星見山ふれあい動物園
あの日から、何度も同じ夢を見た。
自分は部屋の真ん中にいて、いつまでも鳴り響く鈴の音。
木箱の中から、這い出てくる得体の知れない何か。
夢の中で目を覚ますたび、身体の奥に重たいものが沈んでいるような感覚があった。
しのさんは、あの日以来、少しずつ俺に憑いているものを引き剥がしてくれていた。
一度に全部は無理だと、最初に言われた通り、時間をかけてそれは行われていた。
週に一度、請願寺に通う日々が続いた。
行くたびに、身体は軽くなっていった。 けれど、次に請願寺へ向かう頃には、またほんの少し重くなっている気がした。
しのさんは、いつも同じことを言った。
「まだまだ、時間がかかるよ。来た時には増えてるときもあるからねえ」
美咲さんは、そのたびに疲れた顔で笑った。
「そんな顔しないの。前より確実に減ってるから。安心しなよ」
それでも、完全に見えなくなったわけではなかった。
今も時々、何かが視界の端をよぎるし、視線を強く感じる時もある。
誰もいない場所から物音がするし、勝手にテレビも点く。ふいに声が聞こえる事もたまにある。
それは、思い出した子供の頃の記憶と同じだった。
見ない。
気づかないふりをする。
そうやって、しのぐしかない日々。
しのさんからは、こう言われていた。
「あんたが、しっかり見ないようにできるようになれば、向こうさんも、あんたを見つけにくくなる」
この世から怪異が完全に消えることは有り得ない。ただ、こちらが認知出来なければ、向こうも認知しなくなっていくらしい。
そういうものらしかった。
そして、あの後俺が休んでる間に、美咲さんから御手洗さんたちに全て話してくれていた。
俺の状態やこれからの見通し。
長い時間がかかること。
だから、退職願を出した時に、誰も驚かなかったのだと思う。
みんな、もう知っていたから。
「まあ、焦らず通い続けなよ。一番ヤバいのは終わってるんだから。それに、まだまだお婆ちゃんも現役だからね」
そう言って美咲さんは笑った。
──
あの後、社長と話し合った結果、俺は今日を最後に退職することになった。
退職願に書いたのは来月末日だったが、事情を聞いた社長が、俺の希望を受け入れてくれたのだ。
本来なら、もう少し時間があったはずだった。
御手洗さんと現場を回る時間も。
深山さんや課長と、くだらない話をする時間も。
けれど、今日で終わる。
そう決まってから、時間の流れが妙に早くなった気がした。
──
動物園は、想像していたよりもずっと広かった。
園舎が建ち並んでるのかと思っていたが、広大な敷地に、それぞれのエリアが離れて建っていた。
遠くから、動物の鳴き声がかすかに聞こえてきた。
普段は子供たちの笑い声が響き渡り、園内を走る小さな乗り物の音などがしているのだろう。
今日は休園日らしい、穏やかな雰囲気がそこにはあった。
「よし、早速二班に分かれるぞ」
小金井課長が、手にした点検票を見ながら言った。
「俺たちは管理棟が終わったら、事務棟な。外回りはまずゴリラとシマウマ、ポニー、あとヤギと電気設備と動物病院な」
「じゃあ、私たちは、ふれあいコーナーに動物教室、キリンとコアラと、あとカンガルー、クオッカとスナネコ、あと牛舎」
御手洗さんが、点検票を覗き込みながら言った。
声のトーンは、明るくて軽い。
何も変わらない、いつもの御手洗さんだった。
「じゃあ、終わったら無線で連絡な。昼休憩はいつものところ。今日は光生君の最終だから、特別に写真撮ってもいいぞ。見つかったら俺が責任取るから、死ぬ気で見つからないようにな」
「はーい、課長太っ腹ー!!撮りまくりまーすっ」
御手洗さんが手を上げる。
「じゃ、そろそろ行こっか」
「はい」
俺たちは、課長たちと別れた。
点検の際、園内は広いので車での移動となる。
車に乗り込むとシートベルトをして、発進した。
それだけのことなのに、妙に落ち着かなかった。
御手洗さんが隣にいるこの光景も、あと少しだ。 この現場に来るのも、今日が最初で最後になる。
そのことは、もう何度も自分に言い聞かせていた。
それでも、こうしていつも通りに歩いていると、明日もまた同じように出勤するような気がしてしまう。
御手洗さんが隣にいて。
