過去・男爵令嬢は夢を見ない
マダムの過去回です。
敵役の背景にあんまり話数かけるのも…と思ったんで駆け足気味。
エリス・カジェンデラ視点
頭の中で声が響く。
『触らないで頂戴!ドレスが汚れるじゃないの!』
ヒステリックなその声に、驚いて見上げたその顔に浮かぶ嫌悪の表情が、続いて脳裏に甦る。
『申し訳ありません、お母さ……』
『そんな風に呼ばないで!あんたなんてーー』
バタンと大きな音を立ててドアを閉め、頭に響く罵声をかき消した。
第一王子の宮に与えられたエリスの自室に駆け込み、ソファにどさりと身を投げ出す。ドッドッと激しく鳴る鼓動に小刻みに震える体を両腕で強く抱きしめるが、焦りに似た不安は消えはしない。
「なんで……」
ぽろりと零れた幼な子のような言葉に自分でギョッとして、しかし立て直そうとした体を再びソファに沈めた。
「……今更なんだと言うの」
どれだけ礼儀を学んでも、淑女たる振る舞いを身につけても、自分は正しいと言い聞かせても。
絶対的な美貌をもって自分を罵るその声は、いとも容易くエリスの心を折る。
母の美しさなど、ヴィート・レイドのそれとは比べ物にならないはずなのに、記憶にあるそれはひどく艶やかなとても手が届かないもので、その一点のみで向けられる嫌悪は仕方ないと諦めるしかないもので。
「違う、諦めたのではないわ」
エリスは自身に言い聞かせるように声に出し、両手で顔を覆う。
「あんな女、母様なんかじゃない」
✳︎
幼い子供がそうであるように、大抵の少女がそうであるように、エリスは綺麗なものが好きだった。
綺麗なドレス、綺麗な宝飾、綺麗な花、綺麗な顔貌ーーしかし、エリスの周りにあるそれらは全て、エリスのものではなかった。
エリスの生母であるクレアは、美しいものに囲まれて育った大きな商家の末娘だったので、価値のあるなしに関わらず、美しいものをこよなく愛した。
その審美眼に適ったのが、エリスの父であるキーファス・セーラン男爵の清麗たる美貌で、それを受け継がなかったエリスは、面差しが明らかになった幼い頃にクレアの世界から爪弾かれたのだ。
「エリスはどうしている?」
「礼儀教育中ですわ。せめて所作くらいは美しくないと」
「……そうか」
クレアが父の問いに澱みなく答えられるのは把握しているからではなく、教育と銘打って遠ざけているのが常であるだけのこと。
そんなクレアとエリスの様子は、使用人から父にきちんと報告されていたが、母は自分がエリスに関わらずに済むよう、実家の力も借りて有能な子守や教育係を幾人も雇っていた。
その結果、エリスが教わり身につけた教育は男爵令嬢のそれを遥かに超えた質のものだったので、父は二人が仲の良い母娘でなくとも、特に問題はないと判断したのだろう。
しかし、二人の間にはエリス一人しか子が生まれなかった。つまり、セーラン男爵家次期当主はエリスの婿。
父は早々にめぼしい相手を見繕うと、エリスの意志を確かめることも、顔合わせでエリスの不安を取り除きもせず、セーラン男爵家と同じくザクルー伯爵家を主人とするルード男爵家の二男と、親同士の間で円満に婚約を結んだ。
三歳上の婚約者は王都学園の騎士コースに通っており、十二歳になったエリスもまた、王立ロダール学園に入学するため家を出た。
当時の王都学園は、今よりもずっと身分の差による分離が激しく、今よりもずっと閉鎖的だった。
男爵令嬢とはいえ後継であり、教養や所作は上位貴族にも劣ることないのに、見た目はごく平凡。母譲りのアンバーの髪もヘーゼルの瞳も、エリスの平凡な容姿に合わせるとひどく地味なものに変わる。
社交のあれこれは仕込まれたものの、友人などはいなかったから茶会なども経験は皆無。ある程度出来上がっている、高位貴族のグループや王都貴族のグループに飛び込む勇気もなく、かと言って見知らぬ地方貴族に話しかけるのも無理。
周りからしてもどこかちぐはぐなエリスは近寄り難く、いつの間にやら上位貴族からも下位貴族からも浮いた存在となってしまっていた。
そんなエリスだから、学園で初めて顔を合わせた婚約者が、凛々しく整った顔立ちではあるが、騎士を目指すのも納得のがっしりした体格をしていることを無粋に思いながらも、鍛錬のためにともに過ごす時間が取れないことも、いつもエリスを見て困ったような顔をすることにも、特に不満は抱かなかった。
所詮は政略結婚。互いに愛情はないし、今後も自分はとても愛されるような娘でもない。今までそんなものを手に入れなくても十分生きて来れたのだし、これからも生きていけるだろう。
だが、自分達は貴族の端くれなのだから、家のために心の折り合いをつけるのは当たり前のことで、あの美しいだけが取り柄の母とは違う賢い自分は、家長となる旦那様の役に立ち、家を共に支えることができるのだ。
