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ユーガリア戦記  作者: さくも
第5章 王国の猛攻
135/163

5-45「思い出の中で死ねるのならば、これ以上に素晴らしいことはない」

 ジャハーラが目覚めた、という報告を真っ先に聞いたのはゼリウスだった。ちょうどその時、ゼリウスと一緒にいたディスフィーアは報告を耳にして硬直する。やはり、父には慣れない。

 ゼリウスは、報告を受けると無言のまま頷いた。長い青髪が揺れ、元に戻る。


 ディスフィーアの中では、複雑な感情が渦巻いていた。ジャハーラを憎いとか、殺してやりたいとかは、もう思えない。今は、同じクイダーナ帝国軍の一員だ。ジャハーラが将軍として凄まじく優秀なことは理解しているし、軍人として尊敬もしている。だけどそれでも、しこりのような物は残っている。母を捨てたジャハーラのことを、許しきれていない自分がいる。そういった感情が渦を巻いて、心の中を濁している。


 ワニに片腕を喰われて意識不明の重体だと聞いたときも、ディスフィーアは同じような感情になった。

 ついに天罰が下ったんだ、という気持ちも確かにあった。同時に、死んでほしくないとも思った。まだ、死んだ母に謝ってもらっていない。ジャハーラが母の墓標に向かって謝罪する姿など、想像することさえ難しいのに、ディスフィーアはそれを求めていた。それまで、死なないでほしい。


 そのくせ、いざ意識を取り戻したと聞くと、今度は心に重い物が乗ってくる。ひっかき回されてぐちゃぐちゃになった感情の渦の中が、さらに勢いを増す。

 グレンに語ったように、父が嫌いなのだ。いっそ永久に眠っていてくれたら、どんなに気が楽だったかしれない。


 ゼリウスが歩を進め始めた。

 大きな背中だ、とディスフィーアは思う。ゼリウスはジャハーラより細身なはずだが、よほど大きな背中に見える。本当は、子どもの頃に父の背中をこうやって見るものなのかもしれない。それが正しい親子の姿だったんじゃないか、という気がする。ジャハーラにそういう感情を一切抱くこともないまま、父の手を離れてしまった。


 ディスフィーアはゼリウスの背中を見つめていた。

 ゼリウスはしばらく廊下を進むと、一度だけ振り返って手招きをした。ディスフィーアは感情を押し殺して、ゼリウスの背中を追いかけた。


 ジャハーラの寝室の前につくと、ゼリウスは見張りの兵たちの前で手を振った。「下がっていろ」という合図である。扉の両脇に立っていた兵たちが離れていくのを確認して、ゼリウスは寝室に入っていく。

 ディスフィーアは足がすくんでしまって、寝室に入ることができなかった。


 ゾゾドギアに入ってから一度も、ジャハーラの寝室を訪れたことはなかった。あんなに嫌っていた父なのに、やつれ果てた姿は見たくなかった。

 弱った父を見下したいのではない。普段の、自信過剰で独裁的な父を、見返したいのだ。あなたが捨てた娘は、こんなに立派になりましたと見せつけたいのだ。それは、普段の父じゃなきゃいけない。弱った父に勝ち誇っても、虚しくなるだけだ。


 立ちすくんでいると、風が動いた。透明化していたダークエルフたちが、姿を現してジャハーラの寝室から出てくる。彼らはディスフィーアに一礼すると、廊下の先に移動し、そこで待機する。ゼリウスが部屋から出てくるのを、待つつもりのようだ。


 ディスフィーアは部屋に入らず、扉のすぐそばに立ったままでいた。部屋の中では、ジャハーラとゼリウスが会話している。


「笑いに来たのか、おれを」


 ゼリウスは声を発さずに、魔の精霊を使って、ジャハーラに意思を伝えているようだ。聞こえてくるのはジャハーラの声だけである。


「失ったのは右腕だけではないようだ。どうにも、精霊が薄くしか見えん。それに、なかなか言うことを聞かぬのだ。お前の意思を読み取ることはできるが、精霊で返事をすることもできん。無様なものだな」


 ディスフィーアは血の気が引く思いがした。聞き間違いであることを祈りたい程だった。

 強大だと思っていた父が、その力を失ってしまった。そのままの父を見返したいと思っていたのに、それは永遠に叶わない願いになってしまったのかもしれない。


「ずいぶんと長いこと、眠っていたようだな。迷惑をかけた。……おれは、昔の夢を見ていた。ティヌアリア様に付き従い、ユーガリアの全土を駆け巡った日々。彼女の理想が叶うことを夢に見て、戦い続けた日々。思い出す景色は、血で染まった景色ばかりだ。死の間際には、自分の人生が走馬灯のように過ぎ去るという。夢の途中で、そんな話を思い出した。夢の中の自分は戦いに向かっているというのに、心のどこかで、おれは死ぬのだ、いま見ているのは死の前の幻想にすぎぬのだ、ということを理解している。不思議な感覚だった。自分自身の何もかもを、離れた場所からおれ自身が見ているのだ。離れた場所から見ているおれの眼は、ずいぶん冷たい眼をしている。いや、違うな。どこか他人事のように、冷静に、客観的におれ自身を見つめているのだ」


