。だって今、私と抱き合っているのを見たのだから」

 周囲に分らぬよう小声で言うとニヤリと口元だけで嗤った。

 怖かった。私はどうしていいのか分からず混乱した。ただこの場から離れたい一心で、一直線にバルコニーから庭園に続く階段を駆け降りた。

 私の乗ってきたフラウザー公爵家の馬車と馴染みの従者を見つけると「扉を開けて・・!」と叫んで飛び乗り、そしてそのままダントン侯爵家へと向かってもらう。

 もはや残されたアスベルトのことを考える余裕はなく、ガクガクと震える身体を抱きしめ「・・・なぜ・・・、どうして・・・」とつぶやいていたのを覚えている。

 単に言葉で男に絡まれるだけであったなら、それなりに対処できたはずだ。

 しかし婚約者と一緒に参加している社交の場で、会場に向かって大きな声を上げて(おとし)められたということが、アヴィエラを追い詰めた。見知らぬ異性に抱き着かれたことも、面と向かって破廉恥な言葉を使われたことも初めてだった。

 ダントン家の屋敷に着くや否や、ただならぬ様子で単身で戻ってきた娘に両親は驚き、何があったのだと詰め寄るが、私は明日詳しく話すからとだけ伝えて部屋へと籠った。

 そしてその夜から丸2日間、私は高熱で寝込んでしまった。

 夜会の翌日にはアスベルトがダントン侯爵家へ来て、前日の出来事を両親に報告したようだった。

 そして私はと言えば、高熱で意識が朦朧とし実際に彼と話ができるようになったのは、夜会から既に5日ほど経ったころであった。

 「・・・アス、私、いったい何故こんなことになったのか・・・。誘惑なんてしてないし彼から急に抱きつかれて・・・」

 「分かっているよアヴィ。私のせいだ。あの時に君を一人残して行くのではなかった。すまない・・・。」

 「アスのせいじゃないわ。私もあなたについてすぐに戻っていれば・・・」

 後悔は尽きなかった。そして体調が戻った今、一番気になることを訊いた。

 「あの後、夜会はどうなったの?私は何か噂されているの?」

 不安そうに尋ねる私にアスベルトは躊躇い迷う表情を見せるが、決意したように

 「実は君の話が社交界で広がっている。」

 覚悟していたこととはいえ、ショックだった。

 「どのような話・・・?私があの男性を誘惑したって・・・?」

 「それもそうなんだが・・・・」アスベルトが歯切れ悪く言い淀む。

 「アス、はっきりと教えて。知らなければ私はこれからどのように振る舞えばよいのか対処ができないから」

 「・・・そうだな。分かった。落ち着いて聞いてほしいのだが・・・」

 そう言ってアスベルトが話した内容は、とても落ち着いて聞けるようなものではなかった。

 ーーー私があの男以外にも様々な男性を誘惑している。婚約者がいようが既婚者であろうがおかまいなしに。アスベルト不在の夜会に出ると男漁りをしているとーーーーーー。

 私は言葉を失った。

 自分の容姿が周りから誤解を受けやすいことを私はよく理解していた。

 もの心ついたころから、私を表す時に『男好きのする』『妖艶な』という言葉を陰で使われていることを知っていたからこそ、私はそう見えないように振る舞いには人一倍気をつけていたし、男性とは常に距離を取って接してきた。

 アヴィエラは社交界ではその外見において、ちょっとした有名人だった。

 アスベルトと婚約が決まりほどなくして、成長期に入ったアヴィエラの美しさはどこの社交の場に行っても注目を浴びる。ゆるやかに波打つ艶やかな黒髪に、見つめられると吸い込まれそうだといわれる深い湖の碧色の瞳、光り輝く白磁の肌、高過ぎないツンとした形のよい鼻梁と紅をひかなくても紅く色づくふっくらした唇。そしてその白く豊かな胸と細く華奢な腰。誰もが触れたくてしかし高嶺の花の届かぬ存在。それがアヴィエラだった。

 見た目の華やかさとは対照的に、アヴィエラの性格は堅実で生真面目で穏やかな気性だ。

 小さなころはお気に入りだった父親譲りの髪も母親譲りの瞳も、社交では冷やかしの対象となっていることを両親に申し訳なく思っていたし、彼女のそのような性格は、家族はもちろんのことアスベルトやフラウザー公爵家のアスベル両親、親しい友人はよく分かっている。

 今回の夜会での醜聞は、しかし普段付き合いのない他の貴族たちにとっては、アヴィエラの見た目と噂があまりにも当てはまることで、やはりそうなのだと無責任に広めたものだった。

 「アスベルト・・・、私どうしたら・・・」

 「君に近しい人間は今回のその噂に憤っているよ。ちゃんと分かっている。噂を払拭できるよう私も共に動くから心配するな。ダントン侯爵とも相談しながら考えてよう」

 そう言って優しく私の手を握った。

 「病み上がりの君にこんな話を聞かせてすまなかった。今はゆっくりと身体を休めてくれ」

 「・・・分かった・・・ありがとう・・・」私は不安を隠せず、呆然としながら頷いた。

 それからの私は、アスベルトと積極的に夜会に参加することにした。アスベルトは父と相談し、二人の仲は何の問題もなく依然フラウザー公爵家もダントン侯爵家も良好な関係であることをアピールすることにしたのだ。

 親しい友人たちも積極的に茶会を開いて、他の令嬢たちに私の誤解をとく機会を設けてくれた。

 そしてその甲斐あって、私の噂は勝手に私に懸想したあの男の狂言だったのだということで、少しずつおさまりをみせていたころーーー。

 ある夜会で事件が起こったのだ。

 それはアスベルトと共に参加する予定の夜会であったが、フラウザー公爵家の領地で急を要する問題が発生し、父親であるフラウザー公爵と共にアスベルトは領地へ向かうために急きょ夜会を欠席することになった。

 私はアスベルト不在の夜会に出席することは気が進まなかったが、フラウザー公爵家と仕事上の付き合いのある家格が上の貴族からの招待であり、既に出席の連絡をしている上に二人揃って欠席などという非礼はできなかった。

 私は姉の夫の義兄ステフォンにエスコートを頼み、参加することとなった。

 親しくない貴族たちの視線を気にしつつも、フラウザー公爵家に好意的な貴族が主催の夜会であったため、私は思ったよりも息苦しい思いをしないですんでホッとした。噂をまだ信じている人はいるだろうから、嫌みのひとつでも言われるかと構えていたのだ。

