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ユーガリア戦記  作者: さくも
第5章 王国の猛攻
138/163

5-48「結局、おれは無力な少年に過ぎないんだ」

 ラッセルは答えに窮した。ようやく、マリーナの生死を確かに知る人に出会えた。だけどこれは、あんまりじゃないか。

 腰に手を伸ばす。護身用のつもりで、短剣を持ってきている。無抵抗の女を殺すことくらい、簡単なことだった。このまま真っ直ぐ、舞台の方に向かっていく。ろうそくの火は、女の顔を青白く映し出すだろう。ラッセルはその白い首筋に短剣を押し当てて、すっと引くだけで良い。そうしたら、この女は静かになる。


 女は「殺して! 殺して!」と呻いた。死を渇望する言葉を、口に出している。だけど本当に彼女が欲しがっているのは、許しだということがラッセルにはわかった。彼女は罪悪感から、解き放たれたいのだ。そのために、死を選ぼうとしている。死を与えてくれることを、望んでいる。


 ラッセルが何も言わないでいると、女は喚き疲れたのか声を潜めた。


「死ぬのは、私の方だった。マリーナが死ぬことはなかった。彼女は、私よりよっぽど若かったし、人気もあった。優しかった。何も持っていないくせに、何かを与えようとする人だった。なんで、なんで私はあの時、マリーナの前に自分の身を投げ出せなかったのだろう。彼女を死に追いやってまで、私は生き伸びてしまったんだろう」


 後悔と懺悔に、すすり泣く音が混じる。同じ台詞を繰り返し始めたところで、ラッセルはようやく口を開いた。


「マリーナを妬んで殺したって? それは違うよ。あなたは生きたかっただけだ。あなただけじゃない、みんな生きたかったんだ」


 綺麗事が口をついて出てきた。まるでそう語ることが自然であるかのように、ラッセルは思った。自分の意思じゃないみたいだった。


 生きたい。

 当然のことだと、ラッセルは思った。だけど生きようとして船に寄ってきた人たちを、ラッセルはオールで殴りつけた。その何人かは船に寄れなかったから、ワニに喰われて死んだ。生きようと必死なだけの人というならば、それはあの時、船に寄ってきたすべての人に言えることだった。


 ラッセルは、自分のせいで死んだ人のことを考えた。マリーナを助けるために、ラッセルは他の人が死んでも構わないと思っていたのだ。それなのに、マリーナを殺したと自白する女を前にしているのに、どうしても殺意が湧いてこない。


「許すというの? 私はマリーナを殺したのよ」


 その逆だ、とラッセルは思った。許せるはずがない。それに、彼女に対する許しにもならない。彼女にとって、生き続けることそのものが罰になるはずだ。

 彼女が許されないということは、ラッセル自身も許されるはずがないということだった。自分の目的のために、人の生殺与奪を握ったのだ。この女は、自分が生きるためにマリーナを犠牲にした。マリーナを助けるために他の人を犠牲にしたラッセルと、何が違うのだろう。彼女の行為が許されないことだというのならば、ラッセルの行動もまた、許されないことになる。


 決して許されることのない罪を、背負うことになった。自分もこの女も、そう変わりはしない。


「おれには、あなたを許すことはできないよ。本当は殺したい程に憎むべきなんだろうけれど、どうしてもそんなつもりになれないんだ。あなたは、まだ生きている。生き延びたからには、生き続けなきゃいけないと、おれは思うんだ」


 また綺麗事を言っていると、ラッセルは思った。

 マリーナに好かれようと、正義感に溢れる虚像の自分を演じて見せた。もうマリーナはいないというのに、まだ虚像の自分を演じている。反吐が出そうだった。無力なくせに格好をつけたがる自分の姿が、たまらなく嫌になる。


「さあ、行けよ。おれの気が変わらないうちに」


 ラッセルは言った。闇の中で、すすり泣く女が動く気配がした。空気が動き、ろうそくの火が揺らめく。ラッセルはもたれかかっていた椅子を引っ張り出すと、腰を下ろした。


 ぼうっと、ろうそくの火を眺め続けていた。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。ろうそくはずいぶん短くなっていて、垂れたろうが燭台の受け皿に溜まっている。


 何を考えていた、というわけでもなかった。あらゆる気力が、身体中から抜けてしまっていた。マリーナは死んでしまった。ミンを失っただけでなく、マリーナも失ってしまった。絶望感が闇に溶け込んで、ラッセルを包みこんでいる。


 どうして自分が生きているのか、わからなくなってしまった。エリザの理想が現実になればと思って、軍に志願した。何だってできる。今までやろうとしてこなかっただけだ。そう、言い聞かせた。

