辻崎製作所 旧女子寮
今日の現場は大きな工場だった。
敷地は驚くほど広く、正門から本館まで歩くだけでも二分近くかかる。
守衛所で挨拶を済ませ、案内された駐車場に車を止めた。
小金井課長が事務棟の総務へ打ち合わせに行っている間に、建物の配置図を見て説明を受け、道具の準備も終えた。
課長は息を切らせ戻ってくると、打ち合わせしたことを俺たちに説明した後に指示を出した。
「光生君。この現場は三日間入るからな。早く終わらせようと焦って事故やミスすることのないように。それに明日と明後日は協力会社さんが二社来るから、光生君は初顔合わせだ。それと火災報知器以外は協力会社さんがいつもやってくれてるからスルーな」
「わかりました。気をつけます」
さらに、小金井課長が地図を片手に説明する。
「今日の予定は、まず俺と深山は事務棟から工場を手前から奥に向かっていく。光生君と御手洗さんは奥にある旧女子寮から攻めてくれ」
「はい」
御手洗さんとともに返事を返した。
「じゃあ、よろしく。深山行くぞー」
──
守衛さんが鍵を開けてくれるそうで、案内されながら敷地の奥へと進んでいく。舗装された道の両脇には、徐々に手入れされていない植木が伸び放題になっていて、工場の稼働音が少しずつ遠くなっていくのが分かった。
「漸く見えてきました。遠くてすみませんね」
「いえいえ、とんでもないです」
守衛さんが指差した先に、二階建ての古い建物が見えた。外壁は色褪せ、窓のいくつかは板で塞がれている。
「もう誰も住んでないんですね」
「そうですね。閉寮してから、もう二十年以上経つんじゃないですかね。以前は女子バレー部の選手寮として使われていました」
守衛さんが少し声を落として続けた。
「昔ね、ここでいじめが原因で自殺する子がいたらしくてね。奥の井戸に身投げしたとか、首を吊ったとか、いろいろ聞くんですよ。本当のところは、私も知らないんですが」
「……そうなんですか」
「夜中に見たっていう人が多いのは確かですね。私も巡回中に一度見たことありますよ。いや、ほんとに」
あまりにあっさりと言われて、返答に困った。
「わざわざ点検前に言うことではなかったですね。私は守衛所にいますので、点検が終わりましたら守衛所までご連絡ください。鍵を閉めに参りますので」
守衛さんはそう言うと、来た道を戻っていった。
(なんてことを言うんだよ、守衛さん)
残された俺と御手洗さんは、しばらく建物を見上げていた。
「…行こっか」
「はい」
──
中に入ると、埃っぽい匂いが鼻をついた。玄関ホールには、脱ぎ捨てられたままのスニーカーがいくつも転がっていた。
寮母さんがいたであろう管理室が入り口のすぐ横にある。
「二階と三階は部屋が並んでるだけで同じ作りだから、みっくんは上からやってもらおうかな。でも経験のために一階少し見て回ってから始めようか」
(なんか、御手洗さん元気ないな)
「お願いします」
猫が入り込むと困るとのことで扉は閉めるように言われている。玄関扉を閉めながら御手洗さんに質問した。
「この靴…ずっと置いてあるんですかね」
「突然廃部になって、片付ける人もいなくなっちゃったからだって。綺麗にするのにも、取り壊すのにもお金かかるからね、老朽化して取り壊すまで全部放置してるんだろうね」
上履きに履き替えながら、二人で廊下を進むと、壁際には古いロッカーが並んでいた。
ところどころ扉が開いたままになっていて、中にはハンガーや古いタオルが残されていた。名前を書いたシールもいくつか残っていたが、文字はすっかり色褪せてほとんど読めなくなっていた。
管理人室の中に入ると小さな部屋があり、古い机と椅子。床には毛足の長い、赤茶色の絨毯が敷かれていた。
壁際にはブラウン管テレビが置かれ、その隣に古い電話。どれも埃をかぶっている。時計だけが、何年も前から同じ時刻を指したまま止まっていた。
「ここも、そのままなんですね。なんだかときが止まったような不思議な感じがします」
「そうだねぇ」
御手洗さんはそう言って管理室を出る。
俺も後に続こうとして、ふと、部屋の奥に目が止まった。
壁に何枚か写真が貼られていた。若い女の子たちが、体育館の前で笑っている。おそらくこの寮で暮らしていた選手たちなのだろう。
写真の中ではみんな笑っている。
なのに、今いるこの建物には、その笑い声だけがすっぽり抜け落ちてしまったような感覚がする。
「あれは共同のお風呂。女子寮のお風呂だからって入りたがったらだめだからねぇ」