 必要と思われる最低限の交流をこなし歓談を終えて、もうそろそろダントン家へ戻っても失礼ではないであろうと主催に暇の挨拶をするためステフォンを探すことにした。先ほどまで親しい子爵令息と会場内で話をしていたはずだ。

 会場をざっと見渡すが見つけられなかった。もしかしたら男性の歓談室かもしれない。そこにはいくつもの机と椅子があり寛げるので、夜会で義兄が見あたらない時は大抵そこにいるのだ。歓談室の出入り口に立つ侍従に、ステフォンが中にいるかを訪ねてみよう。

 私がその部屋を目指そうとした時、見覚えのある令嬢に義兄が私を探して庭園に向かったと教えられた。

 どこかで入れ違ってしまったのかしらと、その令嬢に礼を言い、私は広い庭園を彼を捜し歩いた。忙しい中、私の付き添いで来てもらっているのだ。姉の夫に手間をかけさせるのは申し訳ない。

 きれいに刈り込まれた植栽に囲まれながら左右を見渡し彼を探すが、それらしい人物は見当たらない。これより先は庭園の明かりが乏しい。庭園の奥まで一人で行くことは、いくらステフォンを探したくても止めた方が良いであろうと会場に戻ろう立ち止まったその時ー--。

 「アヴィエラ・ダントン侯爵令嬢ですよね?」

 ハッと気付いた時には、私の少し後ろを30歳前後の男性がぴたりと張り付いて歩いていた。見覚えのない男だ。庭園まで広がる夜会の管弦楽団の音楽で男の足音は消され、すぐ近くに来るまでが気が付かなかった。あるいは、意識して足音を忍ばせていたかだ。

 以前の夜会でのバルコニーの出来事を一瞬で思い出した。一刻も早くこの場から離れなくてはと、男の問いに小さく「いいえ」と答え早足で歩を進めようとしたが、男は私の戻りたかった屋敷側に立ちふさがるように立っている。バルコニーで抱きつかれた時のことを思い出し、彼の横をすりにけて行くのは怖かった。

 「アヴィエラ様・・・」再び男はそう言うとアヴィエラの正面に大きな一歩を踏み出し近づいてきた。

 いやだ、来ないで!ドクリと心臓が大きく跳ねた。知り合いでもないのに遠慮ない様子で女性と距離を詰めようとする非礼さに、ここを立ち去った方がよいのだと確信する。

 早く・・・この男から離れたい、早く・・・・!

 もう返事を返すこともなく、殆ど小走りに近い状態で男とは逆の方向に向きを変えた。この男から逃げなくてはと本能が教える。

 どこかに人はいないかと見渡すが人影は見当たらなかった。

 だめだ、庭園が広すぎる。もうなりふり構わずもう駆け出してしまおうと足を速め・・・

 ー--ふいに腕を掴まれた。

 ぎょっとし小さく「・・・ひっ」と声が出るが、男はそれにお構いなしに私をそのまま引きずるように、暗闇へと連れ込んだ。庭園の中でも死角になりやすい頭ほどの高さの植栽が連なる一角へと私を引きづり込むと、男は芝の上に私を放り出してすぐに体重をかけてのしかかってきた。

 (ああ!!どうして!どうしてまたこんな・・・!!)

 組み敷かれた私は恐怖で声を出すことができず、しかし最悪の事態だけは拒否しなくてはと腕をめちゃくちゃに振り回してもがいた。男の息が首筋にかかり背筋が凍る。声をあげて助けを呼びたくても、小さな呼吸さえ喉に貼り付き、かすれた音が出てだけだった。

 (ああ・・・、ああ!!いや!!)

 男が私のドレスの胸元を引きずり下ろした時、私はこれから自分に起こるであろうことを想像し絶望した。

 「・・や・・・やめ・・っ!!」足をばたつかせ、足の間に陣取る男を押し戻そうとするが全くびくともしなかった。抵抗する私に「おとなしくしてろ!」と低い声で凄み、無造作にドレスの裾をめくりあげた時。もうだめだと諦めかけた私の脳裏にアスベルトの顔が浮かんだ。

 いやだ・・・いやだ、アスベルト!!!

 「・・や・・めて・・・やめて!!助けて!だれか!!!」私は最後の気力を振り絞りできる限りの大声をあげた。

 「・・す・・て・・・・・助けて・・・!!!」

 慌てた男が私の口をざらついた手でふさいだ時、

 「誰?どなたかいるのですか・・・?」

 庭園の高い植え込みの陰から声が聞こえた。

 「・・・助けて!!!!」

もう一度声の限りに叫ぶと、覆いかぶさっていた男は慌てて起き上がり芝に横たわるボロボロの私を振り返ることなく一目散に立ち去った。

 植え込みの間から出てきたのは私よりも10歳は上くらいのひと組の男女で、私の姿を見てぎょっとしたように立ちすくんだ。

 (・・・行った)

 もう立ち上がる力もなく、呆然として横たわり呆ける私に

 「あなた・・・、大丈夫・・・?」

 女性の方が先に声をかけ、男性が立ち上がることのできない私を支えようと手を伸ばす。

 差し出されたその手にも恐怖を感じ、なかなか動けない私を見て今度は女性が私の背を支えてくれた。

 よろめきながら何とか立ち上がる。

(・・・わ・・たし、また・・こんなことになって・・・)

 涙が溢れて止まらなくなった。

(・・・なぜ・・・・なぜ!!!)

 (うつむ)き身体を丸め、苦し気な嗚咽が漏れる。

 最悪の事態は免れたが。しかし貴族社交界において私は『キズもの』になってしまった・・・。

 相手に一方的に襲われたとしても、実際は未遂に終わったとしても、この惨状はもう『きれいな状態ではない』とみなされるのだ。しかも先日の醜聞が治まりきってもいないのに・・・。

 泣きながら震えて自分を抱きしめる私に、女性は私の乱れて汚れたドレスを整えると(いたわ)しげな眼差しでアヴィエラを見つめた。

 「あなた・・・、ダントン侯爵のご令嬢ですね・・・?」

 ---私を知っている・・・。ということは、私の醜聞もご存じの方・・・。

 返事の代わりに小さく肯く私に、暫く無言でいた彼女は、私の背を優しくさすりながらため息まじりの穏やかな声で話を続けた。

 「・・・あのね、わたくしも社交界に身を置いている以上、噂の陰湿さは分かっているつもりよ。ねえ、あなた。ここには私たちしかいない。私も彼も今夜ここで起きたことを誰にも言わないわ。決して言わない。だから大丈夫よ」

