5-44「このまま見殺しにはできまい。救えるだけ救うぞ」
足元をすくうように、川が流れている。どぶのような臭いが鼻につき、ラッセルは身じろぎをした。
もう少し、寝かせておいてくれ。疲れてる。とても疲れてるんだ。意識はまどろみの中にある。さんさんと輝く太陽が眠りを妨げているが、どこか心地良くもある。
「おい!」
肩が揺さぶられる。何だよ、うるさいな。もう少し、そっとしておいてくれ。
「おい、ラッセル! 生きてるか!」
太陽が陰ったのが、目を閉じていてもわかった。誰かがラッセルの身体に覆いかぶさるようにしている。
「おい……おい!」
身体が揺さぶられ、続いて胸の辺りを圧される感触があった。げふっと口から水を吐き出す。一度水を吐き出すと、急に不快感が全身に走った。ラッセルはげほげほと咳き込んで、水を吐き続けた。
意識が覚醒する。カルロの顔が近くにあった。他にも大勢の人たちが近くにいるようだ。何か言葉を発しようとしたが「後で聞くよ」とカルロに言われたので黙っていた。
カルロの震える手で身体が支えられ、何人かに担がれた。手に、硬い物が当たる。木材の破片だった。読めない文字が刻まれている。
ラッセルは、自分が何か板切れにしがみついていたことを思い出した。小舟に乗って、マリーナを助けに行こうとした。そこで人間たちの醜い本性を見た。自分だけが助かろうと、船にしがみつこうとする人たちの姿が蘇る。寄せつけないよう、オールで牽制していたつもりだったが、結局、船は転覆してしまった。
思い出せるのは、板切れにしがみついていたことだけだ。転覆した船に、それでも人は群がってきた。破損して破損して、船は形を維持できなくなった。ラッセルがしがみついていたのは、その船の一部だったのだろう。もしかしたら、たまたまルーンの刻まれている箇所だったのかもしれない。だから、船が転覆しても、ワニに喰われずに済んだ。四肢も、無事なようだ。ラッセルを担いだ者たちが口々に何かを言っている。その情報から、自分が生き延びたのだということが、どこか他人事のように理解できた。
生きている。どぶ臭いリズール川の臭いが、それを証明している。
担がれるまま、目を開けていた。太陽が眩しい。にごった川が、緑色に妖しく光を反射させている。どうやら自分は、ジーラゴンに流れ着いたようだ。それで、カルロたちに救助された。他にも流れ着いた人たちはいるようだ。帝国軍が指示を出して、ジーラゴンの住民たちも手伝って救助にあたっている。
徐々に徐々に、景色は鮮明になっていった。川辺での救助にあたる人たちの顔も、はっきりと見えるようになる。川の色が、ずいぶん濃いように感じた。地下牢に長くいたから、川の色を忘れてしまったのかと思った。しかしすぐに、理由は明らかになった。
川辺には大量に、人の一部が流れ着いていた。流木か何かが流れ着いているのではない。骨や肉や、腕や足の一部が、あちこちに散らばっている。ラッセルはそれを認識した途端、猛烈な吐き気に襲われた。川の臭いに混じっているのは、死臭だ。身体を支えられた状態のまま、顔だけ下を向いて、ひたすら胃の中の物を吐き出した。出てくるのは胃液ばかりで、そのことがまた吐き気を呼んだ。身体の奥に何かが詰まっているような感覚がある。それが吐き出せずに、苦しんでいる。
「大丈夫か?」
カルロが心配し、一度下ろされた。ラッセルは何とか頷いた。吐き気をこらえて川辺に目線を戻す。……ひどい惨状だった。この世の地獄としか思えない光景だ。
……マリーナは?
ラッセルは茫然と川辺の景色を見ていた。
マリーナは、どこにいるんだろう。まさか、あの中に……? カルロに訊ねたところで、彼はマリーナのことを知らないだろう。他の兵たちに聞いても仕方がない。無事でいてくれと、祈ることしかできない。
胃液を吐くのをやめたのを見てもう大丈夫だと判断されたのか、ラッセルは再び担ぎ上げられた。マリーナのことを考えていると、意識が朦朧とし出して、やがて途切れた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ゾゾドギアの諸将はゼリウス軍から船を受け取ると、即座に民衆たちを救い出すために船を出させた。指揮はカートである。
「いくら勝手に出て行ったと言っても、このまま見殺しにはできまい。救えるだけ救うぞ」
このように兵を鼓舞して、リズール川を渡ろうとしていた民衆の救助に向かった。川にはいくつもの死体が浮かび、ワニが顔を出して満腹になるまで肉を貪っている。何とか生存していた者たちも、そのほとんどが声を上げる活力を持たず、救助は困難を極めた。彼らはできる限り迅速に行動したが、救い出せた民はわずかである。一夜にして、ゾゾドギアの民衆の大半が、リズール川に飲み込まれてしまった。
「くっ!」
カートは夜明けまで救助にあたり、ゾゾドギアに戻ってきた。歯ぎしりをし、拳を握りしめている。目の前でワニに喰われた者も、少なくなかった。
もう少しだけでも、ゼリウスの援軍が早ければ――。あと一日でも早ければ。あるいは、ゼリウス軍の来援の日にちだけでも分かっていたら、民衆を説得することもできたはずだった。
