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ユーガリア戦記  作者: さくも
第5章 王国の猛攻
131/163

5-41「お前らは、助からなくていい」

 ラッセルは船に這い上がった。びしょ濡れの服から泥臭い川の水を滴らせ、船の上で肩を揺らす。息が荒い。身体が寒い。


 呼吸を整え、辺りを見渡す。無数に見えていた松明の火は、もう数が視認できる程に近くなっている。三角錐の突き刺さったままのヴァーリーの首に手をやる。脈はない、すでに事切れているようだ。


「許してくれよ」


 ラッセルは呟き、オールを手に取った。掌に、鋭い痛みが続く。先ほどまで糸を握っていたから、手のあちこちが切れてしまっていることは間違いないだろう。松明に向かって、漕ぎ始める。だんだんと、痛みを感じなくなっていく。腕とオールがくっついて一つの棒になったような感覚になる。夜風が冷たく、濡れた身体から容赦なく体温を奪っていく。

 体勢を変えながら漕ぎ続けた。川の流れる音がはっきりと聞こえる。泥臭さはもう感じない。流れに揺られてなかなか進めないもどかしさが、ラッセルを支配した。


 頭にまで血が回っていない。視界が薄れている。それでも必死にオールを漕ぎ続けているとき、異変に気付いた。

 波が立ちすぎている。最初は民衆が歩いているからだと思ったが、どうやら違う。波の方向はてんでばらばらで、小さな波と波、さらに川の流れがぶつかり合って、ばしゃんばしゃんと音を立てている。


 視界がぼやけ、遠くが見渡せない。何とか遠くを見ようと目を凝らす。目が、かゆい。両手はオールと一体化したようで剥がれてくれない。やむを得ず、頭を振った。少しだけ、景色が正確に見えるようになる。


 ワニだ。ワニの大群が、川から顔を出しているのだ。民衆の持つ松明の明かりが、モンスターの異形を捉える。らんらんと輝く瞳が、闇の中で蠢いている。

 一瞬だけ、オールを漕ぐ手が止まった。思考が追い付かない。ラールゴールは殺した。水門の罠は発動しないはずだ。なのにどうして、こんなにたくさんのワニが集まってきているのだ。


 民衆があまりに大勢だったから、だろうか。それにしてもワニの数は多すぎる。先ほどまでは川の一部と思えていた箇所のあちこちが、ワニの背中だったのだと気が付く。百匹……いやそんなものじゃすまない。川全体がワニに埋め尽くされているような錯覚が、ラッセルを襲う。

 遅かったのか。ラールゴールは、死ぬ前に水門の罠を発動させていたのか。牢には、まだ輜重隊の仲間たちが取り残されていたはずだ。彼らはワニの餌にされてしまったのか。


 甲高い悲鳴と喧騒が聞こえ、ラッセルは我を取り戻した。

 再びオールを漕ぎ出す。今は、何が起きているのかを考えている場合ではない。あの中にマリーナがいるなら救う。それだけだ。それだけを考えろ。


「いま助けるからな……! 待っててくれよ!」


 声になったのかどうか、ラッセル自身わからなかった。夢中でオールを動かした。船のあまりの遅さにいらだつ。オールが、近くを泳ぐワニの頭を小突いた。襲ってくるかとひやりとするが、ワニは頭をそのまま川の中に沈めて、民衆の方へ向かっていく。


(おかしい……なんで、おれの方にはこないんだ?)


 いくら船に乗っているとはいっても、ラッセルの方に一匹も寄ってこないのは妙な話だった。


(そういえば、ワニを寄せ付けないルーン・アイテムがあるって話を聞いたな……)


 いざという時に自分だけは助かるよう、ラールゴールが用意していた船である。そのくらいの準備はしてあってもおかしくない。ワニが寄ってこないのなら好都合だった。


「こっちだ、こっちに来るんだ! 船の近くならワニは寄ってこない!」


 ラッセルは力の限り叫んだ。声を発するたびに、肺の中に冷気が入り込んで、身体の内側までも凍らせるようだった。だが叫び続け、オールを動かし続けた。


 松明を持って川を渡る人々の顔が、見えてきた。目を血走らせ、必死の形相でワニから逃げ回っている。周りを押しのけるようにして逃げている者もいる。赤子を抱いた母親が押しのけられて転び、ワニに喰われて断末魔の悲鳴を上げる。押しのけた男も、集団の先頭に立ったところで頭からワニに飲み込まれていった。ワニの群れと、人の群れ。