 貞淑に見えるようあえてきっちりとキツく結いあげられていた私の髪は、今や半分がこぼれれ落ち、芝やら土やらが絡まった無残な惨状だった。彼女はそれを手早く整えてくれた。

 一緒にいた男性も「今夜のことは忘れて、このままあなたの家の馬車でお帰りなさい」そう言って二人で私を支えながら、庭から直接ダントン侯爵家の馬車まで連れて行ってくれた。

 私が涙でどろどろの顔で彼女を見ると、女性は痛ましげな表情で「かわいそうに・・・」と私の頬にそっと触れてくれた。

 「怖かったわね・・・。無理かもしれないけれど、今夜のことは忘れて身体をお休めなさいね」

 ー--こんな経験を忘れることなど出来るのだろうか・・・。

 しかし私を(おもんばか)ってくれる彼らに心から感謝をし、『キズもの』と扱われないで済むかもしれないと、そこだけは安堵した。


 ーーーしかしその後、社交界にはある噂が広まった。

 婚約者不在の夜会でアヴィエラ・ダントンは庭園で男と逢引していたと。夜の庭園を蝶のごとく羽を伸ばして羽ばたき楽しんだと。

 ーーーなぜ?なぜそのような噂が・・・・。

 アヴィエラは、あの夜に自分を(いたわ)り親切にしてくれた彼らを信じていた。

 あの場にいたのは彼らだけだったはずだ。私の立場を知っていて、他に広まらないよう気遣う発言をしてくれていたではないか。

 私が去った後に・・・?私は・・・嘘をつかれた・・・?

 ほんの僅かな時間ではあったが、彼らの優しさに感謝し信じたその思いが、かえってアヴィエラを傷つけた。

 そしてそこに追い打ちをかけるように。

 ー--ダントン侯爵家宛にフラウザー公爵家から婚約破棄を伝える正式な書状が届いた。

 父のジオルト・ダントン侯爵は痛ましげな目で愛娘を見つめ、落ち着かせるようにゆっくりとした口調で伝える。

 「フラウザー公爵も公爵夫人も決して噂を鵜のみにしているわけではない。子供のころよりお前を見てきて本当の娘のように可愛がっていたのだ。お前の嫁入りを心待ちにしていたのだから」

 しかしという。事実とは異なっていても醜聞を起こしてしまったことが問題なのだと。社交界がアヴィエラを時期公爵婦人となるにはふさわしくないと判断することが問題なのだと。

 ---彼らの立場も理解してほしい。ため息をつきながら諭すように私に告げる父に、私はもう何も言うことができなかった。

 ーーーそうだ、こんな私ではアスに迷惑をかけてしまう。

 ー--私は、彼にふさわしくない。

 アスも続けて醜聞を起こした私にもう呆れてしまったのだろう。だから彼はあのあと領地から戻ってきても一度も会いに来てくれなかったのだ。

 もうおわり。社交界でもそしてアスベルトとの関係でも、この先の明るい未来は途絶えた。

 今後私にまともな縁談がくることはないし、何よりアスベルト以外の男性と結婚をしたいと思えなかった。

 ーーーこの婚約破棄が決定打になった。

 私は事件後、息をしているだけの状態だった。自分にはアスベルトがいてくれるという心の支えを失い、そして私は心を壊してしまった。


 その後すぐに、私は療養としてダントン侯爵家の領地へと旅たった。

 深い森や川に広大な畑にと自然豊かな落ち着いた場所であり、領民もダントン侯爵家と近しく良い関係を築いているので、傷を癒すため静かに過ごすのには最適に思えた。王都にいることは、精神的にもう限界だった。

 私は一日のほとんどの時間を領地の屋敷の中で過ごした。籠っていると気持ちが落ち込むからと散歩に出るよう侍女に進められるが、半刻も経たないうちに戻ってきてしまう。

 昼間はまだマシだ、夜はもうだめだった。思い出してしまうのだ、あの夜を。

 腕を掴まれた感触、のしかかられた重みを忘れることができなかった。そして思い出すと身体の震えが止まらなくなり涙があふれ眠れる夜を過ごすのだ。

 触られた身体が気持ち悪くて血がにじむほど濡れた布で体をこすり続けてしまう。アヴィエラの体には、領地に戻ってから新しい無数の(こす)れた傷が絶えずついていた。

 そしてまた、あの夜私をエスコートしていたのにも関わらずこのような事態になってしまったことで、姉と義兄の仲がぎくしゃくしてしまっていたこともアヴィエラを追い詰めた。二人は政略結婚であったが、とても仲の良い夫婦だったのだ。

 私のせいでお姉様とお義兄様が仲違いを・・・。早く元気になって安心させてあげなくては・・・。

 焦れば焦るほど、悪夢は続く。

 アスベルトを思わない日はなく、彼の顔が浮かぶ度に思考を中断して彼のことを考えないようにしたが、それも成功しているとは言えなかった。この領地で幼いころより共に過ごしたのだ。屋敷のみならず、目にするどこかしこに彼との思い出の痕跡が残されている。

 食欲もなく夜も眠れずで、アヴィエラはどんどんやせ細ってしまい、艶のあった髪はパサつき、薄紅色だった頬は青白くこけ目も落ちくぼんだ。

 医師からは気鬱だと診断されたが、だから何だと思った。

 しかしそんな領地での生活の中、アヴィエラに一つの出会いが訪れる。

 医師から紹介された薬師のクリステという女性だ。

 クリステは30歳前後の明るい栗色の髪を持ち、子爵の娘だったというだけあり品が良く落ち着いた佇まいの美しい女性だった。どういう経緯で薬師になったのか分からないが、薬師で且つ貴族だという人に会うのは初めてだった。無口で余計な話をすることもなく、彼女が結婚しているのかどうかも知らなかった。

 口数の極端に少なくなっていた私への質問は最小限で、雑談はもちろんのこと必要最低限の会話しかしなかったのは、王都で私に何が起きたのかを知っていてあえてそうしているのか。

 彼女は私の私室に来ると簡単に挨拶をしてから体調について尋ね、気持ちを穏やかにする薬や薬草茶を渡すと「まずはお休みくださいね」と微笑んですぐに帰ることを続けた。

 私がベットから起き上がれない日には、横たわるを私の頭をそっとなで「大丈夫ですよ、今は休む時期なのですから。体も心もお休みが必要だから動けないようになっているのですよ」と言い長居をせずすぐに退室する。

