5-37「身のこなしには、これでも自信があるんだよ」
渡河を試みているのが人間の集団だと気づくと、ラッセルは背筋が凍るような思いになった。目を凝らしてみるが、戦が起きている気配はない。ゾゾドギアで戦闘が行われて、耐えきれなくなった者たちが飛び込んでいるというわけではなさそうだ。
「たぶんあれ……軍隊じゃないぜ」
カルロが言った。確かに、炎はまったく整列が取れていない。ワニを抑えながら川を渡るつもりなら、陣を組んで弱い者を守りながら進んでくるはずだ。無統制に進んでくるということは、そういう訓練を受けていない者たちとみて間違いないだろう。
「だったら……だったら何だって言うんだよ」
「わかんねえ……わかんねえよ。だけど、あれは軍じゃない。軍の動きじゃない。そのことはお前だってわかってるだろ、ラッセル」
ラッセルは唾を飲みこんだ。夜風は冷たいというのに、身体は異様に熱い。川を渡ってきている松明の火が、すぐ間近にあるような熱さを感じる。
突き刺さったままだった三角錐を抜き取り、糸を巻く。
「何をするつもりだ?」
「決まってる、助けにいくんだよ。あのままじゃみんな、ワニに襲われてしまう」
「助けるったって……どうしようもないじゃないか。見てみろよ、川辺に一艘も船がない。ラッセル……冷静になれ。いま急がなきゃいけないのは、みんなを地下牢から出すことだろ」
カルロは両手をラッセルの肩に乗せた。震える手だ。伝わってくる震動が、ラッセルの心にわずかな隙間を作った。
地下牢――そうだ、地下牢にいるみんなを救い出さなきゃいけない。向かってきているのが誰にせよ、ラールゴールは地下牢の仕掛けを発動させるだろう。ワニをこちら側におびき寄せて、誰もジーラゴンに入れないようにするに違いない。仕掛けが発動すれば、地下牢の水門が開く。牢に残されてる仲間たちが川に放り出されて、ワニに喰われることになる。
「今から一人ずつおぶって外に出すって言ったって……どうやっても時間が足りないじゃないか!」
ラッセルは吐き捨てるように言った。ずっと幽閉されていたのだ。限界を迎えている者も多い。動ける者がどんなに頑張ったところで、全員を引き上げる前に仕掛けが発動するだろう。
「じゃあ、どうするんだよ! 仲間を見捨てるのか? ラッセル、お前は――」
「違う! 違うよカルロ。地下牢のみんなも助けるし、川を渡ろうとしてるやつらも助ける」
「どうやって!」
「ラールゴールを人質にとる。仕掛けを動かせって命令が出る前に、敵の頭を抑えちゃうのさ。そうすりゃ仕掛けは発動しないだろ。それに、どこかに船を隠しているのかもしれない。それを聞き出せれば……」
「無謀すぎる。武器もないのに……」
ラッセルは三角錐を見せた。
「武器なら、あるさ。おれは先に行ってるから、みんなも武器を見つけ次第、こっちに合流してくれ」
「一人で行くのか?」
「……身のこなしには、これでも自信があるんだよ」
カルロの瞳がうるんでいる。ラッセルがすでに死を覚悟していることを、感じ取っているのかもしれない。
無謀……そう、無謀な試みだ。そのことはラッセル自身にも良く分かっている。いくらラールゴールの私兵たちの練度が低いとはいえ、その監視の目をかいくぐってラールゴールのところにたどり着くなど、正気の沙汰ではない。
しかし迷っている時間はなかった。川を渡ってきている群衆の中にマリーナがいたらと思うと、いても立ってもいられなくなってしまうのである。地下牢を這い出てきたのだって、マリーナを助け出すためだ。このまま手をこまねいているのでは、地下牢の中で死ぬのと大差がない。
自分が殺されるかもしれない、ということはもう怖くなかった。それ以上に、マリーナを失うことが怖い。
ラッセルはカルロの手を振りほどくと、両手に巻き付けていた手ぬぐいを取った。固まった血が、のりのように張り付いている。無理やり引きはがす。かさぶたが剥がれて血が滲み、痛みが思考をクリアにしていく。ラッセルは手ぬぐいをカルロに握らせた。
「行ってくる」
カルロが頷いたのを見届けて、ラッセルは身を翻して走った。ラールゴールの館の場所はわかっている。ジーラゴンの町の中でも、ひときわ目立つところに立っているのが、そうだ。川辺を走り抜ける。思っていた以上に、足腰が弱っている。もっと速く、もっと速くと思っているのに、思うように腿が動かない。
ラッセルは走るのをやめて、荒い息を整えながら歩いた。スラムで盗みをしていた頃を、思い出す。呼吸が荒くなれば、そこに人が潜んでいることなんて、すぐに見つかってしまう。これから護衛の目をかいくぐろうとしているのだ。闇に同化しなければならない。
ジーラゴンは不気味なほどに静まり返っていた。夜中にしても、静かすぎる。その違和感は歩を進めるごとに強くなっていった。ラールゴールの館が、はっきりと姿を現わす。