御手洗さんが廊下にある引き戸を開ける。中は、いかにも昔の女子寮といった造りだった。床も壁も、白いタイル張り。浴槽は大きく、蛇口が何本も並んでいる。シャワーのホースは黒ずみ、鏡には白い水垢がこびりついていた。
「なんか…まさに昭和って感じですね」
俺が思わず口にすると、「そうだね」と返ってきた。
浴槽の隅には、誰が置いたのか分からない洗面器が一つだけ残っている。床は割れたタイルや鏡の破片が散らばっていた。
横には足の折れた風呂椅子。もう誰も使っていないはずなのに、そこだけは妙に「誰かがいた場所」という感じがした。
──
「みっくん?」
「あ、はい」
御手洗さんに呼ばれて、風呂場を出る。廊下の先にもう一つ扉があった。その向こうには使われなくなった、選手用の小さい体育館があるらしい。
「一階は奥に井戸があって、そこにも感知器ついてるよ。あと機械室も外。厨房と食堂があそこの扉。ミーティングルームはその隣」
御手洗さんは一階をざっと説明してくれた。
「じゃあはじめよっか。三階からよろしくね」
──
一人階段を上がっていき三階へ辿り着くと、一番手前の部屋から入室した。
ワンルームタイプの部屋には、当時使われていたであろう布団や家電、人形などが、そのまま放置されている。
誰かが片付ける途中で放棄したかのように、床が見えないほど物が積み上がっている部屋もある。
中には、当時のまま時間が止まったような部屋もあった。壁に貼られたポスター、勉強机の上の教科書、埃をかぶったぬいぐるみ。誰かの生活の痕跡が、そのまま残されている。
廊下も物で溢れかえり、そのうえに砂ぼこりや虫、鳥の死骸などが放置されていた。
(昔はここで、誰かが生活してたんだよなぁ…)
そう考えると、なんとも言えない気分になった。
黙々と点検を進めていく。どの部屋も同じ構造で、感知器は部屋と押し入れに一つずつ設置されている。
意図は不明だが、押し入れの襖は既に外れている部屋が多く、廊下に襖が積み上げられているところもあった。
三部屋、四部屋と進んでいくうちに、御手洗さんの様子がおかしいことが気になった。
少し心配になり、邪魔かもしれないけど無線を入れてみることにした。
『御手洗さん、取れますか?』
『はぁい。みっくん、どうかした?』
『すんごいですねここ。生活の痕跡がそのまま残ってて、なんだかノスタルジックな感じがしますね』
『あ、うん。なんか、ここ、ちょっと空気重いよねぇ』
『そう、ですね。窓もふさがれてるせいで暗いですし、圧迫感ありますよね』
『そうだねぇ』
いつもより声のトーンが低い。冗談を言う余裕も、心なしか少ないように見えた。
(アクアリウムの一件から、まだ日が浅いもんな。朝からあんな事聞かされたらテンションもそりゃあ下がるか)
あの時以来、御手洗さんはどこか神経質になっているように見えた。普段の天然な明るさの裏に、何かを我慢しているような気配がある。
(少しくらい、笑わせてあげたいな)
そんなことを考えているうちに、悪戯心が疼いた。
(そうだ、たまには御手洗さんの真似してみるか)
これまで何度も、御手洗さんに驚かされてきた。押し入れに隠れられたことも、二度や三度ではない。
二階に降りて今度は一番奥から点検を開始した。九号室、八号室と点検を進めていると、一階の点検を終えた御手洗さんが一号室に入っていくのが見えた。
(これはチャンスか?御手洗さんが驚いたところで、ここからは一緒に動いて点検しませんか?って聞こう)
数部屋飛ばして、音がしないようにそーっと四号室の扉を開けて中へ入る。
この部屋も押し入れの襖は既になく、中は物だらけだった。布団、古い人形、そして小さなトースターらしきものが、埃をかぶって置かれている。
(押し入れの感知器は中段だから、下段に隠れれば見えないはずだ)
押し入れの下段の布団や物を少しかき分けて、体を押し込む。埃っぽさに、思わず咳が出そうになるのを堪えた。
(あとは、御手洗さんがここに来るのを待つだけ)
手元にあった古いトースターに目を留める。スタートのツマミを試しに捻ってみた。
ジジジジ……
トースター特有の、ゼンマイ式タイマー音が鳴り始めた。
(これ、入ってきたらびっくりするだろうな)
自分の悪戯心に、少し笑いそうになった。足元にあった布を軽く手で持ち上げ姿を隠す。
(そろそろ、来る頃だな)
だが、いくら待っても、足音は聞こえてこなかった。
(あれ、遅いな。不良でもあったのかな)
トースターの音が、次第に弱まっていく。
(……止まっちゃうよ)
痺れを切らして布を持っていた手を下げる。
押し入れの中から顔を出そうとしたその時、廊下の方から足音が聞こえてきた。
(来た!)