 具合のよい日には私に自ら薬草茶を淹れてくれて、だからといっておしゃべりをするでもなく、ゆっくりと飲み終わるのを見届けてから「また来ますね」と優しく微笑んで帰る。

 私には彼女の距離感が心地よかった。

 領地屋敷の侍女やごくまれに訪れる来客に『顔色が良くなっている』とか『元気そうになってきた』あるいはその逆のことばを言われるのが苦痛だった。体調を気遣い励ましてくれているのは理解しているが、早く良くならなくてはという重圧になってしまうのだ。自分を心配してくれていると分かるために、放っておいてくれなどと文句なども言えずに結局は元気なふりの我慢をしてしまう。

 クリステは、決して私に「こう見える」というようなことを言わなかった。それがありがたかった。私は慰めて欲しいわけではない。そっとしておいて欲しかったから。

 次第に私は、彼女の距離の取り方は彼女自身が何らかの痛みを抱えたからこそ分かる、その経験がさせるものなのではないかと感じるようになり、だんだんと私は彼女に信頼を寄せていった。

 ある日私は思い切ってクリステに声をかけてみた。

 「私、あなたに話をきいてもらいたいの・・・、抱えきれない気持ちが苦しくて・・・」

 私は王都にいた時に起きた出来事を順を追って話し始めた。

 発端は、数か月前に夜会のバルコニーで見知らぬ男に抱きつかれた出来事で、それ以降に根も葉もない噂が広まり、更に夜会で襲われそうになったこと。未遂であったが醜聞として広まったこと。その時に助けてくれた男女に裏切られた思いをし傷ついたこと。そしてアスベルトとの婚約の破棄。

 涙で声がつまり嗚咽で何度も先が続かなくなった。しかし私がつかえながらも話す間、クリステは一言も話すことなくただ黙って話を聞いていた。

 私が言葉につまると励ますように私の手を優しく握り背中をさすってくれ、その温かさにまた涙が零れた。

 長い時間をかけて話をなんとか終えた時、ずっと無言で私を見守っていたクリステの瞳が潤んでいることに気がついた。

 「頑張りましたねアヴィエラ様。よく頑張ってらした」そう言いながら私の手をギュっと握り締めてくれた時、私は彼女の胸にその顔をうずめ、泣いているのか叫んでいるのか分からないような嗚咽をもらして今までこらえてきたすべての感情を解放したのだ。

 私はあの事件以降、感情の発散が出来なくなっていた。凍りつき麻痺していた感情をようやく手放す準備が出来たのだと分かった。

 そしてクリステは言った。無理に過去を乗り越えなくてよいと。無理に現実を受け入れる必要もないと。ただ前を向くことが大事であり、前を向いて歩けないのであれば立ち止まればいい。あるのは今と未来なのだからと。

 『乗り越えなくてよい』・・・。その言葉は、私をある種の呪縛から解き放った。私は『乗り越えるために努力をしなくては』と、無意識に頑張ろうとしている自分に気がついた。

 私はもの心ついた時からずっと侯爵令嬢として、アスベルトの婚約者としてふさわしくあるように、常に努力をしなくてはと思っていたのだ。

 その努力する気持ちは決して間違いではない。しかし、傷を負った今、それは必要のないことであった。

 その日を境に、私の心はゆっくりとしかし確実に回復を見せるようになった。

 時には再び落ち込み夜中に悪夢で飛び起きたり、急に涙が止まらなくなる日もあったが、それで良いのだ泣いて良いのだというクリステに励まされ、私はおよそ一年をかけて何とか通常の生活を送れるようにまでなった。

 そして私はその頃、決心していた。

 クリステが私にしてくれたように、私も傷を負った人たちが回復するための手伝いをしたいと。

 聞けばクリステは隣の領地にある薬師のための専門の学校で学んだという。隣の領地であれば近いし、今後結婚することなく生きるためにも生活の術を身に付けておきたい。何より私は学びたかった。

 さっそく私は王都にいる父に、薬師になるための学校に入りたいと手紙を書いた。貴族令嬢が薬師なんてと反対されると思って構えていたが、ずっと臥せっていた娘が何かに取り組む気持になったことに両親は喜び、思っていたような問題もなく許可がすぐ出た。

 冬になると馬車での行き来も大変だということで、私は屋敷からではなく学校の寮に入ることとなった。

 寮での生活は新しい経験の連続で、今迄のように身支度を手伝ってくれる侍女もいなければ料理人もいない。自分でなんとかするしかなかった。最初こそ失敗ばかりであったが、こつこつと経験を重ねるうちに1人で暮らすには困らないくらいの生活能力が身に付き、そのことは大きな自信へとつながった。当たり前だと思っていたことがそうじゃなかったことを身をもって経験し、自分の周りで助けて入れていた人々に感謝した。

 そして、通常であれば2年程度かかる薬師の勉強を私は1年と少しの期間で終了した。

 もともと侯爵家の令嬢として様々な分野での勉強をしてきたことに加え、生来の勤勉さと勉強にのみ集中できる環境があったのだ。学生の中には生活費や学費を稼ぐために仕事をしながら勉強をしている者も多く、私は恵まれた環境にいるのならその幸運を生かさなければという義務感にも似た情熱をもって取り組んだ。そうして無事、一人の薬師が誕生したという訳だ。

 そしてー--。私が領地へ引っ込み暫くしてから、王都ではある小説が流行した。

 『サルヴェーニャの森の魔女』という名のそれは、サルヴェーニャの森に住む若く妖艶な魔女が、老若問わず様々な男性を虜にし森の小屋に誘い込んで奔放な肉体関係を楽しむという、赤裸々な性描写とその肉感的な挿絵が話題の男性向けの娯楽官能小説だ。

 主人公の魔女が黒髪に碧眼、奔放な異性関係ということが社交界で醜聞を巻き起こしたアヴィエラ・ダントン侯爵令嬢のようだということで、私はその二つ名を頂戴したということらしかった。

 付き合いのない意地の悪い令嬢がわざわざそのことを手紙で知らせてきたので、私はそれ以来は本当に親しい友人以外の手紙は受け取ることを止め、王都にいる貴族との関係を絶った。