深山さんが少し離れたところを歩いていて。
課長が先頭で、点検の順番を考えている。
そんな日々が、まだ続いていくような気がした。
──
最初の展示エリアは、早速のキリンだった。
キリンの展示場は、思っていたよりも天井が高かった。
柵の向こうで、キリンがゆっくりと首を伸ばし、吊るされた葉を食べている。
長い舌が葉を絡め取るたび、枝が小さく揺れた。
「やっぱり、おっきいなぁ」
御手洗さんが、キリンを指差した。
「本当ですね」
「前にお昼ご飯食べたらが話してたよね。キリンのまつ毛」
「動物園のキリン舎の二階で、消火器点検してた時の話でしたっけ」
「あっ、そういえば今日室内にいるじゃん!!殆ど外を歩いてるから、中々ないんだよ!今のうちに二階いこっ!」
御手洗さんは俺の腕を掴んで二階への階段へと急かす。
「間に合うかなー、逃げちゃうかなー」
歌うように呟き階段を登る御手洗さんの後を追う。階段を登り切るとそこは、二階と呼べるほどのスペースは無く、従業員専用の広めの通路だった。
柵と呼べるほどのものでもなく、木が二本、横に張られている手摺り程度のものがあるだけだった。
高さがあり少し恐怖感を感じる。
その通路には二本消火器が設置されていた。
「手前の消火器やっといてねぇ。私奥に行ってくるからっ」
奥に向かって歩いて行く御手洗さん。通路には飼料が並べて置いてあり牧草のようないい匂いがする。
手摺りに背を向けて、壁にかけてある消火器を手に取った。
(ここでの事を話ししてくれてたんだ)
しみじみ置かれている状況を噛み締めながら点検をしていると、突然耳元に息がかかった。
「しーっ!ゆっくり後ろ見て!」
(え?)
言われるがままゆっくりと振り返ると、柵から顔を入れてこちらをじーっと観察しているキリンが目と鼻の先にいた。
(ま、まつげ!!まつげすごっ!めちゃくちゃでかい!!)
下から見た時は、長い首と大きなお尻が印象に残った。 想像していたよりも体高があり、迫力があるなと思っていた。
けれど、すぐ目の前で見るキリンは、まるで別の生き物だった。 吸い込まれそうなほど大きな瞳。そこに並んだ、長いまつ毛。 体毛の質感も、角も、鼻も、何もかもが新鮮だった。
いつまでも見ていたくなる。
(これは…御手洗さんもあれだけ楽しそうに説明してくるわけだ)
横を見ると御手洗さんはスマホを構えていた。
何枚か撮った後に、スマホを背後に回し、自撮りしようとしていたので、邪魔になると思い避ける。
「あっ、動いちゃだめ」
そう言われたので、画角に収まるようにして笑っておいた。
その後すぐにキリンは立ち去り、屋外をお散歩しに行ってしまった。
「さいっこうの写真とれたよっ。キリンさんと見つめ合ってるの。ほら〜」
御手洗さんはスマホを逆さにして見せてきた。そこには至近距離でキリンと見つめ合い、呆けた顔をした俺がいた。
「ほんとですね、写真撮るの上手いですね」
「全部ラインで送るね!」
その場で何枚か見せてもらえたが、キリンと御手洗さんと一緒に撮った写真が、俺は一番好きだった。
「はぁ、やっぱキリンさんすごいわぁ〜。やっと、二人で見れたね」
「はい」
それだけのこと。
あの時聞いた話が今日になって静かに繋がって
、いま隣にいる。
御手洗さんと感覚を共有している、たったそれだけの違いなのに、なぜか胸の奥が温かくなった。
「ねえ」
「はい?」
「やっぱり可愛いねぇ」
「そうですね。ほんとに可愛いですね」
御手洗さんは、少し笑った後に、しばらくキリンを見ていた。
──
次に向かったコアラの展示では、ガラス越しに、丸まって眠っている姿が見えた。
木の枝に身体を預け、微動だにしない。
「動かないですね」
「一日二十時間くらい寝るらしいよ」
「羨ましいです。今の自分には」
軽口のつもりだった。けれど、御手洗さんは少しだけ黙った。
眠っているコアラから視線を外し、俺を見る。
「……そうだね」
それ以上、何も言わなかった。
御手洗さんは、いつも通りに話していた。
けれど、その明るさの奥にあるものを、俺はもう知っていた。
笑っているからといって、何も感じていないわけではない。
明るいからといって、苦しくないわけではない。