慌てて体を引っ込め、布を盾にし隠れる。
――ガチャ
部屋のドアが開く音がした。
(なんか緊張する!脅かす側は、こんな気持ちなんだ)
変にわくわくした気持ちで、押し入れの隙間から様子を窺う。
――ドス、ドス、ドス
足音が、妙に重かった。
そして、視界に入ってきたのは、御手洗さんではなかった。
波打つようなクセのある長い髪。それが、俯いた顔を覆い隠している。着ているのは、真っ黒いキャミソールのような薄い布地の何か。
(……女)
――ビチャ、ビチャ、ビチャ
その女は、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。
まるで、濡れた足で畳を踏んでいるような、湿った音。体も濡れているように布地が肌に張り付いていた。
背筋が、一瞬で凍りついた。
(人じゃない)
声を出すこともできず、ただ息を潜めて見つめることしかできなかった。
その女は部屋の中央で、ぴたりと足を止めた。そこに置いてあった木製の椅子に足をかけ、椅子の上に立ったのだ。
そして、天井からぶら下がる古い照明器具の下、ゆっくりと両手を持ち上げた。
手にしていたのは、何かのコードのようなものに見えた。
俺からは天井付近は見えない。だが手にしたそれを照明の金具にゆっくりと巻きつけているのは分かった。
(え?)
見えている。何をしているのかも分かる。なのに、頭がそれを理解する事を拒み、ただ体が固まった。
人影は、そのコードを自分の首に巻きつけると、ふらりと体重をかけた。
――ギシッ!!ギシッ!!
照明器具が軋んだ音を立てる。
その女の足が椅子を蹴り飛ばし、宙に浮いた。
バタバタバタバタと足が痙攣するように動く。両手が首元を掻きむしるように動いていた。
声を上げることもできず、ただ、目の前で起きていることを見ているしかなかった。目を逸らしてはならない気がして、目を逸らす事さえ許されなかった。
喉の奥から、悲鳴にならない掠れた息だけが漏れる。
やがて、足の動きが少しずつ小さくなっていき、手がだらりと下がった。
そして、止まった。
照明が、ギッ、ギッ、と音を鳴らしていた。
(……自殺?)
そう思った瞬間。
――ドンッッッッ!!!!
畳に打ち付けられる重く鈍い音と振動が、部屋に響き渡った。
照明器具の一部と共に、その体が落ちてきたのだ。
重さに耐えきれなかったのか、金具が外れたのだろう。
畳の上に、崩れるように倒れ込んだ体。
ゔぁ ゔぁ
その顔が、声を上げゆっくりとこちらを向いた。
内出血で真っ赤に染まった白目。紫色に鬱血した顔面からは異常に長い舌が飛び出していた。
焦点の合わない瞳孔が、まっすぐにこちらを捉え、目が合った。
「はっ、ぐぅっ」
悲鳴も息も、喉の奥でつっかえた。
首が明らかにおかしな方向に傾いている。自重で折れたのか、力なくだらりと垂れ下がったまま。
それでも動いた。
ズリ、ズリ、ズリッ
掻き毟った傷だらけの首を、引きずるようにしながら、四肢を這わせて押し入れに近づいてこようとしている。
爪が剥がれ落ちそうになっているせいで、指先からは血が滴り落ちている。
濡れたような音を立てながら、畳の上を這うその動きに合わせて、真っ黒い髪がべったりと顔に張り付いていた。
(ここにいたら、駄目だ!!)