エリスにとってそれは、なにより幸せなことだった。
はず、だった。
自身の能力を活かす文系コースより、社交という弱点を補うために家政コースを選んだエリスが、初めてできた友人達と、ようやく娘らしい日々をほんの少しだけ過ごすことができるようになった、ある日。
二学年上に在籍していた、主家であるザクルー伯爵家の令息に襲われる、その日まで。
エリスと婚約者の家が代々仕えてきたザクルー伯爵家は、系図を辿れば王女が降嫁した家にいきつく。それゆえに家格以上に貴賤意識が高い家風で、当時の王都学園においてもその高慢さは際立っていた。
実家の関係上、入学して間もなく、エリスは側近という名前の使いっ走りとして侍ることを強要される。
同じように、令息の一学年上である婚約者も護衛として、いつものように困った顔をして侍っていた。
令息と、類は友を呼ぶその学友からの、力のない者、取るに足りない者、特に美しくもない女ーーそれらに向けられる眼差しを浴びながらも懸命に学び、働く。
次期伯爵であるその令息は、態度は傲慢であるが勉強も運動もそこそこで、辛うじて進級した文官コースを卒業するには足りない成績だった。それをエリスがフォローし、そこそこの成績で卒業できることになったのだ。
このことについては、一足先に学園を卒業し、エリスが卒業するまでの三年間を、騎士団員として勤めることになっていた婚約者の口から、しっかりザクルー伯爵に伝えられた。
さしものザクルー伯爵も令息もエリスの働きを認めることになったのだが、喉元過ぎればなんとやら、貴賎意識や傲慢な性格がそう簡単に治るわけはなく。
献身の礼にと呼び出された王都の宿屋で、エリスは令息に襲われた。
愚かなことに、令息は『尊き血を引く自分』が『家臣の娘』に『情けを与える』ことが、エリスにとってなによりの褒美になると本気で思っていた。
だから、泣き叫んで対抗するエリスに憤慨し、彼女の容姿や態度を酷く詰り、罵倒し、挙句には顔が腫れるほど殴りつけてもなんとも思わなかったのだろうが……。
学園ならいざ知らず、王都の宿屋で暴れて、見逃されるわけはない。
騒ぎを聞きつけた宿の女将が騎士団に通報し、騎士団員としてその場に駆けつけた婚約者が、激昂して令息をたった拳一撃で昏倒させ、意識を失ったエリスを病院に運んでくれた。
令息は他の団員に、詰所へと連行されて取調べを受け、あまりの身勝手を叱責された。
だが、エリスの名誉と主家との関係もあり、この件は秘密裏に処理されることとなった。なにより、エリスの父であるセーラン男爵がそう望んだのだ。
だが、エリスにはわかる。その影で父を唆すあの女の存在が。
難を逃れた傲慢な伯爵家の怒りの矛先は、主家の令息を傷つけた婚約者に向く。
セーラン家は娘を救った婚約者をあっさり見放し、厚顔にもザクルー伯爵が王家に願い出たルード男爵家の取り潰しと共に、エリスの婚約は破棄された。
元婚約者は一家離散し、貴族でなくなり職も失ったのだろう。それ以来、王都で彼の姿を見かけることはなかった。
婚約破棄され、主家からも睨まれることになったエリスは、卒業を待たず、カジェンデラ子爵家に嫁ぐことになった。
と言ってもエリスに用意されたのは、代替わりしたばかりの前子爵の後妻という立場である。
前子爵と死別した前妻との間には、当主である息子の他に既に三人の子供がいる。夫は、エリスとの間に子を望まなかった。
優秀な淑女であるエリスの評判を聞きつけた前子爵が、披露目を終えたばかりの下の娘の教育に丁度良いと、婚約破棄で傷物になったエリスを引き取ったようなものだ。家庭教師と変わらない。
子を産んだこともなければ、育てたこともない。それでもエリスの他に乳母のなり手がないほど、マーシャル第一王子の誕生は貴族達に祝福されなかったのだ。
それだけの理由がある。
だが、それでもーー
✳︎
かさりという音にはっと目を開けた。
慌てて立ち上がってドアに目を向けると、ドアと床の隙間から差し入れられた封書の白が目に入る。
急いでそれを拾い上げて執務用の文机に向かい、一番上の引き出しから愛用の眼鏡を取り出し、ペーパーナイフを手に取った。
「……今更だわ、本当に」
ぴたりと馴染む冷たいフレームの感触に息を吐く。
いつもよりぼやけた視界が不安で、弱気を連れてきたのだろうかと嗤い、封を切って中の手紙に目を通し、ため息とともに目を瞑る。
『都合の良い辻褄合わせを声高に叫びすぎて真実を見失ったか』
再びしゃしゃり出てくる美貌の男の眼差し。
……ほんの少し、かつての婚約者の面差しが浮かぶ。だが。
エリスはもう、決めたのだ。
マーシャルを王にする。そのための計略ならば。
「わたくしは間違っていない」
今度は揺らぐことのない強い言葉で、打ち払った。




