5-47「あの絶望に満ちた表情ったらなかったわ」
マリーナが見つからなかった。ラッセルは動けるようになると、ひたすらマリーナの行方を探すことに腐心した。一時期は兵舎に使われていた川沿いの建物は、すべて病院施設のような扱いになった。重軽傷を問わず、怪我人が押し込まれていた。ラッセルはその中をマリーナの姿を探してひたすら歩いた。マリーナの姿はなかった。
踊り子をしていたという者たちに、話を聞いた。マリーナの特徴を伝えても、なかなか情報は集まらなかった。ゾゾドギアの地下で踊っている知り合いはいる、という答えはいくつもあったが、その知り合いの消息がわからないのだった。渡河に参加していたのか、それとも今もまだゾゾドギアにいるのかさえわからないという答えが大半だった。
小舟でワニの群れに向かっていった際に、何人もオールで叩きつけた。恨まれているものと覚悟していたが、予想に反して誰もラッセルの顔を覚えていなかった。松明の火しかない、夜中の出来事である。それもワニから逃れるのにみんな必死で、ラッセルの行いを正確に把握している者は少なかったようだ。それどころか、船に乗せてもらえたから助かった、と話す老人もいた。ラッセルと同じように、ルーンの刻まれた板切れを掴むことができたようだ。マリーナの情報を集める中で、この話をたまたま耳にして、ラッセルは何とも言えない気持ちになった。
弱い者を助けると決めたのは、誰のためでもない。自己満足のためだ。
善な行いを心掛けたからでもなければ、正義感に駆られたからでもない。船に群がるほとんどの人のことを、ラッセルは嫌悪しただけだ。お前らは、助からなくていいと思っただけだ。それが結果的に、弱い者だけを助けようという感情になっただけのことだ。ラッセルはあのとき、船に乗っていた。その優位を活かして、誰を船に乗せるかラッセルが決めたのだ。
全員を救えないのはわかっていた。しかしラッセルがオールで殴りつけたせいで、ワニに喰われた者もいる。そのことは未だに割り切れないでいる。罪悪感という程のものではなかったが、胸の奥に引っかかるものは残っていた。
「ゾゾドギアに渡れないかな」
ある日、ラッセルはカルロに訊いてみた。カルロは「はぁ」と気持ちの入っていないてきとうな返事をする。輜重隊が再編され、経験者であるカルロは仕事量が増えている。疲れているようだ。
「仕事に復帰すれば、そりゃ簡単に行けると思うけど……」
カルロが答えた。治療と療養を理由に、ラッセルは仕事を休んでマリーナを探し回っていた。
カルロはラッセルが仕事を休んでいることを責めなかった。カルロだけではない。輜重隊の誰もが、ラッセルの行動を責めなかった。あの地下牢から這い出てくることができたのは、すべてラッセルのおかげなのである。取り残された者たちは、全員ワニの餌になった。だから、輜重隊の生き残りは全員ラッセルに感謝している。
感謝だけではない。少し、畏れられているような感じもあった。みんな、ラールゴールを殺したのはラッセルだと思っている。こいつを怒らせるとまずい、少し距離をとっておこう……そんな雰囲気は感じていた。
「そっか、そうだよな……」
もともと、輜重を運ぶのが仕事なのである。ラッセルは「決めた」と言って、その日のうちに輜重隊への復帰を願い出た。
ラッセルの目的はもちろん、マリーナを探すことにあった。ジーラゴンで探しても見つからず、手詰まりだったのだ。それに、ゾゾドギアで普通に生活しているのかもしれない、という一縷の望みはあった。渡河に参加しなかった者もいるという話だし、ゾゾドギアに流れ着いた者や、船で救助された者もいるという。まだ、可能性はあった。
ゾゾドギアに荷を運ぶ。荷下ろしを終えると、ラッセルは体調不良を訴えてゾゾドギアに降りたった。川の中州に作られたとはとても思えない、堅牢な石造りの城壁がある。
(この地下で、マリーナは踊ってたんだよな)
輜重隊の仲間は、ラッセルのことを黙っていてくれるだろう。ラッセルは町に繰り出し、マリーナのことを聞いて回った。