言っても、詮無いことだった。悔やんでも何も変わらない。そのことはカートにも理解できていた。ゾゾドギアを出て行って死んだのは、彼らの自己責任だ。そう片付けてしまいたかった。帝国軍のことを信じられなかった、あいつら自身が悪いのだ。それは間違いなかったが、導くことができなかったのは指導者の実力不足である。やれることはやったはずだという思いと、至らなかったという思いが胸の中でせめぎ合っている。
少し、眠った。目を覚ましたときには太陽はもう中天にあって、様々な状況が形を取り始めていた。
ジーラゴンが裏切ったのが事の発端だったので、ゼリウス軍を乗せた船団がジーラゴンに向かうこととなった。ところが彼らがジーラゴンに着いたときには、すでに領主ラールゴールは殺され、帝国軍の軍旗が上がっていた。ジーラゴンに残っていた輜重隊が、自力で地下牢を脱出、ちょうど昨夜、ジーラゴンを占領したということである。
輜重隊の代表として、カルロという男からゼリウスが話を聞いた。ゼリウスが嘘ではないと判断し、彼らの証言した地下牢の存在も明らかになったことで、カルロの語ることが真実であると証明された。地下牢は水門とつながっており、確認をしに行ったときには、まだワニが何匹かそこに残っていたという。カルロの話では、取り残された輜重隊の兵たちもいたようだが、彼らがどのような末路を辿ったかは、想像に難くなかった。
ゼリウス軍の船団が、ジーラゴンに溜め込まれた食糧を運んでゾゾドギアに到着すると、スッラリクスが食糧の配給に動いた。籠城を決め込んだ時点でゾゾドギアの人口を正確に把握していたこともあって、驚くほどに数が減っていることが明らかになった。民衆の半数近くが、一晩で消えていた。籠城を決めた帝国軍が、いかにゾゾドギアの民に信頼されていなかったか、ということを示す数字である。
リズール川の東側では、王国軍が撤退を始めている。船を奪い、ジーラゴンを解放したことで、ここで戦うメリットを失ったのだろう。
「おそらく王国軍はユニケーにまで退くことでしょう」
スッラリクスがそう言っていた。おそらく、その通りになるとカートは思った。
「軍師殿……一つだけ聞きたいのだが」
「なんでしょう?」
「ゼリウス様の到着が遅くなる……ということを、あなたは知っていたのですか」
カートは、スッラリクスを見つめた。ゼリウスは、ドルク族を引き連れて王国軍の後背を襲ったという。それも、スッラリクスの指示だったのか、知りたかったのだ。ドルク族を引き連れてくるとなれば、ルノア大平原を端から端まで駆け抜けるような進路になる。援軍が遅れるのも、当然の話だった。
「私の指示では、ありませんよ」
「しかし、そうなのだと予測はしていた……そうですね?」
「その可能性は考えていました。しかし、ドルク族を引き連れていくと判断をしたのはゼリウス殿です。私が描いた絵は、ゼリウス殿をルノア大平原に送り込むところまで……ですよ」
スッラリクスの片眼鏡が光る。カートは「そうですか」とだけ言って、会話を切り上げた。これ以上聞いても、満足する答えは出てこないだろう。そもそも、どんな答えが返ってきても満足できないのだ。スッラリクスがこのことを知らなかったのだと言い張れば、軍師としての素質を疑うことになる。逆に知っていて言わなかったのだと言えば、信頼ができなくなる。
昨夜は、父ジャハーラの寝室に暗殺者が入り込んだのだという。他にも、間者がいないとは限らなかった。ゼリウス軍のことを秘密にし続けていたのは、敵に情報が渡るのを防ぐためだったのかもしれないのだ。ジャハーラが昏睡に陥ったことで、より情報は秘匿しなければならなくなったのだろう。嘘を見抜いて間者を炙り出すことも、できないのだ。
たった一夜で、何もかもが変わった。帝国軍・王国軍の状況もそれぞれ変わり、ジーラゴンの領主は死に、ゾゾドギアの民衆は半減した。
スッラリクスを見る目も変わった。そういうことなのだと、カートは自分に言い聞かせた。
一日が過ぎると、川の向こうにはためいていた王国軍の旗が見えなくなった。ジーラゴンを通じて、補給路は完全に回復した。
さらに一日が過ぎた。カートはナーランとともに城壁に立って、リズール川を見つめていた。煩雑な政務は、そのほとんどをアーサーとスッラリクスが仕切っている。戦が一区切りついて、手持ち無沙汰になった格好だった。
リズール川は、相変わらず濁っている。あの中に、どれだけの人が飲み込まれてしまったのかを考えると、胸が痛くなる。ナーランも思う所があるのだろう。しかし、言葉にはできないでいる。だから、二人は揃って川を眺めることしかできない。
夕暮れが近づいてきた。ルノア大平原には、王国軍の姿はもうない。静かなものだった。先日までの緊迫した戦が嘘のように、穏やかに時間が流れている。
階段を駆け上ってくる音が響いた。伝令である。王国軍は退き、切迫した危機は過ぎ去ったはずである。何事か、とカートが声を上げる。城壁に駆け込んできた兵は姿勢を正した。
「ジャハーラ様が、お目覚めになりました!」
すぐに行く、と兄弟は声を揃えて答えた。