 私はこの地で薬師として自立をし、祖父母の思い出の森での隠居生活を送ることにしたのだ。

 二度と、王都に戻るつもりはなかった。


  ーーーそして。今はっきりと思い出す。

 最初の醜聞となった夜会のあのバルコニーで、私と抱きつく男に向かい何をしているのかと鈴の鳴るような愛らしい声で問うた令嬢。

 アスベルト不在の夜会で、義兄が私を探して庭園に向かったと心配そうな顔をして伝えた令嬢。

 --ーそれはロザリエ・ウォールステイル伯爵令嬢に間違いなかった。

 


第五章 アヴィエラの真実


 私は、当初考えていた計画を変更せざるを得ないと少々悩む。

 最初はロザリエ様と知り合った私が、夜会でジークを紹介する形で彼らを引き合わせるつもりでいたが、しかしロザリエ様が私にしていたという過去の所業を知った今、どう考えても上手くいくはずがない。

 私のよからぬ噂を彼女が広め・・・、それ以前の、噂きっかけとなった私に起きた二つの出来事が彼女とどう関わっているのか分からない。彼女がたまたまその場に居合わせただけの偶然かもしれないし、そうでないかもしれない。今となっては確かめようもなく、ただの憶測で全てを彼女のせいにすることはできないのだ。

 アスベルトに横恋慕していたからなのか或いは他の理由か分からないが、彼女が私に悪意を持っていることは間違いないだろう。そんな私からの紹介を、ロザリエ様が素直な気持ちで受け取るはずがない。

 そして最も思い悩む事柄はー--。

 (どうしようか・・・、どうしよう。ジークには、彼の人柄を理解してくれるような心優しい女性と幸せになって欲しいと思っていた。裏で人を落としめるような女性が、ジークにふさわしいと思えない・・・)

 

 けれどーーー。

 私、本当にジークのためにロザリエ様がふさわしくないと思っているのかしら?

 ただの嫉妬ではない?私からジークが離れてしまうのが嫌なだけじゃない?

 自分でも判断が難しく・・・いや、自分のことだからこそ分からなかった。

 先入観を捨てなくては。私はそれに苦しめられてきたではないか。

 ロザリエ様のことも思い込みなく公平に見るように・・・。もしかしたら彼女は当時のことを後悔しているかもしれないのだ。

 ーーーううううんんんん・・・、よしっ!!

 ジークは多少抜けているところはあるが、誠実でまっすぐな人間だ。癖のある者たちが揃う王都の騎士団で副団長補佐官の役職付きなのだから、仕事もできれば人を見る目もある筈だ。

 よし、彼を信じよう。ロザリエ様が(いま)だ他人に濡れ衣を着せるような裏のある性格であるならば、彼はちゃんと正しい判断をするであろう。

 とにかく、肝心の出会いを何とか段取りをつけてあげなくては。伯爵家のロザリエ様に、面識のない格下のジークから声を掛けることは非礼になるし、出会いを演出するなどジークには難題すぎる。

 そう、引き合わせるまでが私の仕事だ。それからは彼の価値観や見る目に任せる!

 私は自分を納得させた。


 数日後、いつものように私のもとを訪れたジークに、私は計画を打ち明けた。

 このルバツク王国では、夜会における各々のパートナーとの最初の踊りー--ファーストダンスは他国に比べて大きな意味を持つ。

 婚約者がいれば婚約者と、そうでなければ親族やその夜会でのエスコート役と。それ以外の男性と踊るという事は、その人物が婚約者候補または恋人候補であることを意味し、決まった相手のいない独身貴族にとってはライバルとなる他者への大きな牽制になるのだ。

 ロザリエ様には今決まったお相手はおらず、ロアナ曰く、ここ最近の彼女の夜会でのファーストダンスは全て親族らしい。彼女の婚約解消後に今まで相手がいなかったのは、ウォールステイル伯爵が次のより良い相手を吟味していたからだろう。それならば、あの麗しい天使のような彼女を今期社交で射止めようと、彼女とのファーストダンスは争奪戦になるに違いない。

 ジークが狙うは、もちろんその権利を勝ち取ることだ。

 けれど元々の知り合い同士ならともかく、面識のない二人が会ってすぐにファーストダンスのパートナーになることなど考え難く、そこで無理やりにでも縁を繋ぐ方法を計画したのだ。

 けれどその前に・・・

 「ジーク、ちょっと確認なんだけど、この国でファーストダンスがどのような意味を持つか知っている・・・・わ、よね・・・?」

 「ん?ファーストダンス?夜会での男女の最初のダンスのことだろ?」

 間違ってはいない。いないがやはりその重要性を理解している訳でもなさそうだ・・・。

 「婚約者のいない令息令嬢にとって、自分の最初のダンスのパートナーになるっていうことは婚約者や恋人の候補ですよ、っていうアピールになるのよ。もしそういうお相手がいないなら、最初はふつう親族や夜会エスコートと踊るの。年齢的に考えてもロザリエ様はそろそろお相手を決めるでしょうから、きっと秋の夜会は申し込みが殺到するはずよ。そしてジーク」

 私は彼の目を正面に見据え

 「あなたにはそのファーストダンスのパートナーになってもらいます」

 「えっ!無理だろ、知り合ってもいないのに!」

 「いいえ無理ではありません。踊れるよう一芝居打ちます」

 「は?芝居?何を言っているんだ?」

 「はいご説明しましょう」

 私は10歳男子にも分るよう順を追いながら話した。

 「まずですね、私も夜会に参加します」

 「俺と一緒に行ってくれるのか!それは心強いパートナーだ!」と期待に満ちた目を向ける。

 「違います。私がパートナーとして行ったらロザリエ様と踊ることできないでしょ。私は別に行き、そして貴族令嬢の振りをして夜会に参加します。会場には魔術をかけて入るし、過去に何度か夜会に出たこともあるので大丈夫、バレません」

 「・・・そうか、一緒には行かないのか・・・」ぽそりとジークがつぶやく。不安なのだろう。

 「そしてね、私はロザリエ様と接触を計ります。接触というか、私が彼女に絡んでワインをぶちかけようとします」

 「え!!なんで!!」

 「大丈夫、実際にワインをかけられるのはあなたです。ロザリエ様を庇って下さい。だからジークはその時には彼女の近くに必ずいてね。ロザリエ様の代わりにかけられるように」

 「・・・俺がワインを・・・」

 「はい。客室の控えの間に着替えを用意しておきますから。で、ジークが汚れた服を着替える間はさすがにロザリエ様もほかの男性とダンスなさることはないでしょうし、かばってくれたあなたがダンスに誘えば断ることもないでしょう。誰も傷つかず、相手に好印象を持ってもらえ、そして目的のファーストダンスも踊れると。そういう素晴らしい計画です!」