――やっぱり、静かすぎる。
ラッセルは慎重に物陰に身を隠しながら進んだ。ラールゴールは、まだリズール川の炎に気づいていないのか? 私兵の一人も姿が見えないのは、あまりに妙だ。夜中とはいっても、見張りくらいは立たせているはずだ。
闇に目を凝らして、館の様子をうかがう。館の前に立てられたかがり火が消えかかっている。それに、血の臭いがわずかに混じっている。
門番たちの死体に気が付いたのは、その時だった。館の外壁に背中を預けるように倒れこんでいる者もいれば、地に伏して動かなくなっている者もいる。首と胴が離れ離れになっている死体もある。
(なんだよこれ……どうなってんだよ……)
声に出さないのが精一杯だった。せっかく落ち着けた呼吸が、荒くなってしまっている。ラッセルはごくりと唾を飲みこんで前に進んだ。死体のそばに転がっている剣を拾い上げる。靴が血で汚れて、べとつく。
(引き返してる時間は……ないよな)
ラッセルは覚悟を決めると、館に入っていった。
館の中の空気は、淀んでいた。そこかしこに死体が転がり、血だまりができている。わずかにろうそくの明かりがあるだけなので、何度か死体に躓きかけてしまった。階段を上る。たいていの領主というのは、最も景色が綺麗に見える部屋を取っているものだ。
三階に上がると、風が動いた。誰かがいる。ラッセルは物陰に身を潜めて何が起きているのかを探った。
「領主の部屋はどこです?」
かすかに、男の声が聞こえた。ラッセルは物陰から頭を出して様子をうかがう。長髪を後ろで一つにまとめた男が、ラールゴールの私兵の首を掴んで壁に押し付けている。大声を上げられないように喉の空気の通り道をつぶしている。ただの手練れでないことは、武術の心得がないラッセルにもわかった。
「そうですか、わかりました」
男は腰の細剣を抜くと、ゆっくりと兵士の胸のあたりに押し込み、まっすぐに引き抜いた。人体の構造を知り尽くしている殺し方だ。殺した私兵を、音を立てないようにその場に寝かせると、長髪の男は奥へ進んでいく。ラッセルには何も聞き取れなかったが、領主の部屋の位置を聞きだしたようだ。
(あいつが全員を殺して回ってるっていうのか……? だけど、たった一人で?)
それも騒がれないように注意しながら、殺している。信じられないような腕前だ。ラッセルは生唾を飲み込んで、長髪の男の背中を追った。男は物音を立てずに、前を進んでいく。
ルーン・アイテムで作られた扉がある。おそらく、魔都クシャイズの城壁に使われているものと同じで、扉全体が薄紫色に発光している。扉の両側と向かい側に、それぞれ見張りが立っている。二人はうつらうつらと眠りかけているようだったが、一人は向かってくる長髪の男に気が付いた。
侵入者に驚いた見張りが仲間を起こそうとしたとき、眉間に細剣が突き刺さった。続いて眠りこけていた見張りの喉から鮮血が舞う。最後の一人は、目を覚まして咄嗟に腰の剣に手を伸ばした。しかし、口を開いて仲間を呼ぼうとしたところまでが、彼の限界だった。口の中に細剣が突き刺さり、後ろに二、三歩下がると扉にぶつかってそのまま絶命した。
まるで舞踏を見ているかのような鮮やかな手並みだった。ラッセルは恐怖を感じながらも、長髪の男に見とれていた。マリーナの踊りに、どこか似ている。無駄のない動きは、人を魅了する力がある。
それにルーン・アイテムのおぼろげな明かりで照らされた男の顔は、ひどく美しかった。動きを見ていなければ、女性と間違えてしまったかもしれない。均整の取れた顔立ちに、女性のように長いまつげ。この世のものとは思えない、怪しげな美しさ。
あっという間にラールゴールの館を血塗れにした男は、腰に巻いた布をとって細剣についた血をぬぐいながら、後ろを振り向いた。
とっさのことで、ラッセルは身を隠すことができなかった。それどころか、長髪の男に見つめられて、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
「お、おれは……」
敵じゃない、とラッセルが弁解する前に、男は「わかっていますよ」と言った。
「おそらく、あなたの敵は領主ラールゴールだ。……違いますか?」
ラッセルは頷いた。
「ならば私たちは、敵ではありません。むしろ、目的は同じ、味方と言ってもいい」
「目的?」
「私の目的は、領主ラールゴールの首を取ること。そして、ラールゴールの部屋はここです」
長髪の男は、ルーン・アイテムで作られた扉を見やった。扉は、薄気味悪く光っている。男は「さ、行きましょうか」と言って、扉に手をかけた。
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