 ラッセルには、人の群れがひどく汚らしい物に見えた。他人を押しのけてまで生き延びようとする者たち。命の危機に晒されて、本性が現れたかのようだ。醜い、あまりに醜い争いだった。

 彼らの表情が見えるようになると、ラッセルは「船の近くに来い」と叫べなくなった。彼らを助けようという気持ちが、嘘のように消え失せてしまった。どうせ、全員は助からない。他の人たちを犠牲にして生き延びようとする汚らわしいやつだけが生き延びるなんて、そんなのは間違っている。


 そもそもラッセルが助けたいのはマリーナだけだった。他の民衆は、そのついでに過ぎない。

 ラッセルは心が冷めていくのを感じた。体温が下がっているだけじゃない。言葉通りの冷血漢になっている。


「乗せてくれッ!」

「どけ、おれが先だ、頼む」


 他の者たちを押しのけて、三人ばかりが船に飛びつこうとした。ラッセルは無表情でオールを振り上げ、近寄ってきた者たちの頭を殴った。どこにそんな力があったのか不思議なくらいに、強い力だった。吹き飛ばされた一人が、ワニに飲み込まれるのが見えた。


「お前らは、助からなくていい」


 自分の口から出た言葉に、ラッセルは驚いた。オールを握る手が震え、その震えは全身に伝わった。震えが収まるころには、当然の報いだ、とラッセルは思っていた。誰かの犠牲の上で、自分が助かろうという者なんて、死んでしまえばいい。それが当然だ。


 ラッセルは水面にオールを戻し、船を進めた。民衆を喰らうワニの群れが、ラッセルの進路だけを開ける。

 闇の中で、脂の燃える臭いと泥の臭い、それに血の臭いが入り混じっている。民衆の持つ松明の明かりが、ワニの鱗を照らし出し、不気味な瞳を際立たせている。


 ラッセルの船に気づいた者たちが、声を上げる。「助けてくれ!」走り寄ってきた者たちを、ラッセルはオールで躊躇なく殴り倒す。

 弱い者だけは、助けようと決めた。子どもたちや、老人たち。切り捨てられる側の人間を助ける。


「おいで。船に乗るんだ」


 五人の少年少女たちと、二人の老人を助けた。まるで神様にでもなったような気分だ。助ける者と、そうでない者を選別する。生きている価値のある者とない者を選ぶ。


 マリーナの姿は見つからない。ラッセルは船を進め続けた。


 民衆は必死に、船に近づこうとしていた。誰もが助かろうとしていた。ラッセルの船の周りに取り付くように人が集まり、船に手をかけようとする。ラッセルはオールでそれを払いのけていたが、やがて限界がきた。船のへりというへりに、人々の手がかけられる。やがて、船に飛び乗る者が出始めた。保護した少女が、怯えるように悲鳴を上げる。


 ラッセルは振り向いた。オールを振り回そうとした時、船が大きく傾いた。身体が傾いたのは一瞬で、すぐに水の中に落ちる感覚に変わる。


      ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


「これは、困ったことになりましたな」


 城塞都市ゾゾドギアの城壁、東側の一角でダルハーンが言った。双眼鏡を使い、リズール川の様子を眺めている。


「船が転覆したように見えましたね」


 スッラリクスが答える。ダルハーンは双眼鏡を外してスッラリクスを見ると、長い髭を揺らしながら頷いた。


「ええ、ラールゴールが隠し持っていた船です。あれを使って、細々とでもゾゾドギアに補給ができればと思っておりましたが、それは叶わぬこととなりました。せっかくラールゴールの殺害には成功したというのに、肝要の船が手に入らないと言うのでは意味がありませんな」


 ダルハーンは他人事のように言って「ほっほっほ」と笑った後、こう続けた。


「先ほど、城壁の反対側で何やら戦闘が行われていた様子。追いかけていたのは、ナーラン様のようでしたな。潜伏者か侵入者か。侵入者であれば、小舟の一艘くらいは手に入りそうなものですが」

「では、侵入者だと祈りましょう」

「祈る! そうですか、スッラリクス様でも祈ることはあるのですね。……どれどれ」


 ダルハーンは西を向いて、双眼鏡に再び目をやった。


「戦闘はもう終わったようですな。……ん? あれは」

「どうしたのです?」


 スッラリクスが訊ねると、ダルハーンは口元を歪めて双眼鏡を外した。


「援軍が、来たのかもしれませんな」

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[良い点] 青臭いぞ、ラッセル! 大好きだ! まだ生きてるよね?
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