 ーーーなお、演技などできっこないジークに台詞を言わせるのはやめました、と心の中で付け加える。

 「誰も傷つかないって・・・君は?アヴィ、君はどうなるんだ?」ハタと我に返ったジークは、眉間に皺を寄せ強い声音で詰め寄った。

 「君がすっかり悪者になるじゃないか!」

 「私は大丈夫。魔術でどうにでもできますから。気にしないで」にっこりと、安心させるように微笑んだ。

 「何を言っているんだ、君をそんな風に犠牲にすることなどできるはずがないだろう!だめだ、そんなことやらないよ!」

 人に厄介ごとを押し付けて自分が良い思いをしようという人間じゃないのだ、ジークが反対することなど想定内だ。

 「大丈夫よ。あのねジーク、この計画は私のためでもあるの。私にも目的があって」

 「君のため?目的って・・・」

 「そう。私、二度とサルヴェーニャの森に来てほしくないの、王都の貴族に」もちろんあなたは別だけどと付け加え

 「この前も町で貴族の男たちが私を揶揄しているのを聞いたでしょ?私を気安い女だと思って森を訪れる男がこれまでもいたわ。もう私に近付いて欲しくないのよ、そういう男たちに。私のこと『この女にヘタに近づくと醜聞に巻き込まれる面倒な女だ』って思わせたいの。高位貴族の令嬢にお酒を掛けようとしたり懲りずに噂のネタを提供するようなね。これは私にも利のある計画なのよ。私と遊ぶ目的で森に来る男たちにはもう会いたくないの」

 だからジークも私のために協力して欲しいのだと乞う。それは本心でもあった。

 ジークは自分のためだけにだと、きっと動かない。私が一方的に負担がかかる計画になど、彼が乗るはずないのだ。

 尚も拒否するジークに、私は「これは私のためになるから」「私の安全のためにも」と説得をし、そして何度も「本当にアヴィはそれでいいのか、危険はないのか」と確認され「君がやはり止めたいとなったら即中止をするから絶対に教えろ」と約束をさせられて、ようやくこの計画を実行することとなった。

 出る夜会は、もう見つけてあった。

 残り少ない社交シーズンの中で、上位貴族から下位貴族まで王都にいるほぼ全てを招待できる大規模な夜会は、もう公爵家のそれしかなかった。

 ー--それがフラウザー公爵家主催の夜会とは皮肉なものだ。

 きっとアスベルトに会うだろう。私の行う一部始終を見られるかもしれない。

 ーーーでもいい。ジークに最適な舞台を用意できるのであれば、どう思われようと今さらだ。ジークの恋の好機は、もう来年にはないかもしれないのだから。

 どうせ二度と会うこともないような人たちばかり。やるべきことをやって即退場だ。ジークの犠牲になるつもりもないし、悲観もない。

 私は王都の父に手紙を書いて、フラウザー公爵家の夜会に出席したいのでと手配をお願いした。3年前から領地に引っ込んでいる娘が王都に戻りしかもフラウザー公爵家の夜会に出るというので、両親は何事かと心配をしたが、計画を打ち明ける訳にいかない。夜会で会いたい人がいるから、とだけ伝えて、招待状を手に入れた。

 ダントン家にはまた迷惑をかけてしまうが、どこの一族にも困った親族が一人や二人いるものだと割り切ってもらいたい。あれだけの醜聞をまき散らした私には、この先まともな家からの縁談の話もないいだろう、政略的に家の役に立てると思えない。ここはもう、私のことは諦めてもらって・・・。心配ばかりかけてごめんなさいと心の中で謝った。

 さあ。決戦は間もなくだ。


 

 ☆☆☆


 ジークハルトは王都の中心地を愛馬でぶらつきながら、軽くため息をついた。

 ー--夜会まで、いよいよあと二日だ。

 ひと月ちょっと前に、アヴィエラから計画を打ち明けられた。とんでもない計画だと思う。せっかく彼女が考えてくれたものだが、気が重くてしょうがない。

 彼女の利になるということでとりあえず計画にのることにしたが、果たしてそのやり方が本当に彼女の為になるのか分からない。

 そしてアヴィが言った「もうサルヴェーニャの森に王都貴族の男に来て欲しくない」という言葉も、暗く重く心に引っかかっている。

 ーーーもしかして俺も該当者か・・・?

 優しい彼女は、俺のために我慢して今までのお茶会もとい『女性と上手くいくための秘法レッスン』を続けてくれていたのではないか?本当は貴族である俺に会うのも辛かったのでは・・・?

 彼女はもう王都の貴族と関わりたくないと言っていた。それならば、さっさと計画を遂行して彼女を手放してあげなくては・・・。

 手放す?俺のものじゃないのに?

 ---いや、と自嘲する。俺のお守からの解放か・・・。

 魔女のアヴィは夜会用のドレスを持っていないかもしれないと、当日のドレスと装飾品を送らせて欲しいと伝えた。彼女の漆黒の髪にはエメラルドの色が似合うに違いないと思う。そう、俺の瞳のような・・・。

 しかし断られた。ドレスも装飾品も以前客からもらったものを持っているから大丈夫だと。

 ーーー客とは誰だ男かと、問い詰めたい気持ちを何とか抑える。

 そして今朝。いつになく早い時間からアヴィのもとを訪れていた。夜会で行う茶番の段取りの、最終確認だ。

 二日後の夜会に出るためには、遅くとも明日の朝一番の馬車に乗ることになる。乗合馬車で王都へ向かうくらいならば自分と一緒に馬で二人乗りして王都に向かおうと、彼女に提案するつもりで。

 道中には有名な庭園を有する領地を経由することが出来るから、なんならそこに立ち寄るのも良いのじゃないかと思ったので、その時間を考慮して夜明けと同時に彼女のいる森へと向かったのだ。

 喜ばれると思ったこの申し出も、即断られた。今日の午後に自分で馬車を手配して王都へ向うから心配しなくてよいと言う。明日の夕刻には王都に着いているからと。

 ジークハルトは落ち込んだ。最近色々と断られることが多い気がする。これ以上踏み込むなと一線を引かれているように感じ、傷ついていた。

 さてどうしようか。アヴィと昼食をともにするつもりでいたが、王都に向かう準備をするからとそれすら断られ時間が空いてしまった。ジークも早く戻って準備をしなさいと言われ、ほぼとんぼ返りで王都で戻るが、面倒な夜会の準備などぎりぎりにしても問題ない。まったく気持ちが乗らなかった。