 マリーナと出会ってからは、よりそう思うようになった。おれは何だってできる。小さな力かもしれないけれど、世界を変えられる。エリザがやろうとしていることに、力を向けられる。マリーナのためなら、なんだってできる。地下牢から脱出を図った時も、無限に活力が湧いてきた。


 だけど現実には、好きな女一人を救うことさえできなかった。自分はまだ無力な少年のままだ。何の力も持っていない、無力な少年のままだ。

 布切れに泥水が染み込むように、ラッセルの胸の内側にそういう思いが染み込んできた。


 ろうそくが、また短くなっていた。ラッセルは溜息を吐き出して立ち上がった。これだけ時間をおいたのだ。あの女はもうどこかに消えただろう。顔を見ないですむことが、わずかな救いだった。顔が見えてしまえば、彼女を恨み続けることになってしまう。どんなに口では綺麗事を言っても、恨み続けてしまう。そういう気がしたのだ。


 ラッセルは燭台を手に劇場を出た。暗い階段を上り、酒場に出る。ここに来た時にはまだ昼だったが、今は夕陽が酒場の中に差し込んでいた。ラッセルは思わず目をすぼめた。


「待ったぞ」


 声がかけられる。太陽の光に目が慣れて、徐々に酒場の様子が明らかになる。カウンターの椅子にナーランが座っていた。片手にはグラスを握っている。真っ赤な髪が、夕陽に映えていた。


「話は、聞かせてもらった」

「盗み聞きですか。趣味が悪いですね」


 ラッセルはぶっきらぼうに答えた。ナーランはふっと笑う。見た目は同じくらいの年齢なはずなのに、やけに大人びて見える。


「ずいぶんな活躍だったみたいじゃないか。輜重隊の生き残りはみんな、ラッセルのことを尊敬しているみたいだ」


 自分は何もしていない、とラッセルは思った。マリーナを助けたい一心で地下牢から這い出ただけだ。ラールゴールを殺したのもラッセルじゃない。ラッセルがしたことは、マリーナを助け出そうとして、失敗した。それだけだ。褒められるようなことは、何もしていない。


「そのくせ、おれがサボってるって密告したわけだ。輜重隊の仕事もせず、ゾゾドギアにやってきたって」

「無理やり聞きだしたんだ。責めてやるなよ」


 ナーランは「まあ座れよ」と言った。酒をグラスに注いで、カウンターを滑らせる。ラッセルは滑ってきたグラスを取ったが、口はつけなかった。


「サボった処罰なら受けますよ。だけど、それが終わったら、おれは軍をやめます」

「どうして?」


 不思議そうな顔をして、ナーランが訊ねた。


「おれには、力がないから。好きな女一人さえ救うことができない。軍に入れば、変わると思った。でも結局、おれは無力な少年に過ぎない」


 何かが変わるかもしれない、と思っていた。それが全部、幻想だということを知った。これから先のことはゆっくり考えようと思った。再びアルフォンを探しに、トレティックの町に行ってみてもいい。


「その力が手に入るとしても、か? ラッセル、君の望む力が手に入るとして、それでも君は軍をやめたいと思うか?」

「え?」

「おれは、君のサボりを責めにきたんじゃない。君に、特進を伝えに来たんだ。おめでとう、ラッセル。功績が認められたんだ。父ジャハーラが君を呼んでいる」


 ラッセルは複雑な思いで、酒の注がれたグラスを見た。酒に自分の表情が映っていることを期待したが、夕陽の煌めきが邪魔をして、ラッセルは自分がいまどんな顔をしているのかわからなかった。


「何かを変えようと思って帝国軍に入ったんだろう。そのチャンスが巡ってきたんだ。今までの君は無力だったかもしれないが、これから先は違う。どうだろう、父に会ってみてはもらえないだろうか」


 ナーランが言葉を紡ぐ。


 力があれば……。ラッセルは考えた。

 力さえあれば、マリーナのように死ぬ人を出さずにすむかもしれない。


 酒を呷った。ナーランは、じっとラッセルを見つめている。ラッセルもまた、ナーランの瞳を見返した。


「ジャハーラ公爵に、会わせてもらえますか」


 徐々に暗くなっていく酒場の中で、ナーランが頷いたのが見えた。

5章終了になります。

次回更新から6章に入ります。どうぞよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] がんばれ!
[良い点] ラッセルの成長ですね。 このあと、名前だけが先行して実質とのギャップに悶えることになるのか、さらに研鑽を積んでいく方向性になるのか。 [気になる点] ラッセルの自らの心理分析が、育ちから考…
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