ジーラゴンで聞くよりも、よほど反応があった。マリーナがこの町で生活していたというのは、疑いようがなかった。マリーナを良く知るという人たちは、彼女のことを聞くと全員が悲しそうに顔を伏せた。生きているのか、死んでしまったのか。それだけでも知りたいと思った。もし生きているのなら、生きてさえいてくれるのなら、ラッセルはあらゆる手を使ってマリーナを支えるつもりだった。
「詳しい話……か。すまないが、良く知らないんだ」
「何でもいい。マリーナの家族の居場所でも、劇団が使っていた劇場の場所でも」
少しでも事情を知ってそうな反応があれば、ラッセルはしつこく食い下がった。どうやら劇団の全員で渡河したらしいということだけは、掴めてきた。兵舎に戻って一晩明かすと、翌日もまた情報収集に出かけた。新たに輜重隊に回された者たちも多かったが、誰一人としてラッセルの行動を責めなかった。
ゾゾドギアについて二日目の昼。マリーナが踊っていたという劇場の場所を聞き出すことができた。ゾゾドギアで一番大きな酒場の地下にある劇場だという。
ラッセルは酒場に入った。酒場の中は無人で、そのくせ鍵もかかっていなかった。ラッセルは壁にかかっていた燭台を一つ力づくで外し、ろうそくに火をつけた。微かな明かりを頼りに、地下へ降りていく。
劇場に入る。だだっぴろい石造りの部屋に、粗末な椅子が並べられただけの劇場だ。人の気配があった。
「誰?」
女の声が、聞こえた。劇場の石造りの壁が音を反響する。マリーナの声ではない、ということだけはすぐに分かった。
「勝手に入って、悪かった。マリーナを探している。ここの劇場で歌っていたって聞いて、それで」
「死んだわ」
「……死んだ?」
ラッセルは足の力が抜けていくのを感じた。ふらつきながら近くの椅子に手をかけて、何とか身体を支える。蝋が垂れて、地面に落ちた。
「確かなのか?」
ラッセルは闇に向かって再び訊ねた。舞台のすぐ近くの方に、人の気配がある。
「確かよ。彼女はワニに食べられて死んでしまった。あの絶望に満ちた表情ったらなかったわ。それから、ワニの大きな口。鋭い歯が並んでいるのが見えた。次の瞬間には、青空色のベールが血で汚れていて水面に……」
「見て、いたのか?」
「見ていたわ」
ラッセルは急速に全身の血が引いていくのを感じた。この女は、マリーナの最期を知っている。
何かを訊ねようとしたとき、女の方が先に口を開いた。
「あなたが誰なのか、私にはわかるわ。ジーラゴンに渡るとき、私たちを助けてくれたあの少年でしょう。マリーナがお世話になったって、聞いたわ。……マリーナはね、私の妹分みたいなものだったの。劇団のみんなは、家族のようなものだったから。彼女の踊りはすごかったわ。さすがは三代続く踊り子の家だと思った。私の方が年上なのに、踊りの技術では敵わなかった。せいぜい、マリーナの後ろで、彼女を映えさせるために踊る程度。それで、私はずっと彼女に嫉妬していた」
「嫉妬?」
「そうよ。――マリーナは、私が殺したの。彼女の才能を妬んだ私が、殺したのよ。あんなに優しかった彼女を、私が殺したんだわ」
ラッセルは手に持った燭台を落としそうになった。女が、再び口を開く。
「ワニが寄ってきた時、私はマリーナのそばにいたわ。他の劇団の人たちとははぐれてしまって、マリーナだけがそばにいた。ワニはぞろぞろと寄ってきて、川の上から目だけがギラギラ光っているの。そんな時だったわ、遠くにぼんやり、小舟が浮かんでいるのが見えた。今にして思えば、幻だったのかもしれない。だけど私は思ったの、あそこまでいけば助かるって。そして私は彼女を……マリーナを押しのけて前に出た。いいえ違う。私はマリーナを突き飛ばして、ワニの前にやったんだわ!」
冷静に語っているように聞こえていた女の雰囲気が、一変した。震え交じりの声で、何かに怒っているかのように感情的になっている。
「さあ、殺して! 殺しにきたんでしょう! 私を殺すために、きたんでしょう!」
来週の更新で5章終了となります。
引き続き、よろしくお願い致します。