 せっかくの休日だというのに気が晴れず、どうせ屋敷に戻っても騎士団に戻ってもやりたいことなどないので、時間を潰すためにふらりと王都広場の中心から少はずれた本屋へと立ち寄った。

 うす暗く埃っぽい店内の棚を目的なしに眺めながらゆるゆると歩を進めていると、ふと一冊の本に目が留った。

 それは濃い紫地に金色の文字で《サルヴェーニャの森の魔女》と書かれた、やや厚手の本だった。

 「サルヴェーニャの森の・・・」

 呟きながらジークハルトは本を手に取りパラリとページをめくる。

 開いたそこはちょうど挿絵が描かれたページで、そこには黒く長い髪の女が裸の男と(むつみ)あっている、外で見るのは(はばか)られる様な絵で・・・。どきりとする。

 普段こういった書物を読まないジークハルトはそれでもその題名と内容が気になり、思わず金を支払い足早に店の外につないである愛馬へと駆け寄った。そしてその本を荷袋へと無造作に放り込むと屋敷へと持ち帰った。

 ジークハルトは私室のソファにどかりと腰をかけ、買ってきた本を手に取る。

 (サルヴェーニャの森というのは、アヴィのいるあの森以外にもあるのか?しかし魔女というし・・・。アヴィとこの本は何か繋がりがあるのだろうか・・・?)

 アヴィの秘密を盗み見るような気持ちになり少しの罪悪感が沸き起こるが、ただ小説を読むだけで悪いことをしている訳ではないからと自分に言い訳をし、表紙を開いた。

 最初の1ページ、10ページ、20ページと読み進め・・・・・。

 ジークハルトは半分ちょっとを読んで、しかしこの本を小説として内容を捉えることが出来なくなってしまった。顔を赤くし手で口元を覆う。

 なんだこの内容は・・・。

 そして自分のよく知るサルヴェーニャの森に住まう善良な魔女が、(おとし)められているような不快感を覚えた。

 この小説が世の中の男たちに読まれているのかと思うと、何故が気分が悪い・・・。そう思い手を口元に当てたまま考え込んでいると、ノックの音とともに2つ上の兄が扉を開けた。

 「ジーク今日は騎士団には・・・ん?」ジークハルトが手にしている書物をチラリと見て驚いた表情を見せると

 「お前にしては珍しい本を読んでいるな」と冷やかすように笑った。

 ジークハルトは笑われた恥ずかしさよりもどうしても気になることがあった。

 「兄上、この『サルヴェーニャの森の魔女』は、小説だよな?実話ではないのだよな?」

 「もちろん空想だろ、当たり前だよ」

 思わずほっとジークハルトが息をついたすぐに

 「まあ、その話のモデルになった令嬢がいたらしいけどな」と付け加えた。

 「ー--話のモデル?」

 「ダントン侯爵家令嬢のアヴィエラ殿の醜聞を基に書かれたって噂だったが」

 「・・・・アヴィエラ・・侯爵令嬢・・・、侯爵令嬢・・・・?」

 「お前、彼女の噂を知らなかったのか?聞いたことない?」あんなに話題だったのにと驚かれる。

 ーーーそしてジークハルトは、兄から3年前に起きた事柄ー--かつて社交界を賑わせ広まったあの事件を聞き、初めてアヴィエラ・ダントン侯爵令嬢の醜聞を知ることとなった。

 それは、ダントン領の街中であの貴族たちから嘲け笑われた内容よりも更にひどいもので・・・。

 「----兄上。アヴィは・・・アヴィエラ・・・様は、そんな女性ではない。そのようなことをする人物では絶対にない!!」

 強張った顔で強く断言する弟に、虚を突かれ驚いた顔を向けながら「アヴィエラ・ダントン令嬢と面識があったのか」と問う兄は、更に話を続ける。

 「まぁそうかもな。嘘か本当か、事実は本人にしか分からない。もともとは、(あで)やかな見た目に反して真面目で誠実な人柄だと言われていた令嬢だ。彼女と親しい友人なんかは当時噂を真っ向から否定していたし、彼女は長年の婚約者とも仲睦まじかったからね」

 「・・・婚約者・・・」

 「そう、アスベルト・フラウザー公爵子息だよ。面識はなくとも名前と顔は知っているだろ?残念ながら醜聞後に婚約は破棄されたがな」

 「じ、事実かどうか不透明なのに、婚約破棄をしたと!?」

 「そうだよ。だって事実かどうかは重要じゃない。大切なのは疑われる状況を作らないことなんだ。相手は公爵家の嫡男だったから、醜聞になった彼女は公爵家に入るのにはふさわしくないと判断されたんだろうね。特に彼女は地位があって且つあの容姿だ。ただでさえ目立つし、色恋の絡んだ噂は尾ひれがつきやすい。当人には気の毒だけど、噂は貴族の娯楽として広まってしまったんだよ。地位も美貌も兼ね備えた憧れの令嬢の転落劇としてね」

 「・・・転落劇、だと・・・?」

 ーーー貴族の娯楽でアヴィは婚約破棄され、王都から離れざるを得なかった・・・。

 傷ついた彼女は、もう貴族とは関わりたくないと、だからあの森へ・・・?

 「婚約破棄の後、アヴィエラ嬢はダントン侯爵家の領地に引きこもってしまったから、その後どうなったか知らなかったけれどな。お前と面識あったとは意外だな。彼女は変わらず美しいか?」

 興味本位に聞く兄にもはや答える余裕もなく、ジークハルトは部屋から彼を追い出した。

 ーーー俺はなんてことを・・・・・。と(うつむ)き頭を抱えた。

 ジークハルトにとってアヴィエラは、姓を持たない『アヴィエラ』だった。人間のくだらない上下関係や(くく)りを有しない魔女の『アヴィエラ』が、いきなり現実世界の様相をまとい生身の貴族の人間としての存在を持つことに、大きく動揺した。

 そしてー--。出会ってから今までのアヴィエラとのやり取りを思い出し、血の気が引く。

 『サルヴェーニャの森の魔女とはあなたか』と問いかけた時の彼女の驚き歪められた顔、そして『異性を虜にする魔女の秘法を教えて欲しい』と乞うた時の怒りとともにどこか悲しげな顔を思い出した。

 そして俺は拒否する彼女に付きまとい、断りきれずにとうとう彼女は承諾してしまったのだ・・・。あまりの申し訳なさと後悔で胸がつぶれそうだ・・・。

 そしてハッとする。そうだ夜会!!

