6-15「誰も私のことを知らぬ土地を目指そうと思います」
気が付いたときには自分の部屋にいた。柔らかな太陽の光が、窓から差し込んでいる。部屋は見慣れたままで、ベルーロはすべてが夢だったのではないかと錯覚した。ベッドから出ようとして、身体が思うように動かないことに気が付く。視線を落とせば、両腕の付け根が黒ずんでいるのが目に入った。縄できつく縛り付けられた跡。
記憶の断片をつなぎ合わせていく。磔刑の恐怖。父の死。旅装の女性に助けられたこと。それから最後に思い出せるのは、騎馬が走り抜けていった音。微かな浮遊感と、馬車で運ばれていく感覚。
どの記憶が事実で、どの記憶が幻なのか、ベルーロにはもう判断ができなかった。磔刑にかけられたのは、腕のあざから見ても間違いない。それに自分の部屋に戻されたということをつなぎ合わせれば、王国騎士団に助けられたと考えるのが妥当だった。
「ベルーロお坊ちゃま! お目覚めになられたのですね」
扉を開けて入ってきたのは、中年の侍女だった。小太りで愛嬌のある顔立ちをしている。外見の通り、信じられない程に人がいい。ベルーロが小さい頃から、ずっと城で働いてくれている。
会っていなかった期間はそう長くないはずなのに、彼女の顔を見るだけで胸にこみ上げてくるものがある。ベルーロはそれをぐっと喉の奥に飲み込んだ。
「伯爵様がお亡くなりになったと聞いて、この上、お坊ちゃままで目を醒まさないようなことがあれば、どうしようかと……」
侍女は目じりに溜まった涙をハンカチでふき取り、「すぐに温かいスープをお持ちしますね」と言って部屋を出ていく。ベルーロはその背中を見送った。
父が死んだ。記憶の断片の一つが、間違いではなかったことが明らかになった。侍女がスープを持って戻ってきた。温かいスープを冷ましながら口に運んでくれる。その優しさに触れながら、ベルーロは身体が温まっていくのを感じた。身体が、泥のように重くなっていく。地中に引きずり込まれるように意識が落ちていく。
次に目を醒ましたときにも、同じ部屋にいた。首を動かすと、ベッドの脇で侍女が休んでいるのが見える。彼女の姿を見てベルーロは安心すると同時に絶望していた。間違いない、父は死んだのだ。途切れ途切れになっている記憶の一つ一つは、間違いではなかったのだ。ベルーロが目を醒ましたことに気が付いて、侍女が慌ただしく動き出す。
ベルーロは何もかもを投げ出してしまいたい衝動に駆られていた。
父を助けたいと思って、様々な施策を提案してきた。農業都市ユニケーをより豊かにするために必要な施策だった。ドルク族の襲撃さえなければ、ベルーロの思った通りに事が進んでいたはずだった。
しかし現実はどうだ。ベルーロが難民たちの反感を買っていたせいで、父は見殺しにされた。温厚伯爵と呼ばれ、民に愛されていたはずの父が、ベルーロの施策のせいで恨みを買って死んだのだ。
ドルク族や難民たちに対する怒りや憎しみよりも、虚しさが大きかった。いったい何のためにこれまで働いてきたのか。自分は、ユニケーにとって必要のない存在になってしまったのではないか。それならば、自分は何だ。もはや領主となっても、民に慕われることはない。だったら、何のために生きているのだ。
もちろん、父が死んだ後に農業都市ユニケーを継ぐのは自分だという気持ちはあった。しかしそれは、父とこんな別れ方をした後にもたらされる物ではなかったはずだ。
侍女は、ベルーロの身の回りの世話だけでなく様々な情報をくれた。ベルーロを助けてくれたのは、王国騎士団だという。騎馬隊だけが先行して難民たちをなだめ、都市部を解放したのだという。磔にされていた貴族たちを救助したのもその時だったというが、生き延びたのはベルーロだけということだった。
目が醒めてから三日が経過すると、ベルーロはようやく歩けるくらいにまで身体が回復した。歩けると言っても、足にはまだ痺れが残っている。ずっと同じ姿勢で固定されていたので、血が巡っていないのだというのが医者の見立てだった。両腕の付け根についてしまったあざは、どうやら消えそうにない。
さらに二日が経過した時、窓の外に土煙が上がっているのが見えた。王国騎士団の本隊が、帰還したようである。リズール川でドルク族に背中を衝かれ、大きな被害を出したらしいという話も、侍女から聞いている。
王国騎士団はユニケーに入城すると、すぐにベルーロを呼び出した。ベルーロは痺れる足を動かし、ランデリードの待つ部屋に向かった。
そこで待っていたのは、全身を包帯で覆われた男だった。かろうじて包帯の合間から見える髪の色や肌の色、それに体格で、彼がランデリードであることは間違いないと思える。だがそれにしても、ひどい怪我だった。自分を呼び出すよりも先に、医者を呼び出すべきだ、とベルーロは思った。
ランデリードの隣にはオールグレン王子の姿もある。護衛は騎士十名ばかりのようだった。デュラーの姿はない。
「ホーズン伯爵の件は、残念だった。まさかドルク族がユニケーを襲うなど、想像もしていなかったのだ。助けが遅くなって、すまない」
「勿体ないお言葉です」
「いや……。私も、ドルク族にやられてこの有様だ。やつらが民を無用に殺さずに引き上げただけでも、良しと思わなくてはならんのかもしれん。……すまない。父君を失ったというのに、このようなことを」
「良いのです。それに父は、ドルク族に殺されたのではありません」
「では、誰に殺されたというのだ」
「息子の私に、です。私のせいで民の信頼を失い、そのせいで父は死んだのです」
ベルーロは淡々と事実を述べた。言葉を失ったかのように黙るランデリードに、ベルーロは思いのたけをぶつけた。
「王弟殿下、お願いがございます。父ホーズン伯爵の持つ、すべての爵位、領地、特権、財産を王国へお返ししたいのです。私には、父を継ぐ資格などございません」
「何を言うか」
「私は統治者に向いておりません。そのことを身を持って知りました。父ひとり救うこともできず、慕われるべき民にも見捨てられ、死の淵を見ました。そのような人物がルージェ王国の伯爵にふさわしいとは、とても思えないのです」
ランデリードは再び黙り、重い空気がその場を支配した。オールグレンが何かを言いたそうにしていたが、結局、口を閉ざす。沈黙の末、ランデリードが再び口を開いた。
「爵位を捨てて、どうしようというのだ」
「誰も私のことを知らぬ土地を目指そうと思います」
「それが自由に思えているのかもしれないが、その実、とても不自由なことかもしれんぞ」
「構いません。すべてを王国にお返しし、その上で見つめ直してみたいのです。私は何者なのか、何のために生きているのか。そして、これからどうやって生きるべきなのか、ということを」
「……そうか」
ランデリードはしばらく悩んでいたが、やがて「わかった」と頷いた。
「ホーズン伯爵の持つすべてのものは、ルージェ王家が責任を持って管理する。ベルーロ、お前はもう貴族たる資格を失い、ただの人となる。それで良いな?」
「はい」
「路銀くらいは、持っていくが良い」
ランデリードはベルーロから目を逸らし、付け足すように言った。オールグレンは何も言わず、じっとベルーロを見続けている。何かを言いたそうだったが、その何かが言葉にならないようだった。
ベルーロは再び頭を下げ、それから部屋を出ていった。