考えるより先に体が動いた。押し入れから転がり出るようにして、部屋の入り口へと駆け寄る。
その瞬間、足に抵抗があった。おそらく捕まえようと伸ばされた手に、俺の足が当たったのだろう。
――ズッ、ズッ、ズリッ
背後から、這うような音が、ゆっくりと確実に近づいてくる。
焦りながらもドアノブに手をかけ、力任せに押した。
(開かない!!)
もう一度、力を込めて体で押すがびくともしない。押しても引いてもガタガタという音さえしない。
「うわっ、開けっ、なんでだよ、なんで開かないんだよッ…!」
両手でドアを叩き、体当たりを繰り返す。だが最初からそこにドアなど無かったかのように、まるで反応がない。
背後の気配が、どんどん近づいてくる。振り返る勇気はなかった。
ただ、床を這うような音と、「ゔぁ」という濡れた声だけが、耳の奥に突き刺さってくる。
「た、たすけっ!!誰かっ……!!」
振り返り、ドアに背中を預けたまま、もうこれ以上動けなかった。全身から汗が噴き出している。喉が引きつって声すら出せない。
そして、二メートル先には、女がいた。
(もう、だめだ――)
その時。
背中に預けていたドアが、外側から勢いよく開いた。
支えを失った体が、そのまま背中から倒れ込む。
「みっくん!?」
御手洗さんの声だった。
俺の背中を受け止めてくれたが、重さに耐えかねて御手洗さんも尻餅をついた。
慌てて体を起こし振り返ると、御手洗さんが恐怖に戦いた目で何かを捉えていた。
その視線が、俺の背後――部屋の奥へと向けられていることに気が付いた。
「ぁ……」
声が、小さく震えていた。
その視線を追うように、俺も恐る恐る振り返る。
しかし振り返った先に、もう女はいなくなっていた。
壊れた照明器具の取付部だけが、力なく配線にぶら下がり、揺れている。
だが、御手洗さんの顔は、明らかに何かを見た人の顔だった。
「……御手洗さん」
声をかけても、返事がない。早くここから離れたいのに、二人ともしばらくその場から動けず、御手洗さんの目には薄っすらと涙が滲んでいた。
どれくらい時間が経っただろう。案外そんなに経っていないのかもしれない。
ようやく我に返ったのは、作業着のふくらはぎの部分が血で真っ赤に染まっていたことに気が付いたからだ。
ズボンの裾をまくると、斜めに三本の赤い筋がついていて、引っかかれたように皮膚が裂けていた。
アドレナリンが出ていたからか、怪我をしていることに気が付かなかったが、見てしまったら突然痛みが湧いてきた。
「……痛っ」
「みっくん!!」
御手洗さんが、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「大丈夫です、そこまで深くないので」
「全然大丈夫じゃないよ、かなり血が出てるよっ!」
御手洗さんの手が震えていた。いつもの明るさは、もうどこにもなかった。
「課長に連絡して、すぐに車回してもらうね」
「すみません」
御手洗さんがスマホを取り出し、課長に電話をかけた。
(それより…さっきのは)
傷の痛みよりも、目の前で起きたことの重さが、じわじわと体に染み込んでくる。
これまでも、怖い思いは何度もしてきた。でも、今日のように、明確に攻撃され怪我をした出来事は、初めてだった。
(もう、気のせいじゃ済まされないか)
その思いが、頭の中を静かに巡った。
──
結局、その日の点検はそこで切り上げることになった。御手洗さんに車にある救急キットで応急処置をしてもらってから、四人で工場を後にする。
運転席の御手洗さんは、どこか遠くを見ているような顔をしていた。苦しさを我慢してるのが見て取れた。
(ただ笑顔を見たかっただけなのに。……余計な事をしなければ良かった)
その横顔を見ているのが辛かった。
(御手洗さん、ごめんなさい)