 アヴィは俺のお膳立てをするために、再び魔窟に飛び込むつもりだ。

 ここ最近のアヴィとの会話で、気になっていたことに思いをめぐらせる。彼女と話していると会話の端々(はしばし)に、やたらと「大丈夫だ」と言っていたのが気になっていたのだ。

 ーーー違う、彼女は本当は不安だったんだ。これまでの短く濃い付き合いの中で、彼女は決して弱音を吐かない人間だと理解している。アヴィは、鼓舞するために自分に向かって大丈夫だと言い聞かせていたのだと思いあたった。

 社交界の娯楽快楽をともなう悪意は根深い。美味しい話題を引っさげた羊が再び現れたら、格好の獲物だと飛びつくであろう。

 だめだ、これ以上彼女を傷つけるようなことがあってはならない。どんなに彼女に利があろうとも、そんな場所に彼女を引っ張り出す訳にはいかない。夜会での計画は中止だ。

 ジークハルトは兄から聞いた彼女の正式な名である《アヴィエラ・ダントン侯爵令嬢》宛に急いで計画の中止をしたいと用件だけの手紙を送った。アヴィは明日夕刻には王都についているはずだと言っていたから、もう既にダントン領は出ているだろう。これから自分がダントン領に向かっても入れ違う。

 手紙はすぐに目にしてもらいた。ダントン侯爵宛でなく令嬢に直接手紙を送るなど非礼かとも思ったが、急を要するのだ仕方ない。差出人がラウンザリー男爵家の名前であれば、きっと彼女のもとに届くはずだ。

 ーーーアヴィエラ・ダントン侯爵令嬢・・・、アヴィがまさか侯爵令嬢だったとは。

 そうだと知れば、彼女はまぎれもなく侯爵令嬢としか思えない。茶を飲む時の優雅な手つきと姿勢、立ち振る舞いを思い出す。何をするにしても、貴族特有の優美さを身にまとっていたではないか。

 魔女?秘法?あまりの自分のバカさ加減に地の底まで沈んでいくような、恥ずかしすぎて消えてしまいたいような心境になり、ため息とともに天井を仰いだ。

 侯爵令嬢のアヴィエラを遠く感じる。知らない女性のようだ。あの森で共に茶を飲んでいたアヴィを何だか懐かしく思い、一抹の寂しさを覚える。

 ジークハルトはジリジリした心持ちでアヴィエラからの返事を待った。しかしー--。

 彼は知らなかったのだ。ダントン家のアヴィエラ宛の手紙は実は、ほぼ本人の元へは届かない。なぜならあの醜聞以来、興味本位の冷やかしのような手紙や悪意の手紙があまりにも多く、結果彼女の親しい友人以外の手紙は受け取らないよう家の者に伝えてあったからだ。よって、書いた手紙は読まれることなくジークハルトの元へと返ってきてしまった。

 そんな事情など知る由もないジージークフリートはなぜ手紙を受け取ってもらえないのか分からず、やきもきと落ち着かない一日を過ごし、夜会当日を迎えた。

 ダントン侯爵が手紙を拒否したのかあるいはアヴィか・・・。自分は、また礼を欠いた事をしてしまったのか?手紙が拒否されるのならば、自宅へ直接行っても会えない可能性が高い。

 ー--彼女と連絡の取れないのであれば、もう会場で直接彼女を掴まえるしまない。彼女を夜会に・・・愚かで下世話な貴族たちの前に一瞬でも姿を出させるのは心苦しいが、早めに夜会に到着すれば大丈夫だろう。

 ーーージークハルトの頭の中には、ほんの少しもロザリエ嬢のことはよぎらなかった。


 ジークハルトがアヴィエラと連絡をとりたいとヤキモキしていたその頃、王都に着いた当のアヴィエラは、久しぶりに会う家族との再会を喜んでいた。両親とは社交のシーズンオフに領地で会っていたが、姉妹が顔を会わせるのはほぼ3年ぶりであった。ずっと気に病んでいた、姉と義兄の夫婦仲が再び良好な関係に戻っていることを感じ、ようやく肩の荷が下りた気がする。

(明日の夜にはまたちょっとした噂の種をまくことになってしまうけど・・・ごめんなさい)

 まあ、お茶をかけるワインをかけるということは、ごくたまに貴族間で行われる、相手に怒りをぶつけたり侮辱する行為だ。実際にはロザリエ様にかけるわけではないし、異性関係の醜聞よりははるかにマシであろう。

 さて・・・。明日の夜会で身に着けるものを決めようと、クローゼットに並ぶ色とりどりのドレスを眺めながる。きっとどれも今の王都での流行の型ではないであろうが、もともと流行りを追う性格でもないので、今回の夜会で着てもみっともないということはないであろう。

 そして思い出す。

 ー--ジークは私にドレスを送るとか言っていたわね。

 彼は何も考えずに提案したのだろうが、そもそも婚約者でも恋人でもない異性にドレスや装飾品を送るなんて発想は、貴族として()()だ。

 彼がどのようなものを選んでくれるのか非常に興味はあるが、王都の屋敷には、領地に戻ってからというもの使わなくなったドレスや装飾品がそれこそ山のようにあるのだ。

 魔女がドレスを持っているなどおかしいかと思い、咄嗟に客からもらったなどと言ってしまったけれど・・・。それを聞いた彼が曇った表情をしたのは、もしかしたら彼的には謝礼のつもりもあったのかもしれない。

 そういえば、昨日ジークったら馬で二人乗りで王都に向かおうなんて言うのだもの、焦ってしまったわ。ダントン侯爵家まで送ってもらう訳にはいかないのだ。

 しかも醜聞豊かなこの私と馬で二人乗りして王都入場なんてしたら、それこそロザリエ様と縁遠くなってしまう。それはあってはならないことだ。

 そう、明日はジークの晴れ舞台なのだ。絶対に失敗はできない。

 そして私にとっては3年ぶりの社交界だ。見知った顔がたくさんあるであろう。ロアナも明日は来ているはずだが、もちろん今回の計画は内緒だ。

 -----怖い。正直、とてつもなく怖い。が、やると決めたのだ。

 好いた人と一緒になれる機会など、貴族の結婚においてはめったにないことだ。ジークがその機会を手に入れられるのであれば、勇気も出る気がする。

 早々に床についても緊張で眠れないと思っていたが、アヴィエラは暫くすると静かな寝息をたてはじめた。


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