 ジャハーラは独り言のようにしゃべり続けた。ゼリウスの前だからこそ、こんなに饒舌に話すのだろう。

 ディスフィーアは壁に背を持たれた。部屋の中から聞こえてくる、ジャハーラの独白にも似た声を聞き続ける。盗み聞きをしているような罪悪感はなかった。それよりも、父の胸の内を聞きたかった。決してディスフィーアには語ってくれない胸の内を、聞いていたかった。


「夢の終わりが近づいていくのがわかった。四十年前の戦争が近づいてきたからだ。おれはあの戦争が終わってから、本当の意味で生きてはいなかった。ティヌアリア様の死とともに、おれの生もまた終わったのだ。思い出の中で死ねるなら、これ以上に素晴らしいことはないと思った。おれが生きていたのは、あの戦争までだったのだ」


 ゼリウスが何か口を挟んだのか、ジャハーラは少し黙った。それから再び、言葉を紡ぎ始めた。眠っている間に見た物を、できるだけ正確に吐き出そうとしている声音だった。


「夢の中でも惨劇は繰り返された。ティヌアリア様は殺され、おれたちは新たに王国の爵位を与えられた。……もう終わりだ、夢を終わりにしてくれ。絶望し、領地に引きこもる自分自身を見つめながら、おれは思い続けた。逃げようとしたのだ。現実では生き永らえておきながら、夢の中では死を望んだ。その時だ。ティヌアリア様のお顔が、ふっと浮かんだ。そして、エリザ様のお顔が重なったのだ。顔立ちはまったく似ていないのに、綺麗に重なってな。深い所まで見通すような眼差しなど、ティヌアリア様そのものだ。そして穏やかな表情で言うのだ。――許さないわ、と。死んで逃げようとするな。責務を果たせ。そう言われているような気がした。幼いエリザ様に叱られるようでは、何のために歳月を重ねてきたのかわからん。止まっていた時計が再び動き出したようだった。おれは、生きなければならん。本当の意味で、生きなければならん。時計を、動かさねばならん。そうでなければ、ティヌアリア様に合わせる顔がない。そう思ったところで、目が覚めた」


 ふぅ、とジャハーラが息を吐くのが、部屋の外にまで漏れてきた。弱り切った身体では、話し続けることさえ苦痛のようだ。


「しかし、お前がいるということはゾゾドギアを守りきれたのだな」


 わずかな沈黙の時間があった。情報の共有をしているのだ、とディスフィーアは理解した。何があったのか、ゼリウスの知る情報を伝えているのだろう。


「そうか……。民が、犠牲になってしまったか」


 悔しさを滲ませた声で、ジャハーラが言った。父のこんな声を聞くのは初めてだった。


「ずいぶん大勢の血が流れたようだ。特に、民の血が流れたのは痛い。民を犠牲にすれば、帝国の根幹が揺らぐ。いくら魔族の世を取り戻すと謳っても、民がそれを信じなければ意味がない」


 ジャハーラはしばらく黙り込んだ。その間に、スッラリクス、アーサー、カート、ナーランが集まってきた。彼らは一様にディスフィーアの姿を見て「おや?」という顔をしたが、声をかけることはなく部屋に入っていった。


「事情はあらかた聞いた」


 ジャハーラが言った。ディスフィーアは、部屋に入らずに声を聞いていた。ジャハーラの声は、先ほどまでと違っている。将軍の声だ。誰もが求める、炎熱の大熊公の声だ。

 父が本音を吐けるのは、ゼリウスだけなのだ。どんなに弱っていようと、子どもたちや部下たちの前では将軍の一人であるジャハーラ卿を演じなければならない。


「よく、持ちこたえてくれた」


 静かにジャハーラが口を開き、細かい所をスッラリクスやアーサー、カートに質問していく。


 ディスフィーアはジャハーラの姿がどこまで虚像なのか、掴めなくなっていた。何が本当の父の姿なのか、わからない。弱った時に見せた声が本物なのか、それとも、今の声が本物なのか。

 きっと、どちらもなんだろう。どちらも間違いなくジャハーラなのだ。ディスフィーアの心が一つの感情で説明できないように、ジャハーラの心も、きっと簡単には理解できない。

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― 新着の感想 ―
[一言] 作者さんがんばれー!
[良い点] 順番間違えてるところが、ジャハーラの衰弱っぷりがよくわかりますね。 これはもう長くないのでしょう。 [気になる点] ティヌアリアとユーガリア全土を駆け巡った? 一体、どういうことなのでしょ…
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