そんなことを、俺は最近になって少しだけ理解できるようになってきた。
「次、いよいよクオッカだねっ」
御手洗さんが、いつもの調子に戻しつつ、こちらを見ずに点検しながらそう言った。
──
クオッカの飼育スペースの前で、御手洗さんが足を止めた。
小さな身体。丸い耳。
そして、口元に浮かんだ、笑っているような表情。
「ふわあぁ〜、可愛いがすぎるよぉ〜」
「うわっ、ほんとに笑ってるみたい」
「ねっ」
御手洗さんは、ガラスの向こうにいるクオッカをじっと見つめた。
「生存戦略だって、教えてくれたでしょ?」
「はい」
「あれ聞いてから、ちょっと見方が変わったんだよね」
「悪いこと言いましたかね」
「ううん」
御手洗さんは、首を横に振った。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「笑ってても、平気とは限らないんだなって思っただけ」
その言葉が、なぜかまっすぐ胸に刺さった。
笑っているように見える顔。小さな身体。
その姿を見ていると、御手洗さんのことを考えてしまう。
いつも笑っている。
いつも明るい。
けれど、その奥には、誰にも見せないものがある。
俺が知らなかっただけで、ずっと。俺は御手洗さんのことを殆ど知らない。
「御手洗さん」
「んー?」
「……いえ」
呼んだだけだった。
御手洗さんは、不思議そうに俺を見た。
けれど、何も聞かずに笑った。
「じゃあ、次…いこっか」
「はい」
──
最後に、砂猫の展示スペース前に来た。消火器を点検し、誘導灯の確認を終えた。
展示スペース内には穴のあいた岩山のようなものと砂が敷かれている。
砂色の毛並み。
大きな耳と、少し険しく見える目つき。
「あ、いたっ、ほらあそこ!」
「ほんとだ、こっちに来ますよ!」
スナネコは展示スペースの外周を徘徊するように、同じルートをずっと歩いていた。
「クレオパトラライン!」
「よく覚えてますね」
「みっくんと話ししたことは、全部覚えてるよ」
その一言に、何も返せなかった。
御手洗さんは、何気なく言ったのだと思う。
けれど、俺にとっては、簡単に聞き流せる言葉ではなかった。
自分が話したことを覚えていてくれる。
くだらない話も。動物の話も。
何気なく送ったLINEの内容も。
そういう小さなものを、御手洗さんは覚えていた。
俺は、砂猫を見た。
けれど、やっぱり隣にいる御手洗さんのことばかり気になった。
来週も。
その次の週も。
こうして隣にいられるような気がした。
そんな未来を、ほんの一瞬だけ想像してしまった。
「あっ。ぼーっとしてる」
「……はい」
「砂猫に恋しちゃった?」
「いえ。でも、砂猫本当に可愛いですね」
「ねー。ちょっと怒ってるみたいな顔なのにねぇ」
「そうですかね」
御手洗さんが笑い、俺も笑った。
しばらく、二人で砂猫を眺めていた。
いまはただ、隣に御手洗さんがいた。
それだけで、十分だった。
「そろそろ、移動しよっか」
御手洗さんが、点検票を見ながら言った。
「はい」
御手洗さんが先を歩く。
俺は、その背中を追った。
いつも通りの現場。
いつも通りの仕事。
いつも通りの…御手洗さん。
それなのに、胸の奥には、言葉にできないものが残っていた。
これからもきっと、今日のことを思い出すのだろう。
キリンのまつ毛を。
眠っていたコアラを。
笑っているクオッカを。
そして、スナネコと、俺の隣にいた御手洗さんを。
「みっくん、こっちだよ」
前を歩いていた御手洗さんが、振り返った。
「はい、今行きます」
俺は、彼女のところへ歩いていった。
いつも通りに。
これが、俺の最後の現場だった。
──
請願寺には、その後も通い続けた。
週に一度が、二週に一度になり、月に一度になった。
しのさんは、相変わらず「まだまだだね」と言い続けていたが、その言葉の温度は、少しずつ変わっていった気がする。
見えるものは、減っていった。
聞こえるものも、静かになっていった。
完全に、というわけではない。
それでも、もう、あの頃のようには怖くなかった。
見なければいい。気づかないふりをすればいい。
それだけで、大抵のことは、やり過ごせるようになっていた。
そして、